マリーは幽霊船の船長になる夢を見ていた
灰色の雲がうごめく暗色の空は強い風が吹くたびにゴウ、ゴゴウと渦を巻く。おぼろげに見え隠れする月の光。大海原はまたさざめく波を泡立て、寄せては返す。波の間にぽつりと青い光が灯ってはまた消えるのは鬼火であろう。突如として浮かびあがる木造りのオンボロ船。風に吹かれ、ゆらりと揺れるたびに船は大きく軋む。一人用にしては大きな感じがするけれど、カンテラが照らす操舵室に見える影はただ一つ。華奢な身体つきに背は高く、そして長い黒髪。あれは…、あれは…、あれはきっと…。
自分によく似たその人の顔があともう少しで見えそうというところで鞠子は目覚めた。いつもの自分のベッド。窓から明るい陽射しが差し込み、鳥のさえずる声さえ聞こえてきた。時計の針はすでに八時を過ぎているのに気づくと鞠子は慌ててベッドから飛び出し、着替えて階下へ駆け下りて行った。母が用意してくれた朝食もそこそこに学校へと駆け出して行った。トモくんと一緒にのんびり話をしながら楽しそうに歩いてる弟の琢磨を抜き去って、校門を走り抜け、始業のチャイムが鳴り終わるのと同時に五年二組の自分の席に着席した。
朝礼に入って来た山崎先生は転校生を連れていた。先生は黒板に白いチョークで彼女の名前を書いた。
椎名恵。
よろしくお願いしますとありがちな挨拶をすると、いつの間にか用意された一番後ろの席に着席させられていた。マリー、密かに自分のことをそう呼んでいた鞠子はこう思った。
シーナだって。マリーにはもってこいの相棒だね。いや、もしかしたらライバルかもしれない。天敵かもよ。用心しなくっちゃ。少し様子を見ることにしよう。
マリーがシーナに魅かれたのは名前だけが理由ではなかった。その日、シーナは左目の白い部分が真っ赤になっていた。人の顔をあんまりジロジロ見たりするのは失礼だからそんなことはしなかったけれど、マリーはできることなら穴が開くくらい、その赤目をじっくり見たかった。それに、山崎先生はシーナに分からないことはまず秦野に聞きなさいって言っちゃったもんだから、なんだか予防線を引かれてしまったように感じていた。
朝礼が終わるとすぐに一時間目の国語の授業が始められた。マリーだけじゃない。みんながなんとなくソワソワしてる。シーナはもちろん「お試し」な感じで朗読をさせられる。高い声は聞き心地が良く、難なく上手に読んでくれた。
休み時間になると早速群がる女子たちがいた。数名の男子がそうであるのと同じく、マリーももちろん津々な興味を抑えて自分の席からは動かず、それでもかなり大きく聞き耳を立てていた。
どこから引っ越してきたの?家はどのあたり?兄弟は?クラブは?お習い事は?シーナはとにかく答えていた。秦野さんはむしろ余裕をかましちゃって、自分はいつでもシーナと話ができるからみたいな感じで発言控えめなんだよね。
「左目、どうかしたの?」
誰かがよくぞ聞いてくれた。
「引っ越しの片づけをしていたときに棚の角にぶつけちゃって。」
早々に病院で診てもらったけれど大したことはなくて眼帯も不要と言われたらしい。赤い色が自分でも怖いけど痛みもなく、本人も家族も転校早々にこんな姿でと気にはしたが、眼帯をするとかえって手元が見づらかったり、距離感が分からなくなるとのことで眼帯なしで登校することにしたんだって。
「レッドアイ。」
マリーは心の中でそう呼んだ。きっとシーナはものすごく腹がたったときとか、左目を真っ赤にしてレーザービームを放つんだ。いまは転校してきたばっかりで気持ちが不安定で、ビームを放つまでもないけど感情が高ぶって目が赤くなってるんだ。
マリーの妄想がこんな風に膨らんでいくのをもろともせず、山崎先生が教室に戻ってきて社会の授業が始まった。
マリーは授業中もずっとシーナが気になったけど、シーナは後方の席だから振り向く訳にはいかなかった。それでもチラチラ見てたかも。休み時間も給食の時間も話したかったけど、なんとなく率先して話しかけたりできなかった。秦野さんじゃないし。終礼が終わって帰りはどうするのかなーって思ってたら、シーナはそそくさとと三組の方へ行った。まだ終礼が続いてた三組の後方の扉の近くで立ったまんま誰かを待ってるみたいだった。
