第20章~第26章
第二十章
この状況がまずかったのは、再びスザンヌを手中に収めた後、特に提示する解決策をユージンが持っていないことだった。ここで彼は、公然もしくは秘密の脱出計画をすぐに説明するわけでなく、彼がそうするものと彼女が半分以上期待していたように力ずくで彼女を手に入れて一緒に歩いて立ち去るわけでもなく、母親が彼に話したことを彼女に繰り返していた。そして「来い!」と言う代わりに彼女の意見を求めていた。
「これはついさっき、きみのお母さんが僕に提案したことなんだけどね、スザンヌ」ユージンは話を始めて、全部の説明に入った。これは彼にとって帝国の幻影だった。
ユージンは近くにいる彼女の母親のことを話しながら言った。「僕は何も決めませんってお母さんに言ったんだ。お母さんは僕に、僕がこのとおりにするって言わせたかったんだけど、これはきみに決めさせなければならないって僕が押し通したんだ。もしきみがニューヨークに戻りたいのなら戻ろう、今夜か明日にでも。きみがお母さんのこの計画を受け入れたいのなら、僕はそれでも構わない。僕としては今すぐきみが欲しいけど、きみに会えるのなら、僕は待ったっていいんだからね」
ユージンは今、冷静で、論理的で、愚かにもあれこれ考えていた。スザンヌはこれに驚いた。彼女には言うほどの意見が何もなかった。何かドラマチックな盛り上がりを期待していたのに、それが起こらなかったので、彼女は満足しなければならなかった。真実はこうだった。彼女はユージンと一緒にいたいという自分の欲望に流されていたのだ。最初はユージンが離婚できないようにスザンヌには思えた。読書と未熟な考え方のせいで、それだって本当は必要ではないようにも思えた。彼女はアンジェラを苦しめたくはなかった。公然と妻を捨ててアンジェラに恥をかかせるようなまねを、ユージンにしてほしくはなかった。アンジェラが彼とって満足できる相手ではなくて、二人の間には本当の愛情はない、とユージンが言っていたので、スザンヌはアンジェラが本当に気にしないと思っていた。アンジェラは手紙の中でこれを事実上認めていた。もし自分がアンジェラと彼を共有しても、大して違わないだろうと思っていた。ユージンは今、何を説明しているのだろう……二人がどうするべきかについての新しい理論だろうか? 彼女は、ユージンが神のように自分を連れ去りに来ているのだと考えた。なのに、彼はここで神らしからぬ態度で、新しい理論を彼女に述べていた。これは混乱を招いた。どういうわけでユージンがすぐに出発したがらないのか、スザンヌにはわからなかった。
「ねえ、あなたが何を考えているのか私にはわからないわ」スザンヌは言った。「もし私にもうひと月ここにいてほしいのなら……」
「いや、そうじゃない!」ユージンは、話がうまく伝わっていないことに気がついて、すかさず叫んだ。そして、それが正しいと思えるようにしたかった。「僕はそういうことを言ってるんじゃない。違うんだ。できれば、僕は今すぐ今夜にでも、きみを僕と一緒に連れて帰りたいよ。ただ僕はこれをきみに伝えたかったんだ。きみのお母さんは本当のことを言っているみたいなんだ。もし僕たちがお母さんと円満な関係を続けていけて、それでもなお自分たちの思うとおりにやれるのなら、そうしないのはもったいない気がしてね。きみが完全にその気になってるわけでもないのに、自分の手に負えないような大きな災いを僕は引き起こしたくはないからね……」
このとき、スザンヌは自分が感じたことをほとんど話すことができなかった。問題の要点がスザンヌの決断に委ねられようとしていたが、それは委ねられるべきではなかった。スザンヌには十分な力がなく、経験も十分ではなかった。ユージンが決めるべきだった。彼が決めれば何でも通っただろう。
本当のところ、再び彼女を抱きしめた後なのに、しかも母親の前だったのに、ユージンは想像していたほど自分が勝者になったとも、人生のすべての問題が解決したとも、感じなかった。彼は、もしデイル夫人がこれを真剣に提案しているのであれば、彼女が提案しなければならなかったほどのものを簡単に無視することはできないと考えた。デイル夫人はユージンがスザンヌと会う直前に、ユージンがこの条件を受け入れなければ彼女は闘い続ける……コルファックスに電報を打ってここまで来てもらう……と言ったのだ。ユージンはお金を引き出し、できるのであれば逃避行をする準備までしていたが、それでもコルファックスのことを考え、現在の社会的に安定した状態を維持してデイル夫人が提案したすべてを手に入れたい欲が出て、踏み切れなかった。ためらってしまった。何かすべてを丸く収める方法はないだろうか?
「僕はきみに最終的な決断をしてほしいわけじゃないけど」ユージンは言った。「きみはどう思う?」
スザンヌは今にも爆発しそうなはっきりしない状態が続いて、考えることができなかった。ユージンはここにいた。ここは理想郷だった。月が高かった。
再びユージンが彼女と一緒にいるのは美しい光景で、彼の愛撫を感じることはすばらしかった。しかし、彼は彼女と一緒に飛び立っていなかった。彼らは世界に立ち向かっていなかった。彼らは、自分たちがやるだろうとスザンヌが想像したことをやっていなかったし、勝利に突き進んでいなかった。これこそ、スザンヌがユージンを呼び寄せた目的だったのに。デイル夫人は、ユージンが離婚するのを手伝うつもりだと言った。もし必要なら、彼女はアンジェラへの援助も手伝うつもりだった。スザンヌは結婚して、少ししてから本当に落ち着くことになっていた。何と奇妙な考えだろう。これは彼女がやりたかったことではなかった。彼女は何らかの方法で慣習を無視したかった。自分が計画した通りに、夢見ていた通りに、独創的なことをやりたかった。これは悲惨なことになりかねなかったが、スザンヌはそう考えなかった。母親は屈したのだろう。どうしてユージンは妥協しているのだろう? これは奇妙だった。このときにスザンヌの頭の中でまとまったこういう考えは、二人のロマンスに起こりうる最も破滅的なものだった。ユージンがいれば結婚は二の次でいいものだった。逃避行はその一部であるべきだった。こうして彼女はユージンの腕の中にいた。しかし、漠然としたはっきりしない考えをあれこれ巡らせていた。何かが……輝く月にかかる淡い霧が、波のしぶきが、何かの予兆かもしれないしそうではないかもしれない人の手ほどもない小さな雲が……この状況を支配していた。ユージンはいままでと同じように魅力的だったが、彼は彼女と一緒に飛び立ってはいなかった。二人はその後ニューヨークに帰る話し合いを続けた。しかし、すぐに一緒に発つことはなかった。これはどういうことだろう?
「あなたは母が本当にコルファックスさんと一緒になって、あなたにダメージを与えられると思うの?」ユージンが母親の脅しに言及した後、スザンヌはある点が気になって尋ねた。
「わからないけど」ユージンは真面目に答えた。「うん、お母さんならできると思うよ。でもコルファックスがどうするかはわからないな。どっちにしても、そんなことは重要じゃない」ユージンは付け加えた。スザンヌは困惑した。
「まあ、あなたが待ちたいのなら、それでいいけど」と言った。「私は、あなたが一番いいと思うことをやりたいわ。あなたに地位を失ってほしくはないもの。もし私たちが待つべきだとあなたが思うのなら、そうしましょう」
「もし僕が定期的にきみに会えないのなら、待たないけどね」ユージンは迷っていたが答えた。ユージンは真の勝利の王者……相手を管理するリーダーではなった。愚かにも、彼はできもしないことを詳しく説明していた……スザンヌに会い、一緒にドライブやダンスを楽しみ、秘密であれ公然とであれ実際の結婚が成立するまで、ニューヨークで彼女と同棲同然の暮らしをするというものだった。デイル夫人はユージンを息子として受け入れることを約束をしていたが、彼女はただ時間を稼いでいただけだった……考え、それらしく振る舞い、説き伏せてスザンヌを正気に戻らせるための時間稼ぎだった。デイル夫人は時間がすべてを解決するだろうと考えた。そして今夜は付きまとってうろうろする間、そばを離れないでユージンの発言のいくつかを立ち聞きしながら、ほっと胸をなでおろした。彼は正気を取り戻して自分の愚かさを後悔し始めていたか、あるいは彼女の嘘にだまされていたかのどちらかだった。デイル夫人はもしあと一週間ユージンとスザンヌを離れ離れにできて、自分がニューヨークに行くことができたら、今度はコルファックスとウィンフィールドのところに行って、彼らに仲介してもらえないかを確かめるつもりだった。ユージンは倒されねばならなかった。彼は常軌を逸し、正常ではなかった。デイル夫人の嘘はもっともらしく聞こえたので、この日延べを勝ち取ることができた。彼女が欲しかったのはそれだけだった。
「さあ、私にはわからないわ。あなたの考えなら何だっていいわ」抱擁とキスの時間の後でスザンヌはもう一度言った。「あなたは私に明日一緒に帰ってほしいの、それとも……」
「もちろん、そうしてほしいさ」ユージンはすかさず、力強く答えた。「明日は僕たちできみのお母さんを説得してちゃんとわかってもらわないとならない。僕たちが一緒にいるから、お母さんは今、負けたと感じている。僕たちはお母さんをそういう気持ちのままにしておかないといけない。お母さんは妥協案を話す。それこそ僕たちが求めるものだよ。もしお母さんが僕たちに何かを決めさせてくれるのなら、乗らない手はないだろ? お母さんが望むなら、一週間活動を停止させて、お母さんに時間をあげてもいいと思う。お母さんが変わらなければ、僕たちはそのとき実行すればいい。きみは一週間レノックスまで行って、それから来ればいいさ」
ユージンは大勝利した人のように話したが、本当は大敗北していた。彼はスザンヌを手に入れかけているのではなかった。
スザンヌは考え込んだ。これは彼女が期待したものではなかった……しかし……
「そうね」しばらくしてスザンヌは言った。
「明日あなたは私と一緒に戻るのよね?」
「そうだ」
「レノックス、それともニューヨーク?」
「お母さんが何と言うか確認しよう。もしきみがお母さんの言うことに合意できれば……きみのやりたいようにだけど……僕はそれでいいから」
夜になったので、しばらくしてユージンとスザンヌは別れた。翌朝会って一緒にレノックスまで戻ることで話がまとまった。デイル夫人はユージンの離婚を手伝うことになった。これはすばらしく愛情のこもった満足な状態だったが、どういうわけか、ユージンは自分が事態を正しく扱っていないと感じた。ユージンは邸内の一室で寝た……スザンヌは別の部屋だった……デイル夫人は不安でたまらず、警戒をゆるめず、そばにつきっきりだったが、その必要はまったくなかった。彼は自棄を起こしてはいなかった。近い将来、すべてが自分のいいように調整されて、自分とスザンヌは最終的に結婚するだろう、と考えながら彼は眠りについた。
第二十一章
翌日は、いちゃいちゃしてここで数日過ごすかどうかを迷い、そして、使用人がどう思うか、スリーリバースの駅長が言ったかもしれないことから使用人がすでにどんなことを知っているか、あるいは疑っているかと気に病むデイル夫人の遠回しな懇願を聞いた後で、二人は、ユージンがニューヨーク、スザンヌがレノックスに戻ることに決めた。アルバニーへの帰り道、ユージンとスザンヌは子供のようにプルマン車両の一つの座席に一緒に座って互いの存在を喜び合っていた。デイル夫人は一つ離れた席に座って、約束を反故にして、やはりすぐにコルファックスのところに行って訴えてすべてを終わらせた方がいいか、それとも少し待って、この問題が自然に収まらないかどうかを見極めた方がいいかを考えていた。
翌朝、スザンヌとデイル夫人はアルバニーで〈ボストン&アルバニー鉄道〉に乗り換え、ユージンはそのままニューヨークに向かった。かなりほっとした気分で出社し、その日のうちに自分のアパートに戻った。ひどく精神的に参っていたアンジェラは、亡霊か死からよみがえった人でも見るような目で彼を見つめた。彼女は彼がどこに行っていたかを知らなかった。戻ってくるのかどうかも知らなかった。彼を責めても無駄だった……彼女はこれをとっくの昔にわかっていた。彼女にできる精一杯のことは、訴えかけることだった。彼女は夕食まで待った。そのときはただ人生のありふれたことを話しただけで、それから彼の部屋に行った。そこで彼は荷ほどきをしていた。
「スザンヌを探しに行ったの?」アンジェラは尋ねた。
「ああ」
「彼女はあなたと一緒にいるの?」
「いや」
「ねえ、ユージン、私がこの三日間どこで過ごしていたのか知っている?」アンジェラは尋ねた。
ユージンは答えなかった。
「ひざまずいてたの。ひざまずいてたのよ」アンジェラはきっぱりと言った。「あなたをあなた自身からお救いくださいと神さまに頼んでいたのよ」
「くだらないことを言わないでくれ、アンジェラ」ユージンは冷たく答えた。「このことで僕がどんな気分でいるのか知ってるよね。今の僕は、以前の僕に比べてどれくらいひどくなってるのかな? 僕はきみに電話をかけて伝えようとしたんだ。スザンヌを見つけて連れ戻すために行ったんだ。レノックスまで行って来たよ。僕はこの闘いに勝つつもりだからね。法的であろうがなかろうが、僕はスザンヌを手に入れるつもりだ。もしきみが離婚したければ、すればいい。きみの面倒はちゃんと見るよ。きみが離婚しなくても、とにかく僕は彼女と一緒になるつもりだ。このことは僕と彼女の間で了承済みだ。なあ、ヒステリーが何の役に立つんだ?」
アンジェラは涙ぐんでユージンを見た。これが彼女の知っていたユージンだろうか? 彼と一緒にいるといつも、懇願のたびに、あるいはその最中に、彼女はこの堅固な壁にぶつかった。彼は本当にあの少女に夢中なのだろうか? 彼は自分が言ったことを実行するつもりだろうか? ユージンは最近修正した自分の計画を極めて冷静にアンジェラに説明した。デイル夫人について話をしていると、あるところでアンジェラが口を挟んだ……「彼女は絶対に娘をあなたに渡さないわよ……あなたにもわかるでしょうけど。あなたは彼女が渡すと思ってるんだ。そりゃあ、渡すって言うわよ。向こうはただあなたをだましているだけだもの。時間を稼いでいるんだわ。自分がやっていることを考えてごらんなさい。あなたは勝てないわよ」
「ふん、勝てるさ」ユージンは言った。「すでに勝ったも同然だ。彼女は僕のところに来るよ」
「来るかもしれないわね、来るかもしれないわ。でも代償はどうなのよ。私を見てよ、ユージン。私じゃ不足なの? 私だってまだ見た目はいいでしょ。あなたは何度も私に、美しい体をしてるねって言ってくれたじゃない。ほら、見てよ」……アンジェラは入ってきたときに着ていたガウンとローブの前を引き裂くようにして開いた。彼女はこのシーンを準備していたのだ、それも特別に考え抜いて。これがユージンを動かすことを期待していた。「私じゃ不足なの? 私はもうあなたの欲望の対象じゃないのかしら?」
ユージンは嫌悪感をあらわにして顔をそむけた……うんざりだった……メロドラマのような訴え方にむかむかした。これはアンジェラが演じるべき最後の役だった。これは最も効果がなく、この瞬間に最もふさわしくなかった。ドラマチックで、印象的だったが、この状況ではまったく効果がなかった。
「僕にそういう役回りを演じても無駄だよ、アンジェラ」ユージンは言った。「きみにそういうことをされたからって僕はもう心を動かされたりしないよ。僕たちの間の夫婦の愛情は死んでいるんだから……壮絶にね。何で何の魅力のないものを使って僕に訴えかけるんだ。僕にはどうすることもできないよ。それは死んでいるんだから。今さらそんなものをどうするつもりだい?」
アンジェラはまた疲れた様子になった。神経をすり減らし、絶望しながらも、目の前で繰り広げられている悲劇にまだ魅了されていた。ユージンを振り向かせるものは何もないのだろうか?
