野良猫はどこにいる?
うだるような暑さの夕方。ねばりつく湿気をかきわけて、近所を犬と散歩する。
10分も歩かないうちに、犬がぴたりととまった。湿り気味の鼻をひくつかせている。
空き家の壁沿いに積まれた、壊れたプランターや植木鉢といったゴミが気になるらしい。ゴミの周りにはコケが生えかかっている。庭木や植え込みの花も伸びっぱなしだ。これといったものがあるようには見えないが、虫でもいるのだろうか。
やにわに犬が吠える。ただのゴミに食って掛かる。背中の毛が逆立ち、尻尾がぴん、と空を向いている。
今度はゴミがうなり声をあげた。ゴミの下の隙間で、何かが動く音がする。野良猫が中に潜んでいたのだ。
犬はその場から離れずに吠えたてる。リードを引っ張ってもおかまいなしだ。
野良猫はするどく息を吐いて威嚇する。ゴミの下に潜んで動かない。
結局、野良猫はじっと隠れたままだった。未練たらたらの犬を引っ張ってその場を離れたが、よくもまあその存在に気付いたものだ。こんな街中の、人間の視界に入らないところで野良猫が生きている。犬が気にする以上に、野良猫の存在が気になってきた。
野良猫はどこにいるのだろうか?
もともと近辺に、野良猫がいること自体は知っていた。
犬を飼い始めてからはほとんど来なくなったが、我が家の庭先は野良猫の通り道だった。犬の存在を知らないのかそれとも度胸試しなのか、今もごくたまに来るようで、犬の追い払う声が聞こえる。
翌朝。まずは近所を散歩がてら、改めて野良猫の姿を探しに行った。
探すまでもなくあちこちで見つかった。道路はもちろん駐車場や公園、人家の庭先で、寝ころんだり歩いたりしている。
エサを食べさせているらしき家もある。その周りは、ほとんどたまり場だ。茶色い猫。グレーの猫。尻尾がかぎ状になった猫。子どもらしき大きさの猫も見かける。どうやら繁殖しているようだ。
とはいえ首輪があるわけでも、その家に居ついているわけでもない。
【野良猫への餌やり禁止】をうたう看板が、いくつも目に入ってくる。餌やりで、不幸になる猫が増える。望まれぬ繁殖する、糞尿をする、庭の草花を踏み荒らす、家に侵入される……こうして猫嫌いの人を増やす。その責任を自覚しようといった内容だ。
野良猫を歓迎しているわけではないことが、ひしひしと伝わってくる。
少し、見方を変えてみよう。
家に帰って、野良猫の野良とはどんな意味なのか辞書を引く。どうやら野原とか、田畑があるところをいうらしい。
野原や、田畑……。
我が家の近所は普通の住宅街だ。まとまった緑は、公園や庭先にあるくらいだ。あとは街路樹や家庭の菜園・花壇といったところか。エサや、ねぐらになりそうな自然はない。
むしろ散歩で見てきたのは、人と人が住んでいる、その狭間を埋めるような空間ではないか。もう野良猫の身の回りに、野良などという空間はないのだ。ならばあのグレーや茶色の猫は、文字通りの意味で野良猫なのだろうか。
野良猫と呼んではいても、その居場所も存在も、誰にも認められているというわけではない。それでも今ここで、野良猫は生きている。
今度はネットで情報を探す。
どうやら地域猫という考え方があるらしい。定義ややり方に違いはあるが、野良猫を捕まえて去勢などを行い、近在の人間でお世話ルールを定め、もともといた地域に放すようだ。これら一連の流れをTNR活動といい、必ずではないが、V字カットされた耳が地域猫の目印となるらしい。
なるほど、野良猫と称して放置しておくよりは、よほど実情に合っている。もはや街中のどこにもありはしない野良ではなく、地域という居場所を創ろうとする取り組みのようにも思える。
だがそう考えるのなら、結局のところあの猫はどこにいられるのだろうか?
