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「天才」 第三部 背反  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第27章~最終章

第二十七章



約二か月後に、アンジェラにとっての大きな出来事が起きたのは、ユージンがこの状態のときだったので、彼は必然的に関与せざるを得なかった。アンジェラは、モーニングサイド・ハイツの大聖堂の敷地を見下ろす、小ぢんまりとした衛生管理の行き届いた部屋で、自分の運命はどうなるのかを毎時間考えていた。去年の夏苦しんだひどいリューマチから完全に回復しておらず、それ以来の心労が祟り、現在の状態は発病こそしていないが、顔色が悪く、弱っていた。往診産科医長のドクター・ランバートは、痩せた六十五歳の男性で、頬まで白髪が混じったカールした白髪頭で、こぶのある大きな鼻と、鋭いグレイの目が、彼をこの地位に就かせた活動気と洞察力と能力を物語っていた。彼には彼女が、献身的な態度で人生を送る平凡で忍耐強い小さな女性の一人に見えたので、ほんのちょっぴり軽い気持ちでアンジェラに好感を持った。深刻で、知らない人でもはっきりわかるほどの状態なのに、きびきびした実務的な明るい彼女の性格を好きになったのだ。落ち込んだり喧嘩をしていないとき、アンジェラはもともと明るい陽気な顔をしていた。これは、気の利いた賢いことが言える彼女の能力を示す外見的な特徴だった。彼女は、自分がどんな状況にあろうと、身の回りのことが効率的、知的に処理されてほしい願望を決して失ったことがなかった。看護婦のミス・ド・セールは、三十五歳の、しっかりした、粘液質な人で、アンジェラの気力と勇気を称賛した。非常に深刻な状況だったにもかかわらず、明るく、軽快で、希望に満ちていたので彼女にとても好感を持った。外科部長、研修医、看護婦の大まかな印象は、心臓が弱っていて、腎臓が彼女の状態に影響されているかもしれないというものだった。アンジェラはマートルと話してから、どういうわけか、全然信じてもいなかったくせに、実践士に説明されたように、クリスチャン・サイエンスなら自分がこの危機を乗り越えるのを助けてくれるかもしれないと結論づけた。ユージンが来てくれるとも思った。というのも、マートルがそれとなく彼の相談に乗るうちにユージンがその本を読もうとしていると言ったからだ。赤ん坊が生まれれば、二人は仲直りするだろう……だって……だって……そう、子供はとても魅力的なのだから! ユージンは本当は薄情ではなかった……ただのぼせ上がっただけだった。妖婦にひっかかったのだ。やがて乗り越えてくれるだろう。


ミス・ド・セールが髪をグレッチェン風の三つ編みにして、大きなピンクのリボンを結んでくれた。状態がさらに悪化したので、アンジェラは一番軽いモーニング・ガウンしか与えられなかった……柔らかくて着心地のいいものを着て、将来のことを現実的に考えながら座っていた。 痩せて美しく整ったスタイルから、むくんだ何だか不格好なものに変わってしまったが、彼女は悪い状況を最大限に活用した。ユージンはその姿を見てかわいそうになった。もう冬も終わりで、窓の外では雪が派手にというか激しく舞い、向かいの公園の地面は雪で真っ白だった。モーニングサイドのアッパー側を縁取るように、葉のないポプラ並木が見えた。アンジェラは冷静で、忍耐強く、希望に満ちていた。一方で、年配の産科医が研修医に重々しく首を振った。


「とても慎重にやらないといけないな。実際の出産は私が自ら担当する。きみは患者に体力をつけられないか確認してくれ。胎児の頭が小さいことを願うしかない」


アンジェラの小ささと勇気が彼の心を打った。とても多くの症例を扱ってきたが、このときばかりは本当に悲観するしかなかった。


研修医は指示に従った。アンジェラは特別に用意された食事と飲み物を与えられ、頻繁に食事をとらされ、絶対安静にさせられた。


「心臓が」研修医は指導医に報告した。「思わしくありません。弱っていて安定しません。軽い障害があるんだと思います」


「最善に期待するしかないな」指導医は真剣に言った。「麻酔なしでやってみよう」


特殊な精神状態にあったユージンには、このすべての悲哀が理解できなかった。気質的にも感情的にも避けられたのだ。看護婦と研修医は、彼が妻を心から大切にしていることを考えはしたが、彼には警告しないことにした。ユージンにショックを与えたくなかったのだ。彼は、出産に立ち会ってもいいかと何度か尋ねたが、危険でありつらい思いをする、と告げられた。看護婦はアンジェラに、離れたところで待機しているように彼に勧めた方がいいのではないかと尋ねた。アンジェラはそうしたが、ユージンは遠ざけられたにもかかわらず、アンジェラが自分を必要としていると感じた。それに、彼には好奇心があった。自分が近くにいた方がアンジェラはもっと辛抱できるようになる思ったし、試練が近づいている今になってようやく、状況がどれほど絶望的であるかを理解し、自分が力になるのは当然だと思い始めていた。彼女の小ささにあった昔の哀れな魅力が多少彼によみがえりつつあった。アンジェラはもたないかもしれない。ものすごく苦しむに違いない。アンジェラには彼に対する悪意は全然なかった……ただ彼をつなぎとめたかったのだ。ああ、この世で右往左往する感情は苦しく哀れなものだ。どうしてこんなにもつれなければならないのだろう?


いよいよその時が来た。アンジェラは激しい痛みに苦しみ始めていた。生まれてくる生命を筋肉と靭帯の揺りかごに縛り付けていた母親になるためのすばらしいプロセスがほぼ完了して、今度は別の方向へと動かすために、一定の方向の動きを緩めていた。アンジェラは時々靭帯を痛めてひどく苦しんだ。両手は必死に握りしめられ、顔は死にそうなほど青ざめ、泣き叫んだ。ユージンはこういう場に何度か彼女と一緒にいて、この偉大な生殖の仕組みの微妙さと恐ろしさを自分の意識にしっかり叩き込んだ。これは、この命がけの計画を継続させるために、すべての女性を墓の入口まで連れて行くものだった。これは嘘であり、幻想であり、神の理性的意識の預かり知らぬ恐ろしい発作性の熱病である、というクリスチャン・サイエンスの指導者たちの主張には一理あるかもしれない、とユージンは考え始めた。ある日、彼は図書館に行って、産科に関する本を手に取った。それは手術による分娩の原則と実践を扱う本だった。彼はそこで、子宮内でさまざまな姿勢をとる胎児がとても丁寧に描かれたたくさんの絵を見た……胎児がとることができる、すべての奇妙で変わった花のような姿勢は、それ自体の上に折り重なって、できかかった小さな花びらのようだった。実用書でありながら、絵は魅力的で、その中には美しいものもあった。これらは彼の想像力をかき立てて、生まれてくる赤ちゃんを完璧に説明していた。しかし、とても小さくて、頭は今こっちかと思えば次はあっちにあり、小さな腕は思いがけない場所でねじれていたが、いつも楽しく思わせぶりに魅力を振りまいていた。その本のあちこちを読むうちに、大きな問題は頭……頭を出すこと……だと学んだ。その他に産科医に立ちはだかる問題は本当になさそうだった。それはどのように取り出されるのだろう? 頭が大きかったり、高齢出産だったり、腹壁が締まっていたり硬かったりすると、自然分娩はできないかもしれない。章の全部を開頭や砕頭に使っていた。これはわかりやすく言うと器具で頭をつぶすことである……。


ある章が帝王切開にさかれていた。その途方もない難しさの解説があり、社会にとっての相対的価値が簡単に述べられて、母親を救うために子供を殺すか、子供を救うために母親を殺すか、の倫理的な長い論考があった。これについて考えるなら……外科医はこの重大な瞬間に、裁判官と死刑執行人の席に座っているのである! ああ、ここは、けちな法律が治める日常の延長ではないのだ。ここで話は、エディ夫人が唱える人間の良心は、心の中だけの映像である、に戻った。もし神が善であったなら、神はそれを通して語るだろう……神はそれを通して語っていた。この外科医は最高の道徳律のあの最も奥の意識に言及した。これは、この恐ろしい時間に実践士を導くことができる唯一のものだった。


それから話は、必要機材と所要人数、助手(二名)、看護婦(四名)、包帯、針、絹糸、腸線、メス、クランプ、拡張器、ゴム手袋の種類に及び、いつ、どこで、どのように切開されるか、の説明があった。ユージンは怖くなって本を閉じた。立ち上がって外の空気にあたりに行った。アンジェラのところに急いで行きたい気持ちが彼を駆り立てていた。彼女が弱っていることは知っていた。彼女は心臓の不調を訴えていた。筋肉だって硬くなっていたかもしれない。こういう問題が、このうちのどれかひとつでも、彼女に影響するとしたら。彼はアンジェラに死んでほしくなかった。


