君が教えてくれたこと。
いつからだろう、夢を語れなくなったのは。
俺は何になりたかったんだろうか。
もう俺は、何者にもなれない。
*** 大学1年生 春 ***
『えー、みなさん、ご入学おめでとうございます。』
俺は受験に失敗した。
第一志望、第二志望、第三志望だった大学に全て落ち、滑り止めとして受けていたこの大学に入学することになった。
奨学金を借りてまで、借金をしてまで行く必要がある大学だとは思えない。
しかし、俺はまだ大人になりたくない。
大人になるためのモラトリアム期間として、この4年間は意義のあるものだ。
と、俺はこの大学に来た意味を見出そうとしていた。
うるさい。
流石だな、と思った。
本当に動物園みたいだ。あ、失礼か。
だだっ広い教室で、1番後ろの席で固まって座っている大集団。後ろの方に何かあるんだろうか。
その時俺の後ろの席に座っている女の子二人組がひそひそと話し出した。
こういう女子のひそひそ話は俺のネガティブ自意識を過剰にする。
いつもならば。
しかし今回は違った。
なぜなら俺は知っていたからだ。
この子たちが嘲笑しているのは俺じゃなく、あの子だということを。
1番前の教授の真ん前のど真ん中の席で授業を熱心に聞いているあの子。
特に彼女が何かをしたという訳じゃない。
ただ、この三流大学で熱心に授業を受けるというその態度自体が珍しいのだ。
しかし、その態度はこの大学では尊敬の眼差しでは見られない。
更に、こいつらは他人と自分を比べて一喜一憂したがる生き物だ。
この大学のノリに合わないあの子はそんな奴らの格好のターゲットになってしまっている。
『…っ、返してくださいっ。私のノートっ!』
『あんたさー、目障りなんだよね。』
『何?教授に媚び売ってコネでも作っていいとこ就職しようとか考えてんの?』
『こんなにノートとって真面目ぶっててウケる』
よくもまあこんな事を廊下のど真ん中で。
『こんな私にしか虚勢を張れないの、ウケるんですけど。』
ん?
『やっぱり三流大学には三流の人間しかいないんですね。』
驚いた。
あの子がやられっぱなしの人間ではなかった、ということに。
また何よりも、あの子がここまで攻撃的なタイプの人間だったということに。
『えーでは、今から二人組を作ってください。』
今にも雨が降りそうな嫌な空をボーッと眺めているとき、そんな声が聞こえた。
大学生になってもなお友達が居ないことの不利益を被らなければならないのか。
『パートナーがいない学生さんはいますか?』
手を挙げた。
『ちょうど2人ですね。ではこの2人でペアを組んでください』
あの子とだった。
最悪だ。
あの子とペアを組むことによって俺まで一緒に嘲笑の対象になることが嫌だった訳じゃない。
俺はそんな寂しい考えを持った三流の人間とは違う。
俺が最悪だと思ったのは、あの子が怖かったからだ。
俺は強い学歴コンプレックスを抱えている。
こんな三流大学は俺の居るべき場所じゃない。
だから、こんな所に通っている学生たちを全員見下している。
お前らはその程度か、と。
あの子もきっとそうなのだと思った。
俺と一緒なんだと。
だから怖かった。
あの子が俺を三流だと思っていることを知るのが。
『よろしくお願いします。』
彼女が言った。
『あっ…。よろしくお願いします…。』
『私、雪菜奈恵』
『あっ、俺は絹川賢斗です。』
これが彼女と俺が交わした最初の会話だ。
『君の将来の夢は?』
雪さんが俺に聞いた。
あのペアワーク以来、妙に懐かれてしまって、彼女と一緒にいることが多くなった。
『私はね歌手になりたいの!』
この前は画家と言っていた。
『また夢変わったの?』
『うーん、変わったっていうよりかはいろいろな可能性を試してるってのが近いかな。私にはまだまだ沢山の可能性があるの!』
『それ大学生のセリフじゃない。』
大学生の可能性なんてたかが知れてる。
良い大学に入っていれば夢も可能性ももっと広がっていたかもしれないけど、こんな大学じゃ、ちゃんとした仕事に就けるかどうかすら怪しい。
『私はねみんなを幸せにしたいの。その手段を今探してる。絵でもいい。歌でも!みんなが幸せになればいいなって。』
彼女は曇りのない瞳でそう言った。
俺は毎日2時間かけてこの大学に通っている。
一限がある日の早起きも、満員電車も、高い定期代も、辛いことだらけだ。
しかし、俺が本当に辛いのは、通学途中に俺の行きたかった有名私大があることだ。
毎日その大学の最寄り駅で降りていく多くの大学生らしき人を見ては劣等感に苛まれる。
そんなにしんどそうな顔をして降りるなら1日だけでもいいから俺と変わってくれよ。
心の中でお願いしてみる。
大学に着くとまず俺は図書館に行く。
もちろん、勉強するために。
俺はこんな所でくすぶっている人間じゃない。
といっても、仮面浪人をしている訳じゃない。
ここをちゃんと卒業するつもりだ。
