人のために連れてこられて、自ら生きる花
夏だ。どうしようもなく夏だ。
我が家の犬も、夏の太陽には服従のポーズしかできない。
庭の土を掘り返して、少しでも涼しさを得ようとしている。昼頃にアスファルトを踏もうものなら、足を火傷してしまうだろう。
それでも犬と散歩にいく。街並みの向こうへ太陽が沈みゆくころに、近場の公園まで歩いていく。特定外来生物のオオキンケイギクとの戦いを繰り広げた場所だ。
公園の空気は、ぼんやりとした熱の中に涼しさが混じっている。昼間の暑さにしおれそうなものだが、雑草は元気だ。だがあの黄色い花はそよいでいない。葉っぱの一本も生えてはいない。
戦いの後に造園業者に刈り取られたときもあったのに、たくましく花を咲かせている。中には、ほかの雑草は刈り取られたのにもかかわらず、残されていた植物もある。
たとえばヒメヒオウギズイセンだ。朱色のきれいな花をいくつも咲かせている。
明らかに雑草に混じって育っているのに、残されている。きれいな花は得なのだ。
そんなヒメヒオウギズイセンだが、外来種だ。
それも環境省が「我が国の生態系等に被害を及ぼすおそれのある外来種」をまとめたというリストに載っていた。
もとは園芸植物だったが、花壇の中だけでなくあちこちの空地で見かけるようになったのだそうだ。河川や海岸に生える植物の居場所を奪いかねないほど、繁殖力が強いという。
確かにそう思う。誰が植えたか知らないが、本当にあちこちに生えている。私の家にも生えているくらいだ。
最初はその花の色を見てきれいだと感じていたのだが……。犬が何度も踏みつけて、一時は消えるかと思われた。それでも球根が地面を転がって、生きながらえたくらい強かった。
それだけしぶとければ、河川敷に元から生える植物もたまったものではないだろう。
しかも花がきれいなのだから、人間も手を貸して、あちこちにばらまかれる可能性もある。
本当に身近なところに、外来種は生えているものだ。
そう、オオキンケイギクとの戦いの後、多少は勉強した。
オオキンケイギクさえも、最初は園芸や緑化のために使われた植物だったのには驚いた。もとは人間が連れてきたのに、今ではすっかり厄介者あつかいだ。その被害とはなんだったのだろうか。
リストを見てみると、ヒメヒオウギズイセンと同じように、河川の生態系を乱して、もともと生えている植物の居場所を無くしてしまうようだ。
でもここは公園だ。周りに生えているのも雑草ばかりで、朱色の花を咲かせる外来種が生き残っているような環境だ。
ここを繁殖地にして、種が雨風にのって河川敷に流れ着くということはあるだろう。だから抜くというのはわかる。
しかし被害を知らなければきれいな花ですんでしまう。しかももともとは人間がただ連れてきただけで、違う人間が被害だという……。
なんだろうな、このわかりづらい感じは。犬よ、お前はわかるか?
そもそもそのリストには、いろいろな被害が書いてあった。
もともと生えていた生物の遺伝子と混じったり、生息環境を奪ったりと、国内の生態系への悪影響があるんだそうだ。植物だけでなく動物も載っている。
生態系だけでなく、人間社会への被害というのがある。野菜や果物が食べられたり、人が咬まれたりというのがそれらしい。
こうした被害があっても、替わりがきかず人間のためになるから、しっかり管理していきましょうという感じの区分もある。
読んでいると、生態系への影響よりも、人間社会への影響の方が主題なんじゃないかと思うくらいだ。
なあ、犬よ。お前も外来種になるのかな?
人間の都合によって連れてこられて、私が飼っているから大丈夫なだけで。私によって価値があるから駆除されないだけで?
この公園に咲くヒメヒオウギズイセンも、造園業者にとってきれいな花という価値があったから刈り残したのだろうか?
私と造園業者は、たぶんその一方でオオキンケイギクがあれば抜き去ったのだろう。だって行政が抜いてほしいといい、法律でも定められているのだから。
この差は一体なんなのだろう。この公園どころか、街並みさえも人間が人間の生活のために作ったしろもので。そこに生きている者をどう管理するかも、人間の都合なのだろうか。
それでも目の前で花を咲かせるヒメヒオウギズイセンは、そんな都合など知ったこっちゃないとばかりに生きている。美しさに惹かれて、人の手も借りて自らを育てている。その一方で、人の手を借りられずに、住処を奪われつつある者もいるのだろう。なんなのだろう、この差は。
――考えているうちに、頭が熱くなってきたな。
もうアスファルトの茹だるような照り返しはとうに消えて、朱色の花も薄闇に沈んでいる。
犬よ、帰ろうか。
少なくともお前とは、一緒に暮らしている。
どこかに逃がしはしないし、捨てもしない。