三組の朝礼が終わると紀伊さんが急いで出てきた。
「ごめんねー、待った?」
「ううん。」
ずっと待ってたくせにって、マリーはその様子を見ていた。へぇ、キー坊ともう友だちなのか。マリーは前からキー坊だったら子分にしてもいいかなと隣のクラスの紀伊さんをそんな風に見ていた。あとでほかの子たちが話していたのを聞いたのだけれど、シーナの家の斜向かいがキー坊ん家なんだって。シーナの転校初日以降ずっと、二人は学校までの行き帰りをいつも一緒にするようになるのだった。マリーはいつどうやってこの二人に自分は合流するんだろうかと想像したりしてもいた。
マリーは友だちがいなかった訳じゃない。二人組にならなくちゃいけないときは、なんとなくいつも美紀ちゃんと。美紀ちゃんは決して嫌な子じゃないし、三年と四年のときも同じクラスで、差し障りなく仲良くやって来た。特に勉強も運動も秀でている訳じゃないけど、目立ってできない訳でもない。それはマリーも一緒。だからなんとなく一緒にいられる。美紀ちゃんはきっと幽霊船の船員にはなれないけれど、その話をしてもうんうんて聞いてくれるんだろうなって思ってた。船員憧れのマドンナともちょっと違うし、悪い奴に囚われたお姫様でもない。敵にも味方にもならないだろうけど、そうだな、ときどき停泊する町で感じ良く対応してくれるレストランの看板娘みたいって、それぐらいに思っていた。
こんな風にマリーはなにかにつけて幽霊船のことを考えていた。あれは二年前、三年生になってすぐのことだった。琢磨が小学校に入学して初めて図書室に行って、なにか本を借りなければならなかったといって借りてきた薄めの本の表紙に描かれていたのが幽霊船だった。もちろんそれは小学一年生が読める本ではなかったけれど、なにか一冊取らなければならなかった琢磨の右手が届いたのがそれだった。そのおどろおどろしい様子の表紙絵には立ち込める暗い雲、薄黄色の月、寄せる黒い波、泡立つ飛沫、青光りする鬼火、そしていまにもゆらりと表紙から飛び出してきそうな木造りのオンボロ船。この風景はまだ幼い鞠子に強烈な印象を与えた。だからと言って鞠子もこの本をじっくり読んだわけではなかったが、「大人になったら読む本」と心に決め、その中身を折りに触れ時に触れ想像を繰り返す間についには自分のことを「マリー」とまで呼び始め、級友を敵にしたり、味方にしたり、冒険の日々を夢見ていた。そしてシーナの登場は、マリーの空想をなお一層飛躍させたのだった。
そんなマリーはオンボロ幽霊船に「ヴァルプルギス号」という名前を付けていた。ヨーロッパの方では「ヴァルプルギスの夜」に魔女たちが集まって大きなお祭りをするんだって、なにかのときにどこかでそう聞いてから自分の船にはこの名前しかないと思っていた。お姫様よりも女王様よりも、特定の魔女じゃなくって、魔女たちが集まるお祭りの名前ってところがマリーにはこの上ない魅力を伴って響いた。魔女たちが集まって護ってくれる幽霊船なんてかっこいい!そんな風に考えていた。
けれどマリーは船に大した興味をもってはいなかった。公園の池のボート、滅多に乗ることのないフェリー、豪華客船や屋形船にだって興味はなかったし、船の設備や操縦に関しても知りたいと思うことはなかった。それでも幽霊船の船長となって、大人になったマリーは細身で背が高くって、長い黒髪でミステリアスな女性船長として、孤独ではない孤高の旅を大海原で繰り広げる姿をまざまざと夢見ていたのだ。
ある日はパイレーツハットを被って、胸元に大きなフリルのついたきらめく白いブラウスにショート丈の紫色のガウンを着こなし、履き古したニーハイブーツでさびれた甲板を闊歩する、また別の日には船首を踏み台のようにして片膝を立て、海からの風を受けて、なんとかマンが着てそうなボンデージスーツにマキシ丈のマントを翻す、裏地の鮮やかな紫を見せつける、そんな未来の自分の姿を想像していた。