この大学は俺を拾ってくれた。
ここに拾ってもらえなければ俺は就職していた。
そういう意味で、俺はこの大学に感謝している。
ただ、俺は周りの何も考えてなさそうな奴らとは違うんだ。
俺は特別なんだ。と自分に言い聞かせるために頑張っている『フリ』をしているだけ。
手の届く距離だけで頑張っている『フリ』。
『薄っぺらいな、俺の人生。』
誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
その時、『けーんと』と声が聞こえた。
俺を下の名前で呼ぶのはあいつしかいない。
いや、そもそもこの大学で俺なんかに話しかけるやつはあいつしかいないか。
『早いね今日も。おはよ。』
『おはよう。雪さんはいつも通りだね。』
俺と雪さんは大学では基本ずっと一緒にいる。
お互いにとって唯一の友達だ。
『昨日ホラー映画観に行ったんだけどね、すっごい怖かったの!』
雪さんはここが私語厳禁の図書館であるということを忘れているみたいだ。
『へぇ〜』
黙らせるために話を途切れされる相槌を打つ。
『でもやっぱ怖いのっていいよね。観てる間はもう怖すぎて内容とかよくわかんないんだけどさ。』
作戦失敗。
まあ、いいか。周りに誰もいないし。
俺は諦めて雪さんの話を聞いてやることにした。
『内容わかんないんだったら意味ないじゃん』
『わかってないな〜賢斗は。ホラーの醍醐味っていうのはね、観た後なの!非日常の究極の恐怖を経験した後、いつも通りの日常に戻るでしょ。その時、生きてるって幸せ、って。当たり前の大切さに気づくことができるの。』
悲しいかな。俺には彼女の感性がわからない。
『なるほどね〜。』
適当に返しておく。
『で!賢斗は見つかった!?将来の夢!』
彼女は俺の夢を知りたがる。
大学生に夢なんかあるんだろうか。
まあいいとこに就職して安定したお給料貰って、可愛いお嫁さんと結婚して...っていう人生設計は俺もよくするけど。
だが、彼女が求めているものはそうじゃないらしい。
(大きくなったらサッカー選手になりたい!)といった小さい子どもが言うような将来の夢を俺に求めているようだ。
『うーん、やっぱわかんないんだよね。夢って何なのか。俺は別に適当にそれなりに生きれたらいいなって思ってる』
『へー!賢斗、適当に生きるのが夢なのね!応援するよ!』
『……。』
なんともまあ、アイロニックな言い方をする人だな。まあ、彼女にはそのつもりはないんだろうけど。
そろそろ彼女に三流だと思われたくないと恐れていたかつての俺を返してほしい。
『雪さんは歌手になりたいんだよね。どう?順調?』
『うーん、カラオケとか行って練習してるんだけど私の歌声は人を不快にするみたい。お母さんに言われた。』
なんともまあ辛辣な母だこと。
ボーンボーン
変わったチャイムが鳴る。予鈴だ。
雪さんと俺は同じ学部で、取っている授業もほとんど一緒だった。
つまり、次の授業も一緒。
教室に入ると彼女はいつもの席に座る。
俺は前から5列目の端の席。
一緒には座らない。
彼女から一緒に座ろうと言ってくることもなければ、俺が一緒に座ろうと誘うわけでもないからだ。
***
『次授業ある?』
初めましてのペアワークを終えた後、彼女は俺にそう言った。
『いや、ないです。昼飯食べようと思ってました。』
『あ、私も。一緒しても、いい?』
断る理由もない。
『…はい。』
『絹川くん夢はないって言ったよね?』
彼女はさっきのペアワークの続きをしたいようだった。
面倒だと思った。
夢とかなりたい自分とか、そんなものもう今の俺にはない。あったとしてもどうせ叶えられないし。
『あ、ごめんね。いろいろ踏み込んじゃって。初めましての人間に自分の夢とか語れないよね。』
人の気持ちに土足で踏み込んでくるタイプの人間だと感じていたが、どうやら適度な距離は保てるらしい。
『いや、語りたくないとかそういうんじゃなくて。本当にないんです。夢が。』
彼女は目を丸くしていた。
『夢がなくて生きられるの?』
前言撤回。
彼女は靴を脱がない主義らしい。
『雪さんはみんなを幸せにしたいって言ってましたよね。』
心の中に土足で踏み込まれる前に俺は話題を彼女の方へと逸らした。
『うん。そのために私は何をすればいいのか、模索してるところ。』
彼女は立派だと思う。この大学に似つかわしくないくらいに。
***
授業が終わりノートを鞄にしまっている時、後ろから『なぁ』と声が聞こえた。
その声がまさか自分にかけられているものとは思わず席を立とうとすると『ちょっと』と肩をたたかれた。
驚いて振り返る。
チャラそうな男が立っていた。
『君さ、名前なんて言うの?』
『絹川、です。』
いきなり何なんだろう。
『おー絹川ね。いきなりなんだけどさ、今日この後空いてる?合コンする予定なんだけど、今日来る予定だった奴が風邪で寝込んじゃってさ、1人足んないの。』
……は?
