コーヒーと操り人形についての問いは両片想いのもつれと一緒に解いて
コーヒーサーバーを傾けゆっくりと注ぐ。
トレイに違う模様のカップがふたつ並んだ様子にアナベルの胸はときめいた。
追加で載せるのはコーヒースプーンにシュガーポットとたっぷり一人分のミルクピッチャー。
研究棟の給湯室から休憩室へ慎重にトレイを運ぶと、夕陽に照らされきらきらと煌めく白金の髪に目を奪われた。
気配に気づいた彼がこちらを見てふんわりと微笑むと、思わず呼吸が止まる。
「――いい香りだ、ありがとうアナベル」
「コンラッドさんのお口に合えば良いのですけど……確かミルクはいれないんですよね」
「うんそう、よく覚えてるね。で、君はたっぷり派だったか」
「そのぶん砂糖はひとつですのでー」
「俺は頭を使うと甘いものが欲しくなるんだよ」
くつくつと軽い笑い声が響く休憩室で、アナベルは角砂糖ひとつとピッチャー内のミルクをすべて注ぎ、コンラッドは角砂糖をふたつそっと沈ませる。
最近普及してきた珈琲抽出魔道具はこの給湯室を統括する教授の意向によってまだ置かれていない。
先輩らに提供するために頑張って磨いた腕を憧れの人ただひとりに披露する機会があるなんて思ってもいなかったが、ふたりきりで過ごす休憩時間という思わぬ幸運に感謝した。
彼がミルクをいれない理由が「熱いコーヒーが好きだから」という追加情報は、アナベルの宝物になるだろう。
その後も魔装具にまつわる雑談で休憩時間を共に過ごした後、残りの作業を片付けて研究室を後にしたアナベルは、浮ついた気持ちのまま煉瓦色のポニーテールを揺らし帰路につくべく人気のない構内を歩く。
「今日は良い日だまた明日~」
即興の詩を童謡のメロディにのせ、口ずさみながら軽やかに足を進め想いにふける。
コンラッドは有名魔装具企業のオーナー一族の出で、自らも開発者となる道を進むべくこのアカデミーの魔装具研究室に所属している。
アナベルは一般家庭の出身だが、子どもの頃から強い興味を持っていた魔道具――そのうちの特に魔装具――を学ぶべく、高い競争率をくぐり抜けてこの研究室にたどり着いた。
魔装具とは、身に着けて使用する多種多様な魔道具のことである。
日常的に誰でも使える、ちょっとした危険から身を守るアクセサリー仕立てのものから、工事現場などで利用されるための力を強化するスーツ型のものなどがある。
遥か昔には多数存在していた魔法使いが、じわじわと数を減らしていき、数百年前にはついに消えた。だから、いまこの世界を生きるアナベルにとって、魔道具が魔法そのものだった。
幼い憧れをそのまま胸に抱き、夢中になってここまでやってきた。
そしてコンラッドに出会った。
普段は優雅な紳士なのに、魔装具の未来をきらきらとした瞳で語る少年のような心を持っているコンラッドは、アナベルの心を捕らえて離さない。
そしてそんなアナベルのような女性はたくさんいて、同じ研究室に入るべく女性たちの応募が殺到したため今年度の魔装具研究室の倍率は普段より更に高かったらしい。
「そういった女性たちは面接であらかた弾いたが大変だった」と所属後の歓迎会で教授の補佐役がぼやいていて、何も知らなかったアナベルは「すごい世界だな」と苦笑いをするしかなかった。
女性の社会進出は進んできたものの、上流階級の女性はまだまだ結婚・出産と社交が大事な仕事とされている。未婚の彼女らはコンラッドのような理想の男を捕まえるためにアカデミーに来ている部分もあるらしい。勉強も研究も楽しいのに、とアナベルは少し悲しくなる。
そんなふうなのでアナベルとコンラッドは同じ研究室に所属しているものの、住まう世界はまったく違う。好きになってもそれ以上を望むことは出来ない。
貴族制度は形骸化して久しいが、それでもその流れを汲む上流階級出のコンラッドと庶民であるアナベルでは釣り合わないのだ。
けれどほんの僅かな時間を共にすることくらいは許してほしい……だなんて、自らに言い訳をしながら彼を思い出し、暖まる心と切なく刺さる痛みを楽しんだ。
