第1章~第7章
第一章
ユージンとエミリー・デイル夫人が出会ったのは、ユージンが成功の頂点にいたときだった。
デイル夫人は三十八歳のひと際美しい聡明な未亡人で、ニューヨークで順調にやっている多少名の知れたオランダ系家族の娘で、数年前にパリ近郊の自動車事故で亡くなったかなりの資産を持つ高名な銀行家の未亡人だった。十八歳のスザンヌを頭に、十五歳のキンロイ、十二歳のアデール、九歳のニネットという四人の子供を持つ母親だったが、家族の多さは彼女の社交的性格の繊細さや、魅力や態度の上品さにまったく影響しなかった。背が高く、優雅で、しなやかで、豊かな黒髪をしていたが、その髪は顔の美しさを引き立てるためにとても上手に使われた。本当は感情や空想が深いところを流れているのに、落ち着いて穏やかに見え、感じのいい礼節と育ちの良さが完成させたマナーを備え、幸運で排他的な環境で育てられた者に自然に備わる優越感を漂わせていた。
自分が目立って情熱的だとは考えなかったが、うぬぼれ屋で色っぽいことは素直に認めた。彼女は鋭敏で、片方の目を社会の大きなチャンスに向けて観察を続けていたが、文学や芸術をこよなく愛し、ものを書くことが好きだった。ユージンはコルファックスを通じて彼女に会って、彼から紹介された。ユージンはコルファックスから、お金の面を除けば結婚がかなり不幸だったことと、夫の死が取り返しのつかない損失ではなかったことを知った。また、同じ情報源から、彼女がいい母親であり、子供たちをそれぞれの立場や状況に最も適したやり方で育てようとしていることも学んだ。夫は彼女よりもずっと貧しい社会の出身だったが、彼女自身の地位は最高だった。社交界の花形で、たくさん招待され、自由気ままにもてなしていた。同年代や年上の男性よりも若い男性との付き合いを好み、彼女の美貌と富と地位に、社会の最高位という天国に簡単に届く扉を見出したあちこちの財産目当てたちに熱心に付きまとわれた。
デイル家の屋敷はいくつかの異なる場所にあった……一つはニュージャージー州モリスタウン、二つ目はスタテン島のおしゃれなグライムズヒル、三つ目は……ユージンが出会ったときの都会の住まいは、数年契約の賃貸で、ニューヨークの五番街に近い六十七丁目にあった……四つ目は、マサチューセッツ州レノックスの小さなロッジで、これも借家だった。ユージンと出会った直後に、モリスタウンの家は閉鎖され、レノックスのロッジが再び使われるようになった。
普段、デイル夫人はスタテン島にある先祖代々の家に住むのが好きだった。そこはグライムズヒルとして知られる丘の上の見晴らしのいい場所だったので、ニューヨークの湾と港の壮大な風景が一望できた。北はマンハッタンのビル郡の低い壁が雲のように棚引き、東は青と灰色とスレートブラックが交互に揺れている床のような海が広がり、西にはたくさんの船舶が浮かぶキル・バン・カル海峡とオレンジヒルズが見えた。トンプキンスヴィルのボートクラブには、使うのはもっぱら息子だが彼女のモーターボートがあり、グライムズヒルのガレージには自動車が数台あった。乗馬用の馬を数頭所有し、使用人を四名常駐させ、その他にも富と安楽に恵まれた快適な暮らしを築き上げる至れり尽くせりの設備をすべて持っていた。
下の娘二人はタリータウンの一流の寄宿学校に入り、息子のキンロイはハーバード大学に向けて準備をしていた。長女のスザンヌは寄宿学校を卒業したばかりで、自宅にいて、社交の場に出始めていた。すでにデビューしていた。スザンヌは変わった娘だった。ふっくらとして、美しく、気まぐれで、時々夢を見ているような無関心な態度をとり、水の上を駆け抜けるそよ風のような微笑みを浮かべることがあった。目は大きく、ぼんやりとした青灰色、唇はバラ色でアーチ型、頬はふっくらしてピンク、王冠をかぶったような明るい栗色の髪をしていて、体はその輪郭にあどけなさと色気を同時に備えていた。笑うとさざ波のように喉が鳴り、大げさに言わなくても、彼女のユーモアのセンスは完璧だった。生まれつき賢いのに、まだ漠然としていて形になっていない芸術家タイプの一人であり、教わってもいないのに世の中の微妙な存在のほぼすべてを疑った。羽根をいっぱいに広げた姿は美しいのに、サナギから出た蝶のようにとてももろくて、体に朝の輝きがあった。ユージンは会ってからしばらくデイル夫人と会わなかったが、会ったときに、夫人の美しさに大きな感銘を受けた。
人生は時々、どこにでもある粘土で不可解なものを作り出し、十二歳の少女の一瞥でダンテを歌わせる。牛を神にすることも、トキやカブトムシを神格化することも、金の子牛を作って大衆に拝ませることもできる。逆だ! 逆なのだ! この場合は、未熟でありながらほぼ完璧な肉体が、見た目は詩的だがまだ全然定まっていない人生観を持っている……こういう形の中に悲劇はどうやって潜むのだろう、と人が尋ねるくらいに、肉体はとても若くて、魂は模索を続けている。
馬鹿なのか?
そうではない。まだ考えが定まらず、あまりにも夢見がちなものだから、軽率な行動の後からすぐに困難がついて来るかもしれないのだ。
実際、生まれにも運にも恵まれていて、存在そのものが危なっかしく……刺激的であり、そうである自覚がなかった。もし本物の芸術家が彼女の精神と肉体を合成させて彼女を描いたとしたら、山の頂上で直立し、手足の輪郭が風に吹かれてはためいているドレープの中にうかがい知れて、目が遠くの高みだか流れ星を見つめる姿を見せながら描いたかもしれない。謎から出て再び謎の中へと、現れては消え去った。彼女の心は、朝日がそのピンクと金色の輝きで照らしながら破ろうとしている霧の雲に似てなくもなかった。何の作意もないのにすべての理想とすべての美しさを連想させる南海の真珠貝のようでもあった。夢だ! ……雲、夕焼け、色、音の夢だ! 明確になりすぎた世界が、後になってそれを全力で堕落させるだろう。ダンテがベアトリーチェに見たもの、アベラールがヘロイーズに見たもの、ロミオがジュリエットに見たもの、どこかの好奇心に駆られた田舎の若者が女に見たかもしれないもの……そして、似たような運命をたどったのだ。
ユージンは、ある土曜日の午後、ロングアイランドで催されたホームパーティーでデイル夫人と出会い、すぐに仲良くなった。デイル夫人はコルファックスによってユージンに紹介された。彼のぶっきらぼうで、冗談好きな性格のおかげで、彼の社会的地位については何の誤解もなかった。
「じっくりご覧になる必要はない」コルファックスは陽気に言った。「彼は既婚者だ」
「かえって興を添えるだけのことだわ」夫人は波紋を広げて、手を差し出した。
ユージンはその手を取った。「憐れな既婚者がどこかに避難所を見つけられるのは嬉しいことですよ」ユージンは上手に切り返した。
「あなたは喜ぶべきよ」夫人は答えた。「それってあなたの自由であると同時に防具でもあるんですから。ご自分がどれだけ安全か考えてごらんなさい!」
「十分にわかってますよ」ユージンは言った。「未婚のお嬢さんの石礫や矢がみんな通り過ぎていきますから」
「そして、あなたは傷つけられる危険がまったくないのよ」
ユージンはデイル夫人に腕を差し出し、二人で窓からベランダに抜け出した。
その日デイル夫人の退屈は最小限ですんだ。カードルームではブリッジが進行中で、ご婦人ご令嬢の方々はギャンブルに興じていた。ユージンはブリッジが得意ではなかった。頭の回転が追いつかなかった。デイル夫人もあまり好きではなかった。
「ドライブへの関心をかき立てようと努力したんですけど、うまくいかなくて」夫人は言った。「今日はみなさんギャンブルに夢中なんです。あなたも他の人たちと同じくらい欲張りなのかしら?」
「欲張りなのは保証します。でもカードができないんですよ。私にできる最も欲張りな行動は、テーブルに近づかないことです。おかげで大損しないで済んでいます。あの凄腕のファラデーが私と他の二人から四百ドルも巻き上げたんですよ。何人かの人が使えるテクニックは驚きですね。彼らがただカードを見るか、謎の合図を出すだけで、悪い札が彼らに都合のいいようにそろってしまうんですから。犯罪ですよ。ああいうのは懲役刑にするべきです、特に私を負かしたら。私はブリッジをしない族の無害のいい見本ですから」
「よほど懲りたのね。離れているに限るわ。ここに座りましょう。あの人たちだってここまで来てあなたから奪うことはできないわ」
二人は緑色の柳細工の椅子に座った。しばらくすると使用人がコーヒーを持ってきた。デイル夫人は受け取った。二人はブリッジから社交界の有名人へと会話を流れにまかせた……トランクで財を築いたブリストウという名前の成り上がり……そしてその男から旅行へ、旅行から財産目当てたちとのデイル夫人の体験談へと移った。自動車の件は他からも話があって実現した。しかしユージンはこの女性と一緒にいることに大きな満足を見出したので彼女の横に座った。二人は、本、芸術、雑誌、財産や評判の築き方などを語り合った。ユージンが執筆活動面で自分の力になれそうな立場いる、あるいはいるように見えたので、夫人はユージンに特にいい顔をした。別れ際に「ニューヨークはどちらにお住まいかしら?」と尋ねた。
「今はリバーサイド・ドライブに住んでいます」ユージンは言った。
「いつか週末にでもウィトラ夫人を連れてうちにいらっしゃらない? いつも何人かはいるのよ。家は広いし。何でしたら、特別な日を設けるわ」
「ぜひ、喜んでうかがいます。きっと家内も喜びます」
十日後デイル夫人はアンジェラに手紙を書いて詳しい日時を伝えた。こうして親しい付き合いが始まった。
しかしそれはあまりはっきりした性格のものではなかった。デイル夫人はアンジェラに会ったとき、社交相手としてどう考えたとしても、個人としては彼女のことがかなり好きだった。この時ユージンとアンジェラはスザンヌにも他の子供たちにも会わなかった。子供たちはみんな外出していた。ユージンは景色を大変気に入り、また招待されることをほのめかした。デイル夫人は喜んだ。彼女はユージンを彼の地位とはまったく別に男性として好きだったが、彼の出版者の地位は特別だった。夫人には書きたいという野心があった。ユージンは出版界で台頭中の人物で一番目立っている、と他の人が彼女に話してくれたことがあった。そんな人と親しくなれば部下の編集者たちに特別に引き合わせてくれるだろう。彼女は大喜びでユージンに丁重な態度をとった。彼はアンジェラと一緒に二度も三度も招待された。どうもただの社交的な付き合いというよりは、何かはっきりしたものにたどり着いているようだった、あるいは少なくともたどり着くのかもしれなかった。
アンジェラがお茶会を開いたのは、ユージンが初めてデイル夫人に会って半年ほど経ってからだった。ユージンは招待客のリストを作るのを手伝いながら、お茶とケーキを出すなら、ウィトラ家のアパートによく来るとびきり可愛い二人の女の子、有名な作家の娘フローレンス・リールと有名な編集者の娘マージョリー・マクテナンにすべきだと提案した。二人とも美人で才能があり、一人は歌を、もう一人は芸術の道を志していた。アンジェラはグライムズヒルのデイルビューにある母親の部屋でスザンヌ・デイルの写真を見て、彼女の少女のような魅力と美しさにこのときばかりは見とれてしまった。
アンジェラは言った。「その日スザンヌにも来てもらって給仕のお手伝いをお願いしたら、デイル夫人は反対するかしら。きっと喜ぶわよ。ここにはとても聡明な方々がいらっしゃるんですもの。私たちは本人には会ったことがないけど、そんなことは問題じゃないわ。これって彼女の自己紹介にうってつけでしょ」
「それは名案だよ、確かに」ユージンは判決を下すように言った。ユージンはスザンヌの写真を見たことがあって、それを気に入っていたが、過剰な印象は受けなかった。ユージンにすれば、写真は大抵、人をとんでもなく欺くものだった。彼はいつもそれを条件つきで受け入れた。アンジェラはすぐにデイル夫人に手紙を書き、了承を得た。彼女自身が喜んで行くつもりだった。ウィトラ家のアパートを見たことがあって、とても気に入っていた。パーティーの日が来た。アンジェラは早めに帰宅するようにユージンに頼んだ。
「自分ひとりだけで、部屋いっぱいの人と一緒にいたくないのはわかるけど、グッドリッチさんは来るんだし、フレデリック・アレン(ユージンに好意を寄せていた友人の一人)がいるだろ。そして、アルトゥーロ・スカルチェロが歌って、ボナヴィータが演奏するんだ」スカルチェロといえばニュージャージー州ポートジャーヴィスのアーサー・スカルガーに他ならなかったが、彼は自分が成功するのに役立てばと、このイタリア風に変えた自分の名前を使った。ボナヴィータは確かになかなか評判のいいスペイン人ピアニストで、ユージンの家に招待されたことを光栄に思っていた。
「まあ、僕はあまり気が進まないが」ユージンは答えた。「でも顔は出すよ」
ユージンは、午後のお茶やパーティーなんか馬鹿けた行事だ、オフィスで膨大な仕事に取り組んでいた方がはるかにいいとよく感じた。それでもユージンは早めに退社して、五時半には、おしゃべりして、身振り手振りを交え、笑っている部屋いっぱいの人たちの中に通された。フローレンス・リールの歌がちょうど終わったところだった。野心と活力と想像力に満ちたすべての少女たちのように、彼女はユージンの笑顔の中に反応する輝きを見つけたので、彼に興味を持った。
「あら、ウィトラさん!」彼女は叫んだ。「おかえりなさい、私の歌を聴き逃したわね。あなたにも歌を聴いてほしかったのに」
「嘆きなさんな、フローリー」ユージンは彼女の手を握り、少しの間その目を見つめながら、親しげに言った。「僕のためにもう一度歌ってくれるよね。エレベーターで上がってくるときに歌の一部を聞いたよ」ユージンは彼女の手を離した。「これは、デイル夫人! ご機嫌ですね。よくいらしてくださいました。それにアルトゥーロ・スカルチェロ……やあ、スカルガー、しばらくだね! そのイタリア名はどこで手に入れたんだい? ボナヴィータ! いらっしゃい! きみの演奏を聴かせてもらえるのかな? 終わったって? あーあ! マージョリー・マクテナン! おお、実にすてきだね! 家内が見てなかったら、僕はあなたにキスしていたでしょうね。いやあ、かわいい帽子だ! フレデリック・アレン! あきれたね! 何を取ろうとしてるんだい、アレン? 僕は君を見張ってるよ。だまそうとしても無駄だ! だめ! だめ! これは、シェンク夫人……うれしいな! アンジェラ、何でシェンク夫人が来ることを教えてくれなかったんだい? そうすれば三時に帰ってきたものを」
この時までにユージンはその広い部屋の東端、川から一番遠いところにいた。そこには銀のティーセットを乗せたティーテーブルが広げられていた。その向こう側に、楕円形の顔をした、まぶしいほど健康的な少女がいた。その豊かな唇は成熟した笑みを浮かべ、青灰色の目は喜びと満足を語り、額には銀のフィリグリーのバンドが巻かれ、その下からカールした茶色っぽい栗毛が突き出ていた。手がふっくらとして真っ白いことにユージンは気がついた。目にほんの少しだけ不審の光を浮かべて自信満々でまっすぐ立っていた。白地にピンクの縁取りのあるドレスが、彼女の少女らしい体を覆っていた。
「ひょっとして」ユージンは気楽に言った。「いや、賭けてもいいですが……こちらは……こちらはスザンヌ・デイルさん……どうですか?」
「はい、そうです」スザンヌは笑って答えた。「お茶をいかがですか、ウィトラさん? 母がしてくれた説明と、みなさんへのあなたの話し方からすると、あなたがウィトラさんですね」
「僕がみなさんにどんな話し方をするというのか、うかがってもよろしいですか?」
「そう簡単には言えないんですけど、つまり、言葉が見つからないんです。でも、どういうものかはわかっています。打ち解けやすい、ってことだと思います。砂糖はお一つ、それとも二つ?」
「三つ、いただくとしましょう。あなたが歌か演奏をするって、あなたのお母さんは言ってなかったかな?」
「まあ、母が私について言うことは鵜呑みにしちゃだめですよ! 何でも言っちゃうんですから。うふふ、笑っちゃうわ」……彼女はそれを笑っちゃふと発音した……「私が演奏するのを考えると。先生は、私の指を叩いてやりたいって言うのよ。まったく!」(スザンヌは急に笑い出した)。「それに歌ですて! あら、あら! それって傑作もいいところだわ!」
ユージンはスザンヌのかわいい顔をじっと見つめた。口と鼻と目が彼を魅了した。とても美しかった! ユージンは彼女の唇と頬と顎の形に注目した。鼻は繊細で、形が美しく、ふっくらしていて、感受性は鋭くなかった。耳は小さく、目は大きくぱっちりで、額はもともと高かったが、カールした髪で隠されて低く見えた。少しそばかすがあって、顎がほんのちょっぴりくぼんでいた。
「そういう笑い方をしちゃいけないな」ユージンは相手を馬鹿にして厳粛に言った。「とても大事な問題なんだよ、この笑い方ってやつは。第一に、このアパートの規則に反している。ここでは、絶対に、絶対に、絶対に、笑っちゃいけないんだ、特にお茶を入れる若いご婦人はね。エピクテトスがよく言うように、お茶は人の特権と義務の最も大事な概念に関係があるんだ。時々にっこりするのは、お茶を入れる人の高貴な特権だけど、いかなる状況でも、絶対に、絶対に、絶対に……」スザンヌの唇が、笑いがこみあげるのに先立って、美しく開き始めていた。
「何をそんなに盛り上がっているんだい、ウィトラ?」すぐそばまでやって来たスカルガーが尋ねた。「どうして急にやめちゃうんだい?」
「お茶だよ、ほら、お茶!」ユージンは言った。「一緒に飲むかい?」
「そうしょう」
「私が絶対に笑っちゃいけないってことを教えてくれているところなんですよ、スカルガーさん。ニコニコしかしちゃけいないんですって」唇が開いて、スザンヌは楽しそうに笑った。ユージンも一緒になって笑った。こらえきれなかったのだ。「母は、私が年がら年中くすくす笑っていると言うんですけど、ここではそんなに笑ってませんよね?」
スザンヌはいつも母を「はーは」と発音した。
ぱっちりとした、にこやかな目で、再びユージンの方を向いた。
「特例ですよ、特例、特例にしてもいいですよ……一度なら……一度だけですよ」
「どうして一度なんですか?」スザンヌは茶目っ気たっぷりで尋ねた。
「そりゃあ、自然な笑い声を聞くためです」ユージンは少ししょんぼりして言った。「本物の楽しい笑い声を聞きたいからですよ。あなたは楽しく笑えますか?」
スザンヌはこれに応えてまたくすくす笑った。彼女がどれほど楽しく笑うかをユージンが伝えようとしたところへ、彼のためにもう一度特別に歌うことになったフローレンス・リールの歌を聴こうとアンジェラが声をかけた。ユージンは渋々スザンヌと別れた。彼女はロイヤル・ドレスデンのようにほんのりと色鮮やかで、春の夕暮れのようにムードが理想的で、夜通し遠くや川の向こうから聞こえる音楽の調べのように、柔らかで、情感に訴え、人の気を引く、味わい深い人物に見えた。ユージンはフローレンス・リールが立っているところに行って、『夏風がびゅうびゅう吹いている』の楽しい演奏を共感しながら憂鬱な気分で聴いていた。その間ずっと彼はスザンヌのことを考えずには……そっちの方向に目を向けずには……いられなかった。デイル夫人、ヘンリエッタ・テンモン、ルーク・サーベラス、デューラ夫妻、今は特集記事の執筆をしているパヤレイ・ストーンや、他の人たちとも話をしたが、スザンヌのところへ戻りたくて仕方がなかった。彼女は何てすてきなのだろう! 何て愉快なんだろう! 生きているうちにもう一度、ああいう若い娘の愛情を手に入れられたらいいのだが!