『イケメン連れて行くからって女の子たちに言っちゃってさ、がっかりさせたくないんだよね。君ほら、地味だけど顔はまあカッコいいしさ、ね?お願い。』
『…はい。』
俺の平穏なキャンパスライフを守るために承諾してしまった。
『まじ!?サンキュ!!じゃあ連絡先教えて!場所と時間連絡するから!』
『はい…。』
俺はなんて臆病なんだ。
だけど、あんないかにも権力握ってますって感じのチャラそうな男の頼み断れるはずない。
『19時。大学を出てすぐのところにあるファミレスに集合』と、あのチャラそうな男から連絡が来た。
ファミレスか。意外だった。
まだ俺ら1年だし未成年だもんな。
こういうとこちゃんとしてるんだ。
少し好感が持てた。
ていうか、名前聞くの忘れたな。
連絡先に書いてある名前はポムと表示されている。
身バレしないために本名を使わないのだろうか。
女遊びが激しいんだな。と勝手な憶測を飛ばす。
さっき上がった好感度が少しずつ下がっていくのを感じながら持て余した時間をどうするか考えていた。
今は15時13分。この後授業は入っていない。
だけど家に帰る時間はない。
こういう時下宿生は羨ましいと思う。
『図書館で勉強でもするか』
小さな独り言を呟き、図書館に向かった。
トントン
肩をたたかれた。
振り返ると雪さんがいた。
『もう、めっちゃ探したんだけど!』
『え、なんで?』
『てかさ!賢斗さっきの授業終わった後めっちゃチャラそうな人と話してたよね!意外だった!』
相変わらず人の質問に答えないな、この子。
『あーそう、急に話しかけられて俺もびっくりした。合コンの数合わせだってさ。』
『賢斗が合コンね〜。可愛い女の子捕まえてくるんだぞ。』
そういって大きく瞬きをする雪さん。
多分ウインクがしたかったのだろう。
18時50分、ファミレス前。
ポムたちが来るのを待つ。
程なくして5人組がやって来た。
多分ポムたちだろう。
『おー、絹川!おまたせ!』
それに俺は手をあげて反応する。
『は?ファミレス?ウケるんですけど』
1人の女の子がそう言った。
『でも俺らまだ未成年だしさ、酒は飲めないんだよね。ごめんね。』
『まあヒロくんのそういう変に真面目な所嫌いじゃないかも』
こいつヒロって名前なのか。
一文字も被っていないポムという名前表示を思い出し、ポムの由来が少し気になり出す。
『じゃ、入ろっか』
席に着くとまずドリンクバーを注文した。
俺の想像していた合コンとはかなりかけ離れているけど。
『池本理央です。2年でーす。』
ファミレスウケる〜と毒づいていた子だ。
『石浜 玲奈です。私も2年です。』
この子はポム、もとい、ヒロくんの真面目なところが好きらしい。
『1年の戸島 美咲』
少し無愛想な子。他の2人とは雰囲気が違う。
この子も俺と同じ数合わせだと見た。
『藤光煇。3年です。よろしく』
大先輩だ。
ヒロくんの人脈どうなってんだ。
『沖崎宏樹って言います。1年っす。』
ポムはもう忘れることにする。
『あ、えっと。絹川賢斗です。1年です。』
一通り自己紹介を終え、各々の好きなタイプや恋愛遍歴について散々聞かされた後、1年に変な奴がいるという話題になった。
『ダサいですよね。お前らとは違うんだアピール。』
戸島さんが言った。
彼女が数合わせで来たのでは、という俺の予測は外れたようだ。
『結局この大学にいるってことは私たちと同じレベルってことじゃないですか。それを私は特別なんだって周りに見せびらかしてるみたいで。頑張ってるアピール超ダサいなって』
雪さんのこと、らしい。
『私ら2年だからその子と絡んだことないしわかんないんだけどさ、ちょっと前その子、廊下で揉めてなかった?』
『あー、あったね。三流は三流だとか、お前らはその程度だとかどうとか。』
『特大ブーメランじゃんウケる』
『なんか、この間のさ、キャリア開発の授業で自分の夢について語ろうっていう議題があったんですけど、あの子なんて言ったと思いますか?』
『え、わかんない、芸能人になりたいとか?』
『芸能人ウケる今更感ヤバい』
『みんなを幸せにしたいんだって…』
バンっ!!