――ぼんやり歩いていると、不意に後頭部に強い衝撃があり受け身をとる余裕もなく転倒。直後、身体を起こす間もなく腕に何かが嵌められた。
ひんやりとした感触とほぼ同時に、アナベルの意識は暗闇に沈んだ。
◯ ◯ ◯
『彼女』は人格の始動とともに、粗末な木の椅子に座っていることを認識した。
照明の明かりに順応した視覚が捉えたのは簡素な小部屋で、目前にはふたりの女がいる。
ひとりは豊かで艷やかな亜麻色の長い髪をゆるく巻き、ハイブランドのワンピースを着こなした勝ち気そうな瞳の女。
もうひとりは質の良いお仕着せを纏い、感情のない瞳で奥に見える扉の脇に控えている女。
「おはよう、ご機嫌はいかが?」
「おはようございます、お嬢様」
亜麻色の髪の女から見た目通りに勝ち気そうな声音で尋ねられ、『彼女』は考えることなく応える。
「……よし、応答は正確。さて、私はグィネス。貴女のお名前と立場は?」
「はい、グィネスお嬢様。わたしは、私の、わたしの名前――」
次の問いに、『彼女』はしばしゆらゆらと視線をめぐらせる。すると、身じろいだ際に僅かに動く腕に反応し、小さな音を立てた華奢なブレスレットに目を留めた。
「……私の名前はパペッター。グィネスお嬢様にお仕えする自立型魔道人形です」
「ええそうね。よろしくね、パペッター」
ふわふわした焦げ茶色のショートボブを揺らさないよう慎重に立ち上がったパペッターは深い礼をとる。
グィネスは満足そうに頷き、続いてパペッターに仕事内容について説明する。その後、感情のない女にパペッターを任せると、足取り軽く小部屋を出ていった。
◆ ◆ ◆
「我が社の試作品で、社の運用研究として今日から彼女にわたくしの研究の手伝いをさせますの。皆様よろしくね」
「ただ今ご紹介に与りましたパペッターと申します。グィネスお嬢様の助手を務める栄誉を賜りましたので、どうぞよろしくお願いいたします」
久しぶりに研究室の定例会にやってきたグィネスが、ふわふわのヘアスタイルが特徴的なオートマタを紹介すると、パペッターと自ら名乗った人形の流暢な言葉と礼にコンラッドは驚いた。
コンラッドの認識だと、オートマタとは登録された命令を事務的に実行するだけのものだった。それがどうしたことか、パペッターと名乗ったオートマタは緊張を滲ませつつもこれからを期待する明るい声音だった。
パペッターを紹介し終えると、すぐに猫撫で声をあげながらグィネスがやってくる。いつものことなので適当にあしらってから研究室を去り、するりと教授の個室に入る。
「――いらっしゃい、いつも大変だね」
「すみません、お邪魔します」
すぐ女性たちに囲まれてしまうコンラッドら優良物件のために、アカデミーは特例として隠し通路の使用を許可した。
この研究棟を含むいくつかの建物は古い時代の貴族の邸をそのまま利用しており、隠し通路で繋がっている。もちろん機密保持の契約はきっちり結ばされたが、おかげで助かっているので文句はない。
教授の個室から隠し通路に入り、コンラッドは思考を巡らせる。
グィネスもコンラッドを追いかけ回す女性のうちのひとりだ。
オートマタの開発・販売・保守を一手に引き受ける新進気鋭の企業の総領娘で、出会いはスクールの初等部。それからずっと付き纏われている。
彼女を筆頭とする一部の女性たちにうんざりしたコンラッドは中等部で寄宿学校に編入したが、アカデミーでは悩みが復活してしまった。
せめてグィネスを研究室の面接で弾いてもらいたかったが、オートマタと魔装具の可能性についての研究をすると言われたら頷きたくなるのも理解できてしまう。教授らとグィネスの相性はお世辞にも良いとは言えず――一方的にグィネスが毛嫌いしているだけなのだが――あまり研究室に寄り付かないのが救いか。
「アナベル、大丈夫かな……」
薄暗い道をゆったりと進むコンラッドは小さくつぶやいた。
アナベルは昨夜、研究棟から中央棟へと向かう廊下で倒れていたところを発見されたらしい。