客が帰り始めた。アンジェラとユージンは別れの挨拶で忙しかった。最後まで続く娘の仕事があったから、デイル夫人は残ってアーサー・スカルガーとお喋りしていた。ユージンはアトリエと玄関脇のクロークルームの間を往復し、ティーカップとサモワールのそばでおとなしくたたずんでいるスザンヌの姿を時々盗み見た。何年もの間、スザンヌの体ほど若くてみずみずしいものを見たことがなかった。まるでその年の始めにできた新しい潤いのあるユリの鞘のようだった。ヒシの実や、春の青々とした太い野菜の質感を持っていそうだった。目は水のように澄み、肌は新しい象牙のようにつややかだった。彼女には疲れた様子も、心配事も、邪な考えもまったくなく、健康と幸福以外は何もなかった。「ああいう顔だ!」ユージンは通り過ぎるときにふと思った。「彼女はどんな女の子にも負けないほど愛らしい。まるで光そのもののように輝いている」
ついでに、フリーダ・ロスの魅力を思い出した……さらにその前の……ステラ・アップルトンのことまで。
「若さ! 若さだ! この世の中に、これよりもすばらしいもの……これよりも喜ばれるものがあるだろうか! これに匹敵するものがどこにあるだろう? 本物の若さ、体だけではなく魂の若さ……目、笑顔、声……すべての若さ……を知るのは、街で埃まみれになり、老いさらばえた……目尻にカラスの足跡ができ、首にシワができ、口紅やマッサージやパウダーや化粧品で誤魔化した……姿を見せた後なのだ。なぜその奇跡を再現しようとするのだろう? 誰にできるのだろう? 今までに誰がやっただろうか?」
ユージンは、握手やお辞儀をして、微笑んだり、笑いかけたり、冗談を言ったりして、架空の自分を続けたが、その間ずっとスザンヌ・デイルの奇跡的な若さと美しさが、彼の脳裏を駆け巡っていた。
「何を考えているの、ユージン?」アンジェラが窓辺に来て尋ねた。ユージンはそこにロッキングチェアを引っぱって来て、薄暗くなりつつある光の中で、川の水面の銀色やラベンダー色や灰色を眺めながら座っていた。時期はずれのカモメが数羽まだ飛んでいた。川の向こうでは、大きな工場が、数ある高い煙突のひとつから黒煙の渦を送り出していた。たくさんの窓がある工場の壁で、照明が光り始めていた。近所の時計台が六時の鐘を鳴らすと、大きなサイレンが警笛から鳴り響いた。まだ二月の下旬なので寒かった。
「ああ、この景色の美しさを考えていたんだ」ユージンは疲れた様子で言った。
アンジェラはそれを信じなかった。何かに感づいてはいたが、近頃ではユージンの考えていることを巡って、二人が喧嘩をすることはなかった。二人は快適に、堅実に、随分遠くまで来ていた。それでもアンジェラは、ユージンが考えているのはどんなことだろう、と気になった。
スザンヌ・デイルは、ユージンについて特別な考えを何も持たなかった。ユージンはすてきだった……楽しくて、ハンサムだった。ウィトラ夫人はとても美人で若かった。
「お母さん」スザンヌは言った。「ウィトラさんの家の窓から外をご覧になった?」
「ええ、見たわよ!」
「美しい景色じゃなかった?」
「すてきだったわね」
「いつかあの通りに住むのもいいかもしれないって思ってるでしょ、お母さん」
「いつかそうなるのもいいかもしれないわね」
デイル夫人は考え込んだ。確かに、ユージンは魅力的な男性だった……若くて、才気煥発で、有能だった。早まって結婚するとは、若い男性はみんな何という間違いを犯すのかしら。ここで彼は成功し、社交界に招かれ、魅力的で、世界が本当に目の前にあったのに、チャーミングで小さな女性ではあるが、自分の可能性に及ばない相手と結婚するとは。
「まあ、どうせ」夫人は思った。「世の中はそういうものなのよ。どうして心配するの? みんな自分のできることを精一杯やるしかないのよ」
それから、この方向で書き進めて、ユージンの雑誌のひとつに掲載してもらえるかもしれないストーリーを考えた。
第二章
こういういろいろな出来事が起こっている一方で、〈ユナイテッド・マガジンズ社〉の業績は順調に伸びていた。就任してからの最初の一年が終わるまでに、編集と広告の問題はあらかた片付き、ユージンはもうそれをあまり心配することはなく、二年目の終わりまでに本格的な成功への道を順調に進んでいた。ユージンは、従業員が千人以上もいる大きなビルの中で、誰もが一目で彼だとわかる職場の大物になっていた。側近たちはコルファックスやホワイトに接するときと同じように礼儀正しく従順だったが、ホワイトは会社全体の状況が良くなるにつれて、これまで以上に威圧的に、でしゃばりになっていった。年俸二万五千ドルの高給とりで副社長の肩書を持つホワイトは、すでに持っている以上の権力をユージンは持つべきではないとかなり気をもんでいた。ユージンはあまり気が利かず、上司の前でも自分の重要性を隠すどころか、誇示する傾向があったので、彼がそういう態度をとるのを見るにつけて、ホワイトは苛立ちを募らせた。ユージンはいつもコルファックスに、広告・流通・編集の分野の何かの新しい成果を売り込んでいた。しかもホワイトをあまり重視していなかったから当人のいる前で、書籍部門で新しい大物作家がつかまった、これこれの雑誌用に新しい記事の原稿が手に入った、新しい流通計画と経路が考案された、大きな金銭的価値のある新しい広告契約がうまくまとまった、と話していた。ユージンは物事をしっかりと進め、コルファックスもそれを知っていたから、ユージンがコルファックスのオフィスにいるのは、ほぼ決まってお祝いか関心が示されているしるしだった。ホワイトはユージンを見るのが嫌になった。
「それで、最新の大手柄は何なんだ?」ユージンは子供のように、褒められるのが好きで、平気でからかえる相手だったから、コルファックスは一度ホワイトがいる前でユージンに陽気な態度で言った。ホワイトはあざ笑いたい欲望を作り笑顔で隠した。
「最新の大手柄は何もありません。ヘイズが〈ハモンド梱包会社〉をうまくやりこめました。これで来年は一万八千ドル分の新しい仕事が増えることになります。少しは業績の足しになりますかね?」
「ヘイズ! ヘイズがな! あいつがお前よりも優秀な広告担当者になると思わないようなら、私の方がすげ替えられちまうな、ウィトラ。お前があいつを抜擢したことは認めねばならんが、あいつは確かに仕事のすべてを心得ている。もし今後お前に何かあったら、あいつをそのままそこに置いておきたいと思う」ホワイトは聞いていないふりをしたが、これを喜んだ。ヘイズこそホワイトが全力で応援すべき相手だった。
関心の糸が自分から部下へと急にねじ曲がったことが、熱意を冷ましたせいで、ユージンの表情が曇った。部下のひらめきを誘う自分の指導力が疑われたり、自分が管理している部下の功績より低く評価されるのは、気分がいいものではなかった。ユージンが彼ら全員をここに連れてきて、この状況を改善したのだ。コルファックスは彼に背を向けるつもりだろうか? 「ええ、結構ですよ」ユージンは穏やかに言った。
「そうがっかりしなさんな」コルファックスはさらっと答えた。「お前が何を考えているのかわかってるぞ。私はお前に背を向けるつもりはない。お前がこの男を雇ったんだ。私はただ、お前に何かあったら、そいつをそいつがいる場所にそのまま置いておきたいと言っているだけだ」
ユージンはこの発言を真剣に考えた。これは、彼がヘイズを解雇できないことを通知したも同然だった。コルファックスはこのとき実際にそのつもりはなかったが、これはそういう考えの種だった。彼はただこの問題を検討中にしただけだった。ユージンはこれがどれだけ極端に不利なねじれをすべてに生じさせただろうと考えながら立ち去った。もしユージンが優秀な人材を見つけて、ここに連れて来ても、彼が解雇できなかったら、そして、もし後になって彼らがユージンに楯突いたら、彼はどうなるのだろう? 彼らはホワイトを通して知るかもしれないので、もし彼らがそれを知ったら、ランオンが調教師に襲いかかるように彼を襲ってズタズタに引き裂くかもしれない! これは困った予想外の展開であり、ユージンにとって好ましいものではなかった。
一方、コルファックスはユージンを気に入っていたから、これまではこの問題を一度も考えたことがなかった。しかしユージンに悪意を持って対立するホワイトから出続けていたある種の警告や提案ともぴったり一致した。知的で芸術的な側面からこの職場の再編成に成功したユージンの功績は、あまりにも大きすぎた。ユージンの仕事は、彼が実際にやっていたことに全然釣り合わない威厳と安定した状態を彼に与えていて、仕事に関係する他のすべての人の威厳を目立たなくして、無関心の忘れられた状態にしてしまう恐れがあった。これではいけない。このところコルファックスは、ユージンの輝かしい知的な商業的資質に夢中になりすぎて、ホワイトを無視し始めていた。ホワイトはこういう状況が続いていいとは思わなかった。優秀な人材を採用して会社を成功させられる人を見つけるのは、確かに誰にでもできることではなかった。では、彼についてはどうだろう? ホワイトも知ってのとおり、コルファックスは元々とても嫉妬心が強くて疑り深かった。彼はどんな形であれ、自分の従業員の誰にも、存在感を薄められたくなかった。これまでは自分がそういう目に遭うとは感じなかった。しかし今ホワイトは、もしできるのであればこの点でコルファックスを煽る……彼の嫉妬心をかき立てる……のがいいだろうと考えた。コルファックスは今はそこに所属しているが、出版業界にそれほど関心がないことをホワイトは知っていた。そして儲かることがわかりかけてきたので、この状況にかなり満足していた。人々がいつも〈ユナイテッド・マガジンズ社〉や、そこの定期刊行物、書籍、美術製品について自分に話しかけてきたから、彼の妻はこれを喜んだ。彼女の夫が手がけた石鹸や毛織物や鉄道株ほどの儲けはなかったかもしれないが、こっちの方が多少は目立った。彼女は夫にそれを直接管理してもらい、その反射光で輝いてほしかった。
ホワイトはユージンを殴る棍棒を探していて、これを発見した。ホワイトはいろいろな機会にコルファックスの考えを探り、彼の嗅覚に注目した。まずユージンの部下の広告・流通・編集の担当者に接触し、ユージンではなく自分に目を向けるように説得できれば、ユージンには後からコルファックスを通して接触してコントロールすればいいことだった。ユージンの権力を抑えて、この自分ホワイトが依然として陰の権力者であることをわからせて、ユージンをおとなしくさせればいいのだ。
「このウィトラという男をきみはどう思う?」 コルファックスは時々ホワイトに尋ねた。こういうチャンスが来ると、ホワイトはすかさず楔を打ち込んだ。
「彼は有能な男です」ホワイトは一度、この上なく公平無私に見える態度で言った。「彼があの部門をかなりうまく運営しているのは明らかですが、うぬぼれたところには気をつけた方がいいと思います。ほんの少しですが思い上がった危険な状態ですね。担当している仕事に比べてみると、彼はまだ若いということを覚えておくべきです。(ホワイトは八歳年上だった)。ああいう文学だの芸術だのっていう連中は似たり寄ったりですからね。私が彼らに対して持っている唯一の反対理由は、彼らが本当の実務的判断力を持っているように全然見えないことです。彼らでもちゃんと管理されれば立派な補佐役は務まります。あなたが彼らの扱い方を心得ていれば、彼らと一緒にほぼ何でもできるでしょうが、彼らの管理はあなたがやらなければいけません。私が見る限り、この男はあなたが求めている人物です。彼はなかなか優秀な人材を選んで、なかなかいい結果を出しています。しかしあなたが彼を見張らなかったら、いつか全員をここから放り出すとか、全員を引き連れて逃げかねません。私があなたなら、彼にそんなまねはさせません。あなたが妥当だと思う人間だけを彼に採用させるべきです。そしてその人間を使い続けるように釘を刺しておくべきです。もちろん、人は自分の担当部門で権限を持たねばなりませんが、それが度を過ごすことだってありえますから。あなたは随分彼にやりたい放題やらせていますよ」
この話がとても誠実かつ論理的に聞こえたので、コルファックスはホワイトに感心した。彼はユージンをとても気に入って、よく一緒に連れ回していたにもかかわらず、必ずしも信頼してはいなかった。ある意味では目立ち過ぎだと思った。少し気取りすぎで、足取りが軽すぎた。
最終的にそれは失敗だとわかるかもしれないから実際には干渉することなく、ユージンの仕事を助けて方針を示すという口実で、ホワイトは絶えず提案をしていた。彼は提案をしたが、これは、ユージンが流通部門で試すべきだ、と彼がコルファックスに言ったものだった。彼は提案をしたが、これは、広告部門で試したら有効だとわかるかもしれない、と彼が考えたものだった。ホワイトはどこから集めたかわかならい雑誌や書籍のための提案を持っていた。そして、細心の注意を払ってこれらを必ずコルファックス経由で送ったのに、各部門の責任者は、どの発信元からそれらが最初に出たのかを知っていた。ホワイトの計画は、ヘイズか、流通部担当のギルモアか、編集者のひとりに、自分の頭にある考えを話し、それから、その同じ考えをユージンから命令として出させることだった。ユージンはいい成果をあげたくて仕方なかったのと、提案を善意で解釈したために、長い間自分がもてあそばれていたことに気がつかなかった。ホワイトはコルファックスと緊密に連携し、しかもこの二人は必ずしもユージンと同意見ではなかったので、彼の部下たちは何かが起きていることを察知した。ユージンにはホワイトほどの力はないというのが最初の印象だった。そしてその後、ユージンとホワイトは相性が悪い、ホワイトの方が強いから勝つだろう、という考えが広がった。
社内政治を構成する長時間かけてゆっくり進むたくさんの出来事や詳細に立ち入ることはできないが、これまでにどこかで大なり小なり組織で働いたことがある人なら誰でも理解できるだろう。ユージンは政治家ではなかった。ホワイトや彼のような独特で微妙な考え方をする人たちにできる、誤認を招く巧妙な技術を何も知らなかった。ホワイトはユージンのことが好きではなく、ユージンの権力を抑えようともくろんだ。しばらくするとユージンの編集者の中から、印刷部門から欲しいものを入手しづらくなる者が出始めた。苦情を言うと、彼らが乱暴で喧嘩っ早い性格なんだと説明された。広告担当者の中から声明書やプレゼンテーションでミスを犯す者が出ると、不思議なことに、こういう失態がほぼ毎回明るみに出た。力のある者がホワイトに話を持ち込めば、彼らがその問題からすぐに解放されることにユージンは気がついたが、彼らがユージンのところに来ても、そう簡単にはいかなかった。ユージンは小さな問題を無視して大きなことをやる代わりに、時々立ち止まっては、こういう小さな争いや不平不満と戦った。これはただ、自分の領域で恒久平和と秩序を維持できない者という光をユージンに当てただけだった。ホワイトはいつも穏やかで、人の役に立ち、うまい説明を用意していた。
「やはり、彼はこういう連中の扱い方をわかっていないのかもしれませんね」ホワイトはコルファックスに言った。それでもし誰かが解雇されたら、それは不安定な方針のしるしだった。
コルファックスは、ホワイトの提案に従って折に触れてユージンに注意したが、今ではユージンは、何が起きているのか、ちゃんと気づいていたので、その提案の出どころがわかっていた。コルファックスの前で公然とホワイトを非難することを一度は考えたが、動かぬ証拠が何もなかったから、そんなことをしても何の得にもならないことを知っていた。ホワイトがコルファックスにする反論はすべて、自分はユージンを助けようとしている、という内容だった。こうして戦いが始まった。
その一方で、これのせいなのか、それとも会社の株を持っていないし買うこともできないから、いつまでも自分の権力が強いままでいるとは限らないと考えたからなのか、ユージンはロングアイランドのウィルブランド邸であの記憶に残る会話をして以来、彼のことを忘れたことがなかったケニオン・C・ウィンフィールド氏に持ちかけられた提案を気にかけていた。ウィンフィールドは、ニューヨークから約三十五マイルのロングアイランドの南岸に、パームビーチやアトランティックシティのもっといい場所をもしのぐ豪華な海辺のリゾートを建設して、贅沢好きの怠け者や成功した蓄財家たちの大きな人の流れを前述のリゾートからこのリゾートへ変えるような、美と贅沢の夢をすぐ近くのニューヨークに提供する計画に関連して、ずっとユージンのことを考えていた。その主要な特徴は何であるべきかについて彼は随分考えたが、それが自分にぴったり合うものを考え出したことがなかった。そしてユージンなら概略を考えるという観点から関心を持つかもしれないと考えた。