『俺、帰ります。』
そう言って店を飛び出した。
自分でもよくわからなかった。
ただ、無性に腹が立った。
なんでだろう。
多分、彼女に対する悪口が俺に向けられているものだと感じたからだと思う。
自分は周りとは違う。
自分は特別だ。
頑張っているアピール。
『ダサいですよね。』
あいつらが放った言葉。
そうか。
俺はダサかったんだ。
次の日から俺は頑張っている『フリ』をやめた。
図書館に行くこともやめ、授業は1番後ろの席で受けるようになった。
勿論後ろの方には何もない。
俺は動物園の構成員になってしまった。
雪さんともそれ以来話さなくなった。
俺が突き放したんだ。
一緒にいたら俺までダサくなるから。
俺は『ダサい』から卒業したのに。
そんな寂しい考えを持った三流の人間へと俺は成り下がった。
俺は特別なんかじゃなかったんだ。
もがくだけあがくだけ見苦しくなる。
受験に失敗したあの時から、俺の人生はもう全部決まっていたんだ。
『おい賢斗、お前就職どうすんの?』
『まだ3年なったばっかじゃん早くね?』
『俺らみたいな三流大学出身は早く対策しねーと就職先見つかんねーの。』
『ヒロお前意識高すぎ』
学食で一杯70円のうどんをすすりながら言う。
『でもさ、煇さん大手就職したじゃんか。3年の時からインターンとか行きまくってたらしいぜ?』
『何お前、大手行きたいの?』
『あったりまえじゃん!!今の時代、男はやっぱ金持ってねーとモテねーの!』
理由が浅薄だけど、そこがまたヒロらしい。
『あ、やべ、授業始まる。次の授業あと一回遅刻したら単位もらえないんだよね。じゃ、また後で!』
相変わらずギリギリで生きてるな、あいつ。
まあ俺もだけど。
就職か。別になんでもいい。どこでもいい。
とりあえず生きていけるだけのお金が貰えれば。
食べ終わった容器を返却口に戻し食堂から出たとき聞き覚えのある声が聞こえた。
『絹川、くん。』
振り返るとそこには雪さんがいた。
『今、ちょっと、いい、かな?』
俺の顔色を伺うように彼女は言った。
『いい、けど。』
大学内にある喫茶店に入る。
人はほとんどおらず、コーヒーを2つ注文し窓際の2人席に腰を下ろす。
彼女と話すのは久しぶりだ。
授業はほとんど一緒だったから姿はよく見てたけど。
『いきなり、ごめんね。絹川くんには言っておきたいなって思って』
絹川くん。
前みたいに賢斗と下の名前で呼んでくれないことに少し寂しさを覚える。
彼女を突き放した俺が抱いてはいけない感情だけど。
『私ね。夢が決まったの。』
『…は?』
口に出してしまった。
『ごめんね、何の報告だよって感じだよね。でも、絹川くんには言っておきたかったの。夢を語り合えた唯一の友達だったから。』
そうだ。こいつはそういう奴だった。
『俺は別に語ってなかったけど。』
『あ、そうだったね。私が一方的に語ってただけだったね。』
彼女は苦しそうに笑う。
『で?何になりたいの?』
情が湧いて話を聞いてやろうと思った訳じゃない。
単に興味が湧いた。
彼女の夢に。彼女がなりたいものに。
『総理大臣』
………。
『ぷっ…。っあっはっはっはっ!』
やべ、笑っちゃった。
人の夢を笑うなんて、どこかの誰かさんに叱られてしまう。
『私、本気だよ。みんなを幸せにするために、私が国を動かすの。』
『こんな底辺大学の人間が?夢見がちも程々にしろよ。痛いよお前。』
『そんなことないよ。人はね、なりたい自分になれるの。』
『なれないよ。なりたい自分になんて。
大人になるにつれみんな可能性を吸い上げられて、’’夢’’なんて言ってられなくなる。
それでも足掻いてもがいて、自分のプライドと社会との妥協点を見つけ出してそれなりに生きるんだ。
そういうもんなんだよ、人間って。』
『…。』
はい、論破。
『君の夢は叶わない。』
これが彼女へ放った最後の言葉だった。
『よっ、賢斗。スーツ似合ってんね。』
『お前は全然似合ってないな。』
『まあスーツ顔じゃねーしな、俺。』
なんだよ、スーツ顔って。
『てか!楽しみだな、企業説明会』
『呑気なやつだな。俺は不安で堪らないよ。』
『賢斗は顔パスできるからだいじょーぶ。』
『世の中そんなに甘くねーよ。』
今日は大学で企業説明会が開かれる。
ヒロに誘われて行きたくもない企業説明会に参加させられることになった。
美咲さんも俺と同じ被害者のようだ。
『私別に就職とかどうでもいいんだけど。』
『でも働かないと生きていけないじゃん。』
『お金持ちと結婚して養ってもらうの。私はイケメンのお金持ちに永久就職する。』
『はい!俺優良物件でーす!』
俺と美咲は冷ややかな目でヒロを見る。
『冗談だって。』
そう言ってヒロは笑った。
『本日はお忙しい中お集まり頂きありがとうございます。』
いかにも頭の良さそうな男性が話している。
俺とは生きてきた世界が違うんだと思った。
別にあんなに立派じゃなくたっていい。
隣でヒロが熱心に話を聞いている。
真面目なんだよな、こいつ。
ノリ気じゃなかった美咲もノートとペンを持ち何かメモしているようだ。
こんなに大勢の人間の前で、堂々と自身の会社の企業理念を語っているあの男性は本当は何になりたかったんだろうか。