夜になったので、二人は別々の道を行き、翌日ユージンは再び職場にいた。スザンヌから、自分はまだレノックスにいる、母親は一日か二日泊りがけでボストンに行った、と連絡があった。五日目にコルファックスがオフィスに現れて、感じよく声をかけながら腰を下ろした。
「さて、調子はどうなんだ、大将?」彼は尋ねた。
「まあ、同じようねもんです」ユージンは言った。「文句は言えません」
「すべては順調にいってるんだな?」
「まあ、ぼちぼちです」
「私がここにいるときに、人は普通お前のところに立ち入ったりはせんよな」コルファックスは気になって尋ねた。
「そういうことがないように命じてはいますが、この際、念を押しておきましょう」ユージンは瞬時に警戒して言った。コルファックスは彼に関係することで彼に何かを言うつもりだろうか? ユージンは少し青ざめた。
コルファックスは遠くに広がるハドソン川を窓から眺めた。葉巻を取り出して、端を切ったが、火はつけなかった。
「邪魔されないようお願いしたのは他でもない」と考え込むように言った。「ちょっとお前に話したいことがあるからだ。これは他の誰にも聞かれたくないことなんだ。先日デイル夫人が私のところに来た」と静かに言った。ユージンは彼女の名前を聞いて驚いて、さらに青ざめたが、それ以外の反応は何も表に出さなかった。「そしてお前が彼女の娘さんにしようとしていることを……駆け落ちするとか、承認もなく離婚もしないで同棲するとか、奥さんを捨てるとか、その類の話を長々と話してくれたよ。私はこれにあまり注意を払わなかったが、やはりお前には話をしなければならない。まあ、私は男性の私的な問題に干渉するのは好きじゃないんだ。そんなものが私に関係があるとは思わんからな。この仕事に関係があるとも思わんよ。ただし、これが仕事に好ましくない影響を及ぼすかもしれないとなれば別だ。でも、これが本当かどうかは知っておきたい。本当なのか?」
「はい」ユージンは言った。
「デイル夫人は私の古い友だちなんだ。知り合って何年にもなる。もちろんウィトラ夫人だって知っているが、まったく同じというわけではない。お前に会った回数ほど奥さんには会ったことはないしな。結婚生活がうまくいってないとは知らなかったが、そんなことはどうでもいいんだ。問題は、彼女がこれを今にも大きなスキャンダルにしそうなことなんだ……私には彼女が少し取り乱しているように見えたぞ……それで、何か深刻なことが本当に起きる前に、私が乗り出してお前と少し話をした方がいいと思ったんだ。もし今、お前に関係するスキャンダルが発生したら、それがこの仕事にとってかなりのダメージになることはお前にもわかるな」
コルファックスは何か反論か説明があると思って、いったん話すのをやめたが、ユージンはただ黙ったままだった。彼は緊張して、青ざめて、悩んだ。結局、彼女はコルファックスのところに行ったのだ。ボストンに行く代わりに、約束を守る代わりに、このニューヨークに来てコルファックスのところに行ったのだ。彼にすべてを話したのだろうか? どんなにうまいことを言っても、コルファックスは彼女に同情しそうだった。彼はユージンのことをどう思っただろう? 彼の社交のあり方はかなり保守的だった。デイル夫人は彼女の世界で何かとコルファックスの役に立つことができた。ユージンは、コルファックスが今ほど冷静で慎重なのを見たことがなかった。極力公正で公平な口調を保とうとしているようだったが、これは彼らしくなかった。
「ウィトラ、初めて会った時から、お前はずっと私にとって興味深い研究対象だった」しばらくして、コルファックスは言った。「もしそんなものがいるとすればだが、私はお前を天才だと思う。しかしすべての天才と同じで、言行がとっぴになりがちな傾向に悩まされている。私はしばらくの間、お前がものの見事にやりとげた数々のことを、おそらくお前は座って計画を立てたのだと思っていた。しかし、その後私は、お前はそんなことはしていないと結論づけた。お前はある種の力と秩序を引きつけるんだ。あと、他にもいろいろな能力があると思う……ただそれが何なのかは私にもわからない。一つは洞察力。私はお前がそれを持っていることを知っている。もう一つは能力を評価する力だ。それも持っていることを知っている。私はお前がずば抜けて優秀な人材を抜擢するのを見てきたからな。お前は一応計画を立ててはいるが、私が大きな勘違いをしていない限り、お前は論理的に、慎重に考えた上で計画を立ててはいないんだ。今回のこのデイル家のお嬢さんの問題は興味深い一例だと思う」
「彼女の話はやめましょう」ユージンは冷たく言い放って、少しつんとした態度をとった。ユージンはスザンヌのことに触れられたくなかった。危険な話題だった。コルファックスはそれを見抜いた。「あまりうまく話せないことなんです」
「なら、話すのはよそう」相手は冷静に言った。「しかし肝心なことは、他のやり方ならできたかもしれないんだぞ。お前がこの今の状況に関連づけて、あまりうまく計画を立てていなかったことは、お前も認めると思うんだ。もし立てていたのなら、自分が計画してきたことを実行するうちに、自分が奈落の底にまっすぐ進んでいたことがわかっただろうからな。もしお前がその娘を手に入れるつもりで、そして相手もその気でいたのなら、どうやらそうらしいが、娘の母親に知られないようにして手に入れちまうべきだったんだ、大将。後で彼女が状況を調整できたかもしれないんだぞ。状況が違えば、お前は娘を手に入れていただろうし、もしばれたって、その結果に苦しむことをお前は厭わなかったろうと私は思うんだ。なのに、お前はデイル夫人に知らせてしまった。それに、彼女には強力な友人がいるんだぞ。お前が無視できる相手じゃない。私だってできんのだからな。彼女は戦う気満々だ。どうもかなりの圧力をかけてお前を追放する気でいるようだ」
コルファックスはまたいったん話をやめて、ユージンが何か言うかを確認するために待ったが、ユージンは何も言わなかった。
「一つ聞いておきたい。そしてこのことで気分を害さないでほしい。私はこれに何も意図するところはないんだが、これは私の頭の中でこの問題を整理するのに役立つだろう。それに、もしその気があるのなら多分お前にとってもだ。まさか名誉を傷つけるような形で関係をもっとらんよな、そのお嬢さ……」
「ないです」相手が言い終わらないうちにユージンは言った。
「この戦いはどれくらい続いてたんだ?」
「ええと、約四週間、いや、もう少し短いです」
コルファックスは葉巻の先を噛んだ。
「お前はここで強力な敵をかかえているんだぞ、ウィトラ。お前のルールはあまり寛大ではなかった。お前のことで気づいたことがあるんだが、お前は政治的な活動がまったくできないんだな。チャンスがあれば大喜びでお前の後釜に座りたがる奴ばかり選んできたわけだからな。もし彼らがこの窮地の詳細を知ったら、お前の立場は十五分と持たんぞ。もちろん、お前はそのことを知っているな。私が何をしようと、お前は辞めなければならなくなるだろう。お前はここで自分を守りきれなかった。私では手の施しようがなかった。こんなことをしたらそうなるって考えもしなかったんだろう。恋する男は誰も考えないからな。私にはお前の気持ちがわかるんだ。奥さんを見たことがあるから、何が問題なのか、一応はわかるんだ。お前は厳しすぎるくらい束縛されてたからな。自分の家にいたって自分が主じゃなかったんだ。それでイライラが募った。人生が失敗したように見えたんだ。お前はこの結婚でチャンスを失った、あるいは失ったと思った。それでじっとしていられなくなったんだ。私はこの娘を知ってるよ。美人だ。さっきも言ったがな、大将、お前は代償を考えなかった……正しく計算していなかった……計画を立てていなかったんだ。私がお前のことでいつもうすうす感じていたものを何かが証明できるとすれば、これなんだ。お前はちゃんと注意して計画を立てていない……」そしてコルファックスは窓の外を見た。
ユージンは座って床を見つめていた。コルファックスがこれをどうするつもりなのか、ユージンにはわからなかった。彼は今まで見たことがないほど冷静に考えていた……あまり芝居がかっていなかった。いつもなら、コルファクスは叫んだ……態度に出し、演技をして……興奮した動きをした。今朝は、ゆっくりで、考え深げで、おそらくは感情的になっていた。
「私は個人的にお前のことが好きだし、ウィトラ……誰だって少しは友情を大事にしなきゃならないものだが……だが仕事となるとそういうわけにはいかない……私はゆっくりと結論に至ったんだ。結局、お前はこの場所にふさわしい人間ではないのかもしれない。お前は感情的すぎると思うんだ……とっぴ過ぎるんだな。ホワイトはずっとそれを私に言おうとしていた。だが、私はそれを信じようとしなかった。今だって彼の判断を取り入れているわけじゃない。こんなことが起きてなかったら、この先だってそういう感じ方や考えに基づいて行動したかはわからない。最終的にそうするかは私にもわからないが、お前はとても厄介な立場にいると思うんだ……この会社にとってもかなり危険な立場にな。我社が絶対にスキャンダルを許せないことはお前も知ってるだろ。新聞は絶対にこういうことを見過ごさない。無限のダメージをうちに与えるだろう。全体を見て思うんだが、お前は一年休みをとって、この問題を穏便に解決できないか見極めたほうがいい。離婚して結婚できないのなら、この娘を手に入れようなどと考えない方がいいと思うし、穏便にできないのなら離婚などしようとしない方がいいと思うがな。あくまでここでのお前の立場に限っての話だ。それ以外では、自分の好きにやればいい。だが覚えておけよ! スキャンダルになればお前はここで使えなくなるからな。事態が修復できるのならそれで良しとするし、できなければその時は仕方がないな。このことが大きく取り沙汰されれば、お前がここに戻ってくる望みがなくなることはわかるな。どうせその娘をあきらめるつもりはないのだろ?」
「ありません」ユージンは言った。
「そんなことだろうと思った。こういうことをお前がどう受けとめるかくらいはわかる。お前のタイプには強烈な影響を与えるからな。奥さんと離婚できるのか?」
「はっきりとはわかりません」ユージンは言った。「何か相応の理由があるわけではありませんから。私たちはただ意見が合わないというだけです……私の人生は空っぽの殻なんです」
「まあ」コルファックスは言った。「そういうのが周りを全部めちゃめちゃにするんだ。お前があの娘をどう感じるかはわかる。彼女はとても美しい。こういう問題を引き起こすのにぴったりのタイプだ。私はお前に何をすべきかを指図したくはない。自分のことは自分で決めるのが一番だが、もしお前に私の忠告を聞く気があるなら、結婚せずにその娘と同棲しようとしないことだな。お前の立場にいる人間は、そんなことは許されんのだ。お前は衆人環視の中にいるんだぞ。ここ数年で、自分がニューヨークでかなり目立つようになったことはわかっているよな?」
「はい」ユージンは言った。「デイル夫人とは話がついたと思ってました」
「そうではなさそうだな。彼女は私に、お前が同棲しようと彼女の娘を口説いてると言ってるぞ。お前は適切な期間内に離婚する目処が全然立っていないし、お前の奥さんは今……いや、失礼……そんなさなかに、彼女によればそんなことあってはならないのに、お前が彼女の娘と関係を持つことに固執している、てな。私だって彼女が正しいと思ってしまうぞ。つらいが仕方がない。彼女は言うんだが、もし許されなければ娘を連れ去って一緒に暮らすつもりだ、とお前は言っているそうだな」
コルファックスは再び口をつぐんだ。「そのつもりなのか?」
「はい」ユージンは言った。
コルファックスは椅子の中でゆっくりと体を曲げて窓の外を眺めた。何て奴だ! 愛とは何と不思議なものだろう! コルファックスは最後に尋ねた。「お前はこれをいつ実行しようと思うんだ?」
「さあ、わかりません。今は完全に混乱しています。考えなければなりません」
コルファックスは考え込んだ。
「これは異常事態だ。これを私のように理解する人は少ないだろうし、お前、ウィトラを私のように理解する人も少ないだろう。お前は正しく計算をしていなかったんだ、大将、お前はその代償を払わねばならなくなるぞ。我々全員がそうなるんだぞ。私はお前をここに留まらせることはできない。できればいいんだが、できないんだ。お前は一年休んでこの件をよく考えなければならない。もし何も起きなければ……何のスキャンダルも起きなければ……いや、どうするかを言うのはよそう。ここのどこかよそにお前の働く場所を用意するかもしれない……まったく同じ地位というわけにはいかないが、どこかよそにだ。これについては考えなくてはならないがな。その間に」……コルファックスは話をやめて再び考えた。
ユージンは、自分がどうなるかをはっきりとわかりかけていた。この復帰についての話には何の意味もなかった。コルファックスの考えで明らかだったことは、ユージンが出て行かなくてはならないことだった。そして彼が出て行かなくてはならない理由は、デイル夫人やスザンヌやそれに関係する道徳的な問題ではなく、彼がコルファックスの信頼を失ったからだった。どういうわけかコルファックスは、ホワイトやデイル夫人や、ユージンの日頃の行いを通して、ユージンはとっぴで気まぐれあるという結論に到達していた。そして他には何もなくそれだけの理由で、ユージンは今処分されていた。これはスザンヌのせいだった……これは運命、彼自身の不運な気質のせいだった。ユージンは哀れなほど考え込んで、それから言った。「これはいつそうなることにすればいいですか?」
「ああ、いつでもいい、早ければ早いほどいいな。もしこれがもとで人目につくスキャンダルが起きるのならばな。時間がほしいのなら、三週間やひと月、六週間かけてもいいぞ。健康上の問題にして依願退職にすればいいだろう……つまり体裁だな。そうしてくれれば、私のその後の結論は何も変わらない。ここは今、万全の体制が整えられているから、一年は大きな問題もなくうまく回るだろう。また我々が修正すればいいさ……それは状況によるが……」
ユージンは、最後の偽善的なセリフは加えなければよかったのにと思った。
コルファックスは握手をしてドアに向かい、ユージンは窓の方に歩いた。ここですべての堅固な基盤が、彼の足元から、まるで砲撃のような致命的一撃をくらった。彼は年収二万五千ドルというこの本当にすばらしい地位を失ってしまった。これと同じものを次はどこで手に入れるつもりだろう? 他の誰が……他のどんな会社が、そんな給料を払うことができるのだろう? スザンヌと結婚しなかったら、彼はこれからどうすればリバーサイド・ドライブのアパートを維持できるのだろう? どうすれば自動車や付き人を持つことができるだろう? コルファックスは、彼の収入が続くとは何も言わなかった……どうして彼がそんなことをしなければならないのだろう? 彼は本当にユージンに何の支払い義務もなかった。ユージンには破格の報酬が支払われていた……他のどこよりもいい給料が支払われていた。
彼は〈ブルーシー〉についての空想的な夢の数々を……それに全財産をつぎ込むという愚かな熱中を……後悔した。デイル夫人はウィンフィールドのところに行くだろうか? 彼女の話はそこで彼に実害を及ぼすだろうか? ウィンフィールドはいつも彼にとっていい友人であり、深い敬意を表していた。この告発といい、誘拐の話といい、すべてが何とも哀れだった。これはウィンフィールドの態度を変えるかもしれない。果たして変わるだろうか? 彼には女性がいた。しかし妻はいなかった。コルファックスが言ったように、彼はこれを正しく計画していなかった。今や明白だった。かすかに光っていた彼の夢の世界が、夕暮れの空のように、薄れ始めていた。結局、彼は鬼火を追いかけていたのかもしれない。果たしてこんなことがありえるのだろうか? ありえるだろうか?
第二十二章
人は、この恐ろしい一撃がいったんユージンを思いとどまらせたと思っただろう。実際そうだった。これは彼を震撼させた。デイル夫人はコルファックスのところに行って、彼の影響力を使ってユージンをおとなしくさせるよう説得した。そしてそれだけのことをやってしまうと、さらに踏み込む心の準備が事実上できあがった。ユージンを貶めることができて、いかなる形であれスザンヌを巻き込まずに、彼の本性を知らしめることができる何かの陰謀を考えていた。ユージンに執拗に追いつめられ、苦しめられてきたので、今は彼女自身の態度が執拗になっていた。できることなら今すぐユージンに完全にいなくなってもらい、もうスザンヌには会わないでほしかった。まずはウィンフィールドのところに行って、それから今後の連絡を、少なくともスザンヌの行動か、あるいはユージンが現れる可能性を、阻止したいと願ってレノックスへ戻った。
デイル夫人はウィンフィールドを訪れたが、そこでは道徳や感情はあまり大きな問題にならなかった。ウィンフィールドは自分がこの件で行動を起こすように求められているとは感じなかった。彼はユージンの後見人でも、道徳の公的な取締役でもなかった。彼は堂々とこの問題全体を脇に放り投げた。しかし、ある意味ではこれを知って喜んだ。これでユージンより有利な立場になったからだ。彼は少しだけユージンをかわいそうだと思った……そう思わない人がいるだろうか? しかし〈ブルーシー社〉の再編成を考える上で、ユージンの利害がどうなるかという問題になると、それほど気の毒だとは感じなかった。その後しばらくして、ユージンが自分の持ち株を処分できないかと持ちかけてきたとき、ウィンフィールドにはその方法がわからなかった。この会社は実は経営状態がよくなかった。さらなる資金が投入されねばならなかった。すべての自己株式が速やかに処分されるか、組織が再編成されなければならなくなるだろう。この状況で約束できる最善のことは、ユージンの持ち株は、新しい経営陣による新規発行株のわずかな価値と交換されるかもしれないという程度だった。だから、これにかけた自分の夢の終わりがはっきりと迫っているのがユージンには見えた。
デイル夫人が何をしたかがわかったとき、この状況をスザンヌに明確に伝える必要があることもわかった。すべてのことが彼を急停止させた。ユージンは、自分はどうなるのだろうと思い始めた。二万五千ドルの年収は断たれた。外部に影響されない財産をブルーシーで築く見込みは潰えた。現金がないため昔の生活はできなくなった。果たしてお金なしで社交界を渡り歩ける人がいるだろうか? 彼は、自分が完全に社会的にも商業的にも消滅する危険に陥っていることを知った。万が一、彼とスザンヌの道徳に関わる関係と、アンジェラに対する彼の非情な態度に関する議論が持ち上がって、例えばもしホワイトがそれを聞きつけたら、彼はどうなるだろう? ホワイトはこの事実を方々に広めるだろう。これは町の噂に、少なくとも出版界では噂になるだろう。市内の出版社はこぞって彼を締め出すだろう。ユージンはコルファックスが口外するとは思わなかった。ユージンは、結局デイル夫人はウィンフィールドには話さなかったのだと想像した。しかし、もし彼女が話していたら、どこまで広がっただろう? ホワイトはコルファックスを通じてこの話を聞くだろうか? 知ったら秘密にしておくだろうか? 絶対にしない! 自分のやっていたことの愚かさが、彼にもぼんやりわかり始めた。彼がしてきたことは何だったのだろう? 強い麻薬で深い眠りに投げ込まれ、自分はどこにいるのだろうとぼんやり考えながら今ゆっくりと目が覚めてきた人のように感じた。彼はニューヨークにいた。職はなく、現金は少ししかなかった……おそらく全部で五、六千ドルだった。スザンヌの愛は手に入れたが、母親がまだ彼と戦っていた。そして彼は離婚しないままアンジェラを手元に置いていた。これからこれだけのことをどうやって整理すればいいのだろう? どうすれば彼女のところに戻ることを考えられるのだろう? 無理だ!
