001
三話構成です。よろしくお願いします。
時は明治。西洋の文化が流入し、衣食住や建物の変化が顕著に見られるようになった華やかな時代。
とある植物学者が1人、白衣を着て、暗い研究室にこもっていた。
30畳ほどの広さがある研究室。と言っても、使い捨てられた倉庫だった。歩くたびに床の木が軋む音が聞こえる。天井は木の柱が剥き出しになっていて、腐りかけ。等間隔に窓があり、月光が斜めに地面を照らす。建物の隅の方には、蜘蛛の巣がいくつかできている、古くさい倉庫だ。
中央に置かれた机のそばで佇む男。ヒョロっとした体つきは頼りなさを物語っていた。天然パーマが入った黒い髪の毛。頬骨がすこし浮かびあがっている痩せた顔。眼鏡をかけている。
男は佐藤悠一といった。悠一はスポイトに液体をとり、机の上にある植物に少しずつかけていく。
植物の葉の上を液体が滴れて落ちて行く。窓から入ってくる月光が液体をキラキラと照らしていた。
ヂカッ!!
目を刺すほど眩しい光が辺りに走った。悠一は驚いたように入り口の方を見た。
「悠一さん、また集中しすぎてましたね?」
微笑みながらそう言った彼女が、明かりをつけたようだ。入り口の近くにあるスイッチに手をそえていた。
「サユリさん、どうも」
悠一はスポイトを机の上に置いて、着物に身を包んだ女──山田サユリの方へ歩み寄った。悠一はさっきまでとは全然違った表情を見せた。微笑み、活気に溢れた顔だ。
サユリは深紅色の着物を着ていた。きれいに飾られた髪型。大きな瞳にすらっとした鼻と口。流麗な姿はまるで違う世界の天女のようだった。
「前来た時から少ししか経っていないのに、またこんなに植物がたくさん」
サユリは辺りを見渡しながら言った。
窓が無い壁沿いには植物の棚が何段にも重なってできていて、3メートルほどの高さがあった。その棚が建物の壁を一面覆っていた。
棚には緑、赤、黄色、紫、たくさんの色の草や花たちが生息していた。まさに、植物博物館にいるかのような気分になる。
また、部屋には机が9つ、3列に3つずつ置かれており、真ん中の列は机の上に実験器具や実験中の植物が置かれていた。
残りの机には小さな観葉植物や花が置かれていた。ツルを伸ばしているものもあり、床に届きそうなほどだった。
「サユリさんが前にお越しになったのは、4日前でしたね。また色々研究をしていたら、植物たちが増えてしまいました」
微笑みながら悠一は語った。サユリもそれを見て笑った。
サユリは手さげから新聞紙に包まれたものを取り出した。
「今日は、近くの店で売られていたカステラを買ってきました。休憩にお茶でもどうです?」
包みをガサガサと剥がして中身を見せた。黄色のスポンジがフワッと、そしてザラメが多く入った表面。襲ってくるあま〜い香り。
「うわ!美味しそうですねー!その椅子にかけて、待っていてください。すぐに紅茶をいれてきます」
研究室の部屋の隅に置かれた小さな机。そこで2人はいつも会話をしたり、お茶をしたりしている。サユリは椅子に座って悠一を待っていた。
建物入り口のすぐ横のドア。そこを開けると悠一の私部屋となっている。悠一はそこに住んでいた。
白衣を脱いで柱に立てかけた。簡易的な台所で湯を沸かし、ティーパックに茶葉を入れ、コップにそれを入れる。湯を注ぎ、少し待つ。
──
「お待たせしました。佐藤家特製!紅茶です」
コトッ
サユリの座っている前にコップを置いた。
「まぁ、なんてきれいな色!匂いも華やかですね〜」
サユリは目をキラキラさせながら紅茶を眺めていた。悠一はサユリの目の前に座り、その様子を見て微笑んだ。