意識はないものの後頭部にちょっとした打撲痕がある以外は身体に異常がなく、現在はアカデミー併設の病院に入院している……と先程の定例会で説明を受けた。
昨日はあんなに元気で楽しそうにしていたのに、と思い返すとつらくなる。帰宅時間を合わせて送っていけばこんなことにはならなかっただろうか。早く意識が戻ってほしい、そしてまたあの笑顔が見たい――コンラッドは心からそう思った。
他所で時間を潰し、もうグィネスは居ないだろうと研究室に戻ると、パペッターがなにかの作業をしていてビクリとしてしまった。
「――あれ、君だけ?」
「はい、お嬢様はサロンへ行かれました」
曖昧な問いを正確に捉え、グィネスの居場所を伝えてきたパペッターに驚かされる。
最低限に、けれどしっかりと返答をした彼女はすぐに資料の整理に戻った。
童謡を鼻歌にしながら実に機嫌がよさそうに。
(この童謡、アナベルがよく替え歌にしているやつだ……)
少し前にアナベルのことを考えていたからか、すぐに結びつけてしまう。
彼女もよく作業中に鼻歌を歌ったり替え歌を作ったりしていることを思い出した。
――コンラッドはアナベルに異性に対する好意を持っている。
きらきらした瞳で魔装具への憧れを語る彼女はとても可愛くて。
楽しそうに研究する姿はとても眩しくて。
媚びることなくハッキリと物申してくれる態度が嬉しくて。
魔装具企業のオーナー一族という出に対する敬意とか尊敬なのか、そういった純粋な憧れのような感情を込めてこちらを見るアナベルが愛おしくて。
想いを告げようか何度も迷った。夕陽の中ふたりきりの休憩室で語り合った昨日もだ。
でも余計な肩書を持っているコンラッドが、自由なアナベルの翼をもいでしまうかもしれない可能性を考えると、どうしても一歩が踏み出せなかった。
直系の嫡男などではないので難しく考える必要はないが、たとえ一緒になれたとしてもアナベルの心に負担をかけることが決して無いとは言えない。
あの笑顔が曇ること、コンラッドはそれが何よりも嫌だった。
◆ ◆ ◆
パペッターが単独で研究室に来ることが普通になった頃も、アナベルは目を覚まさなかった。
どうも特殊な状態だということで、家族以外の面会は制限されている。なのでコンラッドはあれ以来彼女の顔を見ていない。
「あれ?珍しいね」
珍しく休憩室にいるパペッターに、コンラッドは思わず目を見開いた。
「はい、少しは休めと先輩に追い出されてしまいました。私はオートマタなのですが」
「君は受け答えが自然すぎて、オートマタって感じがしないから気持ちはわかるかも」
苦笑いしているような雰囲気を滲ませながら、パペッターが応える。
パペッターはオートマタゆえ表情の動きは乏しいが、器用に声音を使い分けて感情を伝えてくれる。
雑談の受け答えも豊富なおかげで、最近のコンラッドは彼女との会話に癒やしを感じていた。
「せっかくだし君もコーヒーを……あ、オートマタって飲食できないか」
「このボディは具材の無い飲料のみ許可されています。あの……私が淹れてみてもよいですか?」
おずおずと提案してきたパペッターに新たな驚きを貰いつつ、給仕用オートマタではない彼女が淹れるコーヒーに興味が湧いたコンラッドは任せてみることにした。
パペッターは給湯室へ向かい、手際よく湯を沸かす。その間にペーパーフィルターをドリッパーにセットし粉を量る。棚からカップを取り出し――彼女が迷いなく取り出したのはコンラッドのものとアナベルのもので――コンラッドは思わずパペッターの腕を掴んだ。
「……あ、えっと、ごめん。その赤いカップはアナベル……という人のものだから、君はこっちを使おう」
「あれ?あ、はい、申し訳ございません。ありがとうございます」
来客用のカップを差し出すと、パペッターは声音に戸惑いを滲み出しつつカップを洗いだした。
ドリップポットを丁寧に傾けるパペッターを眺めつつ、コンラッドは思考する。彼女は何故迷うことなくふたつのカップを選んだのか。