口に出したことはあった……確かに、しかし彼は人殺しにはなりたくなかった。断じてご免だった! アンジェラはずっとユージンに親切でいてくれた。ユージンのために働いてくれた。ああ、なのに、彼女は彼のことで過去に実際に苦しんだのだ。彼はアンジェラにひどい仕打ちをした、とてもひどい仕打ちだ。そして今、彼女は自分の哀れで無力なやり方で、自分の身をこの恐ろしい立場に置いたのだ。これは彼女の落ち度だった。確かにそうだった。彼女はいつも彼の意志に反して彼を拘束しようとしていたが、だからといって彼は本当に彼女を責めることができただろうか? 彼女が彼に自分を愛してほしがることは、犯罪ではなかった。彼らはただ相手を間違えただけだった。彼は優しくあろうと努力して彼女と結婚したが、優しかったことがまったくなかった。それはただ、彼と彼女に不安と不満と不幸をもたらしただけだった。そして今度はこの……痛み、心臓機能の低下、腎臓疾患、帝王切開を経てのこの死の危険。彼女がこういうものに耐えられるはずはなかった。これについて話しても無駄だった。彼女には十分な強さがなかった……年をとりすぎていた。


ユージンは、クリスチャン・サイエンスの実践士のことを、どうすれば彼らがアンジェラを救えるかを……手術をしない方法を知っていそうな高名な外科医のことを……考えた。どうすればいい? どうすればいいんだ? もしクリスチャン・サイエンスの人たちが、こういうことを通して彼女のこと「考える」ことができさえしたなら……彼が後悔することはなかっただろう。彼自身のためではなくても、アンジェラのために彼は喜んだだろう。スザンヌをあきらめてもいい……それでもいいい……それでもいい。ああ、どうして今、そんな考えが、彼の頭に入ってこなければならないのだろう?


ユージンが病院に着いたのは午後三時だった。午前中もしばらくそこにいたが、そのときアンジェラは割と元気だった。彼女はかなり悪化していた。訴えていた脇腹の突っ張った痛みがさらに悪化し、顔は紅潮と蒼白を繰り返し、時々少し痙攣した。マートルがそこで彼女と話していた。どうしたらいいだろう……自分に何ができるだろう……と考えながらユージンは突っ立っておろおろしていた。アンジェラは彼の心配を見て取った。自分の状態をよそに、彼を不憫に思った。このことで彼がつらい思いをするのを彼女は知っていた。なぜなら、彼は非情ではなかったからだ。そしてこれは彼の軟化の最初の兆候だった。もしかしたら正気になって完全に態度を改めるかもしれないと思いながら、アンジェラは彼に微笑みかけた。すべてうまくいくわよ、と言ってマートルはアンジェラを励ましつづけた。看護婦は彼女と入ってきた病院詰めの医師に順調にいってますと告げた。彼は鋭い不審そうな目をした二十八歳の若い男性で、砂色の髪と赤らんだ顔色からは闘争心が旺盛な性格がうかがえた。


「陣痛はありませんか?」医師はきれいに二列に並んだ輝く白い歯を見せながら、アンジェラに微笑んで尋ねた。


「痛みの種類まではわかりませんけど、先生」アンジェラは答えた。「あらゆる種類の痛みがあります」


「それもじきにわかりますよ」医師は冗談めかして明るく答えた。「他のどの痛みとも違いますから」


医師は立ち去り、ユージンは後を追った。


「彼女はどうなっているんですか?」二人が廊下に出たところでユージンは尋ねた。


「まあ、状況の割には順調です。彼女はあまり強くありませんからね、ご存知でしょうが。私は順調にいくと思ってます。もう少ししたら、ランバート先生がいらっしゃいますから、先生とお話しになった方がいいでしょう」


研修医は嘘をつきたくなかった。彼は、ユージンは知らされるべきだと考えた。ドクター・ランバートも同意見だったが、彼は最後まで、ほぼ正確に判断できるまで待ちたかった。


彼は五時に来た。すでに外は暗かった。そして真剣な優しい目でアンジェラを見た。脈をとり、聴診器で心音を聞いた。


「私は大丈夫なんでしょうか、先生?」アンジェラは、か細い声で尋ねた。


「大丈夫、大丈夫ですって」ドクターは穏やかに答えた。「小さな女性にも大きな勇気があるんです」と彼女の手をなでた。


彼は外に出た。ユージンは後を追った。


「先生」ユージンは数か月ぶりに、失った財産とスザンヌ以外のことを考えていた。


「あなたにはお伝えした方がいいと思います、ウィトラさん」年配の外科医は言った。「奥さんは深刻な状態です。私はあなたに余計な心配をさせたくありません……すべてがとてもうまくいくことだってあるかもしれませんからね。そうならないと確信するほどの確かな根拠はないんです。奥さんはかなりの高齢出産です。筋肉だって固い。奥さんの場合、まず恐れなければならないのは、腎臓に何か厄介な合併症があることです。あの年齢の女性は、いつも頭部を出すのが大変なんですよ。胎児を犠牲にする必要があるかもしれません。確信は持てません。帝王切開は考えたくもありませんね。めったに行われませんし、必ずしも成功するとは限りません。とれる処置はすべてとられます。あなたには状況を理解しておいてほしいのです。重大な対応が取られる前に、あなたの同意が求められますから。ですが、その時がきたら、決断は迅速に下されなくてはなりません」


「先生、私の決断でしたら今すぐにでもお伝えできます」ユージンは事態の深刻さを十分に理解しながら言った。このとき、かつての力と威厳が回復した。「とれるのであれば、先生にとることができるあらゆる手段をとっていただいて妻の命を救ってください。他に望みはありません」


「ありがとう」外科医は言った。「最善を尽くします」


その後、アンジェラのそばに座って、人間が耐えられるとは絶対に夢にも思わないほどの痛みを、彼女が耐えるのを、ユージンが見守る数時間があった。彼は、彼女がただ緊張をゆるめて、赤くなって、実際に叫ぶことなくうめくだけのために、何度も体を硬直させては、顔色を失い、額に汗を浮かべる様子を見守った。こういうのも変だが、アンジェラはちょっと具合が悪いといちいち泣きごとを言う彼のような赤ん坊ではなく、ものすごい我慢とものすごい忍耐とを同時にするための力を彼女に与えてくれる、何かの偉大な創造的力を代表しているのだと彼には見えた。彼女はもう微笑むことさえできなかった。そんなことは不可能だった。彼女は途切れることのない、驚異的な、苦しみの渦の中にいた。マートルは夕食をとりに家に帰ったが、また戻って来ると約束していた。ミス・ド・セールが看護婦をもう一人連れて来た。ユージンが部屋を出ている間に、アンジェラは最後の試練のための準備を整えた。普通の背中の開いた病院のスリップと白いリネンのレギンスを着せられた。ドクター・ランバートの指示で、最上階の手術室に手術台が用意され、必要があれば彼女を運び出せるように、ドアの外にキャスターつき手術台が待機させられた。看護婦がよく理解している、本物の陣痛の最初の兆候があったら、呼ぶようにと言い残してあった。研修医が直接担当することになった。


ユージンはこの最後の時間に、このすべての悲劇が処理される機械的で、実務的で、事務的な対応を不思議に思った……この病院は女性でいっぱいだった。ミス・ド・セールは、笑顔を絶やさず、アンジェラのために時々枕を変え、乱れた寝具を整え、窓のカーテンを調節し、ドレッサーに取り付けられた鏡の前かクローゼットの扉に設置された鏡の前で自分のレースの帽子やエプロンを直し、他の数え切れないほどの小さなことをしながら冷静に自分の職務を遂行した。彼女は、ユージンや付き添っているときのマートルの緊張した態度にはまったく関心を示さず、他の看護師たちとお喋りしたり、冗談を言ったり、自分がやらなくてはならないことを何でもまったく動じないでやりながら、出たり入ったりした。


「この痛みを和らげるためにできることは何もないんですか?」ある時ユージンは疲れた様子で尋ねた。彼の神経までずたずただった。「妻はあれには耐えられませんよ。体力がないんですから」


看護婦は穏やかに首を振った。「誰であってもできることはありません。鎮静剤を投与することができないんです。進捗をとめてしまいますから。ただ耐えなくてはならないんです。すべての女性がすることです」


「すべての女性か」ユージンは思った。何てことだ! すべての女性は子供が産まれるたびにこんな苦しみを経験するのだろうか? 今、この地球上には二十億の人間がいる。こういう場面が二十億回もあったのだろうか? 自分もこの道をたどったのだろうか……アンジェラも? すべての子供も? アンジェラは何というひどい間違いをしたのだろう……しなくてもいい、愚かなことを。しかし、今さらこんなことをあれこれ考えても手遅れだった。アンジェラは苦しんでいた。もがき苦しんでいた。


しばらくしてから、研修医がアンジェラの様子を見に戻ってきたが、まったく心配していないようだった。それどころか、そばに立っていたド・セール看護婦を安心させるようにうなづいてみせた。「順調にいっていると思う」彼は言った。


「そのようですね」看護婦は答えた。


どうしてそんなことが言えるのだろう、ユージンは不思議がった。アンジェラはひどく苦しんでいるのに。


「僕は一時間ほどA棟に行っていますから」医師は言った。「もし何か変わったことがあったら、そっちで僕をつかまえてください」


「これ以上悪化したら、どうなるのだろう?」ユージンは自分に問いかけ、本で見た解説図について考えていた……アンジェラはそこに示された恐ろしい機械的な方法で助けられなくてはならないのだろうか。本の絵は、その後に続くかもしれない命にかかわる可能性をユージンに示していた。


真夜中ごろ、ユージンが苦悶の同情の中で待ち続けた、予想された変化があった。マートルは戻って来なかった。彼女はユージンからの連絡を待っていた。アンジェラはそれまで、うめき声をあげ、時々体を強張らせ、目的も不幸のやり場もなく体をねじらせていたかと思えば、今度は跳ね上がって、まるで気絶したかのようにぐったりした様子だった。その動きに伴って悲鳴が上がり、それから何度も続いた。ユージンはドアに駆け寄った。しかし、そこには彼に会いに来た看護婦がいた。


「ここにいます」看護婦は静かに言って、外の電話のところに行き、ドクター・ウィルレッツを呼んだ。どこか別の部屋から二人目の看護婦がやってきて、彼女の横に立った。アンジェラの顔の靭帯が節くれ立ち、血管が腫れ、紫色になっていたにもかかわらず、彼女たちは落ち着いていた。ユージンにはそれが到底信じられなかったが、精一杯努力して平静を装った。そう、これが出産なのだ! 