「ここで作った茶葉を発酵させたり、乾燥させたりして1から作ってますから。美味しいと思います」
「嬉しいです!では、カステラと一緒にいただきましょう」
2人は最高のお茶の時間を楽しんだ。
2人は実は付き合っていて、週に3回ほど、会ってはここでお茶をしている。それだけが2人の唯一の楽しみだった。
いや、それ以上ができない事情があった。
「……次はいつ、会えるでしょうか?」
話も潮時となっていた時、悠一が尋ねた。
サユリは机の上にコップを置いて、俯いた。そのまま、コップの淵についた赤い紅を持参した白い布で拭き取りながら言った。
「もう、会えないと、思います」
「えっ……!?」
悠一は椅子の背もたれに、もたれかかった。体から力が全て抜けていくのを感じた。
──サユリの家は医者の家系であった。サユリの父はサユリをいい人と結婚させるために、他の医者の奴と結婚の話をつけていたのだ。それはつい1ヶ月くらい前のこと。
しかし、その頃にはすでに悠一とサユリは付き合っており、2人は結婚も前提だった。
そんな時に急にサユリの嫁ぎ先が決まり、悠一とサユリの結婚の話は白紙。
そして今日、ついに結婚日が決まり、それの報告にサユリは悠一のもとを訪ねたのだった。
「……また、あまりにも急すぎて、僕は理解が追いつかない……」
悠一はズボンの布を強く握りしめた。あまりにも悔しくて、不甲斐なくて、そんな自分に嫌気がさした。
いや、本当はもう分かってた。いつか、この時が来ることを。それがもう来てしまったのだ。
そうか。さっきの脱力感。それは、今まではどうにかなると信じていたことが、ついにどうにもできなくなってしまったという現実を受け入れたと、自分に言い聞かせるためのフリなんだろう。
僕は抗わないのではない。抗えないのだ。この運命に。
サユリは泣いていた。瞳からは溢れんばかりの涙がこぼれ落ちていた。
サユリは徐に立ち上がると、俯きながら座っている悠一に抱きついた。
「悠一さん、私はあなたからたくさんの幸せな時間をもらいました。たくさん聞けた植物の話も、研究の話も……とても興味深いものばかりでした。もっと、聞きたかった……。
そして、それを語る悠一さんの顔も大好きでした。笑う顔も、真面目な顔も、もっと見たかった。
いろんなところにも行きたかったです。本当に自生している植物を現地まで見にいったり、そこでお泊りしたりしたかった……。
……初めて会った時、植物に対する深い愛、優しさを向ける眼差しに私は惹かれた。そして悠一さんの優しさを、私は愛した。愛し愛された私は本当に、ほんとうに幸せでした」
悠一も、サユリを抱きしめた。目からは意図せず涙がこぼれ落ちた。
「あぁ、サユリさん。僕も、……」
『幸せだった』という言葉は、悠一の喉からどうしても出てこようとはしなかった。
数秒、沈黙が続いた。2人の鼓動は共鳴していた。何度も何度も、2人の温かさを確かめ合ったような瞬間だった。
お互いの手が解けた。
「もう、お別れですね」
そう言うと、そっとサユリは離れて行った。悠一も立ち上がり、入り口まで見送った。
サユリはドアを開けた。ドアの先はもう秋の気配を消して冬が訪れそうな奇妙な気候だった。ドアから入ってきた風がヒンヤリとしていて、2人がさっき感じあった温もりを、すんなりと奪っていくかのような寒さに悠一は襲われた。
振り返って、サユリは悠一の顔を見つめた。哀しい目をしていた。
いくな!!
……なんて言えばものすごく楽になれるのだろうな。
そんな言い訳をしないといけないほど、僕はちっぽけなプライドだけを彼女の前で守り続けた。
ガッチャ……
サユリの背中を隠すようにドアが閉まり、研究室にはドアの溜息が響き渡った。