残念なことに、すでに手が一杯だったにもかかわらず、これは表面上はあらゆる角度からユージンを魅了してしまう種類の計画だった。美と贅沢の芸術的な組み合わせほど、ユージンの関心を引くものはなかった。ホテルやカジノ、パゴダ、居住区、クラブハウス、板張りか石造りの海沿いの広い歩道、そしておそらくはモンテカルロを凌ぐギャンブル場などを備えた本格的なサマーリゾートが、ニューヨークの近くにできてもよさそうなものだと、ずっと前から考えていた。ユージンとアンジェラはパームビーチ、オールドポイントコンフォート、ヴァージニア・ホットスプリングス、ニューポート、シェルターアイランド、アトランティックシティ、タキシードを訪れたことがあって、贅沢と美を構成するものの彼の印象は、ずっと前から壮大なものになっていた。ユージンはオールドポイントコンフォートのチェンバレンや、パームビーチのロイヤルポンチャナの内装が好きだった。アトランティック・シティやその他の場所にあるホテルの特徴の発展を、芸術向けの好奇心で研究していた。彼は、特定の人に限られた地域が、大西洋のグレーヴゼンド湾近郊に展開できるかもしれないと考えていた。そこには、島、運河、内陸水路、巨大ビーチ、高級ホテル二、三棟、ダンスと食事とギャンブルを提供するカジノ、新しい計画では海と平行に敷かれる石かコンクリートの立派な歩道があり、これらのすべての奥と島と海の間に、裕福な人しか住めないほど土地が高額で分譲される豪華な海辺の街があった。彼の考えは、最近出会ったひときわ顕著な享楽家すべてを魅了するであろうというすばらしいものだった。もしそういう場所が存在する、美しく、派手で、金銭的な意味で高級な場所が存在する、と彼らに理解させることができたら、そういう人たちが何千人もそこにやって来るだろう。
「贅沢を好む大衆が贅沢を望めば、贅沢ほど儲かるものはない」かつてコルファックスはユージンに言ったことがあった。ユージンはこれを信じた。最近見たものから、これは真実だと判断した。人々は自分を快適にするために文字通り何百万ドルも費やした。庭、芝生、散歩道、東屋、パーゴラなどが、見る人が少ししかいないような場所に、何千ドル、何十万ドルも費やされて造られるのを見たことがあった。セントルイスでは、タージマハルを模して建てられた霊廟を見たことがあった。しかも冬の間もずっと花や低木が咲いていられるように、スチーム式暖房設置のそばで周囲の芝生が掘り下げられていた。こういう夢というかその最終的実現に、自分が関わる日が来ると考えたことはなかったが、ユージンはそういうことを考えるのが好きなタイプだった。
後日、ウィンフィールドが和やかにユージンに出した提案は、とても単純だった。ウィンフィールドは、ユージンがかなりお金を稼いでいることや、年収が二万五千ドル以上あることや、家と土地と多少の有望株を持っていることを聞いていた。そして誰でも思いつくように、とりわけユージンが長期運用のもっと大金を稼ぐ方法がわかる人だったら、土地投機のような楽な投資を引き受けるかもしれないと思いついた。ウィンフィールドの考えは次のようなものだった。彼が〈シーアイランド開発会社〉なる法人を設立、資本金は一千万ドルで、まずそのうちの約二、三十万ドルが資金に充当、もしくは払い込まれる。この後者の金額に対して、額面百万ドルの株式か、額面百ドルの五株分の株式が発行される。つまり、現金百ドルを出した者は、その見返りとして、それぞれが額面百ドル、利息八パーセントの普通株三株と優先株二株を受け取る。この比率は、現金で二十万ドルが資金に貯まるまで続けられる。それ以降の購入希望者は、現金百万円が資金に貯まるまで、普通株二株と優先株一株を受け取るだけだった。その後、株式は額面通りか、あるいは状況に応じてそれ以上の金額で売却される予定だった。
最初の二十万ドルは、会社が未開発の土地を購入するために使われる。そこは半分が沼地、半分が島で、グレーブゼンド湾沖の大西洋に面し、現在はウィンフィールド自身が所有していて、白砂の美しい起伏のゆるやかな浜辺が、約三マイルの長さにわたって、欠陥も障害もなく広がっていた。これによってウィンフィールドは、ざっと六万ドルの価値があっても今は売れない土地が片付いて、代わりに新会社のすばらしい株が手に入る。ウインフィールは自分の身を守るために、この土地と、会社が行うかもしれないすべての改善箇所に抵当権を設定するつもりだった。この地域の西端……海から内陸に入ったところ……には美しい湾があり、浅いが、一連の小さな入り江と、九つの小さな島を含む網状の水路につながっていた。これらの水路は浚渫すればヨットやあらゆる種類の小型船舶が通過するのに十分な深さになる。ウィンフィールドが思いついた最初の重大な考えは、浚渫で出た泥と砂を使って水路と海との間の低い湿地帯を埋め立てて、全体を小高く乾いた価値ある土地にすることだった。次にやるべきことは、すばらしい改善計画を考えることだった。ウインフィールがユージンと話したかったのはこのためだった。
第三章
この問題を解決するのは難しくなかった。ウィンフィールドが十の文章を言い終わらないうちに、ユージンは頭からアイデアを取り出し始めた。
「あの土地のことは多少知ってるんです」ユージンはウィンフィールドが準備した小さな概略図に目を通しながら言った。「コルファックスや他の人たちと一緒にあそこにカモを撃ちに行ったことがあります。いいところですよね。その点は疑いの余地がない。あそこをいくらでほしいんですか?」
「いや、実を言うと、すでに所有しています」ウィンフィールドは言った。「五年前、あそこがだだっぴろい、入るに入れない沼地だったときに、六万ドルで手に入れました。それっきり、何もしてませんが、今の資産価値……二十万ドル……で会社に引き渡し、身を守るために抵当権を設定するつもりです。そうすれば会社はあそこを好きなように使えます。当然、私は社長として開発の方針を指図しなければなりません。もしあなたが一財産築きたくて、五万ドルの余裕があるなら、ここにあなたのチャンスがあります。この土地は五年で六万ドルから二十万ドルに値上がりしました。ニューヨークがこの調子で発展を続けていくと、今から十年後に、どのくらいの価値になると思いますか? 現在の人口はほぼ四百万人です。二十五年後には、この二十五マイル圏内に、千四百万人から千五百万人が散らばっていると言っていいでしょう。もちろん、ここは直線距離で三十二マイルも離れていますが、それが問題になるでしょうか? ロングアイランド鉄道がよろこんで支線を敷いてくれますよ。そうすればここは市の一時間圏内になります。これを考えてください……ニューヨークから一時間の圏内に大西洋一のすばらしい海岸があるんです! ロングアイランド鉄道のウィルシー社長なら、この土地に大きな関心をもつと思います。こうしてあなたのところにうかがったのは、あなたの広告と芸術面でのアドバイスが何かの参考になると思ったからです。これを受ける受けないはあなた次第ですが、何かをする前に、あなたには私と一緒に来ていただいて、この土地を見てほしいのです」
株と土地と銀行にある自由なお金と、一、二年後に貯まっているかもしれないお金を合わせて、ユージンにはいざという時に使える現金が約五万ドルあった。ユージンは、ウィンフィールドが目の前に、慎重に管理すれば大金持ちになれる絶好のチャンスを用意してくれたことにとても満足していた。それでも、彼の五万は五万であり、彼はそれを持っていた。しかし、もしこれが本当で、この副業が軌道に乗れば、もう二度と地位や今の社会的立場を守れるかどうかを心配する必要はなくなるのだ。こういう投資がどうなるかは多分誰にもわからない。ウィンフィールはユージンに、最終的に自分は六百万ドルから八百万ドルの純益をあげるつもりだと言った。彼はやがて設立されるいくつかのホテルやカジノと、いろいろな他の事業の株を取得するつもりだった。やがてこの土地の排水が完了して整地されれば、百×百フィート区画あたり……販売される最低面積……の地価は三千ドルから一万五千ドルになることが彼にははっきり見通せた。クラブや不動産が莫大な利益を生むはずの島がいくつかあった。ヨットやボートクラブへの賃貸を考えるだけでいい! 会社がすべての土地を所有するのだから。
「もし私に資本があったら、これを自分で開発します」ウィンフィールドは言った。「開発が大々的に行われるのを見たいのですが、私にはその手段がありません。私はここに、私とこれに関係した者全員の記念碑になるものがほしいのです。私はただちに参加する人たちと同じ割合のリスクを負うつもりです。私の誠意を証明するためにも、できるだけ多くの株を一対五の基準で買おうと思います。あなたや他の誰でも、同じことができるんです。どう思いますか?」
「すばらしいアイデアですね」ユージンは言った。「何年もの間、頭の奥で漂っていた夢が、突然現実になった気がします。これが本当だとは到底信じられませんが、それでも私は、これが本当であることと、ここで概略を説明したとおりに、あなたがこれを始めるつもりであることを知りました。でも、この土地をどうやって配置するかについては細心の注意を払いたいですね。千載一遇のチャンスを得たんです。絶対にミスを犯さないでください! 本当に、美しくて、正しいリゾートを作りましょう」
「それはまさに、これについて私が感じていることです」ウィンフィールドは答えた。「だから、私はあなたに話をしています。あなたの想像力が真価を発揮すると思うから、あなたにこの計画に参加してほしいのです。あなたなら私がこれを正しく計画して、正しく宣伝するのを助けられますからね」
ユージンはあれほど用心深かったにもかかわらず、次から次へと詳細を話しているうちに、最後はこの計画の中で自分の夢がふくらんでいくのが見えた。ここに五万ドルを投資すれば、二千五百株が手に入る……優先株千株と普通株千五百株……この額面価格はこの優良物件によって保証される。これは思案のしどころだ、二十五万ドル……百万ドルの四分の一。自然に価値があがると仮定すれば、これは彼を簡単に億万長者にしてくれるかもしれない! ウィンフィールドはユージンにこの計画を立ててもらいたがっていたから、彼の頭脳はここで多少の価値を持つことになるだろう。これは彼を街で最高の不動産業者のたった一人に接触させるだけでなく、大勢の現役の投資家や、この事業に必ず関心を持つであろう人たちと付き合わせることになる。ウィンフィールドは、建築家、請負業者、鉄道関係者、建設会社の社長、それと、これが後々自分たちにもたらすビジネスチャンス目当てで株を取得しそうな者のすべてと、さらにその後でこれが会社に大きな利益をもたらし、これがなかったら何百万ドルにもなる支出から会社を救うことになる多く選択肢について、簡単に話した。例えば、〈ロングアイランド鉄道〉によって延長が企てられれば、鉄道には二十万ドルの費用をかけるだろうが、〈シーアイランド社〉には何の費用もかけずに、便利な設備が受け入れ準備を整え次第、美しいものを愛する人たちを何千人もそこへ運んでくれるだろう。これは建設されるホテルにも当てはまった。それぞれのホテルが他のすべての業種に仕事を運んでくれる。会社は土地を貸す。大手のホテル業者は、〈シーアイランド社〉が定めた制約と計画に従って、自分のホテルを建てる。実際の支出は、道路、下水道、街灯、水道、歩道、樹木、コンクリートの装飾が施されて世界一すてきな海辺の散歩道になる幅百フィートの立派な遊歩道の分だけだった。しかし、これらは段階的に取りかかれるものだった。
ユージンはこのすべてを見た。これは帝国の未来図だ。「こればかりはわかりませんね」ユージンは慎重に言った。「大したもんですが、私にはつぎ込む資金がないかもしれません。じっくり考えたいですね。その間に、あなたと一緒に現地に出向いて実地調査をしたいですね」
ウィンフィールドは、自分がユージンをその気にさせたのがわかった。計画さえ仕上がれば、彼を加えるのは簡単なことだ。ユージンは家を建てて夏はそこへ来て暮らすタイプの人だろう。彼なら、彼の知る大勢の人たちの興味を掻き立ててくれるだろう。ユージンはいいスタートを切ったと感じながら立ち去った。彼は間違ってはいなかった。
ユージンはアンジェラに相談した……こういう問題で唯一の頼れる人だった。アンジェラはいつものように疑問を呈したが、全面的な反対ではなかった。アンジェラはとても用心深かったが、大きな仕事の先を見通す力はなかった。彼が何をするべきかをアンジェラが実際にユージンに言えるはずがなかった。これまでのところ、ユージンの判断というか行動は明らかに成功していた。ユージンが出世を続けてきたのは、明らかに彼が補佐役として価値があったからであって、彼が生まれながらのリーダーだからではなかった。
「あなたが自分で判断しないといけないわ、ユージン」アンジェラは最後に言った。「私じゃわからないもの。よさそうには見えるけど。あなたはきっとコルファックス社長のために一生働きたくないのでしょうし、もしあなたの言うように、相手があなたに対して陰謀を企て始めているのなら、いつか出ていくための準備をした方がいいわ。もしあなたが芸術に戻りたければ、私たちにはもう実際に生活していけるだけのものが十分にあるんだもの」
ユージンは微笑んだ。「僕の芸術か。僕の金にならない昔の芸術か! 自分の芸術を発展させるために、たくさんのことをしたっけな」
「発展する必要はないと思うわ。あなたにはそれがあるんだもの。それをみすみす手放させたことが時々悔やまれてならないわ。私たちの生活は向上したわ、でもあなたの仕事が同じだけの価値であったことはないわ。成功した出版者であることは、お金以外で、あなたにどんないいことをしてくれたのかしら? あなたはこの仕事を始める前から、今と同じくらい有名だったのよ。今だってあなたを雑誌の出版のユージン・ウィトラではなく、芸術家のユージン・ウィトラとして知ってる人の方が多いわ」
ユージンはこれが真実であることを知っていた。彼の芸術の実績が彼を見捨てたことは一度もなかった。芸術は常に名声を高めてくれた。彼が二百ドル、四百ドルで売った絵は、三千ドル、四千ドルへと値上がりし、未だに上昇を続けていた。もう絵を描くつもりはないのかと画商から時々声をかけられることがあった。社交界のエリートの間では「どうしてもう絵を描かないのですか?」「あなたが芸術界を去ったのが残念でなりません!」 「私はあなたの絵を忘れることができません」の声が絶えなかった。
「奥さま」ユージンは一度真面目に言った。「絵を描いていたのでは、雑誌の編集でできるような生活はできないのです。芸術はとてもすばらしいものです。私は、自分が偉大な画家であると信じることで満足しています。しかし、絵を描くことで私が得たものは少ししかありませんでした。そのときから、私は生きることを学んできたのです。これは悲しいけど、事実です。今の暮らしの半分の楽な生活ができて、絵を小脇に抱えて街中をとぼとぼ歩き回るリスクを冒さないで済む方法がわかったら、私は喜んで芸術に戻りますよ。問題は、世間はいつも、芸術や文学のために他人が犠牲を払うのをとても楽しそうに見るんです。まっ、私はそんなことをするつもりはありません。そういうことです!」
「あら残念! 残念ですわ!」相手は言うが、ユージンはあまりつらくはなかった。ユージンの作品を見て評判を聞いていたから、同じようにデイル夫人も彼を責めた。
「いつか。いつかそんなこともあるかもしれません」ユージンはもったいつけて言った。「待っていて下さい」
ここに来てようやく、この土地の開発計画がすべての障害を取り除いたように見えた。もしこの話に乗れば、ユージンならこの事業に関連した何かの正式な地位に就けるところにまで徐々に行くかもしれない。とにかく、二十五万ドルから上昇を続ける収入を考えよう! 独立、自由になることを考えよう! そうすればきっと、絵を描こうが、旅に出ようが、好きなようにできるのだ。
