シャロ―の約束
赤褐色と灰色のレンガが青空に眩しく映はえる。白い雲は遥か遠く、地面に縫い付けられた自分など見えていないようだ。
「アネスト様、先程から鐘が鳴っていますが・・・」
遠慮がちに申し出るクオの左手には、練習用の剣が握られている。アネストの剣を今さっき軽々と吹き飛ばした剣だ。アネストはしびれた右手を忌々しそうに握りしめながら、グローブに付いている紋を見つめた。
「聞こえてるに決まってんだろー。うるせぇ親父。」
アネストの眉間の筋肉は完全に隣接していた。
芝生を乱暴に蹴って立ち上がると、アネストは鐘が鳴っている棟に向かって歩き出した。さっきから数えて7回目の鐘の音が響くが、徐々に間隔が短くなってきている。決して時刻を知らせる鐘ではない。
剣を拾って振ると、ついていた朝露が芝生に戻っていった。まだ太陽が低い位置にあるというのに、今日という日がどことなく美しくなくなる気がしていた。
「そんなお言葉遣い、いったいどちらで覚えられたのか・・・」
「お前からだろ」
腰を折って鞘を拾う。剣をしまう軽快な音だけが響いた。その剣をぞんざいにクオに投げる。
「行ってくる。」
投げられた剣は、朝日を浴びて一瞬だけ光ったが、それはクオにしか見えていなかった。
「お気をつけて。」
恭しく礼をしたクオの姿を、アネストは後ろ背に感じていた。一つに束ねた漆黒の髪が風に揺られる。襟元を立てていても、まだ薄ら寒い朝だった。
扉の両脇に立っている衛兵は眉一つ動かさない。長時間待たされただろうに、蝋人形でも置いていた方がましじゃないかと思える。
片膝をついて肘を折る。首こうべを垂れた。
「失礼いたします」
もはや目をつむってつぶやくと、目の前のドアが重々しく開かれた。
「アネスト、遠路はるばるご苦労。」
解釈するまでもなく嫌味だ。
開かれた部屋には、国王がいつものように玉座に座っていた。若作りをしているわけではないが若く見える王だ。それが嫌なのかアネストが物心ついたときからひげを伸ばしていた。長く伸びた黒髪を前髪から後ろに一つでまとめ、年甲斐もなく三つ編みにしている。その髪を飾る王冠は好みでないらしく、慣例に反して額に宝石を一つ飾っているのみだ。指にはいくつか宝石をしているが、それも歴代の王に比べれば簡素なものらしい。たしかにこの部屋に飾ってある肖像画を見ると、今の国王は大臣レベルに質素な装いだ。
「遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。国王。」
まだ頭は上げない。そもそもまだ部屋の外だ。見かねた大臣がそっと言葉を寄せる。
「お入りくださいアネスト様。王は初めの鐘からずっとこちらのお部屋でお待ちしておりました。」
最初の鐘が鳴ってからどれくらい経っていただろうか。6つの鐘まではクオと剣の鍛錬をしていたから、ここで待つ必要などないだろうに。
アネストはすごすごと部屋に入りながら、大臣にだけ聞こえるように悪態をついた。
「俺を監視してたんじゃねーの。」
眺望の良さを気に入ってか、王は今までの謁見の間から今の紫水の間に居を構え直した。アネストとしては不服だが、この紫水の間からは道場が丸見えなのだ。最初の鐘が鳴っても無視して剣の稽古をしていた様子を、王が知らないはずはなかった。
「してアネスト、クオには勝てたか。」
膝を折ろうとしてたその時、王はアネストに尋ねた。意に反してぴくっと右眉が痙攣する。それを意地で止めたが、王とそのほか数名の目には留まってしまった。
仕方なくため息と一緒に感情を吐く。
「いえ、国王。クオは国王様の一番の近衛兵ですから。私などにはまだまだかないません。」
少し子供っぽ過ぎたかと後悔したのは、吐ききった後だった。
「本当にお前は・・・。なぁセラヴィよ。」
アネストは反射的にばっと表を上げた。国王がアネストとの謁見の場に、王妃を同席させるのは極めて珍しかったからだ。
「なぜ、母上が・・・」
王妃は国王の向かって右側に、一歩下がってたたずんでいた。絹より麻を好む王妃は、朝日を浴びても控えめに微笑むドレスを着て目を伏せていた。色素の薄い髪がより眩しく感じる。
「アネスト・・・相変わらず母を母と呼び、父を国王と呼ぶのか。」
肩肘ついて国王が足を組む。国王を父と呼んだ記憶などないが、若き国王はそれが長年不服らしい。理由など知らないがアネストはざまあみろと思っていた。
「ジール様、わたくしも王子が来ることを待ちわびていました。どうか本題にお移りくださいませ。」
琴の音色のようだ。幼いころから共にする時間は多くはなかったが、時折寂しさに耐えかねて泣いていると、人目を盗んで寝かしつけに来てくれた母の声は、弦がはじかれる優しい音に似ていた。
「勝ち目のない勝負をクオに挑んでて遅くなっただけだろ?」