今のあの姿が、彼が思い描いていた理想の自分だったんだろうか。
あの子、今何してるんだろ。
ふと気になった。
1年前、喫茶店で別れてそれっきりになってしまった彼女。
あれ以来俺は彼女の姿を見ていない。
一緒だったはずの授業にも彼女は姿を現さなくなった。
噂によると退学したとかどうとか。
俺のせいだと思った。
酷いことを言ってしまったから。
謝りたいと思った。
だけど、今更なんて謝ればいいのかわからなかった。
結局そのまま、彼女には何も言えていない。
長かった説明会が終わり、遅めの昼食を食べるため、俺たちは大学から出てすぐのファミレスに向かった。
学食で70円うどんを食べようと思っていたが、食堂が閉まっていた。
今日は休みらしい。
誤算だ。俺の金が飛んでいく。
『いやー、やっぱすげーわ大手。』
『ね、ほんとに。私あんな人と結婚したい。』
『じゃあ俺頑張ってあそこ入るわ。』
『ふーん。』
ヒロの精一杯のアピールは今日も美咲には届かなかったようだ。
『ぶっちゃけさ、どう思う?』
『どうって、何が?』
『いや、ほら、な?』
わかるだろ?と言いたげな顔でヒロは俺を見つめてくる。
『ぶっちゃけ、脈なしだと思う。』
『ぐわぁー!やっぱそうだよなぁ。第三者から改めてそう言われると、なんか、すげー沁みるわ。』
『おまたせ。』
美咲が飲み物を持って戻ってくる。
『さんきゅ』
ヒロがそれを受け取る。
丁度その時料理がきた。
『お待たせ致しました。こちらカルボナーラになります。』
『どうも』
店員さんから料理を受け取る。
『ご注文は以上でよろしかったでしょうか。』
『はーい』
ヒロが答える。
『では、ごゆっくりどうぞ』
『あー腹減った!やっと食える!いただきます!』
そう言ってハンバーグにありつくヒロ。
『そんなに腹ペコだったんなら俺の料理が来るの待たないで先に食べたら良かったのに。』
『俺はみんなで一緒にいただきますして食べたいの。』
可愛い奴だ。
『美咲もごめんな。料理冷めちゃったよな。』
『私は男の人より先にご飯は食べない主義なの。』
『お?男性を立てるプロってか?』
ヒロが茶化す。
とにかくこいつらは良い奴なんだ。
『俺さ、ずっと賢斗に聞きたかったことあるんだけど。』
『ん?何?』
『いや、あの、聞きづらいんだけどさ。』
珍しく歯切れの悪いヒロ。何だろう。気になる。
『雪菜奈恵っていたじゃん?あの子最近まったく見なくなったけど。なんでか知らないの?』
ヒロの口から彼女の名前が出てきたことに驚いた。
『なんで、俺?』
『いや、お前仲良かったじゃん。あの子と』
『あー、昔はね。』
『退学したんじゃないの?』
美咲が言う。
『あの子にはこの大学のノリが合わなかったんだよ。自分の理想と現実のギャップに耐えきれなくなったんじゃない?』
なんでだろう。
モヤッとした感情が俺の中に湧き上がってきた。
『嫌いだったんだよね。あの子。いかにも優等生って感じで。教授に媚び売って。何がしたかったんだろうね。』
『なんかさ、一回あったじゃん。夢がどうとかって。』
やめろ。
『あーあったねあれ。』
やめてくれ。
『昔ここで合コンした時、あいつの夢がウケるとかって理央ちゃんと玲奈ちゃんとかと盛り上がったの覚えてる?』
『覚えてる覚えてる。でもあの時確か賢斗途中で帰っちゃったよね。』
『あ、じゃあお前知らないんだ。あの話の続き。』
『みんなを幸せにするとか言って…。』
バンっ!!
『ごめん、俺ちょっと用事思い出した。帰るわ。』
財布から1000円札を取り出し机の上に置く。
『え、賢斗帰んの。』
『ちょっと待って。』
『悪い、ちょっと急ぐ。』
足早に店を出る。
なんでだろう。
あの時と同じ感情。
モヤモヤとしたこの気持ち。
『違うだろ…。』
そうか。
そうだったんだ。
3年前のあの日。あの場所で。
あいつらが放った蔑みの言葉。嘲笑。
そして、俺の中で沸き起こった感情。
傷つけられたと思っていた。
彼女を通して俺自身が。
でも違ったんだ。
携帯のアドレス帳を開く。
そこに表示されている『雪菜奈恵』という名前。
何度も消そうと思って消せなかった彼女の連絡先。
発信ボタンを押す。
謝ろうと思った。
たとえ彼女が許してくれなくても。
あの時、俺は『ダサい』と言われて傷ついたんじゃなかった。
あの子の夢を笑われて腹が立ったんだ。
『…おかけになった電話番号は現在使われておりません。』
『ただいま』
『あーケン、お帰り。企業説明会どうだった?あんたにもやれそうか?就職活動。』
『んー、わっかんね。』
そう言って階段を駆け上がり、自分の部屋に入る。
どうやって帰ってきたっけ。
スーツのままベットの上に寝転がる。
『ふぅ。』
息を吐く。
遅かった。もう何もかも遅すぎたんだ。
『ごめん。』
もう、彼女に伝えることのできない言葉。
『君の夢は叶わない。』
俺が彼女に放った最後の言葉。
本当に伝えたかったのは、伝えるべきだったのは、あんな言葉じゃなかったのに。
涙が溢れそうになる。
でも多分、泣いていいのは俺じゃない。