事前に誰かが教えていたのかもしれないので、コンラッドのものはまだわかる。だが、それではアナベルのものを選ぶ理由にはならない。
未だ目覚めないアナベルと入れ替わるようにパペッターは現れた。
ふたりに何か関連があるのか、ただの偶然なのか。パペッターを連れてきたグィネスが何か知っているのかの探りを入れるべきか。
「――――さま?コンラッド様?できましたよ」
気がつけばトレイを持ったパペッターが、案ずるような声音でコンラッドの顔を覗いていた。トレイの上にはふたつのカップとコーヒースプーン。それにシュガーポットとたっぷり一人分のミルクピッチャー。
トレイの上はカップがひとつ違うだけで、あとはあの夕陽の日とまったく同じ。
煉瓦色のポニーテールのアナベルと、焦げ茶色のふわふわしたショートボブのパペッターは見た目がまったく違うのに、何もかもが重なって見え――コンラッドは湧き上がった恐ろしい妄想に蓋をした。
「……ああ、上手だね。美味しいよ」
「お口に合いましたようで、安心しました」
休憩室で早速コーヒーを口に含むと、心底安堵したようにパペッターが笑った……かのようにコンラッドには見えた。パペッターはカップに角砂糖ひとつとピッチャー内のミルクをすべて注ぎ、コーヒースプーンでゆっくりと回している。
スプーンがカップに当たらないように丁寧に回す姿は、オートマタではなく躾のされた良家の子女のように見える。
そういえばアナベルもそうだった。一般家庭の生まれだと彼女は笑うが、ふとした仕草や細かな作法はしっかりしていて育ちの良さが伺える。
コンラッドからすると惚れた欲目もあるだろうが、アナベルの作法を不快に思ったことはないため、両親はもともと上流階級の出だったりするのかもしれない。
「……君もミルク、たっぷりいれるんだね」
「はい、これが美味しいと設定されているようです。たっぷりミルクとお砂糖……寒くなったらスパイスも加えたいと核が欲しています」
「それなら、あとは素敵なモノも、かな?」
「私は女性体ですので、それは既にたっぷりボディに含まれておりますが」
じっとりと半目にし、でも楽しそうな声音でパペッターが言うと、コンラッドも思わず笑ってしまう。
コンラッドはこの感覚を知っている。
自分が気取らず気軽なジョークの応酬をできる異性の友人なんてひとりしかいなかった。
「じゃあ……寒くなったら飲みたいな、スパイスも加えた、君のコーヒー」
「はい、よろこんで」
弾んだ声のパペッターにコンラッドの心はひどく痛む。
『パペッター』という存在を否定したいわけではない。
だが、コンラッドはアナベルのコーヒーが無性に飲みたくなった。
次の冬に、アナベルがスパイスを加えた特製のコーヒーを飲んでみたかった。
そのためにはアナベルとパペッターの関係を探らねばならない。眠り姫を目覚めさせるためには、きっとそれが近道だ。
一度決意をすると、コンラッドの視界はすっとクリアになる。
何かヒントが無いかと、コーヒーを口に含むパペッターをさり気なく観察すると――彼女が唯一身につけている装飾具であるブレスレットに目を奪われた。
「……そのブレスレット、いつもつけてるよね」
「はい、お嬢様からこれを外してはならないと言いつけられております」
「グィネス嬢が……よく見てもいいかな?」
「はい、どうぞ」
コンラッドは隣の椅子に移り、パペッターの細い腕をとる。
ブレスレットはシンプルで華奢な作りをしているが、何か記憶にひっかかる。
コンラッドはそのブレスレットに見覚えがあった。いつかの流行りだったか――いや、図録か何かでここ数年内に見たような。
目の前のものと記憶のなかのものが合致した瞬間、背筋を冷たいものが走った。
これは間違いなく禁制品だ。そして高い確率でこの先はアナベルへと繋がっている。コンラッドは思わずブレスレットに口づけると、戸惑うパペッターごと抱きしめた。
◯ ◯ ◯
「なんで!なんで!?お前が!お前、ばかりがッ!!」