すぐにドクター・ウィルレッツが現れた。彼もまた、落ち着いていて、きびきびと仕事に向き合い、張り切っていた。黒いスーツと白いリネンのジャケットを着ていたが、それを脱ぎ脱ぎ部屋を出ると、袖をまくり上げて、肉屋がつけているのをユージンが見たことがあるような、長くて白いエプロンに体を包んで戻ってきた。彼はアンジェラのところへ行き、ユージンには聞こえなかったが、彼の横にいた看護婦に何かを言いながら、一緒に作業にかかった。ユージンは見ることができなかった……最初は見る勇気がなかった。


発作的な悲鳴の四、五回目で、二人目の医師が現れた。ウィルレッツと同年代の若者が、同じ格好で、彼の横に陣取った。ユージンはこれまで彼を見たことがなかった。「鉗子を使うことになりますか?」彼は尋ねた。


「僕からは言えない」相手は言った。「ランバート先生が自ら担当しておられますから。もう現れてもいい頃なんですがね」


廊下で足音がして、上級医だか産科医が入って来た。大きなコートと毛皮の手袋は下の廊下で脱ぎ終わっていた。外出着姿だったが、アンジェラを見て、胸部とこめかみを触ってから、外に出て、他の医師と同じようにコートをエプロンに着替えた。袖はまくり上げられたが、すぐに何かをするわけではなく、手が血まみれになった研修医をただ見守っていた。


「クロロホルムを投与できないのですか?」ユージンはド・セール看護婦に尋ねた。彼には誰も注意を払っていなかった。


彼女はほとんど聞いていなかったが、首を振った。とても遠い存在の上司であるこの医師たちにつきっきりで補佐するのに忙しかった。


「部屋の外にいることをお勧めします」ドクター・ランバートはユージンに近づきながら言った。「ここにあなたにできることは何もありません。何の助けにもならないでしょう。あなたは邪魔かもしれない」


ユージンはその場を離れたが、悶々としながら廊下を行き来するだけだった。彼とアンジェラとの間に起きたすべてのこと……その歳月……奮闘の数々……を思い浮かべた。ふと、マートルのことを考え、呼び出すことにした……彼女はそこにいたがっていた。そして、すぐに呼ばないことに決めた。彼女は何もできなかったからだ。それからクリスチャン・サイエンスの実践士のことを考えた。マートルなら彼女に頼んでアンジェラに遠隔処置を施せるかもしれない。何でもいい、何でもいい……アンジェラがこんなに苦しむのが、残念でならなかった。


「マートル」相手が出ると電話越しに神経質に言った。「ユージンだけどさ。アンジェラがものすごく苦しんでるんだ。お産が始まったんだ。ジョンズさんに助けてもらえないかな? ひどいことになってるんだ!」


「わかったわ、ユージン。すぐに行くわ。心配しないで」


ユージンは受話器を掛けて、再び廊下を行き来した。くぐもった声が聞こえた……くぐもった叫び声が聞こえた。ミス・デ・セールではない看護婦が出てきて手術台を運び入れた。


「手術をするんですか?」ユージンは興奮して尋ねた。「僕はウィトラです」


「そうではないと思いますけど、私にはわかりません。必要な場合に備えて、ランバート先生は患者を手術室へ運ばせたいのでしょう」


しばらくして医師たちはアンジェラを台に乗せて運び出し、上の階へ行くエレベーターに乗せた。移動中は、アンジェラの顔が少し覆い隠された。周囲にいた人たちのせいで、彼女の様子はユージンにはわからなかったが、彼女が動かないので彼は気になった。看護婦が一時的に極微量……もし手術が必要になっても影響しない程度……の鎮静剤が投与されたことを教えてくれた。ユージンは無言で立ち尽くし、恐怖に怯えた。手術室の外の廊下に立ち、中に入るのを半分怖がっていた。外科部長の警告がよみがえった。いずれにせよ、彼が何の役に立てただろう? ユージンは思案にくれながら、目の前の薄暗い廊下をずっと先まで歩き、雪しかない外の空間を眺めた。遠くでは、照明の灯る長い列車が、金色の蛇のように高い架台を曲がって進んでいた。雪の中には、クラクションを鳴らしている車と、苦労して進む歩行者がいた。人生は何て込み入っているんだと彼は思った。悲しいかな、彼は少し前までここでアンジェラが死ぬのを願っていた。なのに今は……全能の神よ、あれは彼女がうめいている声だ! 彼は自分の邪悪な考えのために罰せられるだろう……そう、処罰されるのだ。彼の罪が、今までのひどい行為のすべてが、彼のところに戻ってきているのだ。それらが今、彼のところへ戻ってきているところだった。彼のこれまでの人生は、何という悲劇だったのだ! 何という失敗だったのだ! 熱い涙が目にあふれて、下唇が震えた。これは自分のためではなく、アンジェラのためだった。突然、改悛の情がこみあげた。彼はそれをすべて押し戻した。いや、断じて、泣くまい! 涙が何の役に立つのか? 彼の痛みはアンジェラのことが後ろめたいからであり、今さら泣いてもアンジェラの助けにならなかった。


スザンヌのことが頭に浮かんだ……デイル夫人やコルファックスも浮かんだ。しかし彼はそれを締め出した。もし彼らが今、彼を見たらどう思うだろう! そのとき、またくぐもった悲鳴がした。彼は足早に歩いて引き返した。これには耐えられなかった。


しかし中には入らなかった。その代わりに、喉鳴りだか窒息のような音を聞きながらじっと耳をすませた。これはアンジェラのものだろうか? 


「低位鉗子」……ドクター・ランバートの声がした。


「高位鉗子」これも彼の声だった。膿盆(のうぼん)に金属が当たったような音がした。


「残念だが、この方法では無理だ」再びドクター・ランバートの声がした。「手術しなければならない。これもやりたくはないのだがな」


看護婦が出てきて、ユージンが近くにいるかどうかを確認し「待合室に入った方がいいですよ、ウィトラさん」と注意を促した。「すぐに先生が彼女を運び出すでしょうから。もう長くはかからないでしょう」


「いや」彼は突然言った。「自分で確かめたい」ユージンは手術室に入った。アンジェラは部屋の中央にある手術台に横になっていた。彼女の頭上で電球六つのシャンデリアが光っていた。アンジェラの頭側でドクター・ウィルレッツが麻酔をかけていた。右側にはドクター・ランバートがいた。両手に血まみれのゴム手袋をはめて、ユージンに全然気づかずに、メスを握っていた。二人の看護婦のうちの一人がアンジェラの足もとにいて、メス、膿盆、水、スポンジ、包帯が並ぶ小さな台で役目を果たしていた。台の左側にはミス・デ・セールがいて、両手でアンジェラの体の横に布を数枚当てていた。彼女の横、ドクター・ランバートの向かい側に、ユージンの知らない別の外科医がいた。アンジェラは荒い呼吸をしていて、意識がなさそうだった。顔は布とゴムのマウスピースだか円錐形の器具で覆われていた。ユージンは爪を手のひらに食い込ませた。


結局、手術をしなければならないのか、と思った。アンジェラはそれほど悪いのだ。帝王切開。胎児を殺して母体から取り出すことさえできなかったのだ。記録された症例の七十五パーセントが成功したと本にはあったが、記録されなかった症例はどれくらいあるのだろう。ドクター・ランバートは優秀な外科医だろうか? アンジェラは麻酔に耐えられるだろうか……彼女の弱い心臓で? 