溢れてきそうな涙を必死で堪える。
3年前のあの日から俺は怒りの矛先を彼女に向けてしまった。
ダサいお前と一緒にするなと。
それを向けるべき相手は彼女じゃなかったのに。
本当は俺自身、そんなことわかっていたのかもしれない。
頑張っている『フリ』を続けるのがしんどくなった俺は楽な方へ逃げたんだ。
その代償としてそれからの3年間、俺は自分の気持ちに気づかない『フリ』をし続けることになった訳だけど。
そうしたら本当に自分の本当の気持ちがわからなくなっていった。
彼女をダサいと心から思うようにもなった。
だからあの時、俺は君にあんなセリフを何の躊躇いもなく言えてしまったんだな。
遅すぎる後悔を、彼女への懺悔として。
『ごめん...。』
もう彼女には届かない言葉を呟いた。
『ケン!今日は朝からおばあちゃん家行くって前から言ってたでしょ!早く起きなさい!』
うるさいな。
てか勝手に部屋入ってくんなよ。
いろいろあるんだよ、男は。
まだ布団からは出られないようなので、身体を起こしボーッと空を眺める。
昨日は結局あのまま寝てしまった。
風呂にも入ってないからなんだか髪も少しベタつく気がする。
少しの間、目を閉じる。
胸が痛かった。
『よっ、ばあちゃん。』
『あら、ケンちゃん。久しぶりだね〜』
俺はばあちゃんっ子だ。
ばあちゃんの顔を見たら嫌なことを考えずにいられる。
『ケンちゃんもう大学4年生になるんでしょ?就職活動とかしてるの?』
『んー、まあね。』
『あらそうなの。偉いわね〜。』
昨日企業説明会行ったからね。
嘘はついていない。
『ケンちゃんは何になりたいの?』
『…。』
『ケンちゃんは良い子だからね。立派な仕事に就けると思っとるよ、ばあちゃんは。』
『…。』
『ケンちゃん?』
『あー、別に立派じゃなくてもいい、かな。適当でいいよ、そんなの。』
『立派じゃない仕事なんかないさ。どんな道を選んでもケンちゃんは立派さ。』
『…。』
俺は立派なんかじゃないんだよ、ばあちゃん。
電話の音で目を覚ました。
『よっす。』
ヒロからだ。
『おはよ。』
『おう、朝早くにごめんな。言いたいことあってさ。』
『なに?』
あの一件以来ヒロとは連絡を取っていなかった。
自分の本当の気持ちに気づいた今、こいつと仲良しこよしするつもりはない。
『この間のさ、あれ。謝りたくて。あの、雪さんのやつ。』
『…。』
『気分悪くしたん、だよな?昔、合コンした時もさ、確かお前、雪さんの話題になった途端帰ったじゃん?この間も雪さんの話題になったら帰っちゃったし。』
『いいよ、全然。気にしてない。』
『そっか、良かった。』
『うん。』
『じゃ、それだけ。また大学でな。』
『うん、また。』
悪い奴じゃないんだ。
ただ、俺は、彼女を笑ったお前とこれからも仲良くするつもりはない。それだけ。
お前らと同じことをしていた俺に縁を切る資格なんて無いんだろうけど。
『絹川―!』
『はい!』
『お前ここ0が1つ多い。このまま発注してたらとんでもないことになってたぞ。しっかりしろ。』
『はい、すみません。』
『絹川』
『あ、石浜先輩。』
石浜玲奈。4年ぶりに再会した。
彼女もこの会社で働いていたらしい。
まあ別に仲良くするつもりはないけど。
『あんた、最近ミス多すぎね。しっかりしてよね。』
『はい、すみません…。』
『今日も多分あんた帰れないよ。明日までにこれ、全部終わらせて。』
山積みの書類が俺のデスクに置かれる。
『これ、明日までに、ですか?』
『えぇ。早くこの仕事に慣れてもらうためにね。頑張って。』
1年しか変わらないのに。
あぁ、ブラックだ。
血反吐を吐く思いでやった就職活動。
32社目でやっと貰えた内定。
その結果がこれだ。
何だったんだろう。俺の人生。
目覚まし時計の音で目を覚ます。
眠いな。
会社を休める理由がないか、真剣に考える。
しかし今日も会社を休む口実は見つからなかった。
眠たい目を擦り家を出る。
春の心地よい気温が俺の身体を優しく包み込む。
このままどこか遠くへ行ってしまいたい。
俺の家から会社までは歩いて約15分。
電車通学の大変さは大学で思い知ったため、就職すると同時に会社の近くへと引っ越したのだ。
学生時代、下宿生を羨ましがったが、1人で暮らすことがこんなに大変だったなんて知らなかった。
最近はろくなものを食べていない。
まだ見慣れない景色を横目に俺は会社へ向かった。
『絹川お前またここ間違えてるぞ!』
上司に怒鳴られる。
『はい、すみません。』
『謝って済む問題じゃないんだよ!』
また怒鳴られた。
『すみません、すぐやり直します。』
あいつ、今日は帰れないな。
コソコソとそんな声が聞こえる。
今日’’は’’じゃない今日’’も’’だよ。
そんなどうでもいいツッコミを心の中でする。
『絹川、これもやっといて。』
石浜さん。またあなたですか。
あの人会社に来て何やってるんだろう。
ていうか、人事課どうなってんだよ。
俺を拾ってくれた命の恩人とも言えるこの会社の人事課に文句を言ってみる。
時計の針は深夜2時を回ろうとしていた。
『はぁ〜終わんね。』
残っているのは俺だけ。