家具の少ない簡素な小部屋に打撃音が響く。
腕部で頭部を庇いながら打たれ続けているのは、ふわふわの焦げ茶色の髪を乱したオートマタ。
部屋にあった古びた木の椅子は既に壊れ、壊れた椅子の脚を振り回しているのは、長い髪を振り乱し美しい顔を嫉妬で歪ませたグィネスだった。
「なんでお前ばかりが!コンラッド様に気にかけられているの!」
「わか……りませ……」
「わからない、わけ、ないでしょう!?いったい、どんな手管を、弄して、いるんだか!! ……これだから庶民は嫌なの!」
午後の休憩室で、切なげにパペッターを抱きしめるコンラッドをグィネスは見てしまった。
スクールの初等部で出会った頃からグィネスはコンラッドに夢中だった。
けれど、どんなにアピールしてもコンラッドは少しもグィネスを見てくれず、そのうち適当にあしらわれるようになった。
中等部では寄宿学校に行ってしまったので、その間は自分を磨くことに専念した。
かつては社交界で成り上がり者の娘と馬鹿にされていたが、次第に賢く美しい娘だと評されるようになったのに、再会したコンラッドはアカデミーで庶民の娘ばかりを見ている。
賢くて美しく愛される私をコンラッドは見ない。いつも曖昧な微笑みでかわされ、逃げられてしまう。
もうどうしていいかわからなくなったから恋敵を遠ざけたのに、今度は便利な駒に視線を持っていかれてしまった。
疲れ果てたグィネスは持っていた椅子の残骸を放り投げると、後処理を感情のない女に命じ、足取り重く小部屋を去った。
小部屋には力尽き床に伏せたパペッターと、それを見下ろす感情のない女が残る。その足元には壊れたブレスレットが落ちていた。
◇ ◇ ◇
真っ暗な部屋で覚醒したアナベルは、清潔なシーツに包まれていることに気づいて寝返りをうつ。
長い眠りから覚めた彼女はしばらくぼうっとしていたが、次第にここは何処なのかと疑問を抱く。
暗闇に慣れた目が確認したのは今寝ているベッドとサイドテーブル、ちょっとした棚と積み重ねられたいくつかの簡素な椅子。サイドテーブルには花瓶があり、まだ瑞々しい花が活けられていた。
(お母さんの好きな花――)
花の香りから連想したのは母の顔。
よく見ると花瓶の下には繊細なレース編みのドイリーが敷いてあり、これは母が得意とするモチーフのもののように思える。
状況から察するに、ここは病院で自分は入院中。少なくとも母が見舞いに来てくれていたことがわかった。
最後の記憶は、後頭部への物理的な衝撃。何らかの事故か事件に巻き込まれた自分は病院に運び込まれ今に至る……という感じかとアナベルは推察を終えた。
深夜のようだが看護師に覚醒を伝えるためベッドを降りようとしたら――何故か足に力が入らずに転倒した。今度はかろうじて受け身をとれたが、動けない。
幸いなことに、大きな音を察知した看護師がすぐにやってきたのでベッドに戻ることができた。
そうしてアナベルは、医師から衝撃的な話を聞くことになる。
◆ ◆ ◆
アナベルが目覚めたという連絡からしばらく、彼女の担当医師から見舞いの許可が出たと教授の補佐役経由で話を聞いたコンラッドは、研究室の有志を募り見舞いに行くことにした。
「アナベル、無事でよかった!」
いの一番にかけよったのは、アナベルと仲の良い女性の先輩。
痩せてしまったが、心配と迷惑をかけたと謝罪する彼女は元気そうで、コンラッドはようやく肩の力を抜いた。
いくつかの雑談と研究室の近況を話しつつ、コンラッドらは見舞いを切り上げた。近況報告の中にパペッターの話題があったが、アナベルは「会ってみたかった!」と嘆くだけで特別な反応を示さなかった。
アナベルにパペッターの中にいた頃の記憶はないらしい。
そしてパペッターはもう研究室には来ることは決してない。
今日も不在のグィネス曰く「運用データが十分とれたので、社に戻した」とのことだ――表向きの理由は。