将来のリゾート地の最も近い立ち入り可能な場所まで車で二回出かけて、島々と浜辺を丹念に調査した後で、ユージンは一つの計画を考えた。その中には、いろいろな規模のホテルが四棟、食事とダンスができるカジノ、モンテカルロ風のギャンブル場、サマーシアター、ミュージックパビリオン、三つの美しい桟橋、モーターボートとヨットのクラブハウス、放射状に広がる通りを持つ公園、その通りと交差するように同心円状に配置された他の複数の通りがあった。ホテル四棟が立ち並ぶ大きな広場があり、全長三マイルの立派な遊歩道に始まって、洒落た鉄道の駅、価格が五千ドルから一万五千ドルの夏の別荘用地が五千世帯分あった。住宅用の島、クラブ用の島、公園用の島があった。ホテルの一棟が入り江の近くにあり、食事のとれるベランダがその入り江にせり出すように作られる予定だった……水面まで降りられるように階段が設けられ、ゴンドラかランチに乗り込めば、島の一つにあるミュージックパビリオンまですぐに運ばれる手はずだった。お金が求めるすべてのものは、最終的にここで手に入るはずだった。そして、すべてはゆっくりと美しく進められることになったので、一歩一歩は、より確かな次の一歩にしかならなかっただろう。
ユージンは自分を含む十名がそれぞれ株を五万ドル取得すると誓約するまで、この壮大な計画に参加しなかった。その中にはロングアイランド鉄道の社長ウィルシー、ケニヨン・C・ウィンフィールド、それからウィンフィールドに最初に出会った邸宅の主でとても大金持ちの社交家のミルトン・ウィルブランドがいた。その後、〈シーアイランド社〉が設立された。メンバーの間で合意がなされ、それぞれの日時までに達成されている一定の仕事量に左右される一連の日程に基づいて、株式が各メンバーに一万ドル単位で発行され、それから現金が徴収されて金庫に預けられた。ウィンフィールドから最初に話を持ちかけられてから二年が過ぎるまでに、ユージンは〈シーアイランド不動産建設会社〉の金色の権利書の選りすぐりのコレクションを持っていた。この会社は、今や広く知られているビーチリゾート……〈ブルーシー〉を建設していた……関係者によれば、これはこの種のリゾートとしては世界で最も理想的なものになるはずだった。彼の権利書はその価値を二十五万ドルと謳っていた。そういうこともありえた。ユージンとアンジェラは権利書を見ながら、ケニヨン・C・ウィンフィールドと彼の関係者の構想力と先見性を考えながら、いつの日か、それもそう遠くない将来に、これが額面以上の価値になる、と確かな手応えを感じた。
第四章
スザンヌ・デイルが最初に自分に与えた印象を、ユージンがますます愛おしいと考えるようになってきたのは、新しい〈シーアイランド建設会社〉と自分との関係についてウインフィールと結んだ約束を初めて完全な形にしていたときのことだった。二人が再会するのは六週間ぶりで、このときはデイル夫人がスザンヌのために開き、ユージンとアンジェラが招待されたダンスパーティーだった。デイル夫人はアンジェラの妻としての素晴らしい資質を称賛した。気質や社交上の違いはあったかもしれないが、少なくとも彼女側は、二人の間に差別があっていい理由だとは考えなかった。アンジェラはいい女性だった……社交界向きの人物ではなかった……しかし彼女なりに興味深かった。デイル夫人がユージンに一層多くの関心を持った理由は、まず二人は気質が非常によく似ていた。そして次にユージンが成功した華麗な人だったからだ。デイル夫人は、ユージンが人生にとる悠然とした態度や、才能が自然にすべての扉を彼に向けて開くと思い込んでいる様子を見るのが好きだった。明らかに何事にも劣等感を抱かず、むしろすばらしい優越感を抱いていた。出版界で急速に頭角を現しつつあり、たくさんのことに関心を持ち、最近は壮大なサマーリゾートを作るプロジェクトに関わっていることをデイル夫人は多くの人から聞いていた。ウィンフィールドは彼女の個人的な友人だった。彼女に不動産を売ろうとしたことはなかったが、いつか彼女のスタテン島の地所を譲り受けて、分譲し、町づくりをするかもしれないと言ったことがあった。デイル夫人がウインフィールにいい顔をしがちなのは、これがあったからかもしれない。
問題の夜、ユージンとアンジェラは自動車でデイルビューに出かけた。ニューヨークの他の場所では簡単に味わえない高さと広さを感じさせてくれるから、ユージンはいつもここを称賛した。季節はまだ晩冬、夜は寒く、澄み切っていた。ガラス張りのベランダを持つ大邸宅は煌々と明かりが灯っていた。そこには人が大勢いた……ユージンがいろいろな場所で会ったことがある男女や、彼の知らない若い人たちが大勢いた。アンジェラは大勢の人に紹介されなければならなかった。そしてユージンはあの奇妙な感覚を味わった。それは彼がたびたび自分の結婚生活の中のある種の不一致で経験したことがあるものだった。アンジェラはすてきだったが、それらしい雰囲気で振る舞う他の女性たちとは違っていた。彼女たちの多くは最高の美しさと洗練さは言うまでもなく、彫像のような威厳と余裕があった。その差が間近で突きつけられたとき、これはユージンに、自分はとんでもない間違いをしてしまったと感じさせた。どうして結婚するなどという愚かなことをしてしまっただろう? あの時に、しないと率直にアンジェラに言うことだってできた。そうすればすべてがうまくいっていただろう。ユージンは、自分がどれほどひどく、感情的に、自分を巻き込んでしまったかを忘れていた。しかし、こういう場面はユージンをひどく不幸にした。もし彼が独身だったら、人生は今、始まったばかりなのだから!
今夜、歩き回る間、ユージンはたとえほんの数分の間でも自由に社交ができてうれしかった。最初からあちこちにわざわざアンジェラに話しかけてくれる人がいたのでうれしかった。このおかげでユージンはアンジェラのそばにいる必要がなくなった。もしユージンがアンジェラを無視したり、彼女が他の人たちに無視されたと感じたりすることがあれば、アンジェラは彼を非難しがちだった。もしユージンが彼女に関心を示さなかったら、アンジェラは彼があからさまに無関心を決め込んでいると文句を言うだろう。もし他の人たちがアンジェラに話しかけようとしなかったら、ユージンの出番であり、彼が相手をしなければならなかった。ユージンはこの避けようのない役回りが心底嫌だったが、これをどうすればいいのかわからなかった。アンジェラがよく言ったように、たとえ彼女と結婚したのが間違いだったとしても、結婚した以上は、彼女のそばにいるのはユージンの役目だった。本当の男ならそうするだろう。
ユージンの興味を引いたことのひとつは、美しくて若い女性たちの数だった。彼は、とても大勢の少女たちが十八歳で、どれほど精神的にも肉体的にも充実して完成されて見えるか、を確認したかった。そのセンスのよさ、抜け目なさ、完成度の高さは、四十歳までのほとんどの年齢の男性にふさわしい相手だった! 彼女たちのうちの何人かはユージンにはとてもすばらしく見えた。……とても健康そうで、血色がよく、野心と欲望の炎が血管の中で勢いよく燃えていた。美しい少女たち……バラのような本物の花々、光であり闇だった。思えばユージンの恋の期間はすべて終わっていた……完全に終わっていた!
しばらくすると、スザンヌが他の人たちと一緒に二階の部屋から降りてきた。ユージンは改めてその素朴で、自然で、素直な気だてのいい態度に感銘を受けた。彼女の明るい栗色の髪は、目によく合い、顔色と見事に対照的な、幅の広い水色のリボンで結ばれていた。また、ドレスは桃の花の色をした軽い薄地のもので、ウエストがリボンで締められ、花輪のように花で縁取られていた。柔らかい白のサンダルが足を包んでいた。
「あら、ウィトラさん!」スザンヌは、白いすべすべの腕を目の高さにかかげて、優雅に手をおろしながら、陽気に言った。赤い唇が開いて、きれいに並んだ白い歯を見せ、輝くような微笑みになった。ユージンが覚えていたとおり、彼女の目は実にぱっちりしていた。そこに無邪気な、驚きの表情があったが、本人は完全に無自覚だった。もし濡れたバラが彼女のようなみずみずしい乙女に勝るなら、それを見たいと思った。十八歳から十九歳の若い女性の美しさに匹敵するものはなかった。
「はい、いかにも、ウィトラです」ユージンは喜びを発散しながら言った。「てっきりお忘れかと思ってました。今夜は実にすてきに見えますね! まるでバラ、切り花、ステンドグラスの窓、宝石箱、それからええと……」
ユージンは言葉が出てこないふりをして、考え込むような顔で天井を見上げた。
スザンヌは笑い出した。ユージンと同じで、滑稽なものや馬鹿馬鹿しいものに著しく敏感だった。うぬぼれたところがこれっぽっちもなく、バラや宝石箱、ステンドグラスのようであると考えることは、彼女の空想力をくすぐった。
「まあ、なりたいものを集めたのかしら?」スザンヌは唇を開いて笑った。「できるなら、そういうもの全部になりたいわ、特に宝石かしら。母は全然くれようとないのよ。胸元を飾るプローチ一つないんだから」
「どうやら、お母さんは本物のケチのようですね」ユージンは力強く言った。「お母さんに言ってやらないといけませんね。でもおわかりでしょうけど、お母さんはあなたには宝石なんか必要ないってわかっているんですよ、ほら? あなたには同じくらいいいもの、いや、もっといいものが備わっているってわかっているんです。でも、この話はよしませんか?」
スザンヌはてっきりユージンが自分を褒め始めるのではないかと案じていたが、その方向に進むのをあっさり避けたのを見て、ユージンを好きになった。彼の威厳と知力には少し圧倒されたが、陽気さと態度の軽さに惹かれた。
「ご存知? ウィトラさん」スザンヌは言った。「私は、あなたが人をからかうことが好きなんだと思ってるわ」
「とんでもない!」ユージンは言った。「決して、決して、そんなことはありません。どうして私にそんなまねができますか? 人をからかうだなんて! 私はそんなことをする人間じゃない! そんなことをしようだなんて絶対に考えもしませんよ。私はいつだってとても真面目な態度で人に接して、暗く悲しい真実を伝えるんです。それが唯一のやり方なんです。相手はそれを求めるし、私は真実を話せば話すほど、気分が良くなります。すると、相手はその分私のことをもっと好きになってくれます」
ユージンの人をからかう話が始まった途端に、スザンヌの目が、異様に、詮索でもするように開いた。それから笑顔がこぼれて、ユージンが話をやめるとすぐに叫んだ。「ああ、おかしい! あら、まあ! よくそんな話ができるわね!」さざなみのような笑いが広がり、ユージンは暗い顔をしかめた。
「よく笑えますね?」ユージンは言った。「私のことを笑わないでください。とにかく、笑うのはルール違反だ。育ち盛りの女の子は絶対に笑っちゃいけないってことを覚えていないんですか? 真面目は美しさの第一原則です。決して笑ってはいけません。絶対に真面目でい続けてください。賢く見えるように。今後はね、従って、もしも、そして……」
ユージンは厳かに指を一本立てた。スザンヌは見つめた。ユージンは自分の目をスザンヌの目に釘付けにしたまま、彼女の美しい顎と鼻と唇に見とれていた。スザンヌはそんな彼をどう扱っていいのかわからず見つめていた。ユージンはとても変わっていた。多分に少年のようであり、それでいて多分にある種の真面目な暗い主人のようだった。
「怖いんですけど」スザンヌは言った。
「さあ、さあ、聞いてほしい! お終いにしよう。落ち着くんだ。私はただの馬鹿だな。今晩、私と踊ってくれますか?」
「ええ、もちろんよ、もしあなたがお望みなら! そうだ、思い出したわ! カードがあるのよ。もらいましたか?」
「いや」
「確か、こっちだったと思います」
スザンヌは会場へ案内した。ユージンはそこに詰めていた使用人から小さな帳面を二冊受け取った。
「さてと」ユージンは書きながら言った。「どれくらい欲張りになろうかな?」
スザンヌは返事をしなかった。
「三番と六番と十番をとったら多すぎかな?」
「い、いいんじゃない」スザンヌは自信なさげに言った。
ユージンはスザンヌの分と自分の分を書き込み、大勢の人が今集まりかけているダイニングに戻った。「本当にこれを私にとっておいてくれる?」
「ええ、もちろんよ」スザンヌは答えた。「私が保証するわ!」
「ありがとう。ほら、お母さんが来た。忘れないで、絶対に、絶対に、絶対に笑っちゃだめだからね。笑うのはルール違反だ」
スザンヌは考え事をしながら去った。彼女は、気楽で自信満々に見えるこの男性の陽気なところが楽しかった。彼は彼女を一人の小さな女の子として扱う人のようであり、彼女が知る、彼女の前だと真面目になったり、恋の病にかかったりする少年たちとは大違いだった。ユージンは過度な注目を浴びたり、母親に説明したりしなくても、楽しく過ごせるタイプの男性だった。母親はユージンを気に入っていた。しかし、彼女は他の人たちとしゃべっているうちに、彼のことをすぐに忘れた。
しかし、ユージンは、この少女の精神の中にある、自分を強く惹きつけている得体の知れない何かについて改めて考えていた。これは何なのだろう? 彼はこの数年で少女を何百人も見てきた。みんな魅力的だった。しかしなぜかこの少女は……世に出たばかりで若かったにもかかわらず、とても強く見えた。そこには落ち着きがあった……彼女の魂には、人生を笑い飛ばし、悪く考えない、重要な性質があった。それがその理由か、そういった何かによるものだった。もちろん、彼女の美しさは印象的だったが、勇ましい楽観主義が彼女の目を通じて輝きを放っていた。それは笑い声にも、雰囲気の中にもあった。彼女は怖いもの知らずだった。
ダンスは十時を過ぎてから始まった。ユージンはいろいろな相手……アンジェラ、デイル夫人、スティーヴンズ夫人、ミス・ウィリー……と踊った。三曲目が始まるときに、スザンヌを探しに行くと、彼女が他の若い娘と二人の上流階級の男性に話しかけているのを見つけた。
「私の番ですよ」ユージンは微笑みながら言った。
スザンヌは笑いながら、しなやかに腕を伸ばし、自分が作り出したその魅力的な姿をまったく意識せずに、ユージンのところに来た。スザンヌには頭を後ろへ反らす癖があり、これは彼女の首のラインを美しく見せた。スザンヌはユージンの微笑みに微笑かえして、素直に、気取ったりせずに、ユージンの目をのぞき込んだ。そして、二人が踊り始めると、ユージンは自分が今まで本当はダンスをしたことがなかった気分になった。
詩人なら動きの詩をどう謳うだろう? これを見ればいい。これが答えだった。この少女は、美しい声が歌うように、すばらしく、甘美に踊ることができた。スザンヌは花の陰から聞こえてくるツーステップの音とともにそよ風のような動きをするようだった。ユージンは本能的にその魅力……その催眠術……に身をゆだねた。ユージンは踊った。踊りながら、腕にもたれかかっているこの美しい姿とその甘美さ以外のすべてを忘れた。この感動に匹敵しうるものはない、と内心で思った。それは彼がこれまでに経験したどんなものよりもすてきだった。そこには大きな喜び、純粋な喜びがあり、見事に調和している感じがあった。ユージンが一人で得意がっている間にも、音楽は終わりに向けて急いでいるようだった。スザンヌは好奇心に駆られてユージンの目を覗き込んで言った。
「ダンスがお好きなんですね?」
「ダンスはするけど上手じゃありません」
「まあ、確かにそうね!」スザンヌは答えた。「あなたはとても気楽に踊るわ」
「あなたのせいです」ユージンは簡潔に言った。「あなたにはダンスの魂が宿ってますからね。ほとんどの人はダンスが下手なんですよ、私みたいに」
「そんなことないと思います」スザンヌは言った。席に向かう間ユージンの腕にしがみついていた。「あ、キンロイがいる! 彼が次に私と踊るのよ」
ユージンはほとんど怒りをあらわにした状態でスザンヌの弟を見た。成り行きとはいえ、どうして一緒にいるスザンヌをこうやって自分から奪わねばならないのだろう? キンロイは彼女に似ていた……男の子にしてはかなり容姿端麗だった。
「それでは、私はあなたを手放さないといけませんね。あそこにもっといられたらよかったのに」
ユージンはスザンヌと別れて、六曲目と十曲目を辛抱強く待つしかなかった。ここから何も生じないのだから、こんなふうに彼女に関心を持つのは愚かだとわかっていた。スザンヌは少女たちの完璧な育成のために必要な、すべての慣習と予防策に守られた若い娘だった。ユージンは彼女の関心の時期を過ぎた男性であり、慣習や関心にも見張られていた。二人の間には絶対に何もあるはずがなかった。それでもユージンはスザンヌに憧れた。ほんの一口でいいからこの幻想の美酒を味わいたかった。結婚していようがいまいが、何歳も年上であろうがなかろうが、スザンヌと一緒にいるわずかな時間、彼はスザンヌをからかいながら一緒にて幸せになることができた。あのダンスをしているときの感覚……美と完璧に調和する感覚……を経験したのは、これ以前だといつだっただろう?