俺以外の新入社員は出来が良く、仕事も早い。
『ここでも俺、落ちこぼれかよ。』
まだまだ終わりの見えない書類の山を見て溜息をもらす。
『やっていけるかな、俺。』
この会社での自分の将来に不安を覚えながら作業を再開した。
『絹川、飯行かね?』
石浜さんだ。最低限の人付き合いとして、俺はそれに付き合うことにした。
まあ、臆病だから、先輩の誘いを断れなかっただけだけど。
会社の前のラーメン屋に入る。
『あたし豚骨』
豚骨なんか食べたら胃がもたれて気持ち悪くなってしまう。
俺ももう歳かな。と着々と歳を取っている自分に少し悲しさを覚えながら塩ラーメンを注文した。
『絹川も最近ようやく部長に怒られなくなったね。』
『もう3年目ですからね。流石にね。』
俺はここで何とかやっていけてる。
意外と鋼のメンタルを持ち合わせていたようだ。
『てかさ、今年の新入社員まじ使えなくね?』
石浜さんが愚痴をこぼす。
そりゃ、色々な仕事押し付けられて、ろくに睡眠も取らないで働いていたらミスも増えるだろう。
俺もそうだったから。痛いほどよくわかる。
『ミスは多いしさ、頼んだ仕事もろくにやってないんだよ。』
あなたはそもそも仕事してないじゃないですか。
と言ってやりたくなる。言わないけど。絶対。
この人の愚痴に付き合うのは本当に疲れる。
昼飯の誘いを断らなかったちょっと前の自分に腹を立てながら適当な相槌を打っておいた。
ふと、考える時がある。
俺の人生について。
本当にこれで良かったんだろうか。
毎朝歩く会社への道のり。
見慣れた景色。
何だか気持ちが重い。
急に歩けなくなった。
何故だろう。
涙が溢れる。
人通りも多い。
大の大人がこんな道の真ん中で泣くなんて、みっともない。恥ずかしい。
涙を堪えようと上を向く。
だめだ。止まらない。
溢れる涙を隠すため下を向く。
俺はこのまま、なんとなく生きてなんとなく人生を終えていくのだろうか。
ふと、あの子のことを考える。
『君の将来の夢は?』
かつて、彼女は俺に聞いた。
俺の夢。俺がなりたかったもの。
いつからだろう、夢を語れなくなったのは。
俺は何になりたかったんだろうか。
もう俺は、何者にもなれない。
『人は何にでもなれます。』
あの子の声が聞こえた。
俺の中で流れた声じゃない。
確かに。ハッキリと。
外から聞こえたあの子の声。
顔を、上げる。
雪 ななえ
車の上の看板に書かれているあの子の名前。
『みんなが幸せな世界。そういう世界を私が作ります。どうか、私に皆さんの清き一票を。』
綺麗事だ。
宗教かよ。
それができたら誰も苦労しないよ。
といった野次馬たちの声が聞こえてくる。
もう、涙は止まってくれなかった。
動かなかった足は自然とあの子の方へと動き出す。
くだらない理想論を大きな声で公言しているあの子に。
俺は君に言わなきゃいけないことがあるんだ。
ずっと君に伝えたかった言葉。
ずっと君に伝えられなかった言葉。
夢は叶うと信じて疑わなかった君に。
『頑張って』
口を突いて出た。
そうだ。
俺は、君に夢を叶えて欲しかったんだ。
『絹川、くん。』
あの子の声。
俺は彼女の街頭演説が終わるのを待っていた。
謝りたかったから。
彼女がそれを受け入れてくれるかどうかはわからなかったけど。
だから、演説を終えた後、彼女から話しかけてくれたことに驚いた。
『あ、気づいてたんだ。俺がいるって。』
『うん。声が聞こえたから。’’頑張って’’って、絹川くんの。』
そっか、聞こえてたんだ。
『あの、さ。話したいことがあるんだけど。いい、かな?』
彼女は小さく頷いた。
俺はその日、会社を休んだ。
コーヒーを2つ注文し、窓際の2人掛けの席に腰を下ろす。
少しの間沈黙が流れる。
彼女は気まずそうな顔をしていた。
そんな顔、するんだ。
変わってしまった関係に少し寂しさを覚える。
『ごめん。』
まず、言わなければいけない言葉を彼女に言った。
『違うの。謝らないといけないのは私。』
俺の謝罪の言葉を受け入れてくれるかどうか。
そのことだけを考えていた俺は彼女が何を言ってるのか理解できなかった。
『あの時ね、私、あなたから逃げたの。変わっていくあなたをもう見たくなかった。見れなかった。だから1年間休学して、勉強して、違う大学に入学したの。』
そうか、そうだったんだ。
街頭演説。選挙カー。
彼女は今、衆議院選挙に立候補している。
彼女が昔俺に語った、総理大臣になるという夢を叶えるために。
純粋に嬉しかった。
彼女が変わらずにいてくれたことが。
本当に勝手だけど。
『ちゃんと就職したんだね。』
スーツ姿の俺を見て彼女は言う。
『そりゃあ、ね。もう25だし。それなりに生きてるよ。』
『そっか。』
そう言って彼女は笑う。
違う。
俺は否定して欲しかった。君に。
今の俺のこの生き方を。
『笑わないの?』
『笑わないよ。』
彼女は即答した。
何でだよ。
笑ってくれよ。無様だねって。
俺の生き方は間違ってたって。
そう言ってくれよ。
『絹川くんは、特別だと思う。』
想定外の発言だった。
俺は君を笑ったのに。
俺は君を突き放したのに。
皆が浴びせた彼女への言葉。