ユージンは座って、スザンヌに次のような手紙を書いた。彼女に状況がどうなっているかを説明し、もし彼女が望むのであれば、撤回のチャンスを与えようと思った。今はそれだけでもしなければならないと思った。
「フラワーフェイスへ
今朝、コルファックス社長と話をしました。僕が恐れていたことが起こってしまいました。あなたのお母さんは、あなたが考えたようにボストンに行く代わりに、ニューヨークに来て、社長と、おそらくは私の友人のウィンフィールドに会いました。お母さんはその方面で僕に何かのダメージを与えることはできません。というのは、その会社と僕との関係は、給料とかどんな形であれ固定収入に依存していないからです。ですがお母さんはここで僕に計り知れないダメージを与えました。率直に言うと僕は失業しました。お母さんと無関係な別の圧力がなかったら、こうなってはいなかっただろうと思います。しかし、お母さんの非難と告発は、他の何者かのここでの対立に便乗して、お母さんが単独ではなし得なかったことをやってのけたのです。フラワーフェイス、これが何を意味するかわかりますか? 以前あなたに話しましたが、僕は余っていた現金をすべて〈ブルーシー〉につぎ込んでしまいました。それが大きくなることを期待したのです。そうなるかもしれないのですが、ここで給料が断たれれば、すぐに次の雇用契約を結べない限り、僕に大きな変化が訪れます。おそらくリバーサイド・ドライブのアパートと自動車は手放さなければなりません。他にもいざという時に備えて出費を切り詰めなくてはなりません。これは、もしあなたが僕のところに来るなら、僕が何か他のことを見つける決断をして実現できない限り、僕たちは僕が芸術家として稼げる収入で生計を立てなくてはならないことを意味します。あなたを探しにカナダに向かったとき、僕の頭にはこの考えがありました。しかし実際にこういうことになってしまった以上、あなたは違うことを考えるかもしれません。〈ブルーシー〉への投資に何も起きなければ、いつかそれがひとかどの財産になるかもしれません。僕にはわかりませんが、これはずっと先の話です。そして、それまではこれだけしかありません。それにあなたのお母さんが僕の評判を落とすために他にどんなことをしてくるかわかりません。お母さんはかなりむごたらしいことを考えているようです。あなたはお母さんがロッジでどんなことを言ったか聞きましたね。明らかにお母さんはあれを完全に反故にしました。
フラワーフェイス、状況がどうなっているのかあなたにもわかるように、僕はすべてをあなたの前に開示します。あなたが僕のところに来れば、落ちた評判に直面するかもしれません。ユナイテッド・マガジンズ社の統括出版部部長ユージン・ウィトラと芸術家ユージン・ウィトラとの間には大きな差があることを理解しなくてはいけません。僕はあなたを愛するあまり、とても無謀で傲慢でした。あなたがとても愛おしかったからです……あなたは僕がこれまでに知り得た最も完璧な存在でした。僕はすべてを愛の祭壇に捧げました。改めて捧げます、喜んで……千回でも。あなたが現れるまで、僕の人生は暗澹たるものでした。自分が生きているとは思いましたが、心の中では、それが埃まみれの殻……まやかしだとわかっていました。そのとき、あなたが現れました。ああ、何と僕は生きていたんです! 美しい空想に明け暮れました。ホワイトウッド、ブルーシー、ブライアクリフ、サウスビーチでのあのすばらしい最初の日をこの先忘れることがあるでしょうか? かわいいお嬢さん、僕たちの道は完璧と安寧の道でした。これはやるとなるとかなり無理があったのですが、自分のためだったので、僕は後悔していません。僕はすばらしく甘い完璧な夢を見ていたのです。あなたがすべてのことを知って、状況を理解し、僕が今お願いしているように立ち止まって考えたら、あなたは後悔して考えを改めたくなるかもしれません。もしそう感じるなら、ためらわずにそうしてください。あなたがお母さんに話すずっと前に、時間をかけて冷静に考えるよう、僕があなたに言ったことを覚えてますね。僕たちが計画していたこれは、大胆で奇抜なことなんです。僕たちが見るのと同じように、世間がこれを見ることを、期待できないことなんです。トラブルがその後に続くことが十分に予想されます。ですが僕にはこれがやれそうに思えました。今でもそう思えます。もしあなたが僕のところに来たければ、そう言ってください。僕に来てほしければ、その言葉を言ってください。イギリスかイタリアに行きましょう。僕はまた絵を描くことにします。僕はそれができると信じています。あるいは、ここにとどまって、何か就職口がないか、さがしても構いません。
でも、あなたのお母さんがまだ戦いを終えていないかもしれないことを覚えておいてください。お母さんはこれまでよりももっと大きなことをやるかもしれません。あなたはお母さんを自分の意のままにできると思っていましたが、そうではないようです。僕たちはカナダで勝ったと思いましたが、どうやら違うようです。もしお母さんが、あなたのお父さんの遺産の取り分をあなたが使えないようにすれば、あなたを困らせることができるかもしれません。あなたを閉じ込めようとすれば、できるかもしれません。僕があなたと話せればいいのですが。レノックスであなたに会うことはできませんか? 来週には帰ってきますか? やるのであれば、今度は考えて、計画を立てて、行動するべきです。でも、もし迷っているなら、僕に気を遣ってあなたがやりたいことを妨げないでください。今は状況が違っていることを忘れないでください。あなたの未来全体があなたの決断にかかっています。おそらく僕はもっと前にこうやって話しておくべきでした。でも、まさかあなたのお母さんが、見事にやってのけたことをやれる人だとは思いませんでした。僕は自分の経済状況がこれに関係するとは思わなかったのです。
フラワーフェイス、今日は僕にとって本当の試練の日です。僕は不幸です。でもそれはあなたを失うかもしれないからです。他のことはすべてまったく重要ではありません。僕の境遇がどうなっても、あなたがいれば、すべては完璧になり、あなたがいなければ、夜と同じ真っ暗闇になるでしょう。決定権はあなたの手の中にあります。あなたが行動しなければなりません。あなたがどんな決定を下そうと僕はそれに従います。さっきも言いましたが、僕への気遣いを判断過程に立ち入らせないでください。あなたは若いのです。あなたの前には上流階級の生活が待っています。所詮、僕はあなたの二倍の年齢です。こうして僕が正直に話すのは、もし今あなたが僕のところに来たらどうなるのかをあなたにはっきりと理解してほしいからです。
ああ、あなたが本当に理解しているのか、僕は時々わからなくなります。僕は夢の夢でも見ていたのだろうかと思ってしまいます。あなたはとても美しい。あなたは僕にそういうものを啓示してくれました。あれは獲物をおびき寄せるおとりか、鬼火だったのか? 僕にはわからない。わからないのです。それでも僕はあなたを愛してる、愛してる、愛しています。千のキスをおくります、神聖な炎のあなたに。そして、僕はあなたの言葉を待っています。
ユージン」
スザンヌはレノックスでこの手紙を読み、生まれて初めて真剣に考え始めた。自分はずっと何をしていたのだろう? ユージンは何をしているのだろう? この結末はスザンヌを怯えさせた。彼女の母親は彼女が想像した以上に目的意識が強かった。まさか、母親がコルファックスのところへ行くとは……嘘をついて態度をころころ変えるとは。スザンヌは自分の母親がこんなことをすると考えたことはなかった。ユージンが失業するかもしれないと考えたことはなかった。スザンヌにはユージンがいつもとても力強そうに見えた。何でも自分の思い通りにしてしまう人に見えた。以前、二人で一緒にドライブに出かけたときに、ユージンがどうして僕のことが好きなのかと尋ねると、スザンヌは「あなたは天才で何でも好きなことができるからよ」と言った。
「いや」ユージンは答えた。「そんなことはないさ。大したことは本当に何もできないんだ。きみは僕を買いかぶっているだけだよ」
「まあ、私は買いかぶってなんかいないわ」スザンヌは答えた。「あなたは絵が描けるし、文章も書けるわ」……スザンヌは、〈ブルーシー〉の小冊子や、彼女自身を詠んた詩や、ユージンが一度アパートで見せてくれたスクラップブックにあった、シカゴの新聞社時代に書いた記事の切り抜きから判断していた。「それにああいう会社だって経営できるし、広告部の部長さんでアートディレクターだったんでしょ」
彼女は顔を上げて、称賛しながらユージンの目をのぞき込んだ。
「僕の経歴をよく知ってるね!」ユージンは答えた。「神は滅ぼそうとする者をまず狂わせるんだ」ユージンはスザンヌにキスをした。
「そしてあなたはとても美しく愛してくれるわ」スザンヌは最高に盛り上げようとして付け加えた。
それ以来、スザンヌはこのことをたびたび考えた。しかし今、どういうわけか、ひどいぶり返しがあった。ユージンはそれほど強くなかったのだ。彼は母親の行動を阻止できなかった。では彼女なら母親をちゃんと抑えられただろうか? スザンヌが母親の策略をどう思おうが、母親はこれを阻止するために手段を選ばなかった。彼女は完全に間違っていたのだろうか? どういうわけか期待していたことが起こらなかったセント・ジェイクスでのあの決定的な夜からずっとスザンヌは考えていた。彼女は本当に家を出てユージンと一緒に行きたかったのだろうか? 彼女は財産を巡って母親と争いたかったのだろうか? 彼女はこうしなければいけなかったのかもしれない。スザンヌの最初の考えは、彼女とユージンはどこかのすてきなアトリエで会うことにして、彼女は自分の生活を続け、ユージンはユージンの生活を続けるというものだった。貧乏だとか、自動車がないとか、家から遠く離れるというこの話は、随分違う話だった。それでも彼女は彼を愛していた。もしかしたら、まだ母親に条件を突きつけることができるかもしれない。
その後も二、三日、さらに争いは続いた。そのときにマルクヮルト信託会社の財産管理人ハーバート・ピトケアン氏と再びドクター・ウーリーがスザンヌと話し合うために呼ばれた。スザンヌは決心がつけられないまま、一年待ってそれでもなお本当に彼をほしいと言うなら、彼を自分のものにすればいいという母親の狡猾な訴えを聞いた。それからピトケアン氏が、どの裁判所も申請があり次第彼女を無能力者と認定して財産を凍結すると思う、と母親に話すのを聞いた。さらにドクター・ウーリーが彼女の目の前で母親に、精神異常にしてしまうことが望ましいとは思わないが、この罪深い成婚を阻止するためであれば、母親が主張すれば裁判官は間違いなく彼女の精神異常を認定するだろう、と言うのを聞いた。スザンヌは怖くなった。ユージンの手紙が届いてから、彼女の鋼の神経は弱くなっていた。母親にはひどく腹が立ったが、この時初めて、友だちはどう思うだろうと考えるようになった。もしも母親が自分を閉じ込めたら。友だちは自分がどこにいると思うだろう? 自分の母親を疲弊させてしまったこの緊張の日々が続いた数週間は、彼女自身の強さというか神経に、かなり影響を及ぼしていた。これはあまりにも強烈だった。ユージンが提案したとおりにして少し様子を見た方がいいのではないかと彼女は思い始めた。もし彼女がそうしたければ待つ、とユージンはセント・ジェイクスで同意していた。唯一の条件は、二人が時々会うことだった。今また母親は方向転換して、危険な悪影響がある、自分が本当にそうしたいのかを確かめるために、少なくとも一年は以前のような生活を邪魔されずに送るべきだ、と訴えた。
「どうしてあなたにわかるのよ?」スザンヌが話したがらないのにデイル夫人は強く言った。「あなたはこれに心を奪われてしまい、考える時間をとってこなかったでしょ。一年くらいどうってことないわ。それがあなたや彼にどんな害を及ぼすのよ?」
「でも、お母さん」スザンヌはその都度何度も尋ねた。「どうしてお母さんはコルファックスさんに言いに行ったのよ? 何て意地の悪い残酷なことをしたのかしら!」
「彼をいったん立ち止まらせて考えさせるには、そういうことが必要だと思ったからよ。飢えることはないわよ。才能がある人なんだから。彼を正気に戻すためにはそういうことが必要なのよ。コルファックスさんだって解雇はしていないわ。解雇はしないって言ったもの。一年休みをとらせて考えさせるって言ってわ。だから言ったとおりになっただけでしょ。そんなことじゃ彼は傷つかないわ。それで傷ついたって私は構わないけど。彼が私を苦しめたやり方を見てみなさい」
デイル夫人はユージンに対して極端に敵意を感じていて、ようやく自分の番が回ってきたことを喜んでいた。
「お母さん」スザンヌは言った。「私はこれを絶対に許さないわよ。お母さんはひどいことをしているわ……私は待ちます、でもね、どうせ結果は同じことになるわよ。私は彼を手に入れますからね」
「一年後ならあなたが何をしようと構わないわ」デイル夫人は明るくさりげなく言った。「そのくらい待って、自分に考える時間を与えて、それでも彼と結婚したければ、そうすればいいでしょ。いずれにせよ、向こうだっておそらくその間に離婚できるでしょう」デイル夫人が言っていたことは本心ではなかったが、もし問題を先延ばしにできるのなら、この際どんな議論でも良しとした。
「でも私は彼と結婚したいのかわからないわ」スザンヌは自分の最初の考えに戻りながら性懲りもなく言い張った。「それは私の意見じゃないのよ」
「まあ、とにかく」デイル夫人は愛想よく答えた。「一年もすれば、そういうことについてはどう考えるべきなのか、もっとよくわかってくるわよ。あなたに強制したくはないんだけど、私は手を差し伸べもせず、立ち止まってよく考えさせもせずに、こんなふうにうちの家庭や幸せを壊させるつもりはないわ。あなただってそのくらいのことを私にしてくれてもいいでしょ……長年ずっとあなたの面倒を見てきたんだから、私に多少の気遣いを見せてほしいわ。一年待ったってあなたの害にはならないわ。彼の害にもなりません。その頃には、彼が本当にあなたを愛しているかどうか、あなたにもわかるわよ。これはただの一時的な気まぐれかもしれないわ。彼にはあなたの前にも他の女がいたんだから。あなたの後にだって他の女ができるかもしれないわ。奥さんのところに戻るかもしれないし。彼があなたに何を言おうが関係ないのよ。向こうの家庭と私の家庭を壊す前に、あなたは彼をテストすべきだわ。もし彼が本当にあなたを愛していれば、すぐに同意するわよ。お母さんのために、こうしておくれよ、スザンヌ、そしたらもうお母さんは決してあなたの邪魔はしないから。一年待ってくれれば、あなたは何でも自分の好きにしていいからさ。妻として行かないのなら彼のところには行かないでほしいと願うしかないけど、あなたが言い張るなら、出来るだけ穏便に事を済ませるわ。彼に手紙を書いて、一年待つことに決めたことを伝えなさい。もう彼に会う必要はないでしょ。そんなことをしたってまた新たに事を荒立てるだけだもの。彼には会わずに手紙を書くだけにすれば、その方が彼のためになるのよ。あなたがもう一回彼に会って、もう一回すべてを蒸し返せば、向こうはそれほどひどいと感じなくなるんだから」
デイル夫人はユージンの影響力をひどく恐れていたが、こればかりは果たせなかった。
「そうはいかないわ」スザンヌは言った。「そんなことをするつもりはありません。私はニューヨークに帰ります。この話はこれでお終い!」デイル夫人は最終的にそこまで譲歩した。そうしなければならなかった。
三日後に、手紙のすべてに答えることはできないが、ニューヨークに帰るから会いましょう、という手紙がスザンヌから届いた。その後、デイルビューで母親立会いのもとで、スザンヌとユージンは会った……ドクター・ウーリーとピトケアン氏はその時、邸内の別の場所にいた……そこで新たに提案が検討された。
デイル夫人の要求が自分の前に提示されてから、ユージンはこれまでになく陰鬱で、それでいて一段と熱い心の状態で車を走らせた……陰鬱は、重くのしかかる悪い予感と彼自身の暗い財政状況のせいだった……一方で別の瞬間には、スザンヌが何かすばらしい必死の抵抗をしてくれる、彼に駆け寄り、すべてに反抗し、激しく確信的に自分の立場を表明し、彼と共に勝者になってくれると考えることで、元気づけられることもあった。スザンヌの愛情に対するユージンの信頼は依然として絶大だった。
その夜は、鋼色の空をした寒い十月の夜で、霜の先触れの三日月が西に新たに見え、尖った星々がびっしり頭上を覆っていた。スタテン島のフェリーボート上で自分の車に座っている間に、南下するカモの長い行列が葦の生い茂る沼地に帰っていくのが見えた。これはブライアントが『水鳥に』を描いたときに、頭にあったものだ。カモは飛びながら鳴いていた。そのかすかな「クワッ」という鳴き声がどこからともなく戻ってきて、ユージンに絶望的孤独と寂しさを感じさせた。十月の木々を通り過ぎてデイルビューに到着し、立派な応接間に入った。そこには火が燃えていた。春に一度、スザンヌとダンスを踊った場所だった。心臓が跳ね上がった。彼女に会うことになっていたからだ。ただ彼女を見るだけのことが、彼の熱を帯びた体にとっては強壮剤だった……喉がかわいた人にとっての冷たい飲み物だった。
ユージンが来るとデイル夫人は彼を睨みつけたが、スザンヌは抱擁で歓迎した。スザンヌは少しの間ぎゅっと抱きしめて、呼吸を乱しながら「ああ!」と叫んだ。しばらくの間、完全な沈黙があった。
「お母さんが言うのよ、ユージン」スザンヌはしばらくしてから言った。「私たちは一年待つべきだって。それに、こうやって大騒ぎになるんだから、もしかしたら、その方がいいかもしれないって私は思うの。私たちは少し急ぎ過ぎたかもしれないって思わない? お母さんがコルファックスさんのところへ行ったことを私がどう思ってるかを言ったんだけど、お母さんったら気にしてないみたいのよ。今度は私を精神異常と認定してもらうって脅かしているわ。私はどうせあなたのところに行くんだから、一年待つくらいあなたはどうってことはないでしょ? でも、これについてあなたに尋ねるには、私が直接これをあなたに話すべきだと思ったの」……スザンヌは話すのをやめて彼の目をのぞきこんだ。
「この件はすべてセント・ジェイクスで話がついたと思ったんですが」ユージンはデイル夫人の方を向きながら言ったが、沈み込むような恐怖の感覚を経験していた。
「そうね、娘に会わないこと以外はすべて話がついたわね。あなたがた二人が一緒にいることは、到底勧められないことだと思うわ。現状ではあり得ないわね。世間の噂になるわ。奥さんの状態は調整されなきゃならないでしょ。あなただって奥さんや生まれてくる子供がいるのに、浮気なんかしていられないでしょ。私はスザンヌに、落ち着いてすべてをじっくり考えられる場所に一年間行ってもらいたいのよ。あなたからもあの娘に勧めてほしいわ。それでもなお、あの娘があなたを必要だと言い張って、結婚に関する状況の理屈に耳を貸そうとしないのであれば、そのときはこのすべてから私は手を引くつもりよ。スザンヌは相続権を手に入れるかもしれないわ。もしあなたのことがほしければ、あなたを手に入れるかもしれないわ。そのときまでにあなたが正気に戻っていたら、私はそう願いたいですけど、あなたは離婚するなり、奥さんのところに戻るなり、賢明なやり方で何なりとやってください」
デイル夫人はここでユージンを怒らせたくはなかったが、とても辛辣だった。
ユージンは眉をひそめただけだった。
「スザンヌ、これはきみの決断でもあるのかい?」彼はうんざりした様子で尋ねた。
「お母さんはひどいと思うわ、ユージン」スザンヌははぐらかすように答えた。あるいは母親への返事のつもりだったのかもしれない。「あなたと私は人生の計画を立ててきたわ。二人でやり遂げるつもりでね。今考えると、私たちは少し自分勝手だったのよ。それでこの騒ぎがすべて収まるのなら、私は一年待つくらい何の問題もないと思うわ。あなたが待てるなら、私だって待てるから」
これを聞いて言いようのない絶望感がユージンを襲った。悲しみがあまりにも深くて言葉が出なかった。自分にこれを言っているのが本当にスザンヌだとは信じられなかった。一年待ちたい! 待つつもりはないとあんなに反抗的に宣言していたのに。そんなのどうってことない? まさか、人生と、運命と、彼女の母親が、結局こんな形で彼を打ち負かしているなんて。では、最近よく見かけた黒髭の男にはどんな意味があったのだろう? どうして蹄鉄を見つけていたのだろう? 運命とはこういう嘘なのだろうか? 人生は、暗く得体の知れない空間に、人を誘う疑似餌や罠を仕掛けるのだろうか? 彼の職はなくなり、彼のブルーシーへの投資は期限の定かではない延滞に巻き込まれて何の利益も生まないかもしれず、スザンヌは丸一年、おそらくは永遠にいなくなるのが確実だった。丸一年、彼女をひとりにしておいて、母親が彼女にできないこととは何だろう? アンジェラは疎遠になり……子供が生まれようとしていた。何という盛り上がり方だろう!