あの日、感情が溢れてパペッターを抱きしめたコンラッドは、急いで帰宅すると資料を漁った。探しているのは、ここ数年内でオークションに出されていた、遥か昔に作られた魔装具の情報。
魔法が日常だった遥か昔、魔導具や魔装具も、今のものより便利でもっと効果の高いものがあったらしい。
壊れていて使えなかったり、活きていても起動に必要な魔力が多すぎて満足に使えないものが多数だが、仕組みを調査し新規開発や現行の製品改善に役立てる組織も多い。コンラッドの一族が経営する魔装具企業もそのひとつ。
今探している魔装具は、そうして狙ったが競り負けたもののひとつだった。別の魔装具企業が競り落としていったが、巡り巡ってグィネスの手元に渡ったらしい。
あの魔装具は『人間の意識を人形に移すための魔装具=操り人形師の腕輪』という売り込みだった。恐ろしいものだが、損傷が激しい上に修繕見込みもたたず起動は一切できなかったため、国が管理することはなくオークションに出ていたものである。
その後は、驚くことに何人もの天才たちがリレー形式で少しずつ手を加え、グィネスの手元にきたときにはかなり修繕が進んでいた。そしてグィネスの家の会社の天才が、趣味で最後の修繕を成し遂げたらしい。
パペッターがもう来ないと聞いたコンラッドは、グィネスを問い詰めた。
想い人に睨みつけられてすぐに真相を吐いたグィネスは、泣きながらコンラッドへの想いも訥々とこぼす。
いつも完璧に施されている化粧は崩れ、ぐしゃぐしゃになりながらも懸命に好意を伝えてくるグィネスに、コンラッドは初めて彼女と向き合った気がした。
アナベルを背後から襲い、ブレスレットを着けアナベルの魔力紋の情報を魔装具に登録。そして試作品のオートマタにアナベルの意識を移す。
それらをグィネスはひとりで行ったらしく、その実行力は今後別のなにかに向けてほしいとコンラッドは思った。
いままで薄情すぎたかと内省しつつ「それでも君を選ぶことはない」とグィネスに告げたコンラッドは、沙汰は被害者が起きてからになると言い渡しグィネスの前から去った。
グィネスを問い詰める際は、内密に警察にも同行してもらっていたが、事件の内容が内容なので進展は止めているらしい。
再び壊れたとはいえ、オートマタに人間の意識を移す魔装具が現代で稼働したなんて世間に知られたら大変なことになる。
高い確率で公表されず、行政や警察、病院などの上層部に向けて秘密裏に情報が共有されるに留まるだろう。
そうなれば、公表はされない上に法的に罰されることはないが、グィネスの家の会社や、魔装具の修繕に関わった技術者たちなどは、しばらく行政や警察にマークされることになるだろう。
これは後に判明する事実なのだが、パペッターに移ったアナベルの意識は人間個人に関する表面的な情報の大部分がロックされていたため、パペッターはニュートラルな疑似人格であるかのように振る舞ったらしい。
技術者らの聞き取りによると、これは元からの仕様である。
一体どういう意図で設計された魔装具なのかを考えるとますます恐ろしくなったコンラッドは、技術部統括の親戚にも話すことの許可が出ないか警察に相談しに行った。
◇ ◇ ◇
研究室の皆が帰って行った後にコンラッドだけが戻ってきて、油断していたアナベルは数秒取り乱した。
目覚めた直後に、医師からひと月近く眠っていたことを知らされていたが、その間に何が起きていたかを教えてくれるらしい。
簡素な椅子に腰掛けたコンラッドは、緊張しながらもグィネスの凶行とその原因、それに伴う諸々について話し出す。
けれど、最新のフィクション小説か何かの話のように思え、アナベルはなかなか現実の話として飲み込めなかった。
「私、オートマタの中にいた、んですか?」
「そう……ごめんね、俺がもう少しちゃんとしていれば……」
「コンラッドさんは悪くないですよ、だって追いかけられて困っていたじゃないですか。単にグィネスさんが一線を越えてしまっただけの話です……あの人も頭いいのにどうしてこんな……」
「それほど俺が追い詰めてしまったってことで……」