ドクター・ランバートが素早く手を洗う間、ユージンはそこに突っ立ってこの不思議な光景を見ていた。彼は医師が小さなぴかぴかの鋼鉄のメスを手に取るのを見た……磨かれた銀のように明るかった。この老人の手はゴム手袋に包まれていて、照明の下だと青みを帯びた白に見えた。アンジェラの露出した体はロウソクの色をしていた。医師は彼女を覆うように体をかがめた。


「できる限り、彼女に普通の呼吸を続けさせて」と彼は若い医師に言った。「目を覚ましたら麻酔を投与して。先生、動脈には気をつけた方がいいぞ」


彼はどうやら腹部の中心の少し下を軽く切ったようだった。刃が触れたところから、血が少し流れ出るのが見えた。大きく切ったようには見えなかった。看護婦は血が流れるのと同じはやさで、スポンジで血を拭き取った。もう一度切ると、腹部の筋肉の下にあって腸を保護している膜が、視界に飛び込んで来たように見えた。


「あまり切り過ぎたくはないな」外科医は冷静に言った……まるで自分に向かって言っているようだった。「こういう腸は手に負えなくなりがちなんだ。その端を持ち上げてくれないか、先生。それでいい。スポンジだ、ウッドさん。さてと、ここが十分に切れるといいんだが」……まじめな大工か家具職人のように再びメスを入れた。


彼は持っていたメスを、ウッド看護婦の水の入った容器に落とした。看護婦が絶えずスポンジで拭っていた出血中の傷口に手を伸ばして、何かを露出させた。一体何だろう? ユージンの心臓がドキッとした。今度は中指をその中の奥に伸ばし……次に人差し指と中指を伸ばして言った。「足が見つからない。どれどれ。おお、あったぞ。よし、ここにあった!」


「頭を少しそっちに動かしてもいいですか、先生?」話しているのは、彼の左側の若い医師だった。


「慎重に! 慎重にな! 尾骨のところで下に曲がっているんだ。だが、ようやく見つけたぞ。ゆっくりとだ、先生、胎盤に気をつけてな」


切り口から血がしたたり落ちているこの恐ろしい空洞から、何かが出て来るところだった。奇妙な小さな足と胴体と頭だった。


「神さまが決めたとおりにしよう」ユージンは再び目をうるうるさせながら自分に言い聞かせた。


「胎盤だ、先生。腹膜に気をつけてね、ウッドさん。ちゃんと生きているな。脈はどうだ、デ・セールさん?」


「少し弱いですね、先生」


「麻酔を減らして。さて、とりあえずうまくいったぞ! そっちも元に戻すとしよう。スポンジ。これは後で縫わなくてはならないな、ウィルレッツ。これがひとりでに治るとは思わない。外科医なら治ると思うだろうが、私は彼女の回復力を信じてないんだ。とにかく三、四針は縫っておこう」


彼らは、大工や、家具職人や、電気技師のように働いていた。アンジェラが人体模型だったとしても、彼らは気にしなさそうだった。それでも、ここには緊張感があった。ゆっくり確実な動作の中に、すごい慌ただしさがあった。「慌てないで早くやれ」という古い言葉がユージンの頭に浮かんだ。これがすべて夢で……悪夢で……あったかのようにユージンはじっと見つめた。レンブラントの『夜警』のような名画だったのかもしれない。彼が知らなかった若い医師が、紫色の物体の足をつかんで高く掲げていた。まるで皮を剥がされたウサギだった。しかしユージンの怯えた目は、それが自分の子供……アンジェラの子供……このすべての恐ろしい争いと苦しみに関係するもの……だと気がついた。それは変な色をした信じがたいもの、神話、怪物だった。ユージンは自分の目が到底信じられなかった。それでも、医師はじろじろとそれを見ながら、手で背中を叩いていた。その同じ瞬間に、かすかな泣き声がした……泣き声でない……ただのかすかな変な音だった。


「恐ろしく小さいな。でも何とかなるだろう」これは、ドクター・ ウィレッツが赤ん坊について話していたことだった。アンジェラの赤ちゃん。それが今、看護婦の手に渡った。医師たちが切っていたのはアンジェラの体だった。彼らが縫合しているのはアンジェラの傷だった。これは現実ではない。悪夢だ。ユージンは正気を失い、霊にとりつかれて混乱していた。


「どうやら、先生、もちそうだね。毛布を頼む、デ・セールさん。もう彼女を運んでもいいよ」


彼らはアンジェラにたくさんのことを行っていた。包帯を巻いて、口から円錐形の器具を取り外し、体を仰向けにし、彼女を洗う準備を整えて、身柄を搬送台へ移動させて運び出した。その間も、アンジェラは麻酔で意識を失ったままうめき声をあげた。


ユージンは、この聞いていて気分が悪なる荒い息遣いに耐えられなかった。彼女の口から出るのは何とも奇妙な音だった……まるで彼女の無意識の魂が泣いているかのようだった。そして子供も元気よく泣いていた。


「ああ、神さま、何という人生なんだ、何という人生なんですか!」彼は思った。物事がこんなふうに進まなければならないなんて。死、切開! 意識不明! 苦痛! 彼女は生きられるだろうか? どうなのだろう? もうユージンは父親だった。


振り向くと、看護婦がいて、白いガーゼの毛布だかクッションの上で小さな女の子をおさえていた。赤ん坊に何かをしていた……オイルを塗っていた。その子は他の赤ん坊と同じように今はピンク色だった。


「そう悪くはないでしょ?」彼女は慰めるように尋ねた。ユージンに日常の感覚を取り戻してほしかったのだ。彼はかなり取り乱しているように見えた。


ユージンはそれを見つめた。奇妙な感覚が彼を襲った。何かが頭からつま先まで体を上り下りして、彼に何かをしていた。それは不安をあおり、くすぐり、つねる感覚だった。彼はその子に触った。その手と顔を見た。アンジェラに似ていた。確かに、似ていた。それは彼の子供だった。それは彼女の子供だった。彼女はもつのだろうか? 彼はもっと元気になるのだろうか? ああ、神よ、今の彼にこれを突きつけるなんて。それでもそれは彼の子供だった。彼に何ができただろう? かわいそうな小さなもの。もしアンジェラが死んだら……もしアンジェラが死んだら、彼にはこれがあるだけで他には何もなかった。アンジェラの長い劇的な奮闘から生じたこの小さな女の子だけだった。もし彼女が死んだら、これは彼に何をするために現れたのだろう? 導くためか? 強くするためか? 変えるためか? 彼にはわからなかった。ただ、どういうわけか、知らないうちに、これは彼を魅了し始めていた。これは嵐の子供だった。そして、アンジェラは、今は彼のすぐ近くにいるが……この先、生きてこの子を目にすることがあるだろうか? そこで、意識と感覚を失い、ひどい切り傷を負った状態でいた。ドクター・ランバートは立ち去る前に、最後に彼女の様子を見ていた。


「先生、アンジェラはもつのでしょうか?」ユージンは興奮してこの立派な外科医に尋ねた。医者はむずかしい顔をしていた。


「何とも言えません。言えないんですよ。本来あるべき体力がないし、心臓と腎臓の連携まで悪いときている。しかし、あれは最後のチャンスだった。私たちはそれを活かさなければならなかった。残念なことです。子供を救うことができたのはよかった。奥さんの看護には看護婦が最善を尽くしますからね」


彼は労働者が自分の仕事を終えて帰るように、自分の現実世界へと出ていった。私たちみんながそうするように。ユージンはアンジェラのところに行ってそばに立った。この事態を招いた長い不信の歳月をものすごく後悔していた。彼は自分を、人生を……それを変にもつれさせたことを、恥じていた。アンジェラはとても小さく、とても顔色が悪く、とてもやつれていた。そう、彼がこれをやったのだ。彼は自分の嘘と、移り気と、気まぐれな性格とで彼女をここまで連れてきたのだ。ある見方をすれば、これはまさに殺人だった。最後のときまで彼ほとんど心を開かなかった。しかし人生はユージンにもいろいろなことをしてきていた。今度という今度は……ああ、地獄だ、ああ、畜生! アンジェラが回復さえすれば、彼は改心しようと努力するだろう。確かに、彼はそうするだろう。これが彼から出てくるととても馬鹿げて聞こえた。しかし彼はそうするつもりだった。愛は代償に苦悩を求めるがそれに見合うだけの価値はなかった。放っておけ。そんなものは放っておくのだ。彼は生きていける。アルフレッド・ラッセル・ウォレスが指摘したように、階級制度や権力は確かに存在する。神はどこかに存在する。神はその玉座にいるのた。この大きな、暗い、不変の力、これらは伊達に存在しているわけではない。もしアンジェラさえ死ななかったら、彼は努力するつもりだった……態度を改めるつもりだった。必ず! 必ず! 