「これは本当にきみの決断なのかい、スザンヌ?」ユージンは悲しそうに尋ねた。悲哀の霧が彼全体を覆っていた。
「私はそうすべきだと思うのよ、ユージン」スザンヌは依然としてはぐらかすように答えた。「これはとてもつらいわ。でも、私はあなたに誠実でいます。私は変わらないってあなたに約束します。私たちなら一年待てるって思わない? 待てるわよね?」
「丸一年、きみに会わないのにかい、スザンヌ?」
「ええ、そんなのあっという間よ、ユージン」
「丸一年がかい?」
「そうよ、ユージン」
「もう何も言うことはありません、デイルさん」厳かに母親の方を向きながら彼は言った。その瞬間に、物憂げで陰鬱な光を目に宿し、スザンヌに対しては心を鬼にした。まさか、彼女が彼をこんなふうに扱うなんて……彼の言葉で言うなら、彼を投げ捨てるなんて。まあ、人生はそういうものだ。「あなたの勝ちです」ユージンは付け加えた。「これは私にとって恐ろしい経験でした。恐ろしい情熱でした。私はお嬢さんを愛しています。心の底から愛しているんです。彼女はわかっていないのかもしれない、と時々漠然と疑うことはありましたが」
ユージンはスザンヌの方を向いた。彼は初めて、ずっとそこにあると思っていた本当の理解がそこに見えないと思った。運命はここでも彼に嘘をつき続けていたのだろうか? 彼はこれを勘違いして、美の幻の誘惑を追いかけていたのだろうか? スザンヌは彼を昔の何も持っていない状態に引きずり下ろすためのもうひとつの罠に過ぎなかったのだろうか? 神さま! 七、八年後に挫折の第二期を迎えるという占星術師の予言がよみがえった。
「ああ、スザンヌ!」ユージンは単純に、無意識に、大げさに言った。「きみは本当に僕のことを愛しているのかい?」
「ええ、ユージン」スザンヌは答えた。
「本当に?」
「はい」
ユージンが両腕を広げるとスザンヌはやって来たが、彼はどうしてもこの恐ろしい疑念を払拭できなかった。これは彼のキスから喜びを奪った……まるで夢のように完璧な何かを抱きしめた夢を見ていて、目を覚ますとそこに何もなかったことに気づいたかのようだった……まるで人生が彼を裏切るために少女の形をしたユダを送り込んだかのようだった。
「もう終わりにしましょうよ、ウィトラさん」デイル夫人は冷たく言った。「引き延ばしたって得るものは何もないわ。一年間休んで、それから話しましょう」
「ああ、スザンヌ」ユージンは弔いの鐘のように悲しそうに続けた。「ドアまで一緒に行こう」
「だめです、使用人がいるんですから」デイル夫人は口を挟んだ。「別れの挨拶ならここでしてください」
「お母さん」スザンヌはその哀れさに動かされて、怒って食ってかかった。「そんなこと言わせないわよ。部屋から出てって、さもないと私が彼とドアどころかその先まで行くことになるわ。私たちだけにしてよ、お願いだから」
デイル夫人は出て行った。
「ああ、フラワーフェイス」ユージンは泣き言を言った。「僕には信じられない。信じられないよ。信じられないんだ! やり方を間違えてしまった。僕はずっと前にきみを連れて行くべきだったんだ。だから、こんな終わり方をすることになったんだ。一年、丸一年だ、そしてあとどれくらいのびるんだい?」
「たった一年でしょ」スザンヌは言った。「たったの一年よ、私を信じて、信じられないの? 私は変わらないわよ、絶対にね!」
ユージンが首を振ると、スザンヌは以前と同じように彼の顔を両手で受け止めた。彼の頬と唇と髪にキスをした。
「私を信じて、ユージン。私が冷たく見えるかしら。私がどんな思いをしてきたか、あなたは知らないからよ。どこを向いてもトラブルしかないんですもの。一年待ちましょうよ。あなたのところに行くって約束するわ。誓うから。一年よ。私たち一年くらい待てない?」
「一年か」ユージンは言った。「一年だろ。僕にはそんなの信じられないな。一年後、僕たちはみんなどうなっているだろうね? ああ、フラワーフェイス、咲き誇るギンバイカ、神聖な炎。こんなことには耐えられない。僕には耐えられない。ひどすぎるよ。僕は今こうしてツケを払っているんだ。そう、自業自得なんだ」
ユージンはスザンヌの顔に手をあて、その柔らかく魅力的な特徴のすべてを、目を、唇を、頬を、髪を見た。
「僕は思ったんだけどな、思ったんだけどな」ユージンはつぶやいた。
スザンヌはただ両手で彼の後頭部を撫でた。
「でも、そうしなければならないなら、そうしなければならないね」ユージンは言った。
ユージンは背を向け、スザンヌを抱きしめようと振り返り、また背を向けて、次は振り返らずに廊下に出て行った。デイル夫人がそこで待ち構えていた。
「おやすみなさい、デイルさん」ユージンは辛気臭く言った。
「おやすみなさい、ウィトラさん」デイル夫人は冷ややかに答えたが、彼女の勝利には悲劇的な何かを感じるものがあった。
ユージンは帽子をとって外に出た。
外では明るい十月の星々が何百万と見えた。ニューヨークの港湾はすばらしく照らされていた。フォート・ウォズウァースで夕方を過ごした後、ポーチにいる彼のところにスザンヌが来たあの夜のようだった。彼は、春の匂い、若さと愛のすばらしい感覚……あのときに芽生えていた希望を思い出した。今は、あれから五、六か月が経っていた。そして、あのすべてのロマンスは消えてしまった。スザンヌ、甘い声、完成されたスタイル、軽快なささやき、繊細な感触。それがなくなってしまった。すべてがなくなってしまった……
「花とそのすべてのつぼみの魅力は消えた、
その美しい姿は私の目から消えた、
その美しい形は私の腕から消えた、
声、ぬくもり、白さ、楽園は消えた」
一緒にドライブし、一緒に食事をとり、車のそばの静かな場所を歩いたあの輝かしい日々は終わった。ここから少し離れた場所で、彼は初めてスザンヌとテニスをしたのだ。ここから少し離れた場所に頻繁に通ってこっそりスザンヌと会ったのだ。もう彼女はいない……いなくなってしまった。
ユージンは車で来ていた。しかし本当はそんなものはほしくなかった。人生は呪われていた。彼の人生は失敗だった。まさか、彼のすてきな夢がすべてこんな形で壊れてしまうとは。まもなく彼は、車も、リバーサイド・ドライブの家も、職も、何もかも、失うのだ。
「ああ、僕はこんなことには耐えられない!」ユージンは叫んだ。そして少しして……「神さま、僕には耐えられない! 耐えられません!」
バッテリーで車を降ろし、運転手にガレージに運ぶように告げて、ロウワー・ニューヨークの暗い高層街を憂鬱そうに歩いた。ここは彼がコルファックスやウィンフィールドと一緒によく来たブロードウェーだった。ここは、ユージンが輝きたいと漠然と願っていたウォール街周辺の偉大な金融の世界だった。もうこういうビルは敷居が高く、何も言ってくれなかった……ある意味では彼から遠ざかっていた。頭上にはあざやかな明るい星々があって、涼しげで、さわやかだったが、今の彼には意味がなかった。彼はこの決着をどうつけることになるのだろう? どう調整することになるのだろう? 一年だぞ! 彼女は絶対に戻ってこない……絶対にだ! すべてがなくなった。明るい雲は消えた。蜃気楼は消えて元の何もない状態になった。地位、名誉、愛、家庭……はどうなるのだろう? もう少しすれば、これらはすべて最初からなかったも同然になるだろう。畜生! 忌々しい! 彼を滅ぼすために、こういう企てができる気味の悪い運命に呪いあれ!
スザンヌはデイルビューの自室に戻って閉じこもった。彼女はこれの悲劇性を強く感じずにはいられなかった。床を見つめて、彼の顔を思い返した。
「ああ、ああ」スザンヌは言った。生まれて初めて、大きな心の痛みのせいで泣ける気がした……しかし泣けなかった。
そして、リバーサイド・ドライブでは別の女性が自分に降りかかった悲劇の本質をめぐって、孤独に、悄然と、絶望して、思い悩んでいた。この事態はどのように調整されるのだろう? 彼女はどのように救われるのだろう? ああ! ああ! 彼女の人生、彼女の子供は! わかってくれるように、ユージンが作り替えられればいいのに! 目を向けるように、作り替えられるだけでもいいのに!
第二十三章
コルファックスとの話し合いと、事実上の拒否回答になったスザンヌの決断の後の数週間で、ユージンはアンジェラとの関係修復はもちろん、〈ユナイテッド・マガジンズ社〉の残務整理をしようとした。これは簡単な仕事ではなかった。コルファックスは、しばらく社用で海外へ行くと言って、すぐ出発するほどの緊急の用件に見せればよかろう、と提案してかなりユージンを助けてくれた。ユージンは各部門の責任者を呼んで、コルファックスが提案したことを伝えた。それ以外にも、彼らが知っていたか感づいていた彼自身の事業が今かなり関わっているので、戻らないかもしれないし、あるいは戻れてもせいぜい一時的だと付け加えた。ユージンは、自分が直面している困難を考えながらも、とても満ち足りていて、自分は満足している雰囲気を前面に出した。このことは大きな驚きとして受け流されたが、彼が抱える差し迫った不幸はまったく疑われなかった。実際、彼はもっと高い地位につく……自分の私的な利益を支配する者になる……運命だと思われた。
ユージンはアンジェラと話して、彼女から離れるつもりでいることをはっきりと伝えた。これについては何もごまかすつもりはなかった。アンジェラは知っておくべきだった。彼は失業した。すぐにスザンヌのところへ行ことはなかった。アンジェラには彼から離れてほしかった。さもなければ彼が出て行くつもりだった。しばらく、ウィスコンシンかヨーロッパか、どこでもいいから出かけてもらって、この問題をひとりで取り組めるように彼から離れるべきだった。この状態の彼女にとって、彼はなくてはならない存在ではなかった。雇える看護婦もいれば、入院できる産院もあった。ユージンは進んでその費用を払うつもりだった。できれば、これ以上アンジェラと一緒に暮らすつもりはなかった……暮らしたくなかった。スザンヌに憧れを抱く彼を前にしたアンジェラの姿は、哀れと言うしかないだろう……恥辱であり心を痛めるほど気の毒なものだった。駄目だ、彼はアンジェラからは離れるつもりだった。ひょっとしたら、もしかしたら、いつか、もっと本物の戦う勇気を身につけたときに、スザンヌは彼のところに来るかもしれない。彼女は来るはずだ。アンジェラは死ぬかもしれない。そうだ、残酷に思えるかもしれないが、彼はこう考えた。彼女は死ぬかもしれない、すると、そのときは……すると、そのときは……たとえ彼女が死んでも、もしかしたら生き残るかもしれない子供のことは彼の頭にまったくなかった。彼にはそれが理解できなかった。まだそれを把握できなかった。それはただの抽象的概念だった。
ユージンはキングスブリッジのアパートに部屋を借りた。そこなら、しばらくは知られずにすみ、人目につくこともなさそうだった。それからそこで、人生が明らかに大きく崩壊して、考え、感情、傾向、感覚が混乱し、何かの困った結果に失望した人の、あの悲惨な光景が目撃された。もしユージンがもう十歳から十五歳年をとっていたら、結果は自殺だったかもしれない。気質がほんの少し違っていたら、死でも殺人でも、どんな結果でも起こりえたかもしれない。このように、彼は時々、自分の夢の残骸の中にぼんやり座って、スザンヌは何をしているだろう、アンジェラは何をしているだろう、みんなは何を言って何を考えているだろう、どうすれば人生の破片を拾い集めてそれから何かを作り出せるだろう、と考えていた。
この中の唯一の救いは、仕事をしたいという彼の自然な欲求だった。これは最初表に出なかったが、その後徐々に戻り始めた。もう一度絵を描くことではなかったとしても、彼は何かをしなければならなかった。職を求めて駆けずり回ってはいられなかった。〈ブルーシー〉は彼の何の役にも立たなかった。今は離れて自由だったとしても、卑劣になりたくなかったら、アンジェラを養うために働かねばならなかった。起こったことのすべてに光を当ててこれを見るうちに、彼は自分が十分悪かったことに気がついた。アンジェラは気質的に彼とは合わなかったが、合わそうと努力していた。元々それはアンジェラの落ち度ではなかった。これから彼は、どうやって働いて、どうやって生きて、どういう人になればいいのだろう?
この状況……懇願、涙、アンジェラにとって人生の価値あるものすべての崩壊、哀れな状況であるにもかかわらず別れなければならなかったこと……をめぐって、ユージンとアンジェラの間で長い議論があった。十一月になって、ユージンの経済的困窮というかかなりの逆境を大家が聞きつけたため、数年効力があった賃貸契約を解消することができ、アパートは明け渡された。アンジェラは取り乱し、どうすればいいのかわからなかった。これは人生の中の過酷で外聞をはばかる状況のひとつで、人の人間性を蝕むものだった。アンジェラはなすすべもなくユージンの姉マートルのところに駆け込んだ。マートルは最初、この醜態と悲劇を夫に隠そうとしたが、後で告白して、どうするべきかを相談した。フランク・バングスは、数年前に彼の妻の腫瘍が奇跡的に治ったのがきっかけで敬虔なクリスチャン・サイエンス信者になったが実践的な人間でもあった。彼はこの神の科学……善の遍在……をこの状況に適用しようとした。
「そんなことを心配しても仕方がないよ、マートル」フランクは妻に言った。彼女は信仰があったにもかかわらず、弟を襲ったらしい大きな災難に一時的に動揺して怯えた。「これもまた人間の心の働きを示す証拠なんだ。それ自体の観念の中では十分に現実でも、神の恵みの中では、無いものだからね。私たちが正しく考えれば、すべてはうまくいくよ。アンジェラはとりあえずというか、準備ができ次第、産院に行けばいい。正しいことをするように、私たちがユージンを説得できるかもしれない」
アンジェラは、クリスチャン・サイエンスの実践士に相談するように説得された。マートルは自分を治してくれた女医のところへ行き、彼女の影響力というか科学の知識を使って弟を更生させてほしいとお願いした。女医は、本人が望まなければこれはできないが、彼のために祈ると言った。もし彼が自分の意志で来て、霊的な導きなり神の助けを求めるように説得できれば、話は別だった。弟の過ちであるにもかかわらず、しかも彼女にも今やそれが明白でひどいことに思えたのに、彼女の信仰は彼女が弟を責めることを許さなかった。その上彼女は彼を愛していた。弟は強い人で、いつも変だった、とマートルは言った。彼とアンジェラは反りが合わなかったのかもしれない。でもすべては『サイエンス』で正されるかもしれなかった。アンジェラには荷造りや片付けに追われる退屈なひとときがあった。そのときアンジェラは、それまでの快適さと栄誉の残骸の中にぼんやりと立ち、彼女にとってとても素敵に思えたものを見渡して涙を流した。ここにあるのはすべてユージンのものだった。彼の絵、杖、パイプ、服があった。彼がよく着てぶらぶらしていたしゃれたシルクのガウンを見て泣いた……不思議なことに、昔の幸せだった日々のにおいがたっぷりとした。アンジェラの古い好戦的で支配欲の強い精神が多少よみがえるような、過酷で、冷酷な、譲れない話し合いがあったが、長くは続かなかった。彼女はとっくに打ちのめされ、それを自分でわかっていた……難破したのだ。冷たい荒海の轟きが耳に響いた。
ここで指摘されなければならないのは、かつてスザンヌが、自分はユージンを愛している、と本当に思っていたことだった。しかし彼女は、彼女にとって催眠効果があったひとりの強烈な個性の持ち主のすばらしさによって、彼に愛情を抱くよう誘導されたことを忘れてはならない。ユージンの強烈な個性には伝統的価値観を破壊する何かがあった。彼は一見、伝統を重んじる雰囲気と外見を持つ子羊のように近づくが、内面は伝統など気にしない貪欲な狼だった。彼にとってすべての整った生活様式と作法は笑い草だった。彼は、物質的な生命ではなくて、精神的あるいは非物質的な生命を洞察した。その生命のすべての物質的な部分は影にすぎなかった。大きな虚飾や空騒ぎを伴ってここで守られるこの制度が、本当に守られるか守られないかなどということを、生命のこの偉大な力が気にするだろうか? どんなふうにして気にすることができるのだろう? かつてユージンは死体安置所に立って、人間の死体が明らかに溶けて一種の化学的な液状になるのを見て、その時に、こういうことを行っている力に対して生命が何か大きな意味を持っている、と考えるは何て馬鹿げているのだろう、と内心で思った。偉大な化学的、物理的な力が働いて、おそらく偶然、すぐに終わる何かのちょっとした影絵芝居をさせたのかもしれない。しかし、ああ、その存在は感じられた……あれは何と甘美だったことか!