夜が更け、ユージンとアンジェラは一時に帰宅した。アンジェラは、兄のことを知っていたウォズウァース基地に駐屯中の、ある陸軍の若い将校に楽しい思いをさせてもらった。そのおかげでアンジェラにとっては楽しい夜だった。デイル夫人は何て魅力的な主催者なのかしら、スザンヌは何てかわいらしく陽気に見えるのかしら、とアンジェラは二人について語ったが、ユージンはろくに関心を示さなかった。彼は自分が他の誰よりもスザンヌに関心を持っていたことを気取られたくなかった。
「そうだね、とてもすてきだよね」ユージンは言った。「なかなかかわいいけど、あの年頃の女の子はみんなそんなものさ。ついからかいたくなるよ」
ユージンが本当にいい方へ変わったのか、アンジェラは知りたかった。彼の女性に関する話はすべて健全に思えた。その目で見た女性の何人かの美しさには見惚れたり喜んだりしたに違いない、と感じざるを得なかったが、おそらくは大きな浮気を何度かして完全に癒えたのだ。
さらに五週間が過ぎたある日のこと、ユージンは五番街でスザンヌが母親と一緒にアンティークショップから出て来るところを見かけた。デイル夫人は、希少な家具の修理状況を見ていたところだと説明した。ユージンとスザンヌは、ほんの少しだけ楽しい言葉を交わすことができた。四週間後、ユージンはウェストチェスターのブレントウッド・ハドレイ家で二人に会った。スザンヌ親子は春の乗馬シーズンを満喫していた。ユージンは土曜日の午後と日曜日しかそこにいなかった。この時、ユージンは四時半に、スザンヌが乗馬用のキュロットをはき、顔を紅潮させ、うきうきしてやって来るのを見かけた。彼女の美しい髪は、こめかみのあたりで軽やかに風になびいていた。
「あら、ご機嫌いかが?」スザンヌはあの同じ調子っぱずれな様子で、ユージンに手を高々と差し出しながら尋ねた。「前回は五番街でお目にかかりましたね? 母が椅子を修理してもらっていたんです。あ、おかしい! 母ったら実にゆっくりと馬を走らせるんですもの! 何マイルもかなたに置き去りにしちゃったわ。あなたはこちらに長く滞在するんですか?」
「今日と明日だけです」
ユージンは陽気と無関心を装ってスザンヌを見た。
「奥さまもご一緒ですか?」
「いや、家内は来られなくてね。親戚の者が市内に来てるんですよ」
「私はどうしてもお風呂に入る必要があるわ」彼の目が求める女の子は言い、「ディナーの前にまた会いましょう」と声をかけて去った。
ユージンはため息をついた。
スザンヌは一時間後に、花柄のオーガンジーを着て、黒いシルクのチョーカーを喉に巻き、低い襟できれいな首筋を見せながら、降りてきた。柳細工のテーブルを通り過ぎながら雑誌を手に取り、ユージンが一人で座っているベランダまで来た。スザンヌの気さくな態度と人懐っこさはユージンを魅了した。彼に対しては完全に自然でいられて、そこにいるとわかった途端に座っているところを探し出してしまうほど、彼女はユージンのことが好きだった。
「まあ、ここにいたのね!」と言って、スザンヌはユージンの近くにあった椅子に座った。
「はい、ここにいます」ユージンが知っていたスザンヌへ近寄る方法はこれしかなかったから、そう言って、いつものようにスザンヌをからかい始めた。ユージンのからかい方は楽しかったから、スザンヌはいきいきと反応した。スザンヌが本当に楽しめるタイプのユーモアだった。
「ねえ、ウィトラさん」スザンヌは一度ユージンに言った。「私はもうあなたの冗談では笑いませんからね。だって全部、私が犠牲者なんですもの」
「それがすべてを一段とよくするんですよ」ユージンは言った。「私を犠牲にした冗談なんか言ってほしくないでしょ? だって冗談じゃすまなくなるから」
スザンヌは笑い、ユージンは微笑んだ。二人は華奢なカエデの木立から差し込んでくる金色の夕日を眺めた。春は始まったばかりで、ちょうど葉が出始めていた。
「今夜はすてきじゃないですか?」ユージンは尋ねた。
「ほんと、そうね!」スザンヌは、豊かで美しい、瞑想に浸っているような声で叫んだ。これまでにそこにあることに気づいていた、深い誠実さがその中で初めて響いた。
「自然は好きですか?」彼は尋ねた。
「私がですか?」スザンヌは聞き返した。「近頃は森に夢中なんです。自分でも時々とても変な気分になるんです、ウィトラさん。まるで私は本当は全然生きていないみたいな。森の中のただの音や色でしかないって感じかしら」
ユージンは話をやめて、スザンヌを見た。このたとえは、誰のどんな顕著な特徴にも負けないくらいに、彼の心を捉えた。この少女の心は何色で、どれくらい複雑なのだろう? 自然が深く心に訴えかけるほど、スザンヌは、賢くて、芸術が理解でき、感受性が豊かなのだろうか? 彼が感じたこのすばらしい魅力は、もっとずっと繊細な何かの影か輝きなのだろうか?
「すると、そういう感じがするんですね?」ユージンは尋ねた。
「はい」スザンヌは静かに言った。
ユージンは座って相手を見た。スザンヌも同じくらい真剣に相手を見た。
「どうしてそんなふうに私を見るの?」スザンヌは尋ねた。
「どうしてそんな好奇心をかきたてるようなことを言うんですか?」ユージンは切り返した。
「私が何を言ったのかしら?」
「あなたが本当にわかっているとは信じていません。まあ、気にしないでください。歩きましょうか? いいでしょ? ディナーまでまだ一時間あります。向こう行ってあの木立の向こうがどうなっているのか見てみたい」
二人は、草に縁取られ、緑色に芽吹き始めた小枝の下の小道を進んだ。最後は踏み越し段に行き当たり、牛が放牧されている石だらけの緑の野原が見えた。
「ああ、春だな! 春だ!」ユージンは叫んだ。するとスザンヌが答えた。「ねえ、ウィトラさん、私たちっていくつかの点で似た者同士だと思うんです。私はそんなふうに感じてます」
「私がどう感じているかを、どうすればあなたがわかるんですか?」
「声でわかります」スザンヌは言った。
「本当にわかるんですか?」
「ええ、もちろんよ、どうして私がわからないと思うの?」
「あなたは変わった女の子ですね!」ユージンは考え込むように言った。「私にはあなたのことがさっぱりわからない」
「あら、あら、私って他のみんなとそんなに違いますか?」
「全然違いますね」ユージンは言った。「少なくとも私にとっては。私はこれまであなたのような人を見たことがありません」
第五章
スザンヌはいつもウィトラ氏のことを自分なりに考えたが、自分に対する彼の態度は、とても親切をほんの少し上回っている、とこの出会い以降、漠然と意識するようになった。スザンヌの近くにいると、ユージンはとても優しくて、とても瞑想的で、とても陽気だった! スザンヌの前に出るといつもはしゃぎ、彼女が独りでいるときに時々襲われる落ち込みや憂鬱になることはまったくなさそうだった。彼はいつも完璧な服装で、大きな仕事をいくつも抱えている、と母親は言った。デイルビューの食事の席で一度ユージンが話題になった。するとデイル夫人は、彼は魅力的だと思うと言った。
「あの方はここにお見えになる名士の一人だと思います」キンロイは言った。「僕はあのウッドワードって奴は好きじゃありませんがね」
キンロイは、母親のことを褒めるユージンと同じくらいの年齢の別の男に言及した。
「ウィトラ夫人は変なつまらない女性よね」スザンヌは言った。「ウィトラさんとは大違いだわ。ウィトラさんはとても陽気で感じがいいけど、奥さんはとても控えめよね。奥さんってウィトラさんと同じくらいの年齢かしら、お母さん?」
「そんなことはないでしょう」アンジェラの見た目の若さに騙されてデイル夫人は言った。「どうしてそんなことをきくの?」
「ああ、ただ気になっただけよ!」スザンヌは言った。彼女はユージンが関係することには漠然と興味がわいた。
この他にも何度か出会いがあった。そのうちの一つはユージンが企画したもので、アトリエで開く春の夜会にスザンヌ親子を招待するように彼がアンジェラを説得したものであり、他にはウイルブランド邸にユージンとアンジェラが招待された際にデイル家も招待されていたものがあった。
アンジェラはいつもユージンと一緒で、デイル夫人はほとんどいつもスザンヌと一緒だった。少し会話はあったが、楽しいだけの、重要ではない、作り話だった。そういうときにスザンヌは、ユージンを永遠に幸せな人だと考えた。彼の陽気な外見の下に横たわる強い欲望の悩みの深さを彼女はあまりわかっていなかった。
しかし、七月のある日、避暑地を短期間訪問した後でアンジェラが病気になったのを機に、山場が訪れた。アンジェラはずっと風邪と喉の痛みに悩まされていた。これらの異常な兆候は、医者に潜在性リウマチと関連づけられ、最終的にこの病気になった。アンジェラは心臓が弱いとも宣告されていた。そして、これは突然の激しいリウマチの発作と組み合わさって、彼女を完全に打ちのめした。ベテランの看護婦が必要とされ、アンジェラの妹のマリエッタが呼び出された。今はニューヨークに住む姉のマートルがユージンの求めに応じて面倒を見に来た。マリエッタが到着するまでの間、マートルの仕切りで家事は円滑に進んだ。マートルは本格的なクリスチャン・サイエンス信者で、彼女が言うには長年の神経疾患が瞬く間に治されたことがあったので、クリスチャン・サイエンスの開業医を呼ぼうとしたが、ユージンはまったく取り合わなかった。この新しい宗教の理論が何とかしてくれるとは信じられず、アンジェラには医者が必要だと考えた。ユージンはアンジェラの病気の専門医を呼んだ。医者は、アンジェラが再び起き上がれるようになるには、少なくとも六週間、おそらく二か月はかかるだろうと宣告した。
「全身がリウマチにかかっています」医者は言った。「とても悪い状態です。休養と安静、そして薬を欠かさなければ、回復に向かうでしょう」
ユージンは気の毒に思った。彼はアンジェラが苦しむ姿を見たくなかったが、アンジェラの病気はユージンの考え方をいっときたりとも変えなかった。実際、これがどうなるのか、ユージンにはわからなかった。これはどういう形であれ、二人のお互いに対するものの見方を変えなかった。保護者と落ち着きのない被後見人という二人の奇妙な関係も、まったく影響を受けなかった。
さっそく、あらゆる種類の社交行事がすべて中止され、ユージンは毎晩、家にこもって、結果がどうなるかを見守った。ベテランの看護婦はどんなふうに仕事をするのか、医者は次の段階がどうなると考えているのか、を知りたかった。読みものや調べものなど、いつもやることがたくさんあった。彼のアドバイスをほしがる人が大勢、夜でもアパートにやって来た。社交で二人を親しく知る者はみんな、立ち寄ったり、見舞いの手紙を送った。来てくれた人たちの中にデイル夫人とスザンヌがいた。デイル夫人は、ユージンが出版のことで自分にとても親切にしてくれたことと、間もなく初めての小説を出版するつもりだったので、とても細かい気の遣いようだった。花を贈ったり、看護婦が休みたい日やマートルが来られない日に、いつでもスザンヌを使って欲しいと申し出て、頻繁に来てくれた。スザンヌが本を読んだらアンジェラが喜ぶかもしれないと考えてのことだった。少なくとも、その申し出は親切に聞こえ、善意で行われた。
スザンヌは最初のうちは一人で来なかった。しかしアンジェラが病気になって四週間が過ぎ、ユージンが毎晩町の中のアパートの暑さに耐えてスザンヌに会うチャンスを待ち望むようになる頃には、一人で来るようになった。土曜日と日曜日はうちにいらっしゃいとデイル夫人は勧めてくれた。距離は遠くなかった。両家は電話で親しく連絡を取り合う仲だった。行けばユージンの休息になっただろう。
アンジェラが以前に何度も休息を勧めてくれたが、ユージンは土日でも海辺のリゾートやホテルに行くのを断っていた。この時期にひとりで出かけたくないというのが彼の言い分だった。実際のところは、スザンヌへの関心がとても高まっていたので、また彼女に会えそうな場所以外はどこにも行きたくなかった。
デイル夫人の申し出は十分歓迎すべきものだったが、ユージンは散々ごまかし続けてきたので、さらにごまかしを重ねなくてはならなかった。デイル夫人はぜひにと言い、アンジェラはそうしたらと口添えし、マートルは行くべきだと思った。ユージンはある金曜日の午後、よくやく車に、自分を降ろしたらおいて帰るように命じた。スザンヌはどこかに出かけていた。しかしユージンはベランダに座って、ロウアーベイの絶景を楽しんだ。キンロイと若い友人が女性二人と一緒にコートのひとつでテニスをしていた。ユージンは彼らを見に行った。まもなくスザンヌが戻ってきた。近所の家まで散歩したおかげで血色がよくなっていた。彼女を見た途端に、ユージンの体中の神経はぞくぞくした……彼はすごい高揚を感じ、スザンヌも同じ反応をしたようだった。というのも、彼女は一段と陽気になって笑っていたからだ。
「四人でやってるわね」スザンヌは白いズックのスカートを風になびかせながらユージンに声をかけた。「ラケットを取りに行って、あなたと私とで試合をしましょう」
「私はあまり上手じゃありませんよ」ユージンは言った。
「私より下手ってことはありえないわよ」スザンヌは答えた。「キンロイが対戦させてくれないほどひどいんだから。おかしいでしょ!」
「そういうことなら……」ユージンは軽く言うと、後を追ってラケットを取りに行った。
二人は二つ目のコートに行き、ほとんど誰からも注目されないままテニスをした。玉を打つたびに、どちらかが歓声をあげ、ミスするたびに、笑いか冗談が飛び出した。ユージンはスザンヌを食い入るような目で見つめ、スザンヌは大きく見開いた甘美な眼差しで、自分が何をしているのかわからないまま、ずっと彼を見つめた。この時の自分のはしゃぎようは、スザンヌ本人にもよくわからなかった。まるで自分がコントロールできない喜びの精神を持っているかのようだった。スザンヌはその後ユージンに、自分はものすごく楽しくて、舞い上がって、自由にのびのびとプレイをしたけど、同時に怖くて緊張した、と告白した。ユージンにとって、彼女はもちろん見ていてうっとりする存在だった。本人が言ったとおり、彼女は下手だったが、それは問題ではなかった。彼女の動きは美しかった。
デイル夫人はずっとユージンの若い精神を称賛していた。彼女は今、窓の一つからユージンを見守り、一人の青年を考えるようにユージンのことを考えた。ユージンとスザンヌが一緒にテニスをしているのが魅力的に見えた。もし彼が独身だったら、娘の相手に悪くないと考えた。幸いユージンは考えがまともで、行動が慎重で、魅力的であり、他の何よりもスザンヌの保護者に適任だった。娘がユージンと親しくなるのは、むしろ健全な兆候だった。
夕食後にキンロイから、彼と彼の友人たちとスザンヌとでダンスに行こうと提案があった。ダンスは、ロウアーベイへと広がるナローズ海峡の要塞近くのクラブハウスで行われていた。デイル夫人は、スザンヌが自分を置いて行ってしまうと思って落ち込んでいるユージンを仲間外れにしたくなかったので、みんなで行こうと提案した。彼女自身はあまりダンスに興味はなかったが、スザンヌには相手がおらず、キンロイと彼の友人は自分たちの連れの女の子にばかり気を取られていた。車が呼ばれ、クラブに急行すると、そこは中国の提灯で薄暗く照らされ、オーケストラが暗がりの中で静かに演奏していた。
「さあ、あなたは踊ってらっしゃい」母親はスザンヌに言った。「私はここに座って海を眺めていたいわ。あなたのことはドア越しに見ていますからね」
ユージンはスザンヌに手を伸ばし、その手をスザンヌが取り、すぐに二人はくるくる回っていた。一種の狂気が二人をとらえた。二人は言葉も視線も交わさずに、互いに体を寄せ合い、くっついて離れない歓喜の恍惚の中で激しく踊った。
