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量子力学

作者: 立石和文

 大学生の時、物理学を専攻していた。大学院にも進学したが、修士課程の2回生の時に中退してしまった。理由は挫折である。研究者になりたかったが、才能がなかったのである。物理学、特に理論物理は、オリジナルの研究ができるようになるまでは長いこと勉強しなければならない。学部の4年間、修士課程の2年間、博士課程の3年間に加えて、ポスドクになってからも5年間くらいは勉強が必要だろうと言われている。合わせて14年もの長い間、人生で最も楽しい青春の貴重な時間を、そのために捧げなければならないのである。しかも、研究の成果が挙げられるかどうかは、全く保証されていない。東大や京大やもしくは地方の国立大でもその分野でよほどの権威ある研究室に所属しているか、あるいはヨーロッパやアメリカの有名な大学に留学しているか、若しくは物理が好きで好きでしょうがないかでないと、とても続けられるものではない。自分はそのどれにもなれなかったが、今にしてみればそもそも、物理学の研究者という肩書きのみに魅力を感じていた軽薄な若者に過ぎなかったと言える。

 量子力学は、学部の3回生の時にはじめて講義で扱われる。学生にとっては憧れの学問への最初の接触であると同時に、一つの大きな壁が立ちはだかるのを感じるはずである。それは、それまでに学んだ古典力学の理解では到底及ばない極めて抽象的な思考が要求されるからである。あらゆる条件下における微分方程式の解法を学ぶというのが、この学問の最初のステップなのであるが、この数学の問題がいささか煩わしく、物理学の理論を学ぶというよりは、ひたすら数学のトレーニングに励まされることになるのである。それは10代の時に思い描いた、難解で哲学的な問題に全身全霊を持って打ち込むといったロマンチックな想像とはまるで別物である。しかし、それこそが実際に理論物理学を学ぶということなのである。19歳の頃から3〜4年ほどのことではあるが、あらゆる誘惑を自ら遠くに追いやり、ひたすら思い詰め、拗らせに拗らせた当時の自分には、もはやそれを乗り越えるだけの余力は残っていなかった。加えて、ちょうど同じタイミングで、自分は女を知ってしまった。これはもはや運命であったと言える。物理学から手を引くべき運命である。自分にとって量子力学は、若さの全てを捧げた青春を終わらせた元凶であるが、逆に考えると自分の目を覚ましてくれた救いの神であったとも言える。

 それ以降、自分は自分に対して嘘をつかなくなった。職を転々とし非正規や無職の期間もあったが、今は正社員として勤め始めて8年目になる。恋愛にはなかなか縁がなかったがどうにか結婚して娘にも恵まれた。量子力学と共に自分の青春を終わらせた女が今どうしているのかは、ひどい別れ方をしたので全くわからない。もしどこかで会うことがあれば感謝の気持ちを伝えられたらと思う。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 挫折というなの正しい選択を、正しかったと実感することの難しさを考えさせる作品でした。 異性ってのはそういう時に重要だったりしますよねえ。
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