当然のことながら、スザンヌはしばらく落ち込んだ。彼女もユージンと同じように苦しむことはできた。しかし、待つと約束したので、他の約束は守らなかったが、これは守ることにした。スザンヌはこのとき十九歳から二十歳になろうとしていた……ユージンはもうすぐ四十歳だった。それでも人生は当人の気持ちとは関係なく彼女を癒やすことができた。ユージンに関しては、さらに傷つけることしかできなかった。デイル夫人はスザンヌや他の子供たちと一緒に海外に行き、おそらくは聞いたこともなかった人たち、ついでに言うとこの先も漠然と不確かな形でしか知ることがないであろう人たちと一緒に観光していた。彼女がそうなるかもしれないと考えたように、もしこれがスキャンダルになることが明らかになったら、デイル夫人は、ユージンが理性や名誉をものともせずに、彼女の子供を狡猾に拘束しようと企てたが、当人にはほとんどわからないようにしてスザンヌを守りながら、すみやかにそれを打ち破ったと言うつもりだった。これなら十分にもっともらしく聞こえた。
これからどうすればいいだろう? どうやって生きていけばいいだろう? とユージンはいつも考えていた。アンジェラと一緒に裏通りの小さなアパートに入居して、もし彼女と一緒にいることに決めたら、そこで二人は少しのお金で明るい見通しがたって生活できるようになるだろうか? 絶対に無理だ。ずっとではないにしても、少なくとも一年間、こんな突然の雑な扱われ方で、スザンヌを失ったままにしておくのか? できない。未だにそう感じてもいないのに、自分が間違っていました、あるいは後悔していて、以前のような関係に修復したい、と告げに行くのか? 絶対にしない。彼は後悔していなかった。もう昔のようにアンジェラと一緒に暮らすつもりはなかった。彼はアンジェラ、というよりも長年彼が過ごしてきた抑圧と慣習の雰囲気にうんざりしていた。彼の意志に反して子供を押しつけるという考え方にうんざりしていた。そんなことを受け入れるつもりはなかった。アンジェラがここに立ち入るのは論外だった。彼が先に死んでしまうだろう。彼の保険はこのときまでに支払いが済んでいた。この五年間でアンジェラのために一万八千ドル以上の保険をかけていて、彼が死ねばアンジェラはそれを手に入れることになっていた。ユージンはそうなればいいと願った。これは、運命が最近アンジェラに与えた大打撃に対する多少の償いになるだろう。しかし彼女とはもう一緒に暮らしたくなかった。絶対に嫌だった。子供がいようがいまいが嫌だった。夜が明けたらアパートに帰る……どうすれば彼にこれができただろう? もし帰るなら、何事もなかった……少なくとも彼とスザンヌとの間に困ったことは何もなかった……ふりをしなければならない。彼女は戻ってくるかもしれなかった。かもしれない! かもしれない! ああ、これはいい笑いものだ……彼女は本当は来ることができたのに、こんな形で彼から去ってしまうとは……来るべきだったのに……ああ、運命のこの一撃は辛辣だった!
家具が運び出されて、アンジェラがしばらくマートルと一緒に暮らすために出て行く日が来た。ラシーヌにいる妹のマリエッタを訪れるためにニューヨークを離れたときに、また泣く時間があった。帰る前に、自分を襲った恐ろしい悲劇を重大な秘密として伝えるつもりで、このときはそこにいた。ユージンはアンジェラと一緒に列車のところまでは行ったが、その場にいたくなかった。アンジェラはこんなときでも、時間が何とかして仲直りさせてくれると思った。もし彼女が十分な時間をかけて待つことができれば、もし彼女が平穏を保ち、生き続け、死なず、離婚を認めなければ、彼は最終的に正気を取り戻して、彼女のことを少なくとも一緒に生きていく価値がある相手として考えるようになるかもしれない。子供がそのきっかけになるかもしれない。子供の誕生はきっとユージンに影響を及ぼすだろう。彼は子供を通して彼女を見なければならなかった。もし子供が彼を連れ戻してさえくれるのなら、進んで、喜んでこの試練を受け入れようと彼女は自分に言い聞かせた。この子は……どんな歓迎を受けることになるのだろう。生まれる前から、望まれず、はずかしめられ、無視されるとは。万が一、彼女が死んだら、彼はこの子をどうするつもりだろう? 決して子供を見捨てはしないだろう。すでに神経質に、憂鬱になって、彼女は子供に切ない思いを向けていた。
「ねえ」ある日、二人が喧嘩と生活設計を交互にしていたとき、アンジェラはユージンに言った。「もし子供が生まれて私が……私が……死んでも、あなたは絶対に子供を見捨てないわよね? 引き取ってくれるわよね?」
「引き取るよ」ユージンは答えた。「心配するな。僕は完全な人でなしじゃない。ほしくはなかったけどね。きみの策略だけど僕は引き取るよ。僕だってきみには死んでほしくないんだ。わかってるだろうけど」
もし生きていたらもう一度彼と一緒に貧困と憂鬱の時期を乗り越えていこう、彼が正気に返って、道義をわきまえ、ほどほどに成功する姿を生きて見ることさえできればいい、とアンジェラは考えた。この赤ん坊が力を貸してくれるかもしれない。ユージンは子供を持ったことがなかった。今はこの考えが気に入らなくても、それでも、子供が生まれたら考えを変えるかもしれない。彼女がこの試練を乗り越えることさえできればいいのだ。彼女はかなり年齢がいっていて……筋肉が硬くなっていた。この間にアンジェラは、弁護士、医者、占い師、占星術師、そしてマートルが勧めてくれたクリスチャン・サイエンスの実践士に相談した。方向が定まっていない馬鹿げた組み合わせだったが、ひどく心を悩ませていたので、この嵐の状態ではどんな港にも価値があるように思えた。
医者は、筋肉がかなり硬いと言ったが、彼が定めた治療法でいけば彼女は大丈夫と確信した。占星術師は、彼女とユージンが、特にユージンが、星の定めによりこの嵐に巻き込まれる運命だった……彼は立ち直るかもしれない、その場合は再び一定の成功を収めるだろう、と告げた。アンジェラについては首を振ったが、そうですね、元気になりますよ、と嘘をついた。占い師はカードを並べてユージンが今後スザンヌと結婚するかどうかを占った。スザンヌは決してユージンの人生には介入しないと知ってアンジェラは一時的に喜んだ……これは、半分死にそうだが、豪華に着飾って宝石をつけた女性から出た言葉だった。彼女の控え室は、心、金欠、競争相手の敵意、出産の危険についての問題を抱えた女性たちでいっぱいだった。クリスチャン・サイエンスの実践士は、すべては神の心……全能、遍在、全知の善です、悪はその中に存在しえません……そんなものはただの幻想に過ぎません、と断言した。「それを信じて正しいと思う者にとっては十分実在しますが」相談相手は言った。「自分自身が神の観念の完全不滅の反映だと知っている者にとっては、重要性も意味もありません。神は原理です。その原理の本質が理解されて、自分がその一部であることがわかれば、悪は煩わしい夢のように消え失せます。悪は実在しません」彼女は、サイエンスを本当に理解すれば、悪があなたに降りかかることはないと言ってアンジェラを安心させた。神は愛なのだ。
弁護士は、ユージンの不品行についての熱のこもった話を聞いた後で、これらの非行が行われたニューヨーク州の法律では、夫に財産があったとしてもあなたはそのうちのほんの一部しかもらえません、とアンジェラに告げた。離婚を成立させるには最短で二年かかった。もし彼女がユージンの経済力に適切な条件を確立できるのなら訴訟を起こし、そうでないなら起こさない方がいいと弁護士は勧め、それからアンジェラにこの相談料二十五ドルを請求した。
第二十四章
この世界で生活の慣例や一定の決まりごとに従ってきた人たちにとって……ゆっくり進んだ段階と粘り強い努力によって、一連の習慣、嗜好、品格、感情、行動様式を築き上げ、さらに、一定の名声と地位を獲得した人たち、つまり、ある人に「行け!」と言えばその人が行ってしまい、別の人に「来い!」と言えばその人が来るような人たち、出し惜しみや遠慮、障害や妨げとは関係なく、完全な行動の自由を喜び、ほどほどの富や、社会的地位や、快適さがあればこその余裕と慎重さを、楽しんできた人たちにとって、財力がないことから来る肩身の狭さ、世間の評判への恐怖、世間に恥をさらすことは、想像しうる最も哀れで、落胆させられる、恐ろしいことのひとつなのだ。こういう時こそ人間の魂は試される。権力者の席に座って、優れた力によって支配される世界を観察する人は、何かの奇跡的な運命の寛大さによってどうやら輝かしい道具として優れた力に選ばれたわけだが、尊厳や報酬から放り出されて、輝きの灰の中の世界の暗い場所に座って、過ぎ去った日々の栄光を思う人の気持ちなど何も考えない。ここには普通の人の想像を超える悲しみがある。旧約聖書の預言者たちは、これをはっきりと見抜いていた。彼らは、その愚行が正しい道に反していて、慈悲深く恐ろしい力によって見せしめにされた人々の運命を絶えず唱えていたのだから。「主はこう言われる。あなたは天の神に逆らって立ち上がった。主の宮の器をあなたの前に持って来させた。あなたと貴人たち、あなたの妻と側女がその器でぶどう酒を飲み、あなたは金、銀、真鍮、鉄、木、石の神を賛美した……神はあなたの治世を数えてそれを終わらせた。あなたははかりで測られ、欠けているとわかった。あなたの王国は分けられてメディア人とペルシャ人に与えられる」
ユージンはこの一見正しそうな道の小さな見本だった。私たちの社会生活は、本能の縦糸の上にきちんと組織化されて、密接に編まれているので、習慣や慣習や先入観や傾向……狭い視野で私たちが支配的だと思い込んでいる様々なもの……に一致しないものを、ほとんどいつも本能的に避けてしまう。私たちが図らずも尊敬する大衆の一部から、その行いのせいで非難されるかもしれない人物から離れない者がいるだろうか? どんなに誇らしげに歩き、どんなに慎重に振る舞おうが、最初の疑いがかかったとたんに、全員が……友人、親戚、仕事上の知人、社会という組織全体が……離れてしまう。「汚らわしい!」と叫ばれる。「汚らわしい! 汚らわしい!」そして私たちの内面がどんなにみすぼらしくても、偽善者でも、それは問題ではなく、私たちはすぐに逃げ出してしまう。それは、私たちの目標を形づくる摂理への賛辞のようである。その目標は、私たちがどんなに卑しく自分たちの許されない堕落の錆でその輝きを覆っても、私たちがどんなに模倣しても、寸分違わぬ傾向をとり続ける。
アンジェラは今までに、老いて弱くなった父親に会うために実家に行き、ユージンの母親に会うためにアレキサンドリアにも行っていた。彼女もひどく健康を損ねていた。
「私は、あなたの態度が私に向いてほしいという淡い希望を抱き続けています」とアンジェラは手紙を書いた。「もしよければ時々あなたからも連絡をください。それであなたの進路がなんら変わるはずもありません。ひと言くらい害にはならないでしょう。私はとても孤独なんです。ああ、ユージン、いっそ死ねたら……死ねたらいいのですが!」どちらの場所も現状については一言も触れられなかった。アンジェラは、ユージンがずっと会社での商業活動にずっとうんざりしていた、そしてコルファックス社での厄介な状況のせいで一時的に芸術に戻るのを喜ぶふりをした。彼は帰って来てもいいのだが、とても忙しいのだ。そうやってうそぶいた。しかし、マートルには自分の希望と、特に不安をたっぷりと綴った。
ユージンとマートルの間で何度も話し合いがあった。最初から仲が良かったので、彼女はユージンのことが大好きだった。彼の無邪気な性格は、二人が一緒だった少年と少女のときのように、彼女にとっては甘美だった。彼女はキングスブリッジの素敵な部屋でユージンを探し出した。
「うちに来て私たちと一緒に暮らさない、ユージン?」彼女は頼んだ。「いい部屋があるのよ。あなたは私たちの隣の大きい部屋を使えばいいわ。そこはいい眺めなのよ。フランクだってあなたを歓迎するわ。話はアンジェラから聞いたわ。私はあなたが間違っていると思う。けどあなたは私の弟だし、私はあなたに来てほしいの。すべてのことは正しく進んでいるのよ。神さまがそれを正してくださるんだから。フランクも私もあなたのために祈っているわ。あのね、私たちの考え方では悪なんて存在しないのよ。さあ」……そしてマートルは昔の少女のような微笑みを浮かべた……「ひとりっきりでここにいるのはよくないわ。私と一緒に来る気はない?」
「ああ、行きたいのは山々なんだけど、マートル、今はできないんだ。そうしたくないんだ。考えなきゃいけないんだよ。僕はひとりでいたいんだ。自分が何をしたいのかが決まらないんだ。少し絵を描いてみようと思ってる。多少の蓄えはあるし、今は時間がいくらでもあるからね。あそこの丘の上にいい家が何軒かあるんだ。窓が北向きでアトリエとして使えそうな部屋があるかもしれないのがね。まずはこれを考えたいんだ。どうするかはわからないけどね」
ユージンは今、鼠径部にあの新たな痛みを感じていた。これは母親がスザンヌをカナダに連れ去って、もう二度とスザンヌに会えなくなるのではないかと心配したときに初めて発症した。ナイフで切られたような、鋭く、身にしみる、本物の痛みだった。痛みが体のそんな下の方で生じるなんてどういうことだろうと不思議に思った。目も指先も痛かった。他にも変なところはなかったか?
「クリスチャン・サイエンスの実践士に会いに行くのはどうかしら?」マートルは尋ねた。「会っても害にはならないでしょ。信じなくてもいいからさ。本をあげるから読むといいわ。そこに何かあると思わないかどうか確かめてみなさいよ。あなたは嫌味な笑い方をするけどね、ユージン、私たちに効果がなかったわけじゃないのよ。それがすべてを解決してくれたんだから……ただそれだけのことよ。私は五年前の自分とは違う人間なんだから、フランクもね。私がどんなに具合が悪かったか知ってるでしょ?」
「ああ、知ってるよ」
「ジョンズ夫人に会いに行くのはどうかしら? 話したくなければ、あなたは何も話さなくていいのよ。彼女は完全にすばらしい治療をいくつかしてくれたわ」
「ジョンズ夫人は僕のために何ができるんだい?」ユージンは唇を皮肉に歪めて刺々しく尋ねた。「僕の憂鬱を治せるの? 心の痛みを消してくれるの? 話をして何の役に立つのさ? 僕がすべてのことをやめてしまえばいいんだ」ユージンは床を見つめた。
「彼女にできなくても、神さまならお出来になるわ。ねえ、ユージン、あなたがどんな気持ちでいるか私は知ってるけどさ! お願いだから行って。行っても害にはならないわ。明日、本を持ってきてあげるわ。持ってきたら読んでくれる?」
「読まない」
「ねえ、ユージン、お願いだから私のために読んで」
「それでどんないいことがあるのさ? 僕はそんなもの信じないよ。信じられないんだ。僕は頭がいいから、そんなくだらないことには首を突っ込まないんだ」
「ユージンったら、何て言い草よ! あなただっていつか考えを改めるわよ。あなたの考え方くらいわかってるんだから。でもとにかくそれを読んでよ。お願いだから、読んでくれない? 読むって約束して。私が頼むべきじゃないし、そういうものじゃないけどさ。でも、私はあなたにそれによく目を通してほしいの。ジョンズ夫人に会いに行ってよ」
ユージンは断った。これこそ愚行の極みに思えた。クリスチャン・サイエンス! キリスト教徒のたわごと! 彼は何をするべきかを知っていた。ユージンの良心は、スザンヌをあきらめて、アンジェラのもとへ、彼女が必要とするときに……生まれてくる子供のもとへ、とにかくいっときでいいから……帰れと命じていた。しかし、美と個性と愛のこの恐ろしい誘惑は、ユージンの魂をどれほど引っ張っただろう! ああ、スザンヌと一緒にニューヨークのきれいな海岸線やレストランなどで過ごしたあの日々、彼女がとても美しく見えたあの至福の時間! どうすればこれを乗り越えられるだろう? どうすればこの記憶を捨てられるだろう? スザンヌはとてもかわいらしかった。彼女の美しさはあまりにも希少だった。彼女のことを思うたびに胸が苦しかった。あまりにも苦しかったので、ユージンは時間のほとんどを考えることに使おうとしなかった……考え過ぎてしまうのが怖かったから、否応なしに、歩くか、働くか、落ち着きなく身じろぎしなければならなかった。ああ、生きているのに、ああ、これでは地獄だ!