直球を超えた嫌味だ。
「まぁいい、今日はなアネスト。そんなお前にとっておきの話があるんだ。大臣、あれをここへ。」
黄金色の宝石をあしらった右手の第3指をわずかに動かし、国王は大臣に何かを持ってくるように命令した。アネストは視線を国王に戻しながら、しっかりと膝をついて話を聞く準備をした。
大臣が濃紺のカーテンの裏に一時きえると、国王はまた肩肘をついて、その上にあごひげを携えた立派な顔を載せて語りだした。
「さてアネスト。お前に“神話”を聞かせたのはいつのことだったかな。」
眉間にしわを寄せてアネストは反射的に返す。
「国王みずから語っていただくなど、恐れ多い体験は記憶にございませんが。」
すると国王は口をとがらせて反撃する。
「そんなはずねーだろ、お前に毎晩語って聞かせただろ、お母様がいいって泣くお前によー。」
「そんな記憶はございませんが。」
表情を変えずに答えたアネストに、国王は口だけじゃなく目も尖らせた。アネストは確かな記憶はなかったが、母に会えない寂しいときに国王が物語を語って聞かせてくれた日が、全くなかったわけではないことを知っていた。
アネストも、この国の創成期の話はよく知っていた。この国民であれば皆が知っている神話である。そのためこの国には様々な神が存在する。戦いの神シャロー。水の神リハルティ。植物の神キワク。繁栄の神ルアンシエ。そして太陽の神エディ。国王に言われるまでもない、アネストの頭の中にも知識としてしっかり入っていた。
「その神話が、いかがしまし・・・」
奥に引っ込んだはずの大臣が、輝かしい剣を持ってアネストの前に戻ってきた。鞘に見たこともない大きさの宝石が一列に並んでいる。何色とも例えがたい、7つの宝石。その宝石が並んだ先に、紫の柄が飛び出ている。剣の鍛錬をしているアネストには、その使い勝手の良さが瞬時に感じられた。あの柄、握ったらどんな感触になるんだろうか。
その剣を大臣から受け取った国王が、目を奪われているアネストの表情を見てにんまりとした。マントを翻して立ち上がると、アネストの目の前に立つ間にその剣を抜いてみせた。聞いたこともない美しい劈音が耳をかすめる。アネストはあふれだす流涎りゅうえんをこぼさないよう、必死にのどを鳴らして飲み込んだ。
現れた剣身は捌かれたばかりの果実のように光り輝いていた。王がかがんで見せると、アネストの視界は剣の輝きでいっぱいになった。
「これがなんだか分かるか?アネスト。」
朝日の差し込む紫水の間に、その光をはじいた虹がかかったようだった。あまりの光景に息を吸えずにいると、待つ気のない国王はフンと鼻を鳴らし、息子を無視して言葉をつづけた。
「そう、この剣こそが、戦いの神シャロ―から譲り受けた剣だ。」
まるで酔いしれるその言葉を、アネストの脳はスローモーションのように取り込んでいった。
「な・・ぜ・・・そのような剣が・・・ここに・・・」
戦いの神から譲り受けた力が、剣の形をしていることは神話でも言われていた。見たこともない美しさだったが、不思議とその美しさに驚きはなかった。しかし驚いたのは、その剣が“実在していた”ことだ。
目を奪われているアネストの姿に満足したのか、国王はマントの音を立て立ち上がった。鞘に剣を戻すと、その剣をまた大臣に預け玉座に踵を返した。
「してアネスト。今日の話はだな。」
隣で王妃は不安そうに眉をひそめていた。あの頃から比べて大きくなった息子が、変わらず目を輝かせている。その様子を楽しんでいるかのような国王は、一体どのようなお気持ちなのだろうか。
「この剣を、お前にな、届けてほしいんだ。」
神官も喉を鳴らして驚くほど、いつになく優しい声だった。
アネストはやっと冷静になった。国王の言い方があまりにも腹正しく感じたからだ。
「・・・は、届けるとはいったい・・?」
必死に喉の奥から絞り出した声は、大臣をもヒヤヒヤさせた。その反応をただただ楽しむのは国王一人。あろうことか肩をすぼめておどけてみせた。
「そのまんまだよ。」
「届ける、のでございますか?」
「そうだよ。」
「わたくしが?」
「あぁ。」
「だれに、で・・・ございますか・・・?」
アネストは出来るだけ平静を装った。この国王の前で、取り乱した姿を見せたくないという意地が働いたのかもしれない。そんなアネストを首だけで見て、国王はますます笑みを深めた。
もったいぶって話すのはこの王のくせだ。いつものことだろう、とアネストは自分に言い聞かす。
「やっとまともな質問だな、アネスト。」
玉座までたどり着いた王は、装飾の施されたひじ掛けをそっと撫でた。
あぁ、その一挙手一投足ももどかしい。
「決まってんじゃねぇか。」
そうしてどかっと玉座に座り込んだ国王は、今一度肩肘をつきなおして口角を上げた。
「戦いの神、シャローにだよ。」