詩野さんの雪だるま
俺と詩野さんは朝の雪道を並んで歩いていた。
2人で通学するひととき──今、俺の毎日で、2番目に楽しいひとときだ。1番はもちろん、2人で下校するひとときな。
会話は特になくても充実してる。
一緒にいるだけでリアルが充実してる。なるほどだからリア充っていうんだな。ふふ……、初めて知ったよ。
たまにぶつかり合う腕と腕に心臓が弾む。今にも爆発して昇天しそうだ。温かさすら感じる時間もないほど一瞬だけど、幸せを感じるには充分すぎるほどの一瞬だ。
浮かれた足取りで俺が歩いていると、突然、詩野さんが俺を守るように前に出て、絶叫した。
「ヒカルくん、気をつけて! 下り坂だよ!」
見ると確かにちょっときつい下り坂だった。
ふふ……。優しいな、詩野さん。
通い慣れた道だが、今日は凍結している。俺が気づかずに滑って、坂の下まで転がり落ちるのを心配してくれてるんだ。
そう思っていると、目の前で詩野さんが足を滑らせた。
「ぐわゎっ!? う……、うぎゃぎゃぎゃーっ!」
派手に声をあげながら、詩野さんは滑った両足を天に向け、坂を転げ落ちていった。
ゴロゴロゴロと、まるでマンガのように、ちいさな体をバレーボールのようにして、回転しながら坂の下まで一気に転げ落ちた。
「詩野さん!」
滑らないよう気をつけて、ゆっくりと俺は坂を下りた。俺まで滑ってしまったら共倒れだ。ミイラ取りがミイラになってしまう。
「詩野さん! 生きてる!?」
そう言いながら、ゆっくりゆっくり、俺が追いつくと、坂の下に雪だるまがひとつ、ちょこんとあった。
やけにかわいい雪だるまだなと思って見ていると、中からぽん! と、詩野さんの頭が上に飛び出した。
「ヒカルくん……。わたし、じつは雪だるまだったの」
詩野さんが告白する。
「そ……、そうだったんだ?」
俺は何と言ったらいいかわからず、うなずいた。
しかし本当にかわいい雪だるまだ。雪だるまの体から、小動物のような生身の顔がちょこんと出ている。メガネもちゃんとかかったままだ。
体は完全に雪だるまの中に埋まってしまっていて、動けないようだ。
よかった。やっぱり俺はゆっくり下りて正解だった。俺まで雪だるまになっていたら、彼女を助けることができなかった。雪だるま取りが雪だるまになっていたところだ。
何もせずに見とれている俺を不安に思ったのか、詩野さんが言った。
「嘘だよ? さっきの、嘘。わたし本当は詩野詩美。雪だるまじゃないよ? 高校二年生。十七歳。今度春が来たら高校三年生になるの。そんな人間なの。雪だるまなんて、嘘。だから、助けて? 動けないの。雪にがっちり固められてて、わたし、動けないの」
ムラムラと、俺の中に意地悪な心が湧き上がった。
時間停止は男のロマンなんだそうだ。よく知らないけど、級友の工口がそう言ってた。
今、詩野さんは時間停止してるわけじゃないけど動けない。無防備な姿をさらしてる。何でも俺にされるがままだ。
「ぐへへ……」
俺は手を伸ばすと──
ぽん!
詩野さんの頭に手を置いた。
そのまま、撫でる。
撫で撫で、ナデナデ……。
次には詩野さんの、林檎みたいなほっぺを両手で挟んだ。
うにうに、ぐにぐに……。
詩野さんの唇がキスの形になる。
しかしキスはしなかった。
こんなムードのないファースト・キスは望んでない。
ただ、なんだか心が幸せで、ずっとこのかわいい雪だるまを弄っていたくはあった。
「お願い……。ヒカルくん。助けて。動けないの」
タコみたいな唇を動かして、詩野さんが懇願する。
「お……っ、お願い。垂れるの……。出ちゃう……! でっ、出ちゃうーーっ!」
出ちゃう……?
何が出るんだろう?
それって男の定番セリフじゃない? 我慢できない、出ちゃうーー! ……って。
そう思いながら見つめていると、出た。
涙目の詩野さんの、ちっちゃな鼻の穴から、透明な液体が、つうーっ……と。
「ごめん……」
雪だるまを解体し、彼女を救出し終えるなり、俺は平謝りをした。
見てはいけない彼女の姿を見てしまった。どうしたら許してもらえるだろう。
くすんと鼻を鳴らすと、詩野さんは笑顔を作って振り返り、俺に競争をもちかけてきた。
「早く行かないと学校、遅刻しちゃう。ここから学校まで競争ね。ヒカルくんが勝ったら許してあげる」
「よーし」
「負けないよー」
「じゃあ……よーい」
「スタート!」
走り出すなり詩野さんがこけた。
つるっつるの路面で足を滑らせ、そのままの勢いでバレーボールのように転がっていく。
「は……、早っ!」
俺は焦った。
詩野さんより早く校門を潜らなければ、彼女の恥ずかしいを見てしまったことを許してもらえない。
どんどんどんどん詩野さんが前方に遠ざかっていく。物凄い速さで転がっていく。歩道を跳ねながら、ゴロゴロと転がっていく。
どうする? 俺も転がればいいのか? 詩野さんのように?
しかし心配はいらなかった。校門に辿り着くと、潜る寸前のところにかわいい雪だるまができていた。
「詩野さん!」
今度は迷わず、掘った。
「ありがとう、ヒカルくん」
中から詩野さんの笑顔が出てきた。
一緒に手を繋いで、同時に校門を潜った。