ユージンはアンジェラをじっと見つめた。とても衰弱して青白く見えたので、彼女が回復できるとは思わなかった。


「私と一緒に家に帰りたくないの、ユージン?」しばらく前に戻って来て彼の傍らにいたマートルが言った。「今ここにいても、私たちには何もできないわ! 数時間は意識が戻らないかもしれないって看護婦さんは言ってるのよ。赤ちゃんは病院がちゃんと面倒をみてくれるんだから」


赤ちゃん! 赤ちゃん! ユージンは赤ん坊のこともマートルのことも忘れていた。彼は自分の人生の長く暗い悲劇……その悪意……について考えていた。


「そうだね」ユージンは疲れた様子で言った。もうすぐ朝だった。外に出て、タクシーに乗って、姉の家に行った。しかし疲れていたにもかかわらず、ほとんど眠れなかった。興奮して寝返りをうった。


アンジェラ……と子供……の様子を見に戻りたくてたまらずに、彼は午前中早く、また起きた。





第二十八章



アンジェラの体調不良は、心臓が弱かったのに加えて、子癇(しかん)として知られる神経のねじれだか痙攣のおかしな症状が出産時に重なったからだった。五百件に一件の割合で(少なくとも当時の統計ではそうだった)こうした病気が起こって、新生児の数を減少させた。最も熟練した外科医がどのような事前準備をしても、このような分娩では二件に一件の割合で、母親も亡くなった。これは腎臓の特定の変調によって引き起こされたわけではなかったが、そう診断された。廊下に出ている間にユージンが見ずに済んだのは、アンジェラがじっと見つめ、恐ろしいしかめっ面で口が片方にひっぱられ、体は反り返ってカヌーの形になり、両腕がひん曲がり、指と親指が互いに重なるように前後、内外にゆっくりと動いている様子だった。徐々に動かなくなって停止する機械仕掛けの人形に似てなくもなかった。昏睡と意識不明の状態がすぐその後に続いた。すみやかに子供がこの世に送り出されて、子宮が空っぽになっていなかったら、母子もろとも悲惨な死を迎えていただろう。この様子だと、健康な人生を取り戻すために戦う本当の力は彼女にはなかった。クリスチャン・サイエンスの実践士は、アンジェラのために「善と彼女の同一性の実現」をやろうとしていたが、彼女は以前は信仰がなく今は意識がなかった。ひどい嘔吐をする間意識を取り戻して、それからぐったりして熱を出した。うわ言でユージンのことを口にした。どうやらブラックウッドにいるらしく、ユージンが自分のところに戻って来ることを願っていた。この痛みへの償いになるものは何もないことを知っていたので、ユージンは彼女の手を握って叫んだ。僕は何てひどい奴だったんだ! 彼は唇を噛んで窓の外を見つめた。


とっさに言葉が口に出た。「ああ、僕は最低だ! 僕なんか死んでたらよかったんだ!」


その日はずっと意識がないままで、夜もほとんど戻らないまま過ぎた。アンジェラは午前二時に目を覚まして、赤ん坊に会いたがった。看護婦が連れてきた。ユージンは彼女の手を握った。赤ん坊はアンジェラのそばに置かれた。彼女はうれしくて泣いたが、弱くて泣き声にならなかった。ユージンも泣いた。


「女の子なのね?」アンジェラは尋ねた。


「そうだよ」ユージンは言った。そして少し間を置いて続けた。「アンジェラ、きみに話したいことがある。ごめんよ、僕は恥ずかしいよ。きみには元気になってほしいんだ。僕は心を入れ替えるよ。本当にそうするよ」同時にユージンはほとんど無意識に、果たしてするかどうかを考えていた。アンジェラが本当に元気になっても……あるいは悪くなっても……すべては同じではないだろうか? 


彼女はユージンの手を撫でて「泣かないで」と言った。「私なら大丈夫よ。元気になるから。私たち二人はもっとうまくやりましょうよ。あなたと同じくらい私のせいでもあるんだから。私、厳し過ぎたわよね」アンジェラはユージンの指をいじくった。しかし彼は息が苦しくなっただけだった。声帯まで痛くなった。


「ごめんよ。本当にすまなかった」彼はやっとのことで言うことができた。


しばらくすると子供は連れて行かれた。アンジェラは再び熱を出した。かなり衰弱していた。意識は後で戻ったが話すことができないほどひどく弱っていた。動作で何かを伝えようとした。ユージンにも、看護婦にも、マートルにも伝わった。赤ん坊だ。赤ん坊が連れてこられて、彼女の前で抱き上げられた。アンジェラは弱々しい切望の笑みを浮かべて、ユージンを見た。「この子の面倒は僕が見るよ」ユージンはアンジェラの上に体をかがめて言った。自分に大きな誓いを立てた。行いを正そう……これからはずっと清廉潔白でいよう。子供はしばらく彼女のそばに置かれた。しかしアンジェラは動けなかった。体がどんどん沈んでいき、やがて息を引き取った。


ユージンはベッドのそばに座って、両手で頭を抱えていた。これで、彼は自分の願いをかなえたのだ。彼女は本当に死んでしまった。良心、本能、不変の法則に逆らうとどういうことになるか、今、彼は教えられた。マートルが帰ろうと言っても、彼は一時間そこに座っていた。


「お願いよ、ユージン!」マートルは言った。「お願いだからさあ!」


「いや、行かない」ユージンは答えた。「どこへ行くのさ? 僕はここにいるからいいよ」


しかし、しばらくすると、これからの生活をどうしようか、と考えながら帰った。誰が面倒をみることになるのだろう……


「アンジェラ」という名前が頭に浮かんだ。そうだ、「アンジェラ」と呼ぼう。この子は淡い黄色の髪を持つことになる、と誰かが言うのを聞いたからだった。


* * * * * *


この物語の残りは、哲学的な疑問と思索と、正常への段階的な回帰、彼なりの正常化……彼が能力を発揮できる芸術面の正常化……の記録である。美しい女性を見るたびに完璧なものを想像しながら当てもなくさまよう、感傷的な人や熱中する人には、もう二度となるまい……とユージンは思った。しかし、もしスザンヌが突然戻ってきたら、二人の仲はすべてが以前のままであり、それ以上にさえなっただろう。彼の精神の揺らぎ、可能な解決手段としてのクリスチャン・サイエンスへの思索的な関心、アンジェラに対して野蛮、ほとんど殺人だったという感覚があっても影響しなかった。……なぜなら、その古い魅力は依然として彼の心を悩ませたからだ。今、彼には、世話をしなければならず、ある意味では彼の気晴らしになる幼いアンジェラ……さっそく喜びを見出すようになった子供……と、取り戻すべき財産と、彼が知り彼を知る人たちに代表されるあの抽象的なもの、社会や世論に対する責任感があったが、それでもまだ、この痛みと、新しい結婚でもスザンヌと一緒に立てた計画に基づいて人生を築くことでもできる自由が彼にもたらすこの抑えられない冒険心があった。スザンヌ! スザンヌ! 彼女の顔、彼女の仕草、彼女の声は、どれほど彼を悩ませただろう。悲劇的な結末があれほど悲しかったのに、彼を悩ませたのはアンジェラではなくスザンヌだった。彼はたびたびアンジェラのことを考えた……病院での最後の時間や、「私たちの子供の面倒を見てください」と言わんばかりの命じるような最後の表情を。そのたびに手でつかまれたように声帯がしめつけられ、涙が溢れそうになった。しかしそれでもなお、そのときでさえも、逆の流れが、神秘的な糸が、みぞおちから外に、スザンヌの方に、スザンヌにだけ向けて引っ張られるように思った。スザンヌ! スザンヌ! 彼女の髪や、彼女の微笑みに思うものや、彼女の言葉では表せない存在感のまわりに、彼が楽しみたかったあのロマンスのすべての実体が形づくられた。これが今、そこにはなくおそらく最後は別れになるのに、間違いなくその実物が決して放つことができなかった輝きを放って燃えるようだった。


「私たちは、夢がつくられる材料であり、私たちの小さな人生は眠りに包まれている」私たちは、夢がつくられる材料であり、私たちの厳しい刺すような現実は夢だけを混ぜ合わせて作られている。夢ほど、感動的で、活気に満ちていて、痛みを伴うものは他にはない。


最初の春から夏にかけて、マートルが幼いアンジェラの世話をして、ユージンがマートル夫婦と一緒に暮らすようになる一方で、彼はおなじみのクリスチャン・サイエンスの実践士のジョンズ夫人を訪ねた。彼はアンジェラの件の結果にあまり感銘を受けなかったが、マートルはその状況の難しさをもっともらしく説明した。彼はひどく落ち込んでいる状態だった。マートルが再び行くように彼を説得したのは、彼がそういう状態のときだった。とにかく、ジョンズ夫人なら彼の病的な憂鬱を治して、彼がもっといい気分を感じられるようにしてくれると主張した。「あなたはこの状態を抜け出したいんでしょ、ユージン」マートルは訴えた。「抜け出すまで、あなたはどうにもならないわよ。あなたは大物なんだから。人生は終わってないわ。まだ始まったばかりなのよ。あなたは再び元気にも強くもなるわ。心配しないで。何もかも最善へと向かうんだから」


大きなショックだったにもかかわらず、いやむしろそれが原因でいかなる宗教的な結論も一切信じなかったために、行くことを巡って自分との対立しながらも、彼は一度出かけた。アンジェラは救われなかった。どうして彼が救われるのだろう? 


それでも、形而上学的な衝動が多少はあった……精神的に苦しんで、何かの出口があると信じないことはとてもつらかった。彼は時々、無関心でいるスザンヌのことが憎らしかった。もし彼女が戻って来たら、彼はわからせてやるつもりだった。次は弱気な促しや懇願はしないつもりだった。彼女は自分が何をしているかをよく知りながら、彼をこの罠に誘い込んだのだ……何しろ、彼女は十分賢かった……そしてそれからあっさり彼を捨てたのだ。あれは大きな霊の仕業だったのかと 彼は自問した。彼があそこで見たと思ったそのすばらしいものに、それができたのだろうか? ああ、デイルビューでのあの時間……カナダでのあの辛かった再会……彼女が彼と一緒にとてもすばらしく踊ったあの夜! 