このときにクリスチャン・サイエンスがユージンの視界に入り込んだのは、やはりマートルと彼女の夫がこの宗教的な考えを信じて入れ込んでいたからだった。ルルドやサンアンヌ・ド・ボープレや他の奇跡が起きる中心地のように、高度で無害な力の効き目のある介入を求める希望や欲望や宗教的熱心さがある場所で、マートルに非常に困難で複雑な身体の病気からの事実上の救済が起こった。マートルは、腫瘍、神経性不眠症、消化不良、便秘と、たくさんの関連疾患に悩んでいた。これらは明らかに普通の治療では治らなかった。エディ夫人が書いたクリスチャン・サイエンスのテキスト『科学と健康ー付聖書の鍵』が手に入った時、マートルは精神的にも肉体的にも最悪の状態だった。絶望と無力に蝕まれた心で読もうとしているうちに、たちまち治ってしまった……自分は健康であるという考えが彼女を支配し、やがて本当に健康になった。大量にあった薬をすべてゴミ箱に捨て、医者を避け、クリスチャン・サイエンスの文献を読んで、アパートの近くにあるクリスチャン・サイエンスの教会に通い始め、たちまち人間の生に関するその微妙な形而上学的解釈にのめり込んだ。妻をとても愛していた夫のフランクは、妻にとっていいもので妻を治すものは彼にとってもいいものだったので、この信仰に従った。彼はすぐにその精神的な意味を精力的につかんで、どちらかというとマートルよりも優秀な、その意味ありげな思想の解説者にして解釈者になった。
クリスチャン・サイエンスについて少しでも知っている人は、その主要な教義が、神は原理であり、死ぬとか感覚的な人生の側面(後者は幻想である)から理解もしくは思考可能な人格ではない、人間は(霊的に言えば)神の映像であり似姿であること、を知っている。人は神の中の観念である。従って、神もしくは原理の中の観念がそうあらねばならないように、完全で、不滅で、乱されることなく調和している。形而上学的ではない人にとって、これは通常、闇であり意味はないが、霊的あるいは形而上学的に考える人にとっては、偉大な光として現れる。物質は幻想で構築された集合体か結合体であり、それは人が選択するように、進化したのかもしれないし、しなかったのかもしれないが、疑いの余地なく、無から、もしくは見えない無形の観念から構築されていて、基本的には霊的な人たちがそれらに与える信仰や信用以上の意味はない。それらを否定すれば……それらが何であるかを知れば……それらは消える。
このとき、極度の精神的な停滞状態……憂鬱、意気消沈、落胆、邪悪で破壊的な力しか見ようとしない状態……にあったユージンのところに……これがあらわれたなら、これはおかしな意味を持ってあらわれたかもしれない。ユージンは生まれつき形而上学的な傾向のある人間の一人だった。彼はスペンサー、カント、スピノザをたまに読み、特にダーウィン、ハクスリー、ティンダル、エイブベリー卿、アルフレッド・ラッセル・ウォレスを読み、最近ではオリバー・ロッジ卿、ウィリアム・クルックス卿などを読み、生きるとは何かということを帰納的、自然主義的な方法で解明しようとしながら、生涯をかけて人間の存在の謎を推測し続けてきた。エマソンの『大霊』や『マルクス・アウレリウスの瞑想録』とかプラトンなどを読んで時々うっすらとわかったと思った。キリストがサマリアの井戸で女に言ったように、神は霊である、と彼は考えた。しかし、とても多くの苦しみと争いが存在する人間の問題にこの霊が関係するかどうかは別の問題だった。彼自身は、そう信じたことはなかった……確信したことがまったくなかった。彼はいつも山上の垂訓に感動した。世の中の問題に向き合うキリストの態度の美しさ、神は神であり、神の前に他の神は存在せず、神は悪行には不興をもって報いると主張した古い預言者たちの信仰のすばらしさに、感動した。神がそうするか、しないか、は彼にとって未解決の問題だった。この罪の問題……原罪……はいつも彼を困惑させた。人間の経験よりも前に法があったのだろうか、言葉が肉体になる前に、神……言葉……の中に法があったのだろうか? もしあったなら、どんな法だろう? 結婚に関係するものだろうか……生命そのものよりも古い何かの精神的な結びつきだろうか? 盗みに関係するものだろうか? 生まれていない状態での盗みとは何だろう? それは、人間が始める前はどこにあったのだろう? それとも人間と共に始まったのだろうか? 馬鹿げている! それは生命の中で成立した化学や物理の何かに関係していなければならない。かつてある社会学者が……ある大学の偉大な教授がユージンに、人類の中に蓄積された本能……自己保存と種族の進化にのみ関係する本能……に関係がある場合を除いて、自分は成功や失敗、罪、あるいは独善的な感覚を信じない、と言ったことがあった。その他には何もなかった。霊界の道徳でもあるのか? ふん! 彼はそれについて何も知らなかった。
こういうひどい不可知論が、ユージンに影響を及ぼさないはずはなかった。彼はこれまでも疑いを抱く人間だった。前にも言ったように、すべての生き方が彼のメスのもとでバラバラになった。そして一度切り刻んでしまうと、それを再び論理的に組み立てることはできなかった。人々は結婚の神聖さについて語ったが、何と、結婚とは進化だった。彼はそれを知っていた。ある人がそれについて二巻の論文を書いた……『人類の結婚の歴史』とか何とかいうもので、その中で動物は、子供育てに要する期間だけ、子供を自己管理できるようにするまでに要する期間だけ、交尾をしていたことが指摘された。現代の結婚の根底にあるのは、本当はこれだったのではないだろうか? もし記憶が正しければ、彼はこの歴史書の中で、結婚が神聖とされ一生のものと見なされるようになった唯一の理由は、人間が子供を育てるには長い時間を要するからだと読んだことがあった。子供が社会に出るまでには、間違いなく、両親が老いるほどのとても長い時間がかかった。では、なぜ別れるのだろう?
子育てはみんなの義務なのに。
ああ! ここに問題があった。彼はこれに悩まされていた。家庭はこれを中心にしていた。子供たち! 種の繁殖! この進化の荷車を引き! 引かなかった者はみんな必ず地獄に落とされたのだろうか? 人類の精神は彼と対立していたのだろうか? これをやらなかった……できなかった……男女見るがいい。ごまんといる。そして、やった人たちはいつもやらなかった人たちを間違っていると考えた。彼は常々アメリカ精神全体がこの方向……子供を生んで育てるという考え方、保守的で平凡な精神……にしっかり固定されていると感じた。彼の父親を見るがいい。それなのに、他の人たちは抜け目なかったので、この精神を食い物にして、この人類の精神が最も活発な場所に工場を移して、子供たちを安く雇えるようにした。なのに、彼らには何も起こらなかった、それとも何かが起こったのだろうか?
しかし、マートルは、聖書のこの新しい解釈は真実である、すべての人間の病を駆逐する霊について理解できるようにあなたを導いてくれる、これはすべての人間の概念の上にある……すべてを超越した霊的なものである、と主張して、ユージンに考えるように訴え続けた。だから彼はこれについて考えた。マートルはユージンに、もしあなたがアンジェラと一緒に暮らすのをやめることが正しければ、それは実現するし、そうでないなら実現しない、しかし、いずれにせよ、何があろうと、この真実の中にあなたにとっての平和と幸福がある、と告げた。あなたは正しいことをするべきよ。(「まず神の国を求めよ」)そうすれば、すべてのものがあなたに与えられるわ。
最初のうちユージンは、こんな話を聞くこと自体がものすごく馬鹿げているように思えたが、やがてそれほどでもなくなった。長い議論と懇願、朝食と夕食、マートルの部屋でとる日曜日のディナー、サイエンスの教えのあらゆる側面についてバングスやマートルと交わす議論があり、彼らの教会で水曜日にある体験談と証言の集会に数回訪れ、ユージンはそこで到底信じられない驚くべき治癒についての発言を聞いたりした。この証言が、神経質な空想が原因かもしれない不満にとどまる限り、彼らが治ったのはおそらく宗教的な狂信によるものかもしれず、これが高じて罹っていなかった何かに対する彼らの思い込みを追い払ったのだと納得した。しかし、がん、結核、歩行性運動失調、甲状腺腫、手足の短縮、ヘルニアなどが治ったとなると……ユージンは、彼らを嘘つき呼ばわりしたくはなかった、彼らは嘘をつくにはあまりにも誠実すぎるように見えた。しかし、彼らは単に誤解しているのだと思った。どうすれば彼らが、あるいはこの信仰が、あるいはそれが何であれ、がんを治せるのだろう? ああ! こうしてユージンは不信感を抱き続け、ある水曜日の夜、たまたまニューヨークのクリスチャン・サイエンス第四教会に行ったときに、隣の席にいた男が立ちあがって発言するまで、その本を読むことも拒んでいた。
「私は自分を例にあげて、神の愛と慈悲について証言したい。私はそう長い期間ではありませんでしたが、どうしようもないほど苦しみましたし、これがありえるのかと自分で思うほどの最低の卑劣な人間の一人でした。私は朝晩、聖書が読まれる家庭で育ちました……父は頑固な長老派でした……そして、自分の家庭にさえあった、聖書が無理やり喉に押し込まれるようなやり方や、キリスト教の原理と実践の間に存在するのを見たと思った矛盾に、ほとほとうんざりしました。私は、父の家にいて父のパンを食べている間は従うが、家を出たら好きにしようと自分に言い聞かせました。その後、十七歳になるまで何年も父の家にいて、それからシンシナティという大都市に行きました。家を出て自由になった途端に、いわゆる宗教的な修練をすべて投げ捨て、自分がやって一番楽しくて満足すると思うことをやり始めました。私は決していい酒飲みではなかったですが、飲みたくなると飲みました」ユージンは微笑んだ。「ギャンブルがやりたかったのでやりましたが、決して賢いギャンブラーではありませんでした。それでも少しはギャンブルをしました。私の大きな弱点は女性でした。ここでどなたも怒らないでくださいね。みなさんのことだから怒らないと知ってますが。何しろ、私の証言をすごく必要な方々が他にいるかもしれませんからね。私は他のやりたいことを追うように女を追いかけました。私が欲しかったのは本当は女だけでした……体ですがね。私の女好きはひどいものでした。聖書にあるように、欲情を抜きにしては、どんな美しい女も見られないほど、そればかり考えてました。私は最低でした。病気になりました。歩行性運動失調、水腫、腎臓病で苦しみ、全財産と五年の歳月を医者や専門医に費やした挙句に、シカゴのクリスチャン・サイエンス第一教会に担ぎ込まれました。以前は普通の薬で他の病気が治ったこともありました。
私の声が届く範囲に、私と同じように悩んでいる人がいるなら、その人に聞いてほしい。
今夜、皆さんにお伝えしたい。私は元気です……肉体だけではなく精神的にも元気で、さらにいいのは、私がその真実を見ることができるのであればですが、霊的にも元気です。私の訴えで私の治療を引き受けてくれたシカゴのクリスチャン・サイエンスの実践士による半年の治療の末に、私は回復しました。そして、私はみなさんの前に完全に健康そのものの状態で立っています。神さまのおかげです」
男は着席した。
ユージンは、男が話している間に、男の外観のすべての輪郭を見ながら、じっくり観察していた。背が高く、痩せ型で、砂色の髪と砂色の髭をしていた。見た目は悪くなく、長いまっすぐな鼻と、澄んだ青い目をしていて、顔色は淡いピンクで、活気と健康を感じさせる男だった。ユージンが一番注目したのは、男が落ち着いていて、冷静で、穏やかで、活気があることだった。自分が言いたいことを正確に、力強く伝えた。声ははっきりとしていて、しっかりと伝える力があった。服は形がよく、新品で、立派な仕立てだった。決して物乞いや浮浪者ではなく、何かの専門職の男だった……おそらくエンジニアだろう。ユージンは彼と話したいと思ったが、やはり恥ずかしかった。何だが、この男の事例は彼のとに似ていた。そっくりそのままではなかったが、近いものがあった。ユージンは決して病気ではなかったが、非の打ち所のない魅力的な女性を見て欲情することが何度あっただろう! この男が言っていたことは、本当に事実だったのだろうか? 嘘をついている可能性はあるだろうか? 馬鹿馬鹿しい! 勘違いしている可能性はあるだろうか? この男がか? ありえない! あまりにも強そうで、あまりにも鋭敏で、あまりにも誠実で、あまりにも真面目で、そのどちらにも該当しなかった。それでも……しかし、この証言はユージンのためにされたのかもしれない……何か不思議な助ける力……いつもユージンを追いかけていた親切な運命が、ここでも手を差し伸べようとしているのかもしれない。そんなことがありえるだろうか? スザンヌの求めに応じて出向いたスリーリバース行きの列車に、黒髭の男が乗り込んできたのを見たときのように、超自然的な力によって蹄鉄が目の前に置かれて、来るべき幸福を告げられたときのように、ユージンはこれを少し奇妙に感じた。考えながら帰宅して、その夜、初めて真剣に『科学と健康』を読もうとした。
第二十五章
このとても独特で、多くの人にとって、とても重要な書物を今までに読もうとしたことがある人たちは、これがどれほど矛盾と形而上学的なたわごとの寄せ集めに見えるかを知っている。冒頭に出てくる洪水以後の病気の急増と激化に関する記述は、明確で、具体的で、確立された自然科学を信じる者なら誰でも衝撃を受けるに十分だった。これに最初に出会ったとき、もちろん、これはユージンをずいぶん苛立たせた。なぜこんな愚かな意見を述べなければならないのだろう? 洪水がなかったことは、みんなが知っているのに。なぜ神話を事実として引用するのだろう? これはユージンを苛立たせ、批判的観点からは面白がらせた。それから、物質と精神に関する混乱の寄せ集めだと彼が思ったものに出くわした。著者は、五感の証拠には価値がないと言っておきながら、自分の霊的な意味を説明するために、絶えず言及を続け、それらの証拠に基づく比喩を使用していた。聖書の引用が彼を苛立たせたので、何度もこの本を放り投げた。彼は聖書を信じていなかった。教会にいたあの男もそうだったが、キリスト教という言葉そのものが胸くそ悪い冗談だった。キリストの奇跡が今日でも繰り返されると言う話を、真面目に受けとることはできなかった。それでも、あの男は証言したのだ。あれはそうではなかったのだろうか? そのすべてを通って流れているある種の誠実さ……すべての誠実な改革者の特徴である信仰と共感の確かな証拠……は彼に訴えかけた。ところどころにあったいくつかの小さな考え……イエスの霊的理解を心から受け入れること。彼自身がこれを受け入れて、彼のところにとどまった。ある文章や段落が、どういうわけか彼の心に残った。なぜなら、彼自身に形而上学的な性質があったからだ……
「生命と知性は純粋に霊的なものであり、物質の中にはなく物質でもない、と一瞬でも意識すれば、肉体は何も不調を訴えなくなる。病気だと信じて苦しんでいるのなら、あなたは自分が突然元気になったことに気がつくだろう。肉体が霊的な生命と愛に支配されるとき、悲しみは喜びに変わる」
「神は霊である」彼はイエスが言ったことを思い出した。 「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」
「あなたは自分が突然元気になったことに気がつくだろう」ユージンは考えた。「悲しみは喜びに変わる」
「悲しみか。どんな悲しみだろう? 愛の悲しみだろうか? これはおそらく、この世の愛の終わりを意味していた。それもまた死ぬべき運命だった」
ユージンは読み進めて、サイエンスの信者たちが、聖母マリアの無原罪懐胎を信じていることを知った。これは彼には愚かに思えた。また、自己創造や永遠という人間の幻想を表するものとして、結婚の最終的廃止を信じていた。そして、当然、両性のかかわりを通して子供を持つこと、肉体が物質でなくなること、罪も病気も疾患も衰退も死も存在しないそれ本来の霊に変わること、は彼らの信仰もしくは理解の一部だった。これは彼には荒唐無稽な主張に思えたが、それでもこの当時は、彼の生まれつきの形而上学的気質のせいで、彼の生命の神秘に対する感覚と一致した。
これを読み続けた要因として覚えておくべきだが、気質……内省的、想像力豊か、精神的……と、悲しみと絶望と敗北からの解放を約束するならどんな藁でもつかむ価値があるという一時的な絶望的態度のせいで、人間の存在についてのこの明らかに過激な理論の研究するのに、ユージンは特に適した状態だった。教会が建てられ、特にニューヨークで信者が増加し、あらゆる人間の病気からの解放を熱狂的に主張している様子を見ながら、彼はクリスチャン・サイエンスについて多くのことを聞いていた。娯楽も気晴らしもなく、ひどく内省的で、仕事もせずにいたので、こういう奇妙な発言が彼の注意を引くのは自然だった。
また彼は、カーライルがかつて「物質そのもの……物質の外の世界は、無か、さもなければ人間の心の産物である」(カーライルの日記、フロードの『カーライルの生涯』より)と述べたことや、カントが全宇宙を目や思考の中のもの……思考以上でも以下でもないととらえたこと、を過去の読書や科学的な推測から知らないわけではなかった。マルクス・アウレリウスが彼の自省録のどこかで、世界の魂は親切で慈悲深い、そこに悪はなく、悪に害されることもない、と言っていたのを思い出した。この後者の考えは奇妙なものとして彼の心に残った。世界は、その精神というのは、微妙で残酷で狡猾で悪意に満ちているという彼自身の感じ方と正反対だったからだ。どうすればローマ皇帝になれる人が、そうではない考えを持てたか知りたいところだった。キリストの山上の垂訓は、人生を本当に何も知らない理想主義者の美しい思索として、いつも彼を引きつけた。さらに、どうして「自分の宝を地上に置くな、そこだと、虫とサビとで朽ち、盗人が押し入って盗み出す」という一節が、真実であるに違いないほど美しいものとして、自分を興奮させたのか、彼はいつも不思議だった。「あなたの宝物があるところには、あなたの心もある」からだ。キーツは「美は真実であり、真実は美である」と言っていた。また「「真実は存在していることである」。