「ああ、何てすてきなのかしら!」スザンヌは部屋の折り返しのところで叫んだ。そこの開いたドアを通り過ぎながら外を見ると、遠くの暗闇の中で、煌々と明かりを灯した船が静かに通過するのが見えた。帆船だった。暗い静寂に包まれ、幽霊のように浮かんだ大きな帆が、さらに近づいてきた。
「ああいう光景はお好きですか?」ユージンは尋ねた。
「ええ、好きよ!」スザンヌはどきどきした。「ああいうのは息もつかせてくれないわ。これもだわ、とてもすてきね!」
ユージンはため息をついた。今ようやくわかった。これほど自分の魂に似ていて、しかも美に包まれた芸術家の魂は存在しない、と心に思った。ユージンの中にあるのと同じ美への渇望が、スザンヌの中にもあった。そしてそれがスザンヌをユージンへと引き寄せていた。ただスザンヌの魂は、若さと美しさと乙女らしさが絶妙に組み込まれていて、それがユージンを圧倒して恐れさせた。スザンヌがユージンを愛することなど、ありえないように思えた。スザンヌの目、この顔は……どれほどユージンを魅了しただろう! ユージンは強い紐で引っ張られた。そしてスザンヌも……巨大な恐ろしい磁力に引き寄せられた。ユージンは午後の間ずっとそれを感じていた。鋭く感じた。今もそれを強烈に感じていた。ユージンはスザンヌを自分の胸に抱きしめた。スザンヌは、ユージンの最高に微妙な雰囲気に自分の動きを合わせて、熱望しながら身を委ねた。ユージンは叫びたかった。「ああ、スザンヌ! スザンヌ!」しかし怖かった。もしユージンが何かを言っても、それはスザンヌを怖がらせるだけだろう。スザンヌはそれが何を意味するのか、本当はまだ想像もしたことがなかった。
「わかるかな」音楽が止まるとユージンは言った。「私はすっかり我を忘れてしまったよ。麻薬のようだ。童心に帰った気分だよ」
「ああ、ずっと続けてくれたらいいのに!」スザンヌが言ったのはこれだけだった。そして、二人は一緒にベランダに出た。そこには明かりがまったくなく、いくつかの椅子と無数の星々があるだけだった。
「あら?」デイル夫人は言った。
「あなたは私ほどダンスがお好きじゃないんですね?」ユージンは夫人のそばの席に座りながら静かに言った。
「あなたがどんなに楽しそうに踊るかを見てしまうと、私は好きではないんだと思います。私はあなたたちのことをずっと見ていました。あなたたち二人は上手に踊るわね。キンロイ、私たちに氷を持ってきてくれない?」
スザンヌは抜け出して弟の友人のそばへ行った。ユージンが見守る間、スザンヌは明るく彼らに話しかけたが、ユージンの存在と魅力を強く意識していた。彼女は自分が何をしているのかを考えようとしたが、どういうわけか考えられなかった……感じることしかできなかった。音楽が再開した。ユージンは体裁をつくろって、スザンヌを彼女の弟の友人と踊らせた。キンロイはダンスに参加せず、友人もしなかったから、次とその次も彼の番だった。スザンヌとユージンは、野性的な高揚感にひたりながら、ダンスのほとんどを一緒に踊った。そこには、二人の語りから読み取れたかもしれないある種の熱意以外に言葉はなかった。手が触れ合えば手が語り、目が合えば目が語った。スザンヌはものすごく恥ずかしくて怖かった。本当は自分がしていることを半分恐れていた……何かの言葉や考えがユージンからこぼれ出すのではないかと心配だった。彼女はこの喜びに浸りたいと思った。ユージンは二つのダンスの合間に一度、スザンヌが手すりから身を乗り出して、下の暗くゴボゴボと流れる水を眺めていたときに、彼女の近くで寄りかかった。
「今夜は何てすばらしいんだ!」と言った。
「本当にそうね!」スザンヌは叫んで目をそらした。
「生命の神秘に少しでも驚いたりしますか?」
「ええ、驚くわよ、もちろん! いつものことだわ」
「そしてあなたはとても若い!」ユージンは情熱的に、強く言った。
「時々だけど、ウィトラさん」スザンヌはため息をついた。「私は考えたくなくなるの」
「どうしてですか?」
「さあ、わからない。ただあなたには言えないわ! 言葉が見つからないんです。私にはわかりません」
スザンヌの言い回しには強烈な哀愁があった。これはユージンの知性にはとても重要だった。偉大な魂でも、地球上で作られた語彙を持たずに新たに生まれたら、どれほど語れなくなるかを彼は理解した。これは、彼が長い間抱えてきたひとつの考えをより明確に理解させた。ワーズワースの言葉で言うと、私たちは「栄光の雲を引きずって」来たのだった。しかし、どこから来たのだろう? 彼女の魂はものすごく聡明であるにちがいない……さもなければ、なぜ彼の魂が彼女を求めるのだろう? しかし、ああ、彼女が語れないのが哀れだ!
彼らは車で帰宅した。その夜遅く、興奮した頭を落ち着かせるためにベランダでタバコを吸っていると、もう一幕あった。その夜はどこもとても暑かったが、この丘の上だけは涼しい風が吹いていた。海上と湾内には船が多く……小さな光がきらめいていて……空の星は大軍のようだった。「天の床には明るい金色の哀愁がたっぷり散りばめられていると見える」ユージンは独り言を言った。ドアが開き、ベランダに面した書斎からスザンヌが出てきた。ユージンはまた彼女に会えるとは思わなかった。スザンヌも同じだった。夜の美しさがスザンヌを引き寄せたのだ。
「スザンヌ!」ドアが開くとユージンは言った。
スザンヌは不安に駆られて身構え、ユージンを見た。彼女の愛らしい白い顔は、暗闇の中で青白い燐光のように輝いていた。
「ここはすてきじゃない? 来て、お座りよ」
「だめよ」スザンヌは言った。「私はいちゃいけないのよ。とてもすてきね!」スザンヌは神経質に漠然とあたりを見回し、それからユージンを見た。「ああ、いい風だわ!」つんと鼻を上向かせて盛んに匂いを嗅いだ。
「私の頭の中では音楽がまだ渦を巻いている」ユージンはスザンヌに近づきながら言った。「今夜のことが忘れられないんだ」ユージンは優しく言った……ほとんど囁き声だった……そして葉巻を投げ捨てた。スザンヌの声は小さかった。
ユージンを見て、胸いっぱいに深々と息を吸い込んだ。「ああ!」スザンヌは、頭を後ろに反らせ、首を神々しく曲げながら、ため息をついた。
「もう一回踊ろうよ」ユージンはスザンヌの右手を取り、左手を彼女の腰に当てながら言った。
スザンヌは彼から離れず、半分はうわの空、半分はうっとりした状態で、彼の目を見た。
「音楽もないのに?」と尋ねた。ほとんど震えていた。
「きみが音楽だよ」ユージンは答えた。スザンヌの激しい息苦しさが彼に伝わってきた。
二人は二、三歩左へ移動した。そこなら窓はなく、誰からも見られなかった。ユージンはスザンヌを引き寄せて、顔をのぞき込んだ。それでも思っていることを口に出す勇気はなかった。二人は静かに動き回った。するとスザンヌは、最初から彼を魅了していたあの穏やかな笑い声を発し「人はどう思うかしら?」と尋ねた。
二人は手すりのところまで歩いた。ユージンはまだ手を握っていた。やがてスザンヌは手を引っ込めた。ユージンは大きな危険を感じた……このすばらしいほど幸せな関係を危機にさらしているのを感じて最後に言った。「そろそろ行った方がいい」
「はい」スザンヌは言った。「これを知ったら、母はひどく動揺するわ」
スザンヌはユージンより先にドアまで歩いた。
「おやすみなさい」スザンヌは小声で言った。
「おやすみ」ユージンはため息をついた。
椅子に戻って自分が進んでいる道についてじっくり考えた。これはものすごく危険だった。続けるべきだろうか? スザンヌの花のような顔がよみがえった……彼女のしなやかな体が、驚くほどの優雅さと美しさが。ああ、多分続けるべきではない、しかし何という損失だ、何と魅力的なものを目の前で見せびらかしたのだ! これまでにこういう思考や感情が、こんなに若い体に存在したことがあっただろうか? 彼は彼女のような人を一度も、一度も、一度も見たことがなかった。すべての経験を振り返っても、これほど美しいものを見たことがなかった。スザンヌは春に芽吹き始める森のようであり、成長を続ける小さな白と青の花々のようだった。せめて今、一度でいいから人生が親切に、自分に彼女を与えてくれたらなあ!
「ああ、スザンヌ、スザンヌ!」ユージンは未練がましくその名前を繰り返しながら独りつぶやいた。
四度目か五度目になるか、ユージンは自分が、ひどく、一途に、恐ろしい方法で、恋をしていると想像していた。
第六章
とても微妙な形でたどり着いたあやふやな合意を伴うこの感情の爆発は、ユージンの人生全体の様相を根本から完全に変えてしまった。今再び、若い精神がユージンのところへ戻って来た。ユージンは成功していたにもかかわらず、時間の経過にずっと憤慨していた。何しろ日々刻々と老いていた。それに、一体何を成し遂げたのだろう? 自分の体験を通して人生を見れば見るほど、どうもすべての努力が無意味であることが明かされてきたからだった。成功を収めたとき、人はどこにたどり着いて、何を手にしているのだろう? 人が本当に努力していたのは、家や土地や立派な家具や友人のためだったのだろうか? 人生に本当の友情などというものは存在するのだろうか? その果実……努力して得た幸せ……は何だろう? 場合によってはあるかもしれないが、ほとんどの場合、いわゆる友情というやつは往々にして、何と気の毒な冗談を隠していただろう! 私利私欲、利己主義、自分本位と結びついていることが、どれだけ多かっただろう! 私たちはほとんど自分と同じ社会的地位の人としか友人関係を作らなかった。いい友だち。彼にそんな人がいただろうか? 無能な友人は? そういう人が長く彼の友人でいられるだろうか? 人生は、一定のペースで走ることができ、一定の外見の基準を維持することができ、一定の尊敬と効率を他人に強いることができる人の群れの中で動いた。コルファックスは彼の友人だった……今のところは。ウィンフィールドもそうだった。彼の周りには、彼の手を握って喜んでいるように見える人が、何十人、何百人もいるが、何が目当てなのだろう? 彼の名声か? そうだ。有能だからか? そうだ。ユージンは個人の力と強さという尺度でしか、友人を測れなかった……それだけだった。
それでは愛についてはどうだろう……彼はこれまでにどんな愛を経験してきただろう? 思い返してみれば、すべてが、どれもが、みんな、何らかの形で欲望と邪悪な思考に結びついていたようだった。彼はこれまでに本当に人を愛したことがある、と言えるだろうか? マーガレット・ダフを、ルビー・ケニーを、アンジェラ……これが本当の愛に最も近づいた相手だったが……、クリスティーナ・チャニングを、必ずしも愛していなかった。カルロッタ・ウィルソンのことが好きだったように、ユージンはこの女性たち全員のことが好きだった。しかし一人でも愛したことがあっただろうか? なかった。今ではユージンは、アンジェラが自分を射止めたのは自分の同情につけこんだからだ、と内心では思っていた。彼は良心の呵責のせいで結婚するように仕向けられたのだ。そして今ここでこれまでの年月を生きてきたわけだが、本当に人を愛することなくここまで来てしまった。完璧な魂と肉体を持つスザンヌ・デイルを見た今、彼は彼女に夢中だった……欲望のためではなく、愛のためだった。スザンヌと一緒にいて、手を握り、唇にキスをして、彼女が微笑むところを見たかった。しかしそれ以上は何も望まなかった。スザンヌの体に魅力があるのは確かだった。彼女の心と外見の美しさは極端にユージンを引きつけるだろう。……そこには魅力があった。スザンヌと離れざるを得ないことにユージンは心を痛めた。それに、やがて自分が彼女を手に入れられるかもまだわからなかった。
ユージンは自分の状況を考えると、むしろ恐怖を感じ、吐き気をもよおした。この感嘆と至福のひと時を味わった後で、仕事が日常の世界に戻らざるを得なくなるなんて! それに、〈ユナイテッド・マガジンズ社〉のオフィスでは、物事がうまくいっていなかった。良くなるどころか、悪くなる一方だった。ユージンの関心が多岐にわたり、特に〈シーアイランド不動産建設会社〉への関心が大きくなると、彼がかかわっていたすべての雑誌に対する態度はかなり気の抜けたものになっていった。ユージンは見つけることができた力のある者をどこへでも配置したが、彼らに大して注意を払えなかったので、彼らはあまりユージンを気にかけないで働くようになっていき、持ち場に定着してしまった。ホワイトとコルファックスは、彼らの多くと個人的に親しくなっていた。その中の数名、広告担当者のヘイズ、流通部の部長、〈インターナショナル・レビュー〉の編集者、書籍担当の編集者などは非常に優秀だったので、ユージンが雇ったのは事実だったが、彼らが解雇されないことはほぼ確定していた。コルファックスとホワイトは、ユージンがいくら人選に優れていても実は細部にまで注意を払うことができない人物だと次第に理解するようになった。彼は小さな実務上の要点にまで気を配れなかった。もしユージンがコルファックスのような社主か、あるいはホワイトのような実務担当の部下だったら、完全に安泰だっただろうが、天性のリーダーというかまとめ役に過ぎない彼は、最初に主導権を確立しない限り、組織が完成したときは、むしろ希望の持てない無力な存在だった。他の人たちはユージンよりも細部にまで気配りができた。コルファックスはユージンの部下たちを知り、彼らを気に入った。ユージンがさらに安定し、ウィンフィールドと親しくなって増えた不在のとき、部下たちはまずコルファックスに相談した。その次にコルファックスが不在のときはホワイトに相談した。ホワイトは諸手を挙げて彼らを迎えた。実際、部下たちの間でも、ユージンのことはよく話題に登り、この会社の組織化、もしくは再編成にあたって、彼は大きな仕事をしたことでは意見が一致した。年収二万五千ドルの男だったかもしれないが、仕事が終わったからといって、無為に座って骨休めしていられるような人物ではなかった。ホワイトは、ユージンがやっている仕事の採算効率の悪さを執拗にこっそりコルファックスの耳に入れていた。「彼は、あなたがやるべきことを、あなたならもっとうまくやれることを、実際にあそこでやろうとしているんです。ここに来てから、あなたは多くのことを学んだことを忘れないでほしいのです。彼もそうですが、ただ彼は問題解決能力が少し低下してしまい、あなたは向上しました。彼の部下だって今は彼よりもあなたの方ばかり見ています」
コルファックスはその考えに気を良くした。彼はユージンのことが好きだったが、自分の事業の利益が完全に安全であると考える方が好きだった。彼は誰か一人の人間の力が強くなり続けてその人物の躍進が自分の害になると考えることが好きではなかった。ユージンが最初のうち権力を握っていた頃、この考えはしばらくの間コルファックスを悩ませていた。ユージンは、いかにもそれらしい態度で振る舞っていた。ユージンは、自分の重要性をコルファックスに印象づける必要があると考えた。そして、それをするために、非常に徹底した仕事に加えてとったのが、このやり方だった。コルファックスは虚栄心の塊であり、職場に自分と肩を並べる他の神などいてほしくなかったので、しばらくするとユージンの態度は彼を不快にさせていた。それとは対照的に、ホワイトは常に従順で、助言に徹した態度だった。これは大きな違いを生んだ。
ユージンは次第にいろいろな過程を経て失脚したが、それはまだ漠然としていて、はっきりしたものではなかった。もし何か他のことに注意を向けず、どんな細かいことにも決してうんざりせず、コルファックスや自分の部下と密接な間柄であり続けていたら、彼は安泰だっただろう。それがこのとおり、ユージンはこれまで以上に彼らを無視し始めた。長い目で見れば、これはかなり悲惨な結果をもたらさずにはいられなかった。