俺が浴びせた彼女への言葉。
夢は叶わない。
俺は君にそう言ったのに。
『みんな特別な人間なんだよ。』
俺の目を真っ直ぐ見つめてそう言う彼女。
『みんな特別だから、何にでもなれるの。でも、そんな期待も夢も、諦めない強さも、今に見てろって気持ちも飲み込んで、自分の身体を沈めようとする。
まだ動ける手足を縛り付けて。
もう、これでいいでしょうって。』
痛い。
胸が、痛い。
『でも、それで君はやっと生きられた。』
俺の中の何かが崩れる音がした。
間違っていたと思っていた。俺の生き方は。
何度もやり直したいと思った。人生を。
次は決して汚さないから。
次は絶対ちゃんと生きるから。
新しい魂を俺に下さいと何度も空に願った。
だけど俺はちゃんと生きていたんだ。
そういう全ての気持ちの上に、間違いなく俺はちゃんと生きていた。
『賢斗』
俺の名前が彼女の声に乗せられて耳に届く。
懐かしいな、この感じ。
暖かい気持ちになる。
息を吸う音が聞こえた。
『将来の夢、決まった?』
あの時と全く変わらない曇りのない綺麗な目で彼女は俺にそう聞いた。
今ならちゃんと語れる気がする。俺の夢を。君に。
俺は何になりたかったんだろうか。
その答えはずっと俺の中にあったのに。
『俺は、ずっと君になりたかった。』
彼女は俺を真っ直ぐ見つめていた。
『やれるかな。今から。俺。』
少し、怖い。
『格好がつかなくても価値あるものは測れないよ。
だから、夢の真ん中で生きよ。』
彼女は大きな瞬きをした。
『初めまして。今日からこのクラスを担当することになります。絹川賢斗です。
まだ1年目なのでわからないことだらけです。
だからみんなが先生にいろいろなこと教えてね。
よろしくお願いします。』
俺はあの後会社を辞め、大学に入り直した。
教育大学に。
俺がなりたかったものになるために。
彼女と同じように1番前のど真ん中の席で俺は授業を受けた。
周りの若い子たちには20代後半の俺はオッサンに見えただろう。
そのオッサンが1番前のど真ん中の席で授業を熱心に聞いているのだ。
『ダサいね、なんか。』
胸に刺さるような言葉はいくつも浴びた。
だけどそれはきっと彼女も同じだったから。
30歳で教員試験に合格した。
ストレートだった。
『今からみんなには将来の夢について考えてもらいます。
このプリントにみんながなりたいと思うものを書いてね。』
プリントを配布し、教卓の前に立つ。
秒針の音。鉛筆を滑らせる音。
静かで穏やかな時間。
俺は彼女のことを考えていた。
***
選挙当日。
近くの公会堂へと向かう。投票するために。
今まで政治になんか関心がなかった。
たかが俺の一票で何が変わるんだ。
俺が参加しなくても世界はちゃんと回っている。
だけど、そうじゃないんだな。
公会堂に着く。
初めてなので仕様がわからない。
あたふたしていると優しそうなお姉さんが声をかけてくれた。
持ってきた葉書をお姉さんに手渡す。
いつもはポストから取り出すとすぐにゴミ箱へ捨ててしまっていたけど。これ大事なやつだったんだ。
そんなことを考えながらお姉さんに案内されるがままについて行く。
自分の住んでいる地区を口頭でも伝える。
すると投票用紙を手渡された。
ここに名前を書けば良いんだな。
優しいお姉さんに礼を言い、投票箱へ向かう。
投票箱の隣にある机に紙を置き、側に置いてあった鉛筆を手に取る。
顔を上げると、壁には数人の立候補者の名前が書かれた垂れ幕が設置されていた。
この日のために、立候補者全員の公約に目を通してきた。
俺は君にこの国を託すよ。
紙に名前を書く。
今まで書いてきた字の中で、1番綺麗に書けた自信がある。
『頑張れよ』
そう呟き、清き一票を君へ投票した。
***
『先生書けましたー!』
1人の男の子がそう言った。
『じゃあ前の方に提出してください。』
そう指示をする。
男の子がプリントを持って教卓の前までやってくる。
手渡されたプリントを受け取る。
『宇宙飛行士になりたい。』
受け取ったプリントにはそう書かれていた。
『サッカー選手になりたい』
『めちゃくちゃ面白いゲームを作りたい』
『可愛いお嫁さんになりたい』
『プロ野球選手になりたい』
みんなが書いた夢。
一通り目を通した後、俺は彼らに言う。
『みんなが今ここに書いてくれた夢、絶対に忘れないでください。大切にしてください。どれも素敵な夢です。先生は応援します。』
『人はね、なりたい自分になれるの。』
彼女の声が聞こえた気がした。
思わず笑みが溢れる。
そうだ。そうだよな。
大きく息を吸う。
『みんなは、なりたい自分になれます。挫けそうになっても、諦めそうになっても、夢だけは捨てないでください。』
みんなの顔を見渡す。
今、ここにいるみんなが抱いている夢。
これから先の人生、色々なことがあるだろう。
悩み苦しみ足掻いてもがいて、それでもみんなは生き続ける。
彼女が俺に教えてくれたように、今度は俺がみんなに教えるんだ。
俺、やっと君になれたよ。
心の中で彼女に伝える。
もう一度大きく息を吸う。
『君たちの夢は、叶います。』
俺の夢も今、やっと叶ったよ。