ほぼ三年の間に彼は、手探りで模索する不健全な心を苦しめることができる、すべてのとっぴな考えや考えの修正を経験した。彼は、クリスチャン・サイエンスをほほ信じていたといってもよかった状態、から、悪魔が世界を支配している、とてつもなく巨大なペテン師が理想的な人たちのすべてに悲劇を企てて、豚やのろまや文句をたらして汗を流している体だけは立派な不逞の輩を喜んでいることをほぼ信じている状態、へ移行した。もし彼が意識の中に神を内在していたと言えたとしても、彼の神は次第に二重人格か、善と悪……最も理想的で禁欲的な善と、最も幻想的で卑劣な悪……との複合体へと堕落していった。彼の神は少なくともしばらくの間は、平穏と完全の神だったのと同じくらいに、嵐と恐怖の神だった。彼はそれから、禁欲ではなく、哲学的な寛容というか不可知論の境地に到達した。自分は何を信じればいいのかわかっていないことを知るようになった。すべてが許されるように見えたが、何も定かではなかった。もしかしたら人生は、変化、方程式、ドラマ、笑いしか愛さないのかもしれない。私的な思索や社会での議論のときに、彼がそれを最も声高に非難する傾向があるとき、最悪であれ最善であれ、彼はそれが美しくて、芸術的で、華やかであることに気がついた。そして彼がどれほど老いて、うめき、文句を言い、引きこもり、しおれても、彼が愛すると同時に嫌悪するこの大きなものは、それでも彼に関係なく、輝き続けていた。彼は口論するかもしれないが、それは気にしなかった。彼は失敗したり死んだりするかもしれないが、それにはありえなかった。彼は取るに足らない存在だった……しかし、ああ、その内面の聖域と好ましい幻想は痛みと喜びだった。


そして不思議なことに、しばらくの間、彼は自分がこうして変化を続けている間でさえ、またジョンズ夫人に会いに行くようになった。基本的に彼は彼女のことが好きだった。彼女はユージンにとって母親のような存在であり、アレキサンドリアの実家で楽しんできたあの懐かしい雰囲気を多少与えてくれた。この女性は、エディ夫人の著書が示唆する神秘的な深淵で絶えず働き、宇宙の一体性への信念だか理解(悪意のない愛情に満ちた支配と、恐怖、痛み、病気、死そのものが存在しないこと)を通して、彼女が考えたとおりに、自分で実践活動を続けながら、悪は人間の信じるところ以外には絶対に存在しないと強く確信していたので、時々ユージンをそうだともう少しで納得させることがあるほどだった。ユージンはジョンズ夫人と一緒にこの流れに沿って時間をかけて深く考えた。子供が母親を頼るように、苦悩の中で彼は彼女を頼るようになっていた。


ジョンズ夫人にとっての宇宙は、エディ夫人の言ったように、霊的であり、物質的ではなく、どんなに強力に見えても、悲惨な状況はその真理に対抗できなかった……神の調和を否定できなかった。神は善だった。存在するすべてが神である。したがって、存在するすべては善、もしくは幻想である。それ以外はありえなかった。ジョンズ夫人は多くの似た症例を見てきたように、この上なく真剣な態度でユージンの症例を見て、その究極的、根本的な霊性に気づき、自分なら彼を幻想の世界から救い出して、肉体と欲望の世界とは無縁の物事の真の霊性を見させることができると確信した。


「愛する者よ」彼女はユージンに引用するのが大好きだった。「今や私たちは神の子です。私たちがどうなるかはまだ明らかではありません。彼が現れるとき」……(そして夫人は、彼が私たちの一部であるこの完全なものの普遍的な霊であると説明した)……「私たちは彼に似ることを知っています。私たちはありのままの神を見るからです」


「彼にこの望みを抱く者は皆、彼が清らかであるのと同じように、自分を清めます」


これは人間が無駄な道徳的努力や、やせ細る思いで禁欲に徹して自分を清めなければならないことを意味するのではなく、むしろ、その人の中の何かより良いものへの希望があるという事実が、知らないうちにその人を強くすることを意味します、と彼女は一度彼に説明した。


「あなたは私のことを笑いますが」ある日、彼女はユージンに言った。「あなたは神の子です。あなたの中には神聖な火花があります。それは必ず現れます。それが現れることを私は知っています。この他のすべてのことは悪夢ように消え去ります。それには実体がありませんから」


ジョンズ夫人は優しい母親のような態度で彼に讃美歌を歌うほどにまでなった。そして不思議なことに、もう彼女のか細い声は彼を苛立たせなかった。どうやら夫人の精神は自分をユージンの目に美しく見せているようだった。彼は彼女の肉体的な欠陥の奇妙なところや変なところに慣れようとはしなかった。彼女の部屋が芸術的な完成からかけ離れている事実、彼女の体が不格好もしくは彼が常に意識していた基準に比べると比較的不格好である事実、何かの奇妙な方法で彼女によってクジラが霊的と見なされたり、あらゆる種類の昆虫や見苦しい虫が死すべき心から出たものと見なされたりする事実、は彼をまったく悩ませなかった。霊的な宇宙……親切な宇宙についてのこの考え方には、それをそういうことにしようとするならば、彼を喜ばせる何かがあった。確かに五感では物事の全体を表すことはできなかった。その先の先に謎と力の深淵があるに違いないからだ。なぜこれが機能しないのだろう? なぜうまくいかないのだろう? かつて読んだことがあるあの本……『世界機械』……は、この惑星の生命は限りなく小さく、無限という観点からすれば、考えることすらできないものだと指摘していた……なのに、ここではそれがとても大きく見えた。カーライルが言ったように、どうしてそれが心の状態ではなく、すなわち、そう簡単で解決できないのだろう。こういう考えが次第に力を増して強くなった。


同時にユージンはまた少し外出をし始めていた。シャルル氏との偶然の出会いが、彼の昔の芸術に対する熱意を復活させた。シャルル氏は彼の手を温かく握りしめ、ユージンがどこで何をしているのかを知りたがり、極めて興味深い態度で、彼が選ぶどんな路線でもいいから、また個展を開くことを提案した。


「あなた!」シャルル氏は心からの同情を少しこめて、それでいて洗練された修正を効かせた軽蔑を輝かせて言った。彼はユージンを芸術家、それもとても偉大な芸術家としてしか見なかった。あなた……あなたがその気になれば、数年で世界中の美術愛好家を足元に集めることができたのに……あなたは私が知る誰よりも、生きているうちにアメリカの芸術に貢献できるというのに、アートディレクターだの、美術の編集だの、出版だのに時間を無駄に使っているのですからなあ! まったく! 本当に恥ずかしくないのですか? でも、まだ手遅れじゃありません。さっそくやりましょう……すばらしい個展を! シーズンたけなわの来年の一月か二月にでも何かの個展を開くというのは、どうですか? そのときはみんなが関心を持ちますよ。あなたにはうちの一番広いギャラリーを用意します。どうですかね? いかがでしょう?」いかにもフランス人らしい態度で……半分は命令口調、半分は鼓舞というか発破をかけながら……熱くなった。


「もしできでも」ユージンは却下するように手を振って、口角に薄っすらと自嘲のしわを浮かべながら、静かに言った。「手遅れかもしれませんよ」


「『手遅れ! 手遅れ!』だなんて、馬鹿馬鹿しい! あなたがそれをこの私に言いますか? もしできでも もしできでもだなんて! それじゃ、私はお手上げだ! ビロードの質感としっかりした線をお持ちのあなたが。あんまりですよ。信じられませんね!」


シャルル氏は両手と目と眉毛をあげて、フランス人らしい絶望をしてみせた。肩をすくめて、ユージンの表情が変わるのを見届けようと待ち続けた。


「いいでしょう!」これを聞いてユージンは言った。「ただし、何も約束はできませんよ。様子を見ましょう」そして彼は住所を書いた。


これがユージンの活動を再開させた。このフランス人は、ユージンが話題にされるのをよく耳にしていたし、彼の初期の絵はすべて売れたので、ユージンは金になる……ここで駄目ならそのときは海外で……金になるし、スポンサーとしての自分の評判もあがると確信した。アメリカの芸術家にもその気になってもらわないとならない……何人かは世に出てもらわなくてはいけない。ユージンじゃ駄目か? 本当にそれにふさわしい人物がここにいた。