第一に、〈シーアイランド建設会社〉の前途は、明らかにどんどん有望になっていた。これは開発に何年もかかるであろう計画のひとつだったのに、最初はそう見えなかった。むしろ、それは成果の具体的な証拠を見せ続けているようだった。最初の年は、巨額の資金が投資された後で、大規模な浚渫作業が行われ、多くの場所に乾いた土地が現れた……これはホテルやあらゆる種類のリゾートが建設可能なメインビーチの奥まで延々と続く良質な土地だった。遊歩道はユージンによって作られた模型をもとに着工され、修正を経て、雇われた建築家に承認された。そして、未来の立派なレストランとダンス場を兼ねたカジノの一部も着工して完成した。ムーア様式とスペイン様式と旧ミッション様式の結合体を基調とした美しい建物だった。デザインの顕著な改善がこの計画に図られていた。ユージンの意見に従って、〈ブルーシー〉の色は、赤、白、黄、青、緑になり、生気があってそれでいて単純な輪郭で表現されることになった。すべての建物の壁は白と黄色で、緑色の格子模様が施されることになった。屋根、柱廊式玄関、まぐさ、窓間壁、踏み段は、赤、黄、緑、青になる予定だった。家の中庭や敷地内の多くに、丸くて浅いイタリア風のコンクリートのプールが設けられる予定だった。ホテルはスペインのヒラルダの塔を西部風に改造したもので、それぞれが他よりも一回り小さくか大きくなる予定だった。緑の槍のような松と高い円錐形のポプラが、全体を占める装飾用の木になる予定だった。鉄道はウィンフィールドが約束したとおりに、すでに支線とスペイン風の美しい駅を完成させていた。〈ブルーシー〉はウィンフィールドがそうなると言ったとおりのものに、アメリカの海辺のリゾートに、本当になりそうだった。
この進展の実情はユージンをすごく魅了したので、スザンヌが現れるまで、本来かけるべき以上の時間を彼はこの計画の推進に費やしたのだった。サマーフィールドと初めて関わったときのように、夜働いて、彼の言う内外のレイアウト……外見、整地、島の改良など……に取り組んだ。彼はよくウィンフィールドや建築家と一緒に車で〈ブルーシー〉の進捗状況を確認しに行ったり、興味を持ちそうな金持ちを訪ねて回った。ロマンチックな絵を描き、キャッチフレーズを創作しながら、広告や冊子の計画を立てた。
やがてスザンヌが現れてからは、ほとんど彼女にしか注意を向けないようになっていった。昼も夜もスザンヌを頭から締め出すことができなかった。職場でも家庭でも夢の中でも、スザンヌは彼の思考から離れなかった。実際に奇妙な熱で焼かれるようになり始め、そのせいで全然休めなくなった。今度はいつ彼女に会うだろう? 今度はいつ彼女に会うだろう? 今度はいつ彼女に会うだろう? ユージンはボートクラブで一緒に踊ったときと、デイルビューで一緒にブランコに乗ったときしか彼女に会えなかった。これは、これまでの他のどんな頭の発熱よりも、ユージンに平穏を与えない、荒々しい、うずく欲望だった。
ユージンとボートクラブで一緒に踊ってから間もなく、スザンヌは母親と一緒にアンジェラのお見舞いに来た。二人が来たのはユージンが在宅中の午後五時過ぎだったので、アトリエで少しスザンヌと話をする機会を持てた。スザンヌは魅了されたが、何を考えていいのかわからなかったので、ぱっちりと開いた目でユージンを見つめた。ユージンは彼女に、今までどこに行ってたのとか、これからどこへ行くの、と熱心に尋ねた。
「ええとね」スザンヌはかわいらしい唇を開いて上品に言った。「明日はベントウッド・ハドリーさんのところへ行くのよ。一週間はそこにいると思うわ。もっと長くなるかもしれないけど」
「僕のことをいっぱい考えてくれましたか、スザンヌ?」
「ええ、もちろんよ! でも、あなたは考えてはいけないわ、ウィトラさん。だめったら、だめ。私、何を考えたらいいのかわからないわ」
「もし僕がベントウッド・ハドリーさんのところへ行ったらうれしいですか?」
「そりゃ、うれしいわよ」スザンヌはためらいながら言った。「でも、あなたは来てはいけないわ」
ユージンはその週末そこにいた。手配するのは難しくなかった。
「退屈をもてあましています」ユージンはハドリー夫人に手紙を書いた。「お招きいただけませんか?」
「いらっしゃい!」という電報が届いてユージンは出かけた。
この時、彼はこれまで以上の幸運に恵まれた。ユージンが着いたとき、スザンヌは乗馬で出かけていた。 しかし近所のカントリークラブでダンスがあることをハドレー夫人から聞きつけた。スザンヌは他の何人かと一緒に行くことになっていた。デイル夫人は行くことに決めて、ユージンを誘ってくれた。理想の相手と踊るチャンスをつかめるとわかっていたから、ユージンはこの誘いを受けた。ディナーに向かうときに、廊下でスザンヌに会った。
「一緒に行きましょう」ユージンは熱く語った。「僕と踊る分も少し取っておいてくださいね」
「はい」スザンヌはあえいで息を呑んで言った。
二人は一緒に行って、ユージンはスザンヌのカードに五か所も頭文字を記入した。
「私たちは気をつけないといけないわ」スザンヌは訴えた。「母はこういうのを好きじゃないから」
これによってユージンは、スザンヌが状況を理解し始め、自分と共謀するつもりでいるのを知った。どうして彼は彼女を誘惑しているのだろう? どうして彼女は彼にそうさせるのだろう?
ユージンは最初のダンスでスザンヌに腕を回したときに「ようやくだね!」と言って、それから「ずいぶん待ちわびたよ」と言った。
スザンヌは何も返事をしなかった。
「僕のことを見て、スザンヌ」ユージンは懇願した。
「私にはできないわ」スザンヌは言った。
「ほら、見てごらん」ユージンはせかせた。「一度でいいから、僕の目を見るんだ」
「だめ、だめよ」スザンヌは懇願した。「私にはできないわ」
「ああ、スザンヌ」ユージンは叫んだ。「僕はきみに夢中なんだ。気が狂ったんだ。理性をすべてなくしてしまったんだ。きみの顔は僕にとって花のようなものだ。きみの目は……目のことは言えないな。僕を見てごらん!」
「だめよ」スザンヌは訴えた。
「きみに会わないと一日がいつまでも終わらない気がするんだ。ひたすら待つだけだからね。スザンヌ、きみには僕が馬鹿に見えるかな?」
「いいえ」
「僕は切れ者で有能だと思われている。みんなが僕を輝いていると言う。きみは僕がこれまで知る限りで、最も完璧な存在だよ。寝ても覚めても僕はきみのことを考えるんだ。きみの絵なら千枚だって描ける。僕の芸術がきみを通して戻って来るようだ。 もし僕が生きているなら、僕はきみの絵を百通りの手法で描いてみせるよ。これまでにロセッティの婦人画を見たことがありますか?」
「いいえ」
「彼はね、女性の肖像画を百枚描いたんだ。僕はきみを千枚描くよ」
スザンヌはこのすごい情熱に引き寄せられて、恥ずかしそうに、不思議そうに、目を上げてユージンを見た。ユージンの目が燃えあがってスザンヌの目を見すえた。「ほら、もう一度僕を見てごらん」彼の視線の炎の下にスザンヌが目そらすと、ユージンはささやいた。
「私にはできないわ」スザンヌは訴えた。
「いや、できるよ。もう一度見るんだ」
スザンヌは目を上げた。まるで二人の魂が融合するかのようだった。ユージンはめまいを感じ、スザンヌはよろけた。
「きみは僕のことを愛してるかい、スザンヌ?」ユージンは尋ねた。
「わからないわ」スザンヌは震えた。
「僕を愛してるかい?」
「今は聞かないで」
曲が終わると、スザンヌは行ってしまった。
スザンヌは考え事をするためにそっと抜け出したので、ユージンはしばらく彼女の姿を見なかった。スザンヌの魂は荒れ狂う嵐にかき乱された。 まるで魂そのものが引き裂かれでもしているかのようだった。体が震え、心が乱れ、落ち着きを失い、恋しくて、胸が熱くなった。スザンヌはしばらくして戻って来た。そして二人は再び踊ったが、スザンヌはさっきよりも落ち着いて見えた。二人はバルコニーに出た。ユージンはそこで少し話をしようとした。
「あなたはそんなことしちゃいけないわ」スザンヌは訴えた。「私たち、見られていると思うわ」
ユージンはスザンヌと別れた。車で帰宅する途中、そっと囁いた。「僕は今夜、西のベランダにいる。来てくれるかい?」
「わからないけど、やってみるわ」
その後、ユージンはみんなが寝静まった頃、その場所までのんびりと歩いて行って座って待った。大邸宅は徐々に静まり返った。一時になり、一時半になり、そして二時に近くになって、ドアが開いた。人影が忍び出て来た。ダンス会場にいたときの衣装をまとい、髪をレースのベールで覆ったスザンヌの美しい姿だった。
「とても怖いわ」スザンヌは言った。「自分のやっていることがよくわからないんですもの。 誰も私たちを見ないっていう自信があるの?」
「野原に続く道を歩こうか」それは以前彼がスザンヌに会った早春に、二人が散歩したのと同じ道だった。西には、時刻のせいでとても大きい、黄色い鎌の形をした下弦の月が低く垂れ下がっていた。
「以前ここを通った時のことを覚えてるかい?」
「はい」
「僕はそのとき、きみを愛していた。きみは僕のことが気になりましたか?」
「いいえ」
二人は木の下を歩いた。ユージンはスザンヌの手を握っていた。
「ああ、こういう夜は、こういう夜は」ユージンは言った。激しい感情による緊張が彼を疲弊させていた。
二人は道の行き止まりで木の下から抜け出した。空気には八月の乾いた感じがあった。暖かくて気持ちがよかった。周囲では、かすかなブンブン、ガサガサいう虫の物音がした。アマガエルか小鳥が鳴いた。
「こっちにおいでよ、スザンヌ」道の行き止まりの、こうこうと照る月明かりの中に入って立ち止まると、ついにユージンは言った。「こっちにおいでったら」ユージンはスザンヌに腕をまわした。
「駄目よ」スザンヌは言った。「よして」
「僕を見るんだ、スザンヌ」ユージンは懇願した。「僕がきみをどれだけ愛しているかを話したいんだ。ああ、言葉が見つからない。きみに話そうとするなんて馬鹿げている。僕を愛してるって言ってくれよ、スザンヌ。さあ、言ってくれ。僕はきみを愛するあまりおかしくなったんだ。言うんだ」
「駄目よ」スザンヌは言った。「できないわ」
「僕にキスしてよ!」
「駄目よ!」
ユージンはスザンヌを引き寄せて、有無を言わさず顎ごと顔を上に向けさせた。「目を開けてよ」ユージンは懇願した。「ああ! こんなことが僕に起こるなんて! 僕はもう死んでもいい。人生はこれ以上のものを用意できっこないからね。ああ、花のような顔! ああ、銀の足! ああ、満開のキンバイカ! 神聖な炎! きみは何て完璧なんだ。何て完璧なんだろう! そして、きみが僕を愛してくれたらなあ!」
ユージンは熱烈なキスをした。
「キスしてよ、スザンヌ。僕を愛しているって言ってくれ。言ってくれよ。ああ、僕はこの名前をどれほど愛しているのだろう、スザンヌ。僕を愛しているとささやいてくれ」
「嫌よ」
「それでも言うんだ」
「嫌よ」
「僕を見てごらん、スザンヌ。花のような顔。満開のキンバイカ。お願いだから、僕を見てくれ! きみは僕を愛しているだろ」
「ええ、そうです、そう、そのとおりです」スザンヌはユージンの首に腕を回して、突然すすり泣いた。「ええ、確かに、そうです」
「泣かないでよ」ユージンは頼み込んだ。「さあ、泣かないで。きみを愛するあまり僕はおかしくなってしまった。おかしくなったんだ。さあ、キスして、一度でいい。僕はきみの愛に僕の魂を捧げるよ。僕にキスするんだ!」
ユージンは自分の唇を彼女の唇に押しつけたが、スザンヌは怖がって飛び退いた。
「ああ、怖くてたまらないわ」スザンヌは突然叫んだ。「ああ、私、どうしたらいいのかしら? とても怖いわ。ああ、お願い、お願いよ。何だか怖いわ。何だか恐ろしいのよ。ああ、私ったら何をしようとしているのかしら? 失礼させてもらうわ」
スザンヌは真っ青になって震えていた。彼女の両手は神経質に握ったり開いたりしていた。
ユージンはなだめるようにスザンヌの腕をなでた。「落ち着いて、スザンヌ、落ち着くんだ。もう何も言わないから。きみは大丈夫だからね。すっかり怖がらせてしまったね。戻ろう。気を静めて。きみは大丈夫だからね」
スザンヌがすっかり怯えてしまったものだから、ユージンは努めて冷静さを取り戻し、木々の下に彼女を連れ戻した。彼女を安心させるために、ポケットからシガーレットケースを取り戻して葉巻を選ぶふりをした。落ちついてきたのを見計らってケースを戻した。
「もう落ち着いたかい?」ユージンは優しく尋ねた。
「はい、でも戻りましょう」
「いいかい。僕はあの端っこまでしか行かないよ。きみはひとりで行くんだ。きみが無事にドアにたどり着くのを見守るよ」
「はい」スザンヌは安心して言った。
「きみは本当に僕のことを愛していますか、スザンヌ?」
「はい、でもその話はしないでください。今夜はやめて。また怖くなっちゃうから。戻りましょう」
二人は歩き続けた。するとユージンが言った。「じゃ、お別れのキスを。一度だけね。人生は僕に新しい扉を開いてくれた。きみは僕の問題を全て解決してくれる。きみは僕を何か違うものに作り変えているんだ。僕は今の今まで全然生きていなかったように感じるよ。ああ、この経験だ! なし遂げたことは……生き抜いて、僕が変わったように変わったことは、すばらしいことだ。きみは僕を完全に変えてしまった、また元の芸術家に作り変えたんだ。これから僕はまた絵が描けるよ。きみの絵なら描ける」自分が何を言っているのか、自分でもよくわかっていなかった。まるで世界の最後を予見するように、自分のことを自分に対して明らかにしている感じがした。
スザンヌはユージンにキスをさせたが、あまりの恐怖と動揺とで、まともに呼吸さえできなかった。スザンヌは、極端で、感情的で、変わり者だった。ユージンが話していることがどういうことなのかを本当は理解していなかった。
「明日」ユージンは言った。「森のほとりで。明日だよ。すてきな夢を見るといいね。きみの愛がなかったら、僕はもう平穏を知ることはないだろう」
ユージンは、スザンヌが軽やかに歩いて自分のもとから遠ざかり、暗い静かなドアを抜けて影のように消えていくのを、じっと、悲しく、つらそうに、うっとりと見守った。
第七章
ユージンがすっかりスザンヌにのぼせ上がった途端に、彼をとらえ、徐々にスザンヌも手中に収め始めた、感情の機微、移ろいやすさ、美しさ、恐ろしさは、これほど詳細な記述をもってしても説明するのは難しいだろう。デイル夫人は社交面でのユージンの親友の一人だった。彼と初めて知り合った直後から、とても聡明な出版者であり編集者、最高の力を持つ芸術家、すてきで楽しいアイデアと個人的資質を持つ人物として、ユージンの評判を広めてくれた。夫人とのさまざまな会話から、スザンヌが目に入れても痛くない大事な娘であることをユージンは知っていた。夫人がそう話すのを聞いたことがあり、素朴で純真な心を持つ少女を今日の社会で育てることの難しさについて、実際に一緒に話したことがあった。礼儀作法とこの時代の社会通念に合った最大限の自由をスザンヌに与えるのが自分の方針である、と彼女はユージンに打ち明けたことがあった。彼女は娘を大胆にしたり、過度に自立させたくはなかったが、それでも自由で自然でいてほしかった。ずっと見守り、率直な会話をたくさんしてきたから、スザンヌは生まれつき正直で、誠実で、清らかな心の持ち主だと信じていた。デイル夫人は正確に娘を理解していなかった。母親だからといって子供をはっきりと理解できるわけではないからだ。なのに彼女は、娘は父親と同じように何となく力強くて有能である、娘は人生の価値のあるものに自然に引き寄せられる、これがわかるくらいに自分は娘のことを読み取っている、と考えた。