夕暮れどきになった。ここはひとつ、野良猫の目線になって近所を犬と歩いてみよう。いったいどんなところを歩くのか。どんなところに住んでいるのか。
最初に野良猫を見つけた空き家の辺りで、身をかがめてみる。
道路のアスファルト。日差しの熱が籠っている。触るとそうとう温かい。夕方でこれでは、日中は素足で歩きたくない熱さだろう。土の上はましな方だが、土が露出しているところ自体が案外と少ない。人の庭先や公園にある程度だ。
点在している土の上で、伸びた庭木や花壇の草花、そしてゴミが、日陰を与えてくれる。駐車場にとまりっぱなしの車の下も、多少は涼しい。なるほど、道路よりはこちらの方を歩きたいものだ。むしむしとした空気自体が和らいでいる。
庭の向こうには家がある。空き家に人の気配はない。排水路は乾いているが、いつかの雨らしき水がかすかに溜まっている。そこには捨てられたタバコの吸い殻や菓子袋がある。この水を飲む、のだろうか。
人が住む家はエアコンの室外機が熱風を吹き付けている。テレビ番組の音が聞こえる。さらに向こうからは、車道を走るトラックの音も響いてくる。
街の中には、人間のための環境が広がっている。人間が管理して、住みやすいように設えられている。電柱、道路、人家、公園など、人間のために配置したものがたくさんある。家の中から、家庭ゴミや、し好品があふれ出ている。
一方で街の中には、別の空間もある。
空き家のような、人間の管理が破れた裂け目がある。餌をやるような家がある。駐車場や公園のような、人間の監視がやや薄い空間がある。公園で小鳥が鳴いている。たまらず拾い上げた菓子袋の中から、蟻がせっせと食べかすを運び出している。
人間のために土地を変えて、街を作った。そこに誰かが猫を連れてきて、誰かが逃がした。街に、猫の居場所は作っていない。それでも猫はそこにいる。
人間が作った空間に、ある意味では適応しているのか。ここは生きやすいのだろうか?
【野良猫への餌やり禁止】をうたう看板はどうだろう。餌やりで猫が望まれぬ繁殖をして不幸になるという。これは、人に望まれていないのだ。猫嫌いの人を増やすというが、すでに増えた猫はどこにいくのか。野良猫が生きているということは、どこかで死んでいるということだ。
地域猫というのも、人間のために作られた街の中にいやすいように、人間の管理下に猫を置いておく、という見方もできるかもしれない。それでも野良猫というよりは現実的だろう。病気やけがをすれば、獣医などのソーシャルサービスを受けられる。人間が作った空間に居場所を求められる。
しかしそもそも生きていけるように設計された場所が、家の中以外に作られていないのではないだろうか。こんな街中の、生活している人間の目線よりも低いところで、命が生まれては死んでいる。
ふと、あのオオキンケイギクを思い出す。やつらだってそうじゃないか? 居場所を人間に認められなければ死んでしまう。私がオオキンケイギクを抜いてしまったように。いや逆に、あれだけ抜いたのは、人間が作った場所に適応できたからなのか。それでは野良猫も、やつらと同じなのではないか? もしや私と一緒にいてくれる犬も、同じなのか? いったい人間は、どこにいるというのだろうか?
人間の責任とは――
ふと、視線を感じた。近所の子どもがこちらを見ている。
犬よ、犬よ。お手。おかわり。
子どもが犬を褒めてくれた。飼い主を褒めてはいない。
犬に感謝して家路に着く。
その道の上の真ん中に、猫が寝そべっていた。
ここにいるのが当然のことのように。
猫はこちらを一瞥した。
こんがらがっていた頭の中に、その姿が焼き付く。
そうか、やつは、猫なんだな。
猫はのっそりと立ち上がり、家の庭に消えていった。
犬は、湿り気味の鼻をひくつかせていた。
イエネコ編はこれで終わりですが、きっとまたどこからか顔を出すでしょう。
山や島などに住むノネコ(野猫)は、残念ながら取り上げられませんでした。
どうも野良猫は地域猫になれても、野猫は地域猫にはなれないように思います。
イエネコの名が示す通りなら、人と家の関わりの中で生きているものなのでしょう。
……それにしても、どこにいるのだろうか?