そういうわけで、ユージンは……昔の絵を描く力は永遠に自分から去ってしまったとそのときは半分感じながら……思いついたすべてのものを、速やかに、夢中になって、鮮やかに、描き続けた。マートルの家の近くで北向きの明かりがとれる部屋を借りて、ユージンは古典的で簡単なアレンジを施しながら、姉と夫や、姉と幼いアンジェラの肖像画を描いた。次は路上からモデル……労働者、洗濯女、酔っぱらい……あらゆる人物を選び、しょっちゅうキャンバスを壊しながら、全体としては着実に前進していた。彼は自分が見たとおりに人生を描くことに、対象を正確に生き写しにして、その突飛で、無益で、ありふれていて、滑稽で、野蛮なところを、一風変わったぞっとする演出で描写することに、妙に熱心だった。大衆の、頭のおかしなのが、おかしな髪型で、ぼんやりうろうろ歩き回っている様子が、彼を魅了した。生命の生き生きとした持続性を背景に、衰えていく酔っぱらいを据えた矛盾的な組み合わせが彼の想像力をとらえた。どういうわけか、それは彼自身が頑張っている、戦っている、自然を非難している姿を彼に連想させた。そして、そのことが彼にこれを実行する大きな勇気を与えた。この絵は最終的に一万八千ドルという記録的な値段で売れた。


その間、スザンヌの形をした彼の失われた夢は、母親と一緒に海外……イギリス、スコットランド、フランス、エジプト、イタリア、ギリシャ……を旅行していた。自分の突発的で不確かな魅力が引き起こした驚異的な嵐に目覚めさせられた彼女は、自分がきっかけてユージンに押し寄せたらしい災難に、今さらひどく動揺、困惑し、何をしたらいいのか何を考えたらいいのか本当にわからなかった。彼女はあまりにも若過ぎたし、あまりにも漠然とし過ぎていた。肉体と精神の面は十分に強くても、哲学や道徳の面になるとかなり不安定だった……夢見がちで、場当たり的だった。彼女の母親は、自分の最高に抜け目ない計算が無駄になるような、何らかの頑固で破壊的な爆発を恐れるあまり、過去の事実との悩ましい再開や、母親が毎時間恐れたスザンヌの突然の出発を避けようと、丁寧に、優しく、親切に、抜かりのないように必死だった。彼女は何をすればよかったのだろう? スザンヌの望みは何でも……ほんのささいな気まぐれから、服、娯楽、旅行、友人関係での意向まで、至れり尽くせりで叶えられた。ここに行きたがるかしら? あれを見たがるかしら? これは彼女を楽しませるかしら? あれは彼女を喜ばせるかしら? そしてスザンヌは、常に母親の真意を見抜き、自分がユージンにもたらした苦痛と不面目に悩まされ、自分の行動が正しかったのかどうか、今はもう確信がなかった。彼女はこのことをずっと悩んだ。


しかし、もっと恐ろしかったのは、自分は本当にユージンを愛していたのかいなかったのか、という時々彼女に浮かんだ考えだった。これは一時的な気まぐれなのだろうか? 知的な親交に実質的基盤を何も置かないまま、自分を笑いものにする行動に彼女を駆り立てていた、血の何かの化学反応があったのではないだろうか? ユージンは本当に、彼女が一緒にいて幸せになれた男性だったのだろうか? 彼はあまりにも崇拝的で、強情過ぎて、愚か過ぎて、計算を間違えたのではないだろうか? 彼は彼女が本当に想像していたような有能な人物だったのだろうか? 彼女はあっという間に、彼を好きではなくなり……嫌いにさえなったのではないだろうか? 彼らは本当に、永遠に幸せでいられただろうか? 彼女は、絶えず彼女を崇拝して彼女の同情を必要とする人物よりも、つっけんどんで、反抗的で、無関心な人物……むしろ彼女の方が崇拝してその人物のために戦わざるを得ないような人物……に関心を持つのではないだろうか? 強くて、しっかりしていて、勇敢な男性……結局そういう人物が彼女の理想ではなかっただろうか? ユージンはそうであると言えただろうか? こういう疑問やその他の疑問が絶えず彼女を苦しめた。


奇妙なことだが、人生は絶えずこういう哀れな矛盾を提示している……気質や血の気まぐれが引き起こして、理性と状況と慣習が非難するこういう驚くべき失態である。人間の夢と、それを実現する能力は別物である。どちらも最果てに、大成功と大失敗の出来事がある……たとえば、アベラールの大失敗と、パリで即位したナポレオンの大成功だ。しかし、ああ、ひとつの成功のためにある失敗は無限である。


しかしこの場合、彼女は彼を愛していなかった、とスザンヌがはっきりと結論を出したとは言い切れない。これは真実からかけ離れている。彼女をもっと若くて、彼女にとって……今度こそ……もっと興味深い人物たちと接触させるために、デイル夫人によって、最高に巧妙な手立てが講じられたが、スザンヌは……とても内省的な夢想家で、自分自身の静かな観察者だったので……たとえ惑わされたことがあったとしても……愛にすぐに惑わされることは二度となかった。今後は男性を研究して、必要であれば利用して、おそらくはユージン、もしくは他の人物の何かの行動が彼女のために決断するときが来るのを待とう、と半ば決めたのだった。自分が本当に美しいことを知った今、彼女の美しさの奇妙な破壊的魅力は、彼女の関心を引き始めた。今、彼女はかなり頻繁に鏡に見入った……カールの芸術性、顎と頬と腕の曲線をながめた。仮に彼女がユージンのところに戻ったとして、彼女はどれくらいうまく彼の苦悩に報いただろう。しかし、彼女はそんなことをするだろうか? 彼女にそんなことができただろうか? 彼が正気を取り戻すことはなかっただろうか、そして彼女の顔に向かって指を鳴らして傲慢に微笑むことはできなかっただろうか? 結局、間違いなく、彼はすばらしい人物だった。そして、どこかでまたすぐに何かとして輝くのだろう。そして彼がそうなったとき……彼は彼女をどう思うだろう……彼女の沈黙、彼女の逃亡、彼女の道徳面の臆病さを? 


「結局、私は大したことないんだわ」スザンヌは内心そう思った。「しかし彼は私のことをどう思ったのかしら!……あの激しい熱狂ぶり……あれはすてきだったわ! 本当に彼はすばらしかった!」





第二十九章



このすべての結末が、いずれありえるとしても、まだ二年先だった。それまでに、スザンヌはかなり落ち着きが出て、多少知的に洗練され、少し冷ややかになった……決して冷たくはなく……多少批判的になった。男性たちは彼女のようなタイプの美人に、色気を振りまく思わせぶりな態度を少し取りすぎた。ユージン以降の男性の差し出す情熱、崇拝、不滅の愛には、大した重みがなかった。


しかし、ある日、ニューヨークの五番街で、再会を果たすことになった。 スザンヌは母親と一緒に買い物をしていたが、少しの間、離れ離れになった。この頃にはもうユージンは自分の能力を完全に取り戻していた。昔の痛みは薄れて、ぼんやりとはしているが色彩豊かな美の幻想になって、いつも彼の目の中にあった。もしスザンヌに再会したら、自分はどうするだろう……何か言うとしたら、何を言うだろう、と考えることがよくあった。彼は微笑んで、会釈して……そして、もし彼女の目に返答の光があったら、昔の求愛をそのままやり直すだろうか、それとも彼女が変わって、冷たく、無関心になったことに気がつくのだろうか? 彼は冷笑しながら無関心を決め込むのだろうか? これはおそらく後で彼はつらいかもしれないが、彼女に仕返しができて、ちょうどいい罰になるだろう。もし彼女が本当に気にかけていたら、(ろう)のように形が変わりやすい愚か者で、母親の手の中の道具であったことを苦しませてやるべきだ。彼女が彼の妻の死……子供の誕生……を聞いていたことや、報復、無関心、軽蔑を恐れて、別々の手紙を五通も書いては破棄していたこと、をユージンは知らなかった。


彼女はユージンが芸術家として再び名声を博したことを耳にしていた。個展が最終的に開かれたからだ。それは絶賛されて、彼の能力は存分に認められた……芸術家はこぞって彼を称賛した。彼らはユージンを奇妙で風変わりだが偉大であると考えた。シャルル氏が、ある大銀行の頭取に、金融街にできる彼の新しい銀行の装飾をユージン一人にやらせることを提案したところ、最終的にそうなった……九枚の大きなパネルに、彼の人生観の一端が深々と表現された。ワシントンには、二つの大きな公共の建物と三つの州議事堂に、彼の活気に満ちた夢を描いた高くて輝くパネルもあった……陸にも海にも決して存在しなかった美しさを物思わしげに暗示していた。見る者はそれらのあちらこちらで、顔に……腕、頬、目に……心を奪われるかもしれない。もしありのままのスザンヌを知っていたら、その基本となったものを知ることになっただろう……ここにあるすべてのものの根底には逃亡者の魂があった。


しかし、それでも、彼は今、彼女のことが嫌いだった……あるいは、嫌いだと自分に言い聞かせた。彼の知性の踵の下には、彼が崇拝する顔が、その美しさがあった。彼はそれを軽蔑しながらも愛していた。人生は卑劣な罠で彼をもてあそんだ……愛だ……理性を狂わせて、それから狂人として彼を追い払った。もう二度と愛が彼に影響を及ぼすことはないだろうが、それでも女性の美しさは依然として彼の大きな魅力だった……ただし彼が支配者だった。


そんなある日、スザンヌが現れた。


ユージンはほとんど彼女だとわからなかった。それほど突然ですぐに終わってしまった。スザンヌは四十二丁目で五番街を横断していた。ユージンは娘のアンジェラのバースデーリングを買って宝石店から出てくるところだった。そのとき、この少女の目、青ざめた表情……何か彼の見覚えのあるすてきなものが一瞬光った。そして……