「では、何が存在しているのだろう?」ユージンはそれに対する答えを自分に問いかけた。
「美だ」が自分への答えだった。すべての恐怖が満ちあふれているにもかかわらず、人生は基本的に美しかったからだ。
アンジェラがラシーンに向けて発ち、マートルの勧めでニューヨークに戻り、入院時とその後ユージンに付き添われて産院で時間を過ごした数か月の間に、試みられた調整のゆっくりとした推移を追いたがるのは、形而上学か自然宗教的な思考の持ち主だけだろう。これは、知的に優れた者だけが踏み出す存在の深淵だが、ユージンはその中をずっと遠くまでさまよっていた。マートルやバングスと長い時間をかけて話し合った……現実的なものから非現実的なものまで、人間の思考のあらゆる局面について議論した。これはアンジェラの状況とは全く関係がなかった。ユージンは、アンジェラを愛していないこと……一緒に暮らしたくないこと、を率直に告白した。スザンヌがいなければ到底生きてはいけないと主張した。他にやることがなかったので、いろいろな哲学や宗教の本を手に取り、読んだり、読み直したりしていた。アンジェラに申し訳ないと思っていたので、最初はそばに行って一緒に座る気になれなかった。ケントの『ヘブライ人の歴史』、ワイニガーの『性と性格』、カール・スナイダーの『世界機械』、ムジーの『霊的英雄』、ジョンストンの『バガヴァッド・ギーター』の翻訳、エマーソンの「大霊」に関するエッセイ、ハックスリーの『科学とヘブライの伝統』、『科学とキリスト教の伝統』などを読んだり読み返したりした。ユージンはこれらの書物から、それまで知らなかったか忘れていた宗教に関連するいくつかの興味深い事実を学んだ。すなわち、ユダヤ人は宗教的な思想家や預言者を連綿と育成したほとんど唯一の民族または国民である。彼らの理想は終始一貫して単一の神もしくは神性であり、最初は部族的だったが後に普遍的になり、その範囲と意義は神が全宇宙を包括するまでに拡大した……実際は全人類……統治原理だった……しかし唯一の神、その神への信仰、神の癒す力、構築する力、打破する力は、決して手放されなかった。
旧約聖書はそういうことだらけだった。そういうものだった。歴史に最初に登場したとき、昔の預言者たちが踊り回る托鉢僧に過ぎなかったことを知って、ユージンは驚いた。彼らは自分たちを極度の興奮した歓喜と狂乱に追い込み、地面に横になってのたうち回り、ペルシャの狂信者が今日でも十月の祭りでやるように自分たちを切りつけて、この上なく奇妙な方法に頼って自分たちの狂信的な精神を育んでいた。しかし、いつも驚くほど霊的で大きなことを唱えていた。普通、彼らは神聖な場所によく現れ、そのだらしない外見と奇妙な衣服で見分けがついた。イザヤは三年間服を着なかった。(イザヤ書二十二章二十一節)、エレミヤは(マジーによれば)首に木のくびきをつけて首都の通りに現れて言った。「こうしてユダの首は曲げられバビロニアの奴隷になった」(エレミヤ書二十七章二節)、ゼデキアは牛のように鉄の角をつけてアハブ王のところへ行って言った。「こうやってシリア人を突くがよい」(列王記上二十二章十一節)。預言者は狂人のように振る舞ったので狂人と呼ばれた。エリシャは無愛想な隊長エヒウの陣に飛び込み、彼の頭で油の入った小瓶を割って言った。「主はイスラエルの神に言った。私はあなたを主の民の王とした」それから戸を開けて逃げた。何だか、これらは荒唐無稽に思えたが、それでも予言についてのユージンの感じ方と一致していた。安っぽくはなく、偉大だった……主なる神の言葉のように荒々しく劇的だった。彼を魅了したもうひとつのことは、進化論的な仮説は、結局、彼が考えていたように、支配したり定めたりする神の概念を排除しないとわかったことだった。今これについて熱心に考えていたところ、彼は自分を夢中にした文書の中で、いくつかの事柄に出くわした。ジョージ・M・グールドという生物学者の本からひとつ引用するとしよう。
「生命は細胞の働きによって物理的な力をコントロールできる。私たちが知る限り、これができるのはそれだけである」ユージンはエディ夫人の著書を読み、バングスと議論しても、これを認める気にはならなかったが、これが最終的に我々の目的を形づくる能動的な神性を認めることにどうつながるのかを知って興味が出た。「有機分子は、知性、設計、目的の証拠を見せてくれない。それは数学的に決まって一定の物理的な力だけの産物である。生命は特定の目的に合った細胞活動を通して自分を意識するようになる。したがって、人間の個性は、より大きな機能の分化の統一体、単一細胞時の形態よりも高度で充実した形態でしかありえない。生命、あるいは神は、細胞の中に存在する……。(そしてその外側のどこででも、おそらくはまったく同じように、それ以上に、活発である、ユージンは心に留めた) 。細胞の知性は神のものである。(エディ夫人を読んで、ユージンはこれに全く同意できなかった。夫人によれば、それは幻想だった)。人間の個性は最終的には神自身でもあり、神でしかない……。もし生命と言う代わりに「バイオロゴス」とか神と言いたいなら、私は心から賛成する。私たちは生物学の崇高な事実に直面している。細胞は神の道具であり、物質の仲介者である。それは形を作るメカニズムである。言葉が肉となり、私たちの中に宿っている」
もう一つは、日曜日の新聞に掲載された、当時活躍していた物理学者と思われる人物エドガー・ルシアン・ラーキンの言葉である。
「新しい紫外線顕微鏡と、それとセットの装置の高速高感度フィルムを搭載したマイクロフォトカメラが発見されて最近完成したことにより、人間の視界は極限にまで達したようだ。無機、有機の粒子が確認された。旧式の最上位機種で見える(最小の)物体ほどのとても小さなものが、並べて見ると巨大な塊のようになる。星のある宇宙や星の構造と同じくらいすばらしい、活動的なミクロの宇宙が明らかになった。この複雑なものは実際に存在するが、探究はほとんど始まっていなかった。この研究に専念すれば、百年以内にミクロの宇宙は多少理解されるかもしれない。巨大な宇宙の太陽とその同心円状にある惑星や月の法則ように、微小な運動の法則が発見されて教科書に掲載されるかもしれない。これは精神の領域だ……すべての運動は心にコントロールされる、とすぐに信じることなしには、この微細な動きと生命の深淵をのぞくことはできない。その驚くべきものを見れば見るほど、この確信は深まっていく。このミクロの宇宙は、精神的な基盤に根ざして基礎を固めている。きっぱりと、覆されるとも思わず、こう断言される……飛んでいる粒子はどこへ行くべきかを知っている。昔の顕微鏡で見える大粒の粒子は、液体に浮かぶと、急速な動きをしながら、高速で幾何学模様を描くようにあらゆる方向に飛ぶのが観察された。しかし紫外線顕微鏡は、動いている何兆個ものはるかに小さな物体や、それらが幾何学的な進路をとって突き進んで、それぞれの種類やタイプに特化した最高に信じられないスピードで角度を切る様子を明らかにする」
この角度は何なのだろう? ユージンは自問した。誰がそんなものを作ったのだろう? 誰が、あるいは何が、そんな幾何学的な線を用意したのだろう? エディ夫人の言う「神の心」だろうか? この女性は本当に真理を見つけたのだろうか? ユージンは読書をしながらこんなことを考えた。そして、ある日、論文の中で、アルフレッド・ラッセル・ウォレスによる宇宙とその統治に関する考察を見つけた。それは、イエスが言ったように、エディ夫人が主張したように、悪は存在せず善だけが存在する神の心だか中心思想が存在するかもしれないという証拠として、ユージンの興味を引いた。引用する。「生命は、空気と水とそこに溶けている物質から、明確な形と機能を持つ組織的でとても複雑な構造を作り上げる力である。これらは液体と気体の内部循環によって、崩壊と修復が絶えない状態の中で発生し、青年期、成熟期、老年期などのさまざまな段階を経て、死に、速やかにその構成要素に分解される。このようにして似たような個体の連続的なつながりを形成して、外的条件がその存在を可能にする限り、これらは潜在的な不滅性を持っているように見える。
私たちが支配的と見ている進化の予め定められたシステムに従って下位の力を導くには、何かの巨大な知性、浸透している霊、を前提にすることがとても必要である。それがないことには始まらない……
しかし、ここまで来れば、さらに上に進まなければならない……私たちは、私たちの精神的な発達を助け、霊的存在として、存在のより高度な状態へと段階的に適合させるために、論理的、科学的根拠に基づいて、私たちだけが利用でき、私たちのために用意された、動物界や植物界の無限の種類の産物を見る完全な権利を持っている。
……私たちと神との間の広大な無限の隔たりは、ほぼ無限に続く存在の階級によってある程度占められていて、各階級は宇宙の起源、発展、制御にかかわるより高度な力を持っている、と仮定することは論理的としか思えない。
……能力と知性を持つとても高度な階級から、ヘッケルに仮定された無意識もしくはほぼ無意識の細胞の魂に至るまでの間に、存在のこのような階級の大がかりな協力体制があったのかもしれない……
私は想像することができる……無限の存在が、宇宙の大枠を予見し、決定するのを……
例えば、神は十分な数の最高位の天使たちに、その意志の力によって、後に続くものに必要なすべての固有の性質と力を持つ、エーテルの原初の宇宙を創造するように、強く認識させるかもしれない。次の位の天使たちは、これを媒体として使いながらエーテルに反応を起こさせ、適切な質量と適切な距離で、そこから物質のさまざまな要素を発展させる。次にそれが、重力、熱、電気などの法則や力の影響下で、我々の恒星宇宙を構成する星雲と太陽の広大な系体を形成し始める。
次に私たちが想像するのは、彼らにとって千年の歳月が一日でしかないこの大勢の天使たちが、この広大な太陽系と惑星の発展を見守っている様子かもしれない。やがて、そのうちのどれかひとつもしくはひとつ以上が、それ自体の中で、大きさ、基本的構成、大気、水の質量、熱源からの必要な距離などの諸条件を組み合わせて、アメーバから人間に至る生命の世界の完全な発展に必要な最低限の数百万年だか数世紀に、生命が十分に成長できる数億年の余裕をつけて、構造の安定と温度の均一性を確保するのだ。
そいうわけで、私たちは、仕事の自分たちの役割を正確かつ確実に遂行するために、無数の細胞の魂に影響を与える義務を負わされる組織化された霊とでも呼ぶ組織体なるものを想定することになる。
生命の世界の発展が続いている各段階では、もっと多くの、おそらくはより高度な知性が、打ち出される全体像に沿うように、変化の主要な系統に明確な方向を指示し、最終的にそれだけが人間の形を作ることにつながる、特定の系統の断絶を防ぐことが求められるかもしれない。
この推測含みの提案が私の読者の一部に、物質と生命の力と意識の、そして、最善の状態なら、すでに天使たちよりも少し下であり、天使たちと同じように、霊の世界で永続的に進歩する存在となるように運命づけられた人間自身の、より深くて最も根本的な原因について、今、私たちが明確に述べられる最も正解に近いものとして伝わることを、私は希望したい。
自然科学が宇宙に関して明らかにした結論に関する、この非常に独特で明らかに進歩的な発言は、すべてが精神であり、無限の変化に富むというエディ夫人の主張のかなり公平な証拠だとユージンには聞こえた。そして、彼女とイギリスの科学的な自然主義者との唯一の違いは、彼らが、自分たちで感じたり見つけたりできる自分たち自身の秩序あるもしくは自分で課した法則のみによって支配したり示せたりできる秩序ある階層を強く主張したのに対し、夫人はどこにでも存在しそれ自身が定めた秩序ある法則と力を通して行動する支配的な霊を主張したことだった。神は数学の法則のような原理だった……たとえば、二掛ける二は四である……太陽や星系の回転運動に現れるように、廊下の端の寝室にも毎日、毎時間、瞬間ごとに現れた。神は原理だった。彼は今それを理解した。原理なら、もちろん、どこであろうが、同時に存在でき、存在した。二掛ける二が四にならない、もしくはその法則が現れない場所を想像できなかった。だから、神の全知、全能、偏在の心も同様なのだ。
第二十六章
人を支配するために人に取りつくもので最も危険なものは、思想である。それは人を破滅に追いやることができ、現に追いやっている。十八歳を完璧とするユージンの考え方は、彼の性質の中の最も危険なものの一つだった。ある意味、アンジェラがユージンの関心と忠誠を得られなかったことに加えて、これが今日までの彼の破滅の元凶だった。狭い意味で関心を持たれた宗教的思想なら、この他のものに関心を向けさせただろう。しかし、もし彼がこれに関心を持つことができていたら、これは彼を滅ぼしただろう。幸いなことに、彼がこのとき関心を寄せていた理論は、いかなる意味においても狭い独断的なものではなく、大きな側面から見れば宗教であり、当時の形而上学的な思索を包括的に要約して宗教的に調整を加えたもので、誰もが知的に探求する価値があるものだった。カルトもしくは宗教としてのクリスチャン・サイエンスは、当時の宗教や宗教家たちから、何かとっぴで、不可解で、薄気味悪いものとして……黒魔術、想像の産物、催眠術、動物磁気療法、心霊術のようだと……敬遠された。要するに、すべてがそうではなかったが、どちらかと言えば、少しだけ本当にそういうところがあった。エディ夫人は、インドの聖典、ヘブライ語の旧約聖書、新約聖書、ソクラテス、マルクス・アウレリウス、聖アウグスティヌス、エマソン、カーライルなどに見られる事実を整理もしくは言い換えたのだった。彼女と現代人の間にあった顕著な違いは、彼女の言う支配的な調和が、ユージンや他の多くの人たちが想像したような悪意のあるものではなく、有益なものであることだった。彼女の「調和」は愛の「調和」だった。神は、悪の父以外のすべてだった。彼女によれば悪は幻想であり……事実でなく物質でもなく……音と怒りであり、何の意味もなかった。
忘れてならないのは、このつらい宗教的な思索を行っていた間、ユージンは市の最北部に住み、売れるかもしれないと思う絵を漫然と描き続け、百十丁目の産院に無事に退避したアンジェラを時々訪ね、四六時中スザンヌのことを考えて、ひょっとしたらもう会えないのではないかと思い続けていたことだった。 彼の心は、この少女の美しさと気質に、かなりあおられていたので、もう本当に普通ではなかった。彼を正気に戻すには、これまでに経験したことがなかったような何かのショックか大惨事が必要だった。地位を失ったことは多少影響を及ぼしていた。スザンヌを失ったことは、彼女への愛情を高めただけだった。アンジェラの状態は彼を思いとどまらせた。彼女はどうなるか、が関心を呼び覚ます疑問だったからだ。「あいつが死んでくれさえしたらなあ!」彼は独り言を言った。何しろ、人には、自分がさんざんひどい目に遭わせた相手を喜んで憎むことができるおめでたい能力があるのだ。アンジェラが自分の成功の足かせになっているという考えに取り憑かれていたから、彼はなかなか彼女に会いに行くことができなかった。彼の人生に子供をもたらすというアンジェラの考えは、彼をすさませただけだった。今、もしアンジェラが死んだら、面倒を見なければならない子供を彼が抱え込むことになり、そのせいでスザンヌが彼のところに来なくなるかもしれないのだ。
このときユージンが考えた唯一のことは、あまり、いやむしろ全然ひと目につかないようにすることだった。彼はかなり不興買っていた。公の場に出ることは彼自身を傷つけることにしかならなそうだった……この事実は、他のどこよりも彼自身の心の中にあった。もし彼がそれを信じていなかったら、そういう事実はなかっただろう。今どきの都市交通がないも同然の、この静かな地域を選んだのは、これが理由だった。ここなら平穏に考え事ができたからだ。一緒に住んでいた家族は、彼のことを何も知らなかった。冬が始まっていた。寒さと雪と強風のため、このあたりなら、あまり大勢の人たちに会わずにすみそうだった……特に、過去に彼を知っていた有名人たちには。旧住所から転送されてくる手紙が大量にあった。彼の名前は多くの委員会で使われ、「紳士録」にも載っていたからだ。交際に多額の出費が必要で、彼に会うのを喜んでいたであろう人たちよりも、あまり有名ではない友人が大勢いた。しかし彼はすべての招待を無視し、返事の手紙で現住所を知らせず、主に夜に出歩き、日中は本を読んだり、絵を描いたり、座って考え事をした。スザンヌのことや、運命が明らかにスザンヌを通じて、どれほど破滅的に自分を罠にかけたかをずっと考えていた。彼女は戻ってくるかもしれない、戻ってくるはずだ、と考えていた。彼女に再会するという、すばらしくも、痛ましい光景が浮かんだ。その中で彼女はもう彼から絶対に離れまいと彼の腕の中に駆け込むのだ。病室にいるアンジェラは、彼からの気遣いをほとんど受けなかった。彼女はそこにいて、専門的な治療を受けていた。請求された分はユージンが全額支払っていた。彼女の重大な時間はまだ本当に来てはいなかった。彼女のことはマートルが見ていた。ユージンは時々自分のことを、自分の人生が知り得た最も献身的なものを叩きのめして自分のところから追い立てている冷酷無情な知識人として垣間見たが、なぜかこれが正当なことに思えた。アンジェラは彼にふさわしくなかった。どうして彼女は彼と別れて生きられないのだろう? クリスチャン・サイエンスは、人と神との不滅の一体性と矛盾するとして、結婚を人間の幻想として完全に排除した。どうしてアンジェラは彼を手放さないのだろう?