「だからといってコンラッドさんが悪いことにはなりません」
「でも、あしらって逃げるだけじゃないやり方はあった筈なんだ」
「その考えだと、そのうち好かれたほうが負けだなんて、悪魔もびっくりの法律が完成しちゃいますよそれ」
ひたすら謝るコンラッドとそれを阻止するアナベルの攻防が繰り返されること数分、コンラッドはついに笑みを溢した。
「ああ――たのしい、謝らなければならないのに不謹慎だ……でも楽しい」
「えぇえ、楽しい?」
「君とこうして話せることがとても楽しい……嬉しい」
「それは……よかった、です?」
「うん……目覚めてくれてありがとうアナベル。俺は君が好きだよ」
「はい、どういたしまし――ええ?」
天使が通り過ぎたかのように、病室を静寂が支配する。
ふたりはそれぞれ自分の鼓動だけが響いているかのように錯覚し、呼吸の仕方を忘れてしまったように息苦しくなった。
言われたアナベルの頭は何を言われたか理解できないのに、心に染み込んで頬が赤くなる。
言った側のコンラッドも耳まで赤くして俯いているから尚更で、アナベルの口は乾いてうまく声にならない。
言わないと。言わなくては、アナベルの気持ちも。
伝えていいなら、伝えたい。
「わた、わたし、私も……好き、です」
弾かれたように顔をあげたコンラッドは、真っ赤な顔のアナベルと目が合うとふにゃりと笑った。気の抜けた笑顔も格好いいとかコンラッドはずるいなとアナベルは思う。
ベッドに乗り出してきたコンラッドに抱きしめられると、アナベルはそっと背に手を回し。ゆっくりと近づいた唇が重なった。
あのとき本当に天使が通り過ぎたのかもしれない。
――――ただし、恋の天使が。
◇ ◇ ◇
入院中に衰えた筋力と体力を取り戻すべく、怒涛の勢いでリハビリをこなすアナベルは松葉杖でアカデミーに復帰する。グィネスがアナベルに掴みかかり転倒したが、頭の打ち所が悪くてしばらく療養していた……ということになったアナベルは日常を取り戻した。
交渉の結果、単位は試験が通れば良いということなので友人たちにノートを借りて不在時の勉強を取り戻すべく邁進。共通の講義はコンラッドも積極的に協力し、ふたりきりの時間を満喫していたりもする。
幸い、研究のほうは入院前に積極的に進めていたのでなんとかなりそうな気配がある。
そうして落ち着いた頃、ふたりの元にひとつの連絡が届いた。
グィネスから、できれば会って謝罪がしたいということだった。
「この度は、申し訳、ございませんでした」
勝ち気な雰囲気はすっかり鳴りを潜め、深々と頭を下げるグィネスにアナベルは複雑な思いを抱いた。アナベルにも、ままならない恋のつらさはよくわかる。
グィネスは魔装具研究室から魔道具研究室に所属を変えた。
そのためか、アナベルもコンラッドも彼女を遠目に見かけることはあっても遭遇することはなかった。グィネスが会わないように避けていた部分もある。
人が変わったように粛々と勉学に励むグィネスを見てコンラッドに事情を聴きに来る者も複数いたが、公表されていることしか知らないと返答し続けていたらそのうち静かになった。そんなグィネスの姿を見て、同じくコンラッドに群がっていた女性たちの大多数も彼から距離をとるようになり、ふたりの周囲は平穏そのものだった。
アナベルはときおりチクチクとした嫉妬の視線をまだ複数感じるが。
「されたことを考えると、許すことはできませんが……謝罪を受け入れます」
「はい、ありがとうございます」
肩の力を抜いたグィネスはそれでも俯いたままだった。いつも勝ち気に前を向いていた華やかな女性の変わりように、アナベルの心は少し痛んだ。
「せっかくなので、ひとつ訊いてもいいですか?」
「……なんでしょう」
「――何故、私の身体を確保しておかなかったんですか?」
コンラッドもグィネスも、アナベルが何を尋ねたかの理解を一瞬できず、硬直から立ち直ったのはコンラッドが僅かに早かった。
「ねえアナ。それ、いま訊くことかな?」