幽霊船の船長だからと言って自分が幽霊になる気はなかった。女船長マリーはちゃんと実在していてヴァルプルギス号だってちゃんとあるのだけれど、その行動から幽霊っぽく思われる、遭遇した人たちが勝手にそう思い込んでいるだけだと自信を持って言えるのだった。海賊ではないのだから、ほかの船を襲ったりすることだって絶対にないと信じていた。では、幽霊船の目的はなにか。ヴァルプルギス号には目的などないのだ。目的なく大海原で孤高の旅を繰り広げる、それこそが目的なのだった。目的を持たないことが目的だなんて、なんてかっこいい!ってマリーは思っていた。
だからこそほかの船からしたらマリー船長のヴァルプルギス号は突如として現れ、突如として消える、そんな風に誤解されるのだろう。たとえば客船に乗っている人がマリー船長のヴァルプルギス号に遭遇したとしたら、それはクジラやイルカを見ることができたというのと同じくらい運が良かったということだ。それでもマリー船長は正義を持ち、勇敢でもあった。海賊に襲撃された一般客船を助けたり、溺れた人、遭難した人どころか、傷ついた海獣さえも救けてやるのだ。風の吹くまま気の向くまま、一人、ヴァルプルギス号で黒い波間を闊歩するマリー船長はかっこいいのだ。
そこへやって来たシーナ、さて、このシーナが敵なのか味方なのかを見分けなければならなかった。
でもマリーにはシーナがいまいちよく分からないのだった。どこかつかみどころがないというか。勉強も運動もそこそこな感じで、シーナが好きなことや得意なことっていうのが見えてこなかった。転校初日に赤かった左目の白い部分も日に日に赤みは消えてどこかシーナは物足りなくも思えてきた。
むしろ子分にしてやってもいいと思ってきたキー坊はいいところがたくさん見えてきた。
シーナが体操服忘れたときはキー坊が貸してあげてた。シーナが日直で遅くなっても一緒に帰れるまで待ってたり、突然雨が降り出したときは傘に一緒に入れて、まあ斜向かいとはいえシーナの家の玄関先まで送ってあげてた。キー坊は親切とかやさしいって言うか、面倒見がいいんだよね。マリーは数か月前だったか、急にお腹が痛くなって保健室に行ったことがあった。キー坊は保健係みたいで、体育の授業中に転んで膝を擦りむいた同級生を連れてきてた。増田先生はマリーの熱計ったりなんだかんだ忙しそうにしてるところ、キー坊は率先して同級生の手当までしてあげてたんだよね。それでマリーは、この子が船に一緒にいてくれたら病気やケガの手当だけじゃなくて船の清掃やいろいろやってくれそう!ってそう思ったんだった。かといってマリーはなんの接点もないキー坊に気安く話しかけたりはできなかった。しかも「子分にならしてやらんでもない」くらいの気持ちしかなかったのも事実だ。
あるとき、マリーが歩いていたら廊下に水たまりができていた。四組で絵の具を使う授業をやってて、誰かがこぼしてしまったみたいだった。結構大きな水たまりだったけど、誰がこぼしたのかは分からなかったみたいで、吉田先生が雑巾で拭いてた。そこへキー坊が自分の雑巾を持ってきて「お手伝いします」って、先生と一緒に廊下を拭き始めた。みんなが嫌がる雑巾がけを自分のクラスでもないキー坊がほかのクラスの先生を手伝ったりして…。ここまでいい子ちゃんな感じだと鼻につくんだよねって、何人のひとが思うだろう。なんとなく黙って見てたらシーナまで雑巾持ってきて「私も」だってさ。あーヤだヤだ、やっぱこの二人を仲間にするのは無理かも、なんてマリーはちょっと思った。あ、でも、甲板とかいつも二人でキレイにしてくれるかも。二人が甲板で雑巾がけレースをしてくれるのを見るのは楽しいかも。しかもヴァルプルギス号の甲板がキレイになるんだったらさらにお得じゃん!マリーの妄想が尽きることはなかった。