ユージンは気になって目を凝らした……必ずしも確信はなかった。


「私だって気づきもしないのね」スザンヌは思った。「それとももう私のことが嫌いなのかしら。ああ!……五年も経つと全部変わっちゃうのね!」


「今のは彼女だったよな」彼は独り言を言った。「確かだとは言い切れないが。まあ、そうなら、地獄にでも行けばいい!」彼の口がこわばった。「切られて当然なんだから切り捨ててやるさ」と考えた。「僕が気にかけてることを彼女が知ることは決してないんだから」


そして、二人はすれ違った……この世で二度と出会うことはない……それぞれが常に思い、それぞれが無視し、それぞれが美の亡霊を胸に抱き続けた。





  結び



形而上学には、それそれの人の気質や経験がその人に傾向を与えるのに準じるような、倫理的もしくは精神的な安らぎや平穏の基準があるようにも、ないようにも見える。人生はあらゆる転換点で、知らない世界へと沈み込む。そして一時的もしくは歴史的場面だけが道しるべとして残る……そしてそれもまたなくなってしまう。精神的にも肉体的にも落ち込んだユージンが、一時期にいろいろな宗教の難解な言葉に傾いたのは、かなり的外れに思えるかもしれないが、人生は嵐の中にいるものにそういうことする。宗教思想は、いつもそうなるのだが、その人自身からの、その人の迷いや絶望からの避難所になる。


もし私が個人的に宗教を定義するとしたら、それは状況に傷つけられた魂を守るために人間が作り出した包帯であり、逃げられない不安定な無限のものから、人間を守って包んでくれるものである、と言うだろう。私たちは、物事を永続的なものとして考え、そう見ようとする。宗教は人に住処と名前を与えてくれるように見える……しかし、それは幻想である。私たちは時間と空間と無限の心に連れ戻される……どういうものなのだろう? そして、私たちはいつも、私たちが知ることのできないすべてのことをそれらのせいにしながら、それらの前に立つのである。


しかし、宗教が必要になるのは、人生の他のすべてのものと同じで一時期である。魂は健康を取り戻すと、古い幻想を抱きやすくなる。再び女性たちが彼の人生に入り込んだ……そうではないとは絶対に思わないが……おそらくは、ユージンの中のある種の物欲しそうな態度と孤独に引き寄せられたのかもしれない。彼は悲劇のせいでしばらくおとなしくしていたが、再び世界で活動していたのだ。彼は、女性たちが近づくのを、以前より懐疑的に見たが、それでも心が動かされないわけではなかった……彼が招かれた応接間を通り過ぎてきた女性たち、彼の関心を自分たちに向けようとし、ほとんどノーという返事を受け取ることのない人妻や若い娘たち、現役の女性たち……女流芸術家、詩人、「変わり種」、批評家、夢想家である。多くのお近づき、手紙、出会いから、いくつかの関係が生まれ、他の関係が終わったのと同じように終わりを迎えた。それでは、彼は変わらなかったのだろうか? 大して……変わらなかったのだ。ただし、知性と感情の面は鍛えられた……生活と仕事に適した状態になった。見苦しい場面もあれば、暴力的なもの、涙、別れ、捨てるとか、冷たい出会いもあった……マートルが世話を焼く幼いアンジェラが支えと慰めとしていつも傍らにいてくれた。


人はユージンの中に、徹底した異教徒でありながら、表現の芸術性を求めて聖書を読み、ショーペンハウアー、ニーチェ、スピノザ、ジェイムズが提唱するものの神秘性を求めて彼らの著書を読むことを楽しむ、芸術家の姿を見た。彼は子供の中に魅力的な個性と、さらに研究対象まで見つけた……すでに彼自身の何かとアンジェラの何かを見出し、その結果を不思議に思いながら、時々愛情のこもった関心を持って突き詰めることができる相手だった。この子はどんな人になるだろう? 芸術に興味を持つだろうか? とても大胆で、陽気で、わがままな娘だとユージンは思った。


「手に負えない子をかかえちゃったわね」一度マートルが言うと、ユージンは微笑んで答えた。


「それでも、僕はこの子と一緒にやっていけるかどうかを見極めるんだ」


彼が時々考えることのひとつは、もし自分と娘のアンジェラが完全に理解し合うようになって、娘があまり早く結婚しなかったら、娘を中心にして魅力的な家庭を築けるかもしれない、というものだった。


すべての中でも最後の場面は、モントクレアの彼のアトリエから取り入れられたのかもしれない。彼はそこでマートルと、住み込み家事手伝い役の彼女の夫と、彼の気晴らしになるアンジェラと一緒に暮らして仕事をしていた。ある夜、暖炉の前に座って本を読んでいたときに、歴史について考えていて、スペンサーの『事実と論評』の中で「不可知界」について論じた驚愕のいくつかの章のどこかの段落を思い出したので、それを見つけられるかどうかを確認するために立ち上がった。ユージンは蔵書の中からその本を取り出し、一応は知的に同意しながら読み返した。なぜなら、それは人生に対する彼の気分と、特に彼自身の精神状態に合うからだった。彼自身の視点にとても奇妙に関連するのでここに引用する。


「私たちの感覚によって知られる物体の謎が、私たちの知性の領域を超えているように、もしそう言えるのであれば、この普遍的なマトリックスの中で示される謎は、私たちの知性の領域をはるかに超えていると言ってもいい。ところが、一方の種類の謎は、多くの人によって創造の仮説に基づいて説明できると考えられ、残りの人には進化の仮説に基づいて説明できると考えられるのに対し、もう一方の種類の謎は、どちらの人にもこういうもので説明できるとは見なされない。有神論者と不可知論者は、宇宙の特質を、固有で、永続的で、創造されていないものとして認識することに……もし創造が行われたのであれば、すべての創造に先んじていることに、同意しなければならない。したがって、存在の謎を解き明かすことができたとしても、依然としてさらにそれを上回る謎が残ることになる。作られたものでも進化したものでもないと考えられるものは、目で見ることができて触れることができるものによって示される事実の起源よりも、はるかに考えられない事実の起源を私たちに示している……。目が届く限りのあらゆる方向で探究がされても、存在のこの空欄の考察は、その向こうに探求されていない領域をかかえていて、それに比べたら想像力が考察してきた部分は微々たるものでしかない……宇宙についての考察は、私たちの計り知れない恒星系が一点に縮まるのに対して、考えることができないほど圧倒的な考えである。最近、起源も原因もなしに無限の宇宙がこれまでに存在し、これからも存在するに違いないという意識が、私が萎縮してしまう感覚を私の中に生じさせている」


「まあ」かすかな物音が聞こえたと思ったのでユージンは振り返りながら言った。「これは確かに、僕がこれまでに読んだ人間の思考の限界に関する一番まともな解釈だな」……そして道化師に関係なくもないだぶだぶの小さな寝巻きに包まった小さなアンジェラが入ってくるのを見て微笑んだ。娘が甘えん坊で、気分が変わりやすくて、いたずら好きなのはわかっていた。


「おや、こんなところに何しに来たのかな?」ユージンは怒ったふりをして尋ねた。「こんなに遅くまで起きてちゃいけないってわかってるでしょ。マートル叔母さんに見つかっちゃうぞ!」


「でも私、眠れないの、パパ」アンジェラは巧みに言い逃れをした。火の前でもう少し彼と一緒にいたくて、甘えて床を横切るようによちよち歩いてきた。「ねえ、だっこ」


「ああ、おまえが眠れないことはみんなわかってるんだぞ、このおてんばめ。だっこされにここに来たんだろ。さあ、出てお行き!」


「やだ、やだ、パパぁ!」


「よしよし、じゃあ、こっちにおいで」ユージンは両腕で娘を抱き上げて火のそばに座り直した。「さあ、お眠り、さもなきゃベッドにお戻り」


アンジェラは彼の曲がった肘に黄色い頭を乗せてすり寄った。ユージンは娘が誕生したときの大騒ぎを思い返しながら娘の頬を眺めた。


「小さなお花のお嬢さん」ユージンは言った。「甘えん坊のちびっこ」


彼の子供は何も答えなかった。やがて、眠った娘をソファーに運んで寝かしつけると、戻りがてらに、茶色の芝生のところに出てみた。十一月下旬の風が、まだしがみついている茶色の葉を揺らした。頭上には星が出ていた……オリオン座の雄大な三連星、北斗七星とくま座や、天の川として知られるあの遥か彼方の雲のような形をつくる神秘的な星々。


「この中のどこに……実際に、アンジェラがいるんだ?」ユージンは手で髪をなでながら考えた。「僕である存在は、実際に、どこにいるんだ? 人生は何て甘美な混乱なのだろう……何て豊かで、何て優しく、何て厳しく、何て色彩豊かな交響曲なのだろう」


宇宙の煌めく深淵を眺めていると、偉大な芸術の夢が彼の魂の中に湧き上がった。


「風の音がする……今夜は何てすばらしいんだ」ユージンは思った。


それから静かに中に入り、ドアを閉めた。



                     完


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