ユージンはスザンヌに詩を書き、住んでいる家にあった古いトランク一杯分の本の中で見つけた詩をたくさん読んだ。「運と他人の目に見放されとき」で始まるソネットを何度も読み返した……自分のことのように思える暗闇からの叫びだった。イェーツの詩集を買い、スザンヌのことを語っている自分の声を聞いた気がした。
彼女が私の日々を不幸で満たしたからといって、なんで責めなくてはいけないんだ……
八年前に健康を損ねた時ほどひどくはなかったが、ユージンはかなりひどかった。彼の思考は再び、人生の不確かさ、そのうつろい、その愚かさに釘付けになった。自然の奥深さを扱うこういうものだけを研究していたら、これが再び人生そのものに対する病的な恐怖を生み始めた。マートルは彼のことでひどく苦しんだ。正気を失うのではないかと心配だった。
「実践士のところへ行ったらどうかしら、ユージン?」ある日のことマートルは弟に頼んだ。「あなたは助かるわ……本当なんだから。あなたは助からないって思うでしょうけど、助かるんだから。何とかなるんだから……何がって言われてもわからないけど。精神的に落ち着くわ。気分だってよくなるわよ。行ってごらんなさい」
「ねえ、余計なお世話だよ、マートル。頼むからやめてよ。僕は行きたくないんだ。形而上学的に言えば、その考えに一理あるとは思うけど、どうして僕が実践士のところへ行かなきゃならないのさ? もし神がいるのなら、みんなのところにいるように、僕の近くにもいるだろ」
マートルは拳を握りしめた。彼女がいつになくひどくがっかりしたので、ユージンは結局行くことに決めた。こういう人たちには催眠術というか、体から体へと伝わる何かがあるのかもしれない……死ぬ運命にある肉体に宿る古い錬金術みたいなものが、彼に届いて癒すことができるかもしれない。ユージンは催眠術や催眠暗示などを信じていた。彼は最終的にある実践士に連絡をとった。マートルや他の人たちに強く勧められた老齢の婦人で、ブロードウェイのずっと南側、マートルの家の近くに住んでいた。名前はアルテア・ジョンズ夫人……すばらしい治療を施したことがある女性だった。なぜ、この自分が、ユージン・ウィトラが、〈ユナイテッド・マガジンズ社〉の元統括出版部の部長であり、元芸術家(ある意味、自分はもう最高の意味での芸術家ではないと思った)であるこの自分が、ユージン・ウィトラが、クリスチャン・サイエンスの女性のところに行って、何の治療を受けるというのだろう、と受話器を取る間に彼は自分に問いかけた。憂鬱ですか? はい。失敗しましたか? はい。頭痛がしますか? はい。隣の席に座っていた見知らぬ男が証言したように女癖が悪いのですか? はい。何て奇妙なことだろう! それでもユージンは興味があった。これが本当に対処可能かどうかを思索することに少し興味がわいた。彼は失敗から立ち直れるのだろうか? この切望の痛みはとめられるのだろうか? 彼はそれがとまることを望んだだろうか? いや、決して望んではいなかった! 彼はスザンヌを求めていた。彼が知る限り、マートルの考えは、この相談がどうにか彼とアンジェラを仲直りさせて、彼にスザンヌを忘れさせるだろう、というものだったが、それはありえないことを彼は知っていた。ユージンは通い続けた。しかし彼が通い続けたのは、彼が不幸で、やることや目的がなかったからだった。他にどうすればいいかわからなかったから彼は通い続けた。
ジョンズ夫人……アルテア・ジョンズ夫人のアパートは、当時ニューヨークに何百とあったありふれたデザインのアパートだった。クリーム色の圧縮されたレンガでできた両翼の間には広々とした通路があって奥の玄関へと続いていた。玄関はしゃれた錬鉄製の扉で守られ、扉の両脇には、しゃれたデザインの電灯台が置かれ、すてきなクリーム色の電球が柔らかい光を放っていた。中には、普通のロビー、エレベーターがあって、無関心で無愛想な制服姿の黒人のエレベーター係がいて、電話の交換台があった。建物は七階建てだった。ユージンは雪が降って風が吹き荒れるある一月の夜そこに行った。大きな湿った雪片が巨大な渦を巻いて舞い、街中が柔らかでぬかるんだ雪の絨毯に覆われた。いつものように憂鬱だったにもかかわらず、彼は世界が見せてくれた美しい光景に興味を持った……街は純白のすてきなマントに包まれた。車はガタゴトと通り過ぎ、人々は大きなコートの中で体をまるめて、激しい風に立ち向かっていた。彼は雪が、雪片が、物質が生き生きとしているこのすばらしさが、好きだった。これは彼の心の苦しみを和らげ、彼にまた絵を描くことを考えさせた。ジョンズ夫人は七階に住んでいた。ユージンはノックして、メイドに迎えられた。時間が少し早かったので待合室に案内されると、そこには先客がいた……健康そうな男女で、痛みや苦しみとは無縁に見えた。これこそ、これが思い過ごしの病気に関係している証拠ではないか、と座っている間に考えた。だとすると、教会の隣の席で彼が聞いた男性は、どうしてあんなに力強く誠実に、自分が回復したことを証言したのだろう? とりあえず、様子を見ることにした。これが自分のために何ができるのか、まだ彼にはわからなかった。彼は働かなければならなかった。隅っこに座り、両手を組んで顎の下で支えるようにして、考え込んでいた。部屋は芸術的でないというよりも、むしろ特徴がなく、調度品は安っぽいというよりも、デザインがよくなかった。神の心は、自分の代理人をこんな外観で登場させるよりもいい方法を知らなかったのだろうか? 地上で神の威厳を示すのを助けるために召された人が、こんな家に住むほど芸術がわからないままにしておいていいのだろうか? 確かにこれは神のみすぼらしいお目見えだった、しかし……。
ジョンズ夫人がやって来た……背が低く、太った、不器量な女性で、白髪で、しわが目立ち、服装がやぼったく、口の片側に小さな腫れ物があり、鼻は少し大きすぎて見た目が良くなかった……外見の致命的欠陥がすべて派手に強調され、どこかで見たミコウバー夫人の古い版画に似ていた。素材は良いのに型崩れしたありふれた黒のスカートをはき、暗いブルーグレーのブラウスを着ていた。目が澄んだグレイであることに彼は気がついた。ジョンズ夫人は感じのいい微笑みを浮かべた。
「ウィトラさんですよね」ユージンが窓際の隅に陣取っていたので、ジョンズ夫人は部屋を横切って彼のところに来て、少しスコットランドなまりで言った。「お会いできてとてもうれしいわ。入っていただけません?」予約があったので他の数名よりも優先して声をかけると、彼の先に立ってまた部屋を横切って廊下を進んで実践室まで行った。彼が通り過ぎるときに握手をしようと、彼女は片側に立った。
ユージンは恐る恐るその手に触れた。
周囲を見回しながら入室するときに、これがジョンズ夫人か、と考えた。バングスとマートルは、彼女がすばらしい治療を行った……いや、神の心が彼女を通して行った……と言っていた。彼女の手はしわだらけで、顔は老け込んでいた。そういうすばらしい治療ができたのなら、どうして彼女は自分を若返らせなかったのだろう? どうしてこの部屋はこんなに散らかっているのだろう? 壁にはキリストや聖書の場面を描いた染色石版画や銅版画があり、床には安っぽい赤いカーペットだか敷物や、センスのない革張りの椅子や、本がありすぎるほどのテーブルだか机があって、薄くなったエディ夫人の写真があり、おまけに彼がうんざりする馬鹿げた標語があちこちに掲げられていたものだから、ほとんど息が詰まりそうだった。人々は暮らしの芸術となると、こうも駄目なのだ。人生について何も知らない者が、どうすれば神さまを気取れるのだろう? 彼は疲れていたし、この部屋は彼を不快にさせた。ジョンズ夫人も不快だった。おまけに、この女の声は少し裏声だった。この女に、がんが治せるのか? 結核が治せるのか? マートルが言ったように、他のすべての恐ろしい人間の病気が治せるだろうか? 彼はこれを信じなかった。
ユージンは彼女が勧めた椅子に疲れた様子で、それでも議論を辞さない態度で座り、相手を見つめた。一方、ジョンズ夫人は優しい微笑むような目で彼を見ながら、静かに彼の向かいに座った。
「さて」彼女は気楽に言った。「神の子は、自分がどんな問題を抱えてると思っているのですか?」
ユージンはいらついて身じろぎした。
「神の子だと」ユージンは思った。「御託を並べやがって!」彼は神の子だと主張するどんな資格を持っていただろう? こういう始め方が何の役に立つのだろう? 馬鹿馬鹿しいし、とても愚かだった。どうして素直に、どうしました、と聞かないのだろう? しかしユージンは答えた。
「ええ、かなりかかえています。絶対に改善できないと確信するほどたくさんですよ」
「そんなにひどいのですか? 決してそんなはずはないわ。いずれにせよ、神に不可能はないってことを知るのは良いことだわ。私たちは、いずれにしても、それを信じられるわよね?」ジョンズ夫人は微笑みながら答えた。「あなただって神、あるいは支配する力を信じているでしょ?」
「信じているかどうか自分でもわかりません。基本的には信じていると思います。信じるべきだとは思います。はい、信じていると思います」
「あなたにとって神は悪意がある神ですか?」
「私はいつもそう思ってました」彼はアンジェラのことを考えながら答えた。
「死すべき心だわ! 許されない考え方です!」ジョンズ夫人は自分に強く言い聞かせた。「どんな迷いもあってはならないわ!」
それからユージンに向かって言った。
「神が愛の神であることを知るためには、たとえその人の意に沿わなくても治療がなされなければなりません。あなたは自分が罪深いと信じていますね、そして、神には悪意があるとも? 事情を私に話す必要はありません。私たちはみんな同じように死すべき状態にあるのですから。イザヤ書の『あなたの罪が緋のようでも、雪のように白くなり、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』という言葉に注目してださい」
ユージンは何年もこの引用を聞いてこなかった。これは彼の記憶の中でぼんやりしていただけだった。過去に預言者の心像がヘブライ語で爆発したように、今それが単純に一瞬光って訴えかけてきた。腫れ物があって、大きな鼻で、やぼったい服装でも、ジョンズ夫人はこれをとてもうまく引用できたから、少しはましになった。これは彼女に対するユージンの評価を高めた。これは活発な思考、少なくとも機転の効く思考を証明した。
「あなたは悲しみを癒やせるのですか?」ユージンは険しい顔で、声に皮肉をこめて尋ねた。「心の痛みとか恐怖を治せるのですか?」
「私には何もできません」ジョンズ夫人はユージンの気分を察して言った。「でも神は全能です。もしあなたが神を信じるなら、神があなたを治してくださいます。聖パウロは『私を強くしてくれるキリストを通じて、私は何でもできる』と言っています。あなたはエディ夫人の本を読んだことがありますか?」
「ほとんど読みました。今でも読み続けています」
「あなたはそれを理解しましたか?」
「いいえ、完全とまでは。私には矛盾の塊のように思えます」
「初めてサイエンスにいらした方々には、ほぼ決まってそのように見えるものです。でも、それを心配しないでください。あなたは自分の悩みから解放されたいのでしょ。聖パウロは言っています『この世の英知でも、神にとっては愚かである』 『主は賢者の考えを知っている……それがむなしいことも』。私を女だとか、これをどうにかする何かを持っているとか、考えないでください。私はむしろあなたに私のことを、聖パウロが述べた真理のために働く人のように考えてほしいのです。『神が私たちを通してあなたたちに求めるのだから、私たちはキリストの使いです。私たちはキリストの代わってあなたたちに願います。神と和解しなさい』」
「聖書に詳しいですね?」ユージンは言った。
「それが私の持つ唯一の知識ですから」彼女は答えた。
その後で、クリスチャン・サイエンスではごく一般的な……手ほどきを受けたことがない者にとってはかなり異常な……あの奇妙で宗教的な活動のひとつが実際に行われた。その際、彼女はユージンに気を引き締めて主の祈りについて瞑想するよう求めた。「今のあなたに無意味に思えても気にしないでください。あなたは助けを求めてここに来ました。あなたは神の完全な映像であり、似姿です。神はあなたを手ぶらで帰すことはありません。でも、まずはこの詩篇をひとつ読ませてください。これは初心者にはいつも非常に役に立つと私が考えるものです」彼女は自分の近くのテーブルにあった聖書を開いて読み始めた。
「いと高き者の隠れる場所に住む者、全能者の陰に宿る者。
私は神について言います。神は私の避難所、私の砦です。私の神さま、私は神を信じています。
神は必ずあなたを猟師の罠からも、有害な病からも救います。
神はあなたを神の羽でおおいます。あなたは神の翼の下で保護されます。神の真理はあなたの大きな盾であり小さな盾なのです。
あなたは夜の恐怖も、日中飛んでくる矢も、恐れることはありません。暗闇を歩く疫病も、真昼に荒らす滅びも、恐れることはありません。
あなたの傍らで千人が倒れて、右側で一万人が倒れても、それがあなたに近づくことはありません。
あなたはただ、あなたの目で、悪人の報いを見るだけです。
あなたは、私の避難所である主を、いと高きものを、あなたの住まいにしたので、災いはあなたに降りかかりません。いかなる病もあなたの住むところに近づくことはありません。
神が神の天使たちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守らせるからです。
彼らは、あなたが足を石にぶつけないように、その手であなたを支えます。
あなたは獅子と毒蛇を踏み、若獅子と大蛇を踏みつぶすでしょう。
彼が私を愛したので、私は彼を助けます。彼が私の名を知ったので、私は彼を高いところに置きます。
彼が私に問えば、私は彼に答えます。私は彼が困っているときに一緒にいます。私は彼を助け、彼に栄光を与えます。
私は長寿で彼を満足させて、私の救いを彼に示します」
神の恩恵のこの最高にすばらしい意思表明が続く間、ユージンは目を閉じて座ったまま、自分の最近の不幸のすべてに思いを巡らせていた。何年かぶりに、全知全能とか、遍在とか、寛大といったものに心を集中させようとしていた。これは至難の業だった。彼はこの神の恩恵の表現の美しさを、彼が知る世界の性質と調和させることができなかった。彼はアンジェラと自分自身が最近ひどく苦しんだのを見ていたのに「彼らは、あなたが足を石にぶつけないように、その手であなたを支えます」と言ったところで、何の役に立っただろう? 彼が生きているときだって、彼はその、いと高き者の隠れる場所に住んでいるのではないだろうか? どうすれば、人はそこから抜け出せるのだろう? やはり……「彼が私を愛したので、私は彼を助けます」これがその答えだろうか? アンジェラの愛は彼に向けられていたのではなかったか? 彼自身の愛はどうだったか? 二人の苦悩はすべてそこから始まったのではないだろうか?
彼が私に問えば、私は彼に答えます。私は彼が困っているときに一緒にいます。私は彼を助け、彼に栄光を与えます。
彼はこれまでに、実際に、神に呼びかけたことがあっただろうか? アンジェラはどうだろう? 彼らは失意のどん底に置き去りにされていたのではなかったか? さらにアンジェラは彼にふさわしくなかった。なぜ神はこれを正さなかったのだろう? 彼は彼女と一緒に暮らすことを望まなかったのに。
ジョンズ夫人が話をやめるまで、ユージンはこれを哲学的に批判的に考えた。すべてを疑っていたにもかかわらず、このそう見える騒ぎや現実や痛みや気がかりが幻想だったら、どうだろう、と自分に問いかけた。アンジェラは苦しんでいた。他にも大勢の人たちが苦しんでいた。どうすればこれは真実になれるだろう? これらの事実は、幻想の可能性を排除しないだろうか? これらが幻想の一部である可能性はあるだろうか?
「今、私たちは、自分たちが神の完全な子供であることを理解しようとしています」ジョンズ夫人はそう言うと話をやめて相手を見た。「私たちは、自分たちがとても大きくて強くて実在すると思っています。私たちは十分に実在しますが、神の中の観念に過ぎません……それがすべてです。そこでは私たちに何も悪いことが起きません……悪は私たちに近づくことができないからです。神は無限であり、すべての力であり、すべての命です。真理であり、愛であり、すべての上にあり、すべてなのです」
ジョンズ夫人は目を閉じて、さっき言ったとおりに、神の中の彼の霊の完全性を、彼に理解させようとし始めた。ユージンはそこに座って、主の祈りについて考えようとしていたが、実際には、その部屋、安っぽい印刷物、質素な家具、彼女の醜さ、そこにいる自分の場違いさについて考えていた。このユージン・ウィトラが祈りをささげられている! アンジェラはどう思うだろう? もし霊が他のこういうことをすべてできるのなら、この女はどうして年老いているのだろう? どうして彼女は自分を美しくしないのだろう? 彼女が今やっていることは何なのだろう? 彼女が行っているこれは催眠術か、動物磁気療法だろうか? こういうことが行われることはない……サイエンスではありえない……とエディ夫人が特に言っていたのをユージンは思い出した。違うな、彼女は間違いなく誠実な人だった。彼女はそう見えた……口でもそう言った。彼女はこの慈悲深い霊を信じていた。詩篇にあるように、霊が助けるのだろうか? 霊はこの痛みを癒やしてくれるだろうか? 霊は彼がもうスザンヌを求めないようにするだろうか? もしかしたら、悪霊かもしれない? そうだ、そうに違いない。それでも……主の祈りには心を集中させた方がいいかもしれない。その気になれば、神は彼を助けることができるのだ。確かに、できるかもしれない。これは疑いの余地がない。宇宙を支配するこの巨大な力にできないことは何もなかった。電話や無線電信を見るがいい。星や太陽ついてはどうだろう? 「神が神の天使たちに命じて、あなたを守らせる」
約十五分黙想した後、ジョンズ夫人は「さて」と言って、にこやかに目を開けた……「私たちがもっといい状態になるのかどうかを見てみましょう。私たちはもっと健康になりますよ。だって良い行いをして、さらに神の中の観念には何ものも傷をつけることができないのだと理解するのですから。残りはすべて幻想です。そんなものが私たちを拘束できるはずがないのです。だって実在しないのですから。良いことを……神を……考えれば、あなたは善です。悪いことを考えればあなたは悪です。しかし悪はあなた自身の思考の外には実在しません。それを忘れないでくださいね」彼女は、まるで彼が小さな子供であるかのような口ぶりで話しかけた。
ユージンは体をくるんだコートのボタンを留めながら、風が絵のように雪を渦巻かせている雪の夜の中に出て行った。車はいつものようにブロードウェーを走っていた。タクシーが慌ただしく通り過ぎて行った。雪の中を少しずつ進む人たちがいた。大都市のいつもの人たちだった。舞い散る雪片を通して、アーク灯が青くあざやかに燃えていた。彼は歩きながら、これは自分にいい影響をもたらすだろうかと考えた。エディ夫人は、こういうものはすべて実在しない、と主張した。ユージンは考えた……死すべき心は、霊と調和しないものを進化させたのだ……死すべき心、『偽り者であり、偽りの父』。彼はこの引用文を思い出した。そんなことがありえるだろうか? 悪は実在しないのだろうか? 不幸はただの思い込みに過ぎないのだろうか? 彼は恐怖と恥の感覚を克服して、再び世界に顔を向けられるのだろうか? ユージンは車に乗って北上した。キングスブリッジに着くと、考えごとをしながら自分の部屋に向かった。どうすれば人生はかつてのような形で、彼のところに戻されるだろう? 彼はもう四十歳だった。ユージンはランプのそばの椅子に座って『科学と健康』の本を取り、適当に開いた。それから興味本位で、自分が開いたところを見てみようと思い立った……目にとまった特定のページだか段落は、自分に何を語りかけねばならないだろう。彼は今でもものすごく迷信深かった。見ると、目の前にこの段落が広がっていた。
「死すべき人間が、存在についての自分の思考を霊的なものと融合させ、神が働くのと同じようにだけ働けば、天国を経験したことがなかったからといって、もう暗闇の中をさまようことも、地上にしがみつくこともなくなります。世俗的な信念は私たちを欺きます。それらは人間を無意識の偽善者にします……善を創造しようとするときに悪を生み、優雅さと美しさを描こうとするときにいびつなものを形づくり、祝福しようとした人たちを傷つけます。そういう者は、自分は半分神であると信じている、よくいる半端な創造者になるのです。その者が触れると希望を塵に変えます。私たち全員が踏みつけた塵にです。聖書の言葉で言うなら『私が望む善を行わず、望まぬ悪を行う』です」
ユージンは本を閉じて瞑想した。もしこれが本当ならこれを実現したいと思った。それでも、宗教家にはなりたくなかった……宗教に溺れる人にはなりたくなかった。そういう人たちは何と愚かだろう。彼は日刊紙……イブニング・ポスト……を手に取った。中のページの目立たない片隅に、故フランシス・トンプソンの『天の猟犬』と題する詩の一節が引用されていた。それはこう始まった。
私は神から逃げた、昼も夜も、
私は神から逃げた、歳月の門をいくつもぐぐって……
結末は彼を妙な気分にさせた。
それでも、慌てずに追いかける、
しかも、平然とした顔で、
余裕のはやさで、堂々と迫る
神の足が追いついた
踏み鳴らす足音にも負けない声が……
「私を守らぬお前を守るものはない」
この男は本当にこれを信じただろうか? 本当にそうなるだろうか?
ユージンは本に戻って先を読み進めた。徐々に、罪や悪や病気はもしかしたら幻想かもしれない……そういうものは、人の自我がこの神の原理と知的に霊的に調和することで治る……と半分信じるようになった。確信は持てなかった。これはものすごく間違っていると感じた。彼にスザンヌをあきらめることができただろうか? 彼はそれを望んだだろうか? 望んではいない!
ユージンは立ち上がって窓のところに行き、外を眺めた。雪はまだ吹雪いていた。
「あきらめてしまえ! 彼女のことはあきらめるんだ!」それにアンジェラまで危険な状態だった。とにかく、何てとんでもない窮地に陥ってしまったんだ! とりあえず、朝のうちにアンジェラに会いに行くつもりだった。少なくとも優しくするつもりだった。彼女がこれを乗り切るのを見守るつもりだった。横になって眠ろうとしたが、どういうわけか、もう全然眠くならなかった。疲れすぎ、悩みすぎ、興奮しすぎだった。それでも少し眠った。近ごろは彼が願えることはこれしかなかった。