音楽の授業のとき、合唱祭が近いからってクラス全員でひな段に並ばせられた。女子側はソプラノとアルトに別れるんだけど、真矢先生が何人かの発声を確認して並び順を少し変えたりした。アルトチームの端に立たされてたマリーだけど、ソプラノチームの端にシーナがやって来た。マリーは運命を感じた。これは運命の引合せだ!それくらいに感じたマリーだった。隣に並ぶまで気づかなかったが、シーナは歌が上手だった。そういや国語の朗読もいい声で上手に読んでたっけ。青い海原に響き渡るような清々しい歌声、いや、人々を惑わす人魚の歌声と言ったらいいのだろうか。マリーはシーナの歌をずっと聴いていたかった。もう音楽の授業はこれから先ずっとずっと合唱でいいって、いや、合唱がいいって、マリーはそう思った。
合唱祭のときはみんなで歌うんだけど、指揮は浜崎で、ピアノ演奏は野島さんなんだよね。でも、ある日野島さんが休んだ。誰かほかにピアノ弾ける人いたっけ?ってことになって、もちろんクラスに数名はいるんだけど、率先して弾きたがる人はいなかった。まぁ、その日突然みんなの前でピアノ弾いてよって言われても、ねぇ。なんだかんだ、結局そこで白羽の矢が立ったのはシーナだった。シーナはピアノも上手だった。けれどマリーは不満だった。だって、自分の隣から遠く、ピアノ席にいってしまったんだもの。それにみんなから「ピアノも上手ね」なんて言われてチヤホヤされてるシーナを見るにつけて、なんだかいい気分はしなかった。
野島さんは風邪をこじらせたらしく、次の日もその次の日も学校を休んだ。三日ぶりに学校にきて合唱祭の練習のときになってピアノ演奏をシーナに取って代わられたことを知り、ショックを受けたようだ。自分が病欠してる間にシーナが演奏してくれてるということを誰からも聞いていなかったみたいで、前日と同じく当たり前のようにピアノ席に座ってしまったシーナがそこにいた。シーナとしては病み上がりの野島さんが演奏するとは思っていなかったみたいだけれど、そんなシーナの気遣いを知る由もなく野島さんは家に帰ってしまった。泣きながら。ま、野島さんとしてはピアノ演奏だけが自分の取り柄と思っていたらしいから。
その次の日、シーナがお願いする形でピアノ演奏は野島さんに戻った。マリーは多少嬉しかった。シーナのピアノは上手だったけれど、隣に立って歌声を聞かせてくれることの方がマリーは嬉しかった。
でも、この日以来、シーナはなにかにつけてちょっと遠慮がちになってしまった。少なくてもマリーにはそう見えた。授業中もほかの人が手を挙げてないときしか挙げなかったり、体育の授業でも全速力では走ってないように見えたり。先生や誰かに頼まれない限り、自分で率先してなにかを進んでやることがなくなってしまったように、そんな風にマリーには見えた。前みたいにキー坊がどっかのクラスの先生を手伝ったりしても、シーナも一緒にってことがなくなった。教室に着くのも、教室から帰るのも、シーナが一番のことはなかったと思う。こんな様子では私のライバルとしては張り合いがないじゃない!マリーは腹立たしくさえ思っていた。
ある日、マリーは美紀ちゃんと一緒に理科室へ向かった。理科の授業はいつも理科室じゃないけれど、たまたまこの日は顕微鏡を使うってことで理科室に行かなくちゃならなかった。マリーは船長気分を味わえる顕微鏡を覗き見るってことを少なからず楽しみにしていた。シーナはクラスにはもう馴染んでいたけれど多少はまだ分からないことがあるみたいで、モタモタしていた。シーナに気づいた美紀ちゃんが、「一緒に行こう」って声をかけた。美紀ちゃんエライ!って思ったのと同時に、そういえば自分はシーナとまだ話をしたことがなかったという事実にマリーは気づいた。そんなことに気づいちゃったもんだから、なにをどう話したらいいのか、なにをどう喋ればいいのか、なんだかとても緊張してしまった。
「杉田さんは?」
…へ?
「鞠ちゃんでいいよ、ね?」
ありがとう、美紀ちゃん。
「…鞠ちゃん?」
「うん。行こう、理科室、遅れちゃう!」
「さ、行こ行こ、恵ちゃん!」
この日を境に三人仲良し組ができた。あ、キー坊、もとい遥ちゃんも入れて四人で遊ぶことが多くなった。そして鞠子は幽霊船の夢を見ることはなくなった。