「え? うん、だってずっと疑問で……」
「あ、あの、そんなことしたら誘拐なので、流石に……」
「君、ある意味誘拐よりとんでもないことしでかしてるんだけど」
どこかズレたグィネスの返答にコンラッドが頭を抱える。今まで避けていたため知らなかったが、このお嬢様はかなり変な娘だったのかもしれない。
そんなコンラッドの隣で、アナベルは安心したように雰囲気を和らげる。
「やっぱりグィネスさんは真面目な方なんですね。……真面目すぎて、思いつめてしまった」
ぽつりと呟いたのは、アナベルがずっと心に抱えていた思いだった。
「許したいとか、また関わり合いになりたいとか、そういう前向きな感情はやっぱり持てないんですけど。私は別にグィネスさんに不幸になって欲しくはないんです。だから、その、反省は必要でしょうけど、必要以上に思いつめないでください。私が嬉しくないので」
グィネスの罪を法で裁くことはなかった。
表沙汰にできる件はちょっとしたトラブル程度。事件当時、後頭部にあった殴打の痕は軽いものだったのもあって尚更だ。
だが、アナベルの入院費用の補償はもちろん、今後に設立される古代の魔道具――魔装具などの派生分野も含む――の検証・修繕・管理を行う団体への多額な出資など、主に金銭的に贖うことになっている。この団体は国によって管理され、今までの個人による曖昧な管理に頼る手法は数を減らしていくことになる。
「コンラッド様がどうして貴女を選んだのか、やっとわかった気がします……ありがとうございます。そして今までごめんなさい……さようなら」
少し晴れた表情で改めて深く頭を下げたグィネスを見送り、アナベルとコンラッドはやっと事件が終わったのだと一息ついた。
◇ ◇ ◇
「おかえりー」
「ただいま戻りました!」
揃って研究室に戻ると、アナベルと仲の良い先輩が迎えてくれた。
コンラッドも軽く挨拶を返すと自分のスペースに移動する。
「うんうん、落ち着いたようだね。で、そろそろ報告はないの?」
「ほうこく……報告?」
アナベルがきょとんと答えあぐねていると、先輩が言葉を加えてきた。
「しらばっくれずともイイよ、ようやくくっついたんでしょう、キミタチ? 皆でずぅっと前からヤキモキしていたんだからー」
「「――えっ」」
「どう見てもお互いしか見えてない上に性格の相性もよさげ、なのに一定の距離を保ち続けててもうね。身持ちが固い者同士ってこんなに長引くのかとビックリしたわ。いやぁ、よかったよかった」
満面の笑みで爆弾発言を追加で投げ込まれ、アナベルとコンラッドは何も言えなくなった。アナベルは顔を赤く染めながらこっそり周囲を窺うとどうやらニヤニヤ見られており、コンラッドは両目を片手で覆い天井を仰いでいた。
アナベルの日常は返ってきたが、コンラッドが隣にいる状況はどこか現実味が薄くふわふわとしていた。
でもこれからは事件前と違った日常に変わっていくのだと、先輩に指摘されてようやく認識できた。
顔の火照りが引いたふたりは、改めて並ぶと研究室で報告し、祝福の拍手に包まれた。
その後、コンラッドからアナベルの両親に事件の説明に行きたいと請われ、家に招くことになったり、逆にコンラッドの家にアナベルが招かれることになったりした。
その際に偶然訪れていたコンラッドの本家筋の又従兄弟にアナベルが気に入られて一騒動あったりするが、手を取り合って乗り越えていった。
冬が深まったら、スパイスを加えたアナベル特製の熱いコーヒーをふたりで飲み――また来年も再来年もその先も一緒に飲みたいと約束をした。
その約束は、きっと果たされるだろう。
前二作が「恋愛ジャンルとは……?」と糖度が低めの作品だったので、王道少女漫画的なストーリーに挑戦しました。糖度はまだ低い気がします。
設定はゆるいので厳密には決めてませんが、前作(転生令嬢は平和がいいので我儘王女のせいで戦争が起きるとか勘弁してほしい)の千年後とかの世界かもしれません。
読んでいただきまして、ありがとうございました。