彼女に何かの才能があったのだろうか? デイル夫人だって本当は知らなかった。この少女はその優位な社会性とは程遠い何かに漠然とした憧れを抱いていた。彼女は自分が出会った若い男女のほとんどにまったく関心がなかった。盛んに外出したが、乗馬とドライブのためだった。ギャンブルには興味がなかった。応接間での会話は彼女にとって楽しかったが、強く心をとらえなかった。興味深い人たち、役に立つ本、印象的な絵が好きだった。ユージンの作品には特に感銘を受け、見て母親に、すばらしいと語っていた。高尚な詩を愛し、馬鹿馬鹿しいものや滑稽なものに無限の興味を持っていた。思いがけない無作法をしでかすと、笑いが止まらなくなり、流行りの報道画家の面白いページの傑作選を手に入れることができると大喜びだった。人の性格、それも自分の母親をよく研究していて、どんな目的があって母親が娘にそんな態度をとるのか、母親本人が自分でわかっている以上にはっきりとわかり始めていた。もともと母親よりも才能があったが、方向が違っていた。彼女はまだ母親のようには自分をコントロールできず、今の社会通念や信条を理解していなかった。しかし、芸術がわかり、感情豊かで、知的な意味において興奮しやすく、想像力を高く羽ばたかせることができ、強烈で繊細な鑑賞力を備えていた。彼女の本当に官能的な美しさは、彼女にとって何の価値もなかった。彼女はそれを高く評価しなかった。彼女は自分が美しいことも、年代を問わず男性が自分に夢中になることも知っていたが、気にしなかった。男性がそんなに愚かなはずはないと考えた。いかなる形であれ男性の気を引こうとはしなかった。それどころか、挑発するかもしれない機会をことごとく避けた。母親は彼女に、どれほど男性が影響されやすいか、どれほど男性の約束が当てにならないか、どれほど女性は自分の見た目と行動に気をつけねばならないか、をはっきりと教えていた。その結果、彼女は、誰かを無駄に夢中にさせて自分の人生がどうなるかを思い悩む悲しみを避ける努力をして、できるだけ楽しく、それでいて無難に自分の道を進んだ。そんなときにユージンが現れた。
ユージンの登場で、スザンヌはほとんど無意識のうちに人生の新しい局面を迎えた。 社交界でありとあらゆる男性を見てきたが、社交一辺倒の男性はスザンヌにとって退屈極まりなかった。お金持ちや社会的地位の高い人と結婚することが重要だと母親が言うのを聞いたことがあったが、彼女はそれが誰で、どういう人かを知らなかった。すでに出会っていた典型的な社交界の男性たちが、地位が高いという言葉のふさわしい答えになっているとは思わなかった。名門一族の名高い富豪を何人か見たことがあったが、スザンヌには彼らが本当に考慮されるべき人間に見えなかった。彼女の気楽で詩的な精神からすると、そのほとんどが、冷たくて、我が強く、過度に気取っていた。本物の優れた人たちの世界には、新聞が絶えず話題にする人たち、資本家や政治家、作家、編集者、科学者などが大勢いて、その中には社交界に属する者もいるが、大半は属していない、とスザンヌは理解していた。若い娘がとりそうな態度で、スザンヌはその内の数名と会ったことがあった。彼女が会うか見かけるかした大半は、年寄りで、冷たく、彼女には何の注意も全然払わなかった。ユージンは栄誉と世間に認められた能力の雰囲気を漂わせて現れた。しかも若かった。見た目もよかった……よく笑うし、陽気だった。こんなに若くてニコニコしている人が、母親が言ったように、とても有能である、ことが最初スザンヌにはありえないように思えた。その後、彼を知るようになってからは、彼は有能どころではない、彼は自分がやりたいと思うことは何でもできる、と感じるようになった。彼女は一度、母親に付き添われて彼のオフィスを訪れたことがあり、その立派なビル、その芸術的な完成度、ユージンの宮殿のような環境に大きな感銘を受けた。確かに彼はスザンヌがこれまでに知り得た最も注目すべき青年だった。それから、彼の熱烈な関心がスザンヌに向かい、彼の燃えるような光り輝く存在と、それから……
ユージンは、どういうふうに行動すべきかを深く考えた。この夜が明けると、彼の人生のすべての問題が一斉に彼の前に現れた。彼は結婚していた。これまでになかったほど立派な高い社会的地位にいた。彼はコルファックスと親密な間柄だった。とても親密だっただけに恐ろしかった。というのもコルファックスは、ユージンも知るある種の感情的な気まぐれがあったものの、極めて保守的だったからだ。何をするにしても、即座に処理され、自分の家庭生活に影響が及んだり支障をきたすのを許すつもりはなかった。デイル夫人も知るウィンフィールドも、上辺は保守派だった。愛人がいても、しっかり管理されている、とユージンは理解していた。ユージンはその女性を、最近〈ブルーシー〉に建てられた新しいカジノ、あるいはその一部のイーストウィングで見かけ、彼女の美しさにものすごく感激したことがあった。頭がよく、大胆で、颯爽としていた。そのときユージンは、ああいう性質の親密な関係を持つとしたらいつになるだろうと考えながら、彼女を見た。多くの既婚男性がやっていたが、果たして、ユージンが試みて成功するだろうか?
しかし、スザンヌに出会った今、ユージンはこのすべてについて別の考え方を持つようになった。そして、それが一気に彼に押し寄せた。これまでも夢の中で、ウィンフィールドがミス・デ・カルブとして知られる女性と結んだような感情に支配された関係を自分もどこかで結び、美しさと交感する関係の形で、新しくて楽しいものをほしがる自分の中のあの疲弊した熱望を満足させるかもしれない、と想像したことがあった。スザンヌに会ってからはこんなものは全然欲しくなく、スザンヌを手に入れられる何かの人生の再調整か再編成と、スザンヌだけでよかった。スザンヌ! スザンヌ! ああ、あの夢のような美人。どうすればスザンヌを手に入れられるだろう? どうすればスザンヌとの美しい関係以外のすべてのものを、人生からなくせるのだろう? 彼女となら永遠にずっと一緒に生きていける。できる、できるのだ! ああ、この幻、この夢が!
ダンスの翌日の日曜日、スザンヌとユージンは、もう一日一緒に過ごそうと画策した。しかしこれは、半分は偶発的に、半分は発言しないのに決まったが、かといって必ずしも考えなかったわけではない偶然の産物のひとつだった。こういうものは時として、最初から完全な合意も了解もされていないのに起きることがある。そしてそれでも二人によってつかみ取られ、無言で受け入れられ、半ば意識的に、半ば無意識に、働きかけが一緒になされた。もし二人が今までに互いに強く惹かれ合っていなかったら、こんなことは全く起こらなかっただろう。しかし二人はこれを楽しんだ。まず、翌朝デイル夫人はひどい頭痛で苦しんでいた。次に、キンロイが友人たちに、サウスビーチに遊びに行こうと提案した。そこはスタテン島で一番劣悪でみすぼらしいビーチの一つだった。さらにデイル夫人が、スザンヌが行ってもいいし、ユージンも楽しめるかもしれない、とそれとなく言った。夫人は、ユージンを引率役、指導役として信頼していた。
ユージンは穏やかに、悪くないですねと言った。どこでもいいからスザンヌと二人きりになりたかった。そういう場所に行ってしまえば二人が一緒にいられるチャンスがあるだろうと想像したが、それを見せたくなかった。またもや車が呼ばれて一行は出発し、海岸沿いを一マイルに渡ってみすぼらしく広がる殺風景の片隅で降ろされた。電話で連絡がとれるようにすると話がついたので、運転手は車を家に戻した。一行は板張りの歩道を下り始めたが、やりたいことが一致しなかったので、すぐに別れた。ユージンとスザンヌは射撃場に立ち寄って銃を撃った。次に、輪投げ場に立ち寄り、輪投げをした。ユージンにすれば、恋人を観察して、そのかわいい顔や微笑みを見て、妙なる声を聞くチャンスをくれるものなら何でも楽しかった。スザンヌはユージンの分まで投げた。スザンヌの仕草はどれも完璧だった。どの表情も楽しくてわくわくしていた。ユージンは、自分の周囲の生活の派手な安っぽいものとは無縁の至福の世界を歩いていた。
悪魔の渦の乗り物に乗った後で、二人は板敷きの遊歩道を南下した。スザンヌはこのときまでにユージンの説得力に富んだ感情の機微につかまってしまい、飛ぶことができないのと同じように、自分の正直な判断が命じたとおりに行動することができなかった。自分がどこへ流れているのかを彼女に示すには、何かの衝撃、何かの発見が必要だった。そしてそれはなかった。二人は新しいダンスホールに着いた。そこで、数少ない若い女性の使用人とその恋人が踊っていた。ユージンは僕たちも入ろうと冗談半分で誘った。二人は再び一緒に踊った。環境は劣悪で、音楽も最低だったが、ユージンは天国にいた。
「ここを抜け出してテラマリンに行こうよ」ユージンは海岸に沿ってずっと南に行ったところにあるホテルのことを考えながら言った。「あそこの方がずっと快適だよ。ここは安っぽいったらありゃしない」
「どこにあるの?」スザンヌは尋ねた。
「ここから南に三マイルくらいだね。歩いてだっていける」
ユージンは長くて暑い浜辺を見下ろしたが、考えを変えた。
「私はここで構わないわ」スザンヌは言った。「劣悪なところがまたいいんじゃない。私はこういう人たちが楽しんでる様子を見るのが好きなの」
「しかし劣悪にも程があるよ」ユージンは言い張った。「きみの生き生きして健康的な物事に向き合う姿勢を持ちたいものだ。しかし、きみが行きたくないんじゃ、行くのはよそう」
スザンヌは口をつぐんで考えた。ユージンと一緒に抜け出してしまおうか? 他の人たちが二人を探しているはずだ。二人はどこへ行ったのだろう、とすでに不審に思っているに違いなかった。それでも、これは大して重要ではなかった。母親が彼女をユージンに託したのだ。二人は行ってもよかった。
「まあ、」スザンヌはついに言った。「いいか、行きましょう」
「他の人たちはどう思うかな?」ユージンは自信なさそうに言った。
「別に気にしないわよ」スザンヌは言った。「準備ができたら、自分たちで車を呼ぶわよ。みんなは、私があなたと一緒なのを知ってるんだし、必要になれば、私が車を調達できるって知ってるもの。母だって気にしないわ」
ユージンが先導して来た道を戻り、目的地のユグノーへ向かう列車のところまで行った。彼はスザンヌと二人きりで一日を過ごすことを思うと我を忘れた。自宅にいるアンジェラのことや、デイル夫人がこれをどう見るかについて、考えたり耳を貸したりしてぐずぐずしなかった。どうせ何も起こらないだろう。これは無謀な冒険ではなかった。二人は列車で南下し、しばらくすると別世界、海を見渡せるホテルのベランダにいた。ホテル前の広場には、二人と同じようなぶらりと来た客の自動車が何台も停まっていた。赤と青と緑の縞模様の日よけに覆われたブランコがある広大な芝生があり、その向こうには桟橋があって、近くに小さな白い船がたくさん停泊していた。海はガラスのように滑らかで、遠くでは大きな汽船が美しい噴煙をたなびかせて進んだ。太陽は燃えるように暑く、輝いていたが、この涼しいポーチではウェイターが楽しそうな恋人たちに食事や飲み物を運んでいた。黒人四人のグループが歌を歌っていた。スザンヌとユージンは最初ロッキングチェアに座って、この最高の一日を眺め、やがて降りてブランコに乗った。言葉を交わすことなく、深い考えもないまま、二人は日常生活とは無縁の何かに魅せられて、徐々に互いを引き寄せていた。スザンヌは二人掛けのブランコの中でユージンを見た。二人はそこで互いに向き合って座り、微笑むか、とりとめのない冗談を言うも、心をかき回し続けていたこみ上げてくる深い感情については何も口にしなかった。
「これまでにこんな日があったかな?」ユージンは最後に、この上ない憧憬に満ちた声で言った。「あそこにいる汽船を見てごらんよ。小さなおもちゃみたいだ」
「そうね」スザンヌは少し息を切らして言った。彼女はこの言葉を発するときに息を吸い込み、軽い息切れを起こした。そこにちょっびり哀愁があった。「ああ、完璧だわ」
「きみの髪もそうだけど」ユージンは言った。「きみは自分がどんなにすてきに見えるか知らないんだ。きみはこの場面にぴったりだよ」
「私のことは話さなくていいから」スザンヌが頼むように言った。「髪がくしゃくしゃなのよ。列車の風が髪に吹きつけたんだもの。化粧室に行ってメイドを探さなくちゃ」
「ここにいてください」ユージンは言った。「行かないでください。それだってとてもすてきですよ」
「今は行かないわ。二人でずっとここに座っていられたらいいのにね。あなたはそうやってそこにいて、私はここにいるの」
「『ギリシャの壺の歌』は読んだことがありますか?」
「はい」
「『木陰の美しい若者は歌を捨てられない』の下りを覚えてますか?」
「はい、覚えてます」スザンヌはうっとりして答えた。
「『勇敢な恋人よ、決して、決して、あなたはキスできない、
ゴールは目前だが……それでも悲しむことはない。
彼女は衰えない、あなたが至福を得られなくても、
あなたは永遠に愛し、彼女は美しくあり続ける』」
「やめて、やめて」スザンヌは懇願した。
ユージンは理解した。この偉大な考えの哀愁はスザンヌには大きすぎた。これは彼を傷つけたように、彼女を傷けた。 何という心だろう!
二人はのんびりとゆらゆら揺れた。時々ユージンが足で押すこともあり、スザンヌも彼に加わって押した。二人は浜辺を散歩し、海を見渡す緑の草むらに腰を下ろした。散策している人たちが近づいては通り過ぎた。ユージンはスザンヌの腰に腕を回し、手を握ったが、彼女の雰囲気の何かが彼に何も言わせなかった。ホテルで食事中も、列車まで行く途中もずっと同じだった。スザンヌは暗がりを歩きたがった。しかし豊かな月明かりが照らす、高い木々の下で、ユージンはスザンヌの手を握った。
「ねえ、スザンヌ」ユージンは言った。
「だめよ、だめ」スザンヌは後ずさりしながら息を呑んだ。
「ねえ、スザンヌ」ユージンは繰り返した。「話しかけてもいいかな?」
「だめよ、だめ」スザンヌは答えた。「話しかけないで、お願いだから。ただ歩きましょう。あなたと私とで」
ユージンは黙った。スザンヌの声は悲しげで怯えていたが、有無を言わせなかった。彼はこの雰囲気に従わないわけにはいかなかった。
二人は、線路沿いに駅舎の代わりにある小さな田舎の農家へ行き、何かの昔の喜劇オペラの趣のある一節を歌った。
「初めて僕とテニスをしに来た時のことを覚えてる?」ユージンは尋ねた。
「はい」
「僕はきみが来る前とプレイ中にずっと、変な震えを感じたんだけど、わかるかな? きみは感じた?」
「はい」
「それって何なのかな、スザンヌ?」
「私にはわからないわ」
「知りたくはないですか?」
「知りたくありません、ウィトラさん、今はね」
「ウィトラさん?」
「そうお呼びしなくては」
「ああ、スザンヌ!」
「ちょっと考えましょうよ」スザンヌは訴えた。「とてもきれいなところね」
二人はデイルビューの近くの駅まで来て歩いた。その途中、ユージンはスザンヌの腰に腕を回した。しかしとても軽くだった。
「スザンヌ」ユージンはあまりの切なさに胸に痛みを覚えながら尋ねた。「僕を責めてるの? きみにできるの?」
「私に聞かないでください」スザンヌは訴えた。「今はだめ。だめったらだめなんです」
ユージンはもっと近くに彼女を抱き寄せようとした。
「今はだめ。私はあなたを責めてません」
二人が芝生に近づくとユージンは立ち止まり、冗談でも出そうな雰囲気で家に入った。人混みに紛れて迷子になったと説明するのは簡単だった。デイル夫人は愛想よく微笑んだ。スザンヌは自分の部屋に下がった。