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美女と魔獣

作者: 海洋ヒツジ

ディズ○ーのアレではないですよ。

 触らぬ神に祟りなし、と言うが、大陸北のマルデュー地方ではもっぱら、触らぬ魔獣に災いなし、という言葉が使われる。

 唯一神への信仰は衰えてはいないが、人と魔物の戦争が終結した後に囁かれたのがその言葉であった。

 歴史評論家曰く、両陣営に甚大な被害をもたらした戦争という災いは、魔獣の強大な力を恐れた人が無用な殺戮をしなければ起こることはなかった、と。

 またマルデュー地方のポワト村には、別の言葉が流行っている。

 触らぬヴィエラにげんこつなし。

 ヴィエラというのは娘の名。村で一番の美女という噂であった。




 豊かな大地を流れる川に寄り集まるようにして建つ木組みの家々。こうした光景はあまりにも自然で、道行く旅人ならば寝床を見つけたと安心し、馬車を引く商人ならば商売の匂いを嗅ぎ取るだろう。

 どこもかしこも穏やかな空気が流れるポワト村に、ひときわ悲愴な鳴き声と、凶暴な美声が聞こえる。


「ひいっ、許してください~。後生ですからぁ~!」

「ダメ。アンタが村のみんなを騙そうとしたこと、私は許さない。だからとりあえず私に殴られて、それからみんなに謝るの」


 上質な布地の服を身にまとった男は村の人間ではない。都会風の着こなしは遠い街のものだが、服装の割には腰が引けている。

 まるで命乞いでもしているかのよう。

 しかし男の前に立っているのは一人の娘。それもとびっきりの美貌だ。


「みんなが優しいからって、その優しさに付け込んだりして……危うく下らない取引を信じるところだった」


 男は村を通りかかった商人で、村に豊富に実るプレーグの果実を見ると取引を求めてきた。そのプレーグを、馬車に大量に積んだツキミウサギの皮と交換してくれ、と。

 ツキミウサギは月の光のような色合いの毛を持つ動物で、希少で上質なその素材は市場でも価値が高い。

 しかし男が持ち出したのはノウサギの皮に色を塗ったもの。それをツキミウサギの皮と偽った詐欺だった。


「あんなのはほんのジョークですよお。かる~いジョークです。いやあ、いつ気づいてくれるかなって思いましたよ。ほら、笑うところですよ? あはははは~」


 年若い男は、さらに年下の娘に手を揉んでいる。

 娘のこめかみに青筋が浮き出た。


「笑ってると舌を噛む。あとそれ以上は何も言わない方がいいよ」

「え?」


 男の表情は固まったまま、娘の形相を見た。

 じろり、と男に向けられた気だるげな目の奥には火が宿り、変化の少ない表情には冷たさがある。


「言い訳なんてされたら、多分もっと痛くなっちゃうだろうから」


 蛇に睨まれた蛙。そんな言葉がぴったりの構図が、ここに出来上がった。


「チャ~シュ~……」


 謎の言葉を紡ぎながら娘は拳を振り上げる。男は拳を見上げるばかりで、動くこともできなかった。


「メンッ!」


 振り下ろされた拳は男の頭頂部をガツンと打った。

 男は衝撃で地面に倒れ伏し、そのまま動かなくなった。意識を失ったのだ。

 男を殴り倒したポワト村の美女ヴィエラは振り返って、一部始終を見ていた村人に向けて二本の指を立てた。


「ピース」




 悪いやつはぶったたく。それがヴィエラの流儀だ。


 ポワト村に生まれて十六年。美貌もさることながら、腕っぷしも人一倍強い彼女は、彼女の仲間に危害を加えるものを片端から殴って黙らせてきた。

 身の回りの大事なものを守るため。

 今回の悪徳商人のような人物を殴ったのは、今までにも何度となくある。


「申し訳ありませんでしたぁー!」


 そして改心した人間は謝罪の言葉を叫び、逃げるように村を離れていく。

 ヴィエラと村の人々は、馬車を引く男を後ろから見送っていた。


「おととい来やがれ」


 無機質な声で言い捨てる。ヴィエラは美しいと評判だが、感情表現に乏しいのが玉に瑕だった。


「ヴィエラねーちゃん、カッケー!」


 子供たちに囲まれてはやし立てられるヴィエラは鼻を高くして得意げ。噂に聞く勇者にでもなったかのよう。

 善いことをして褒められるのは、実際気分が良かった。


「またげんこつ一発でKOかよー。どんな鍛え方してんだ?」

「魔物にだって負けなしなんでしょ? すごいなぁ。ぼくもねえちゃんみたいになりたい」

「チャーシューメンってどういう意味?」


 質問攻めにあうヴィエラはそれを鬱陶しいとも思わず、順番に子供たちの頭を撫でていった。

 腕白盛りの少年は頬を赤くして大人しくなり、お転婆少女は可愛らしい小動物のように嬉しがる。


「教えてあげようか」


 ヴィエラが言うと子供たちの顔にはわっと歓喜があふれ出た。


「ヴィエラ」


 そんな時、子供たちの中心にいるヴィエラに飛んできたのは、彼女の父親の声。


「なあに?」

「あまり調子に乗るのは止めなさい。子供たちをその気にさせちゃいけない」


 父親の声には厳しさがあり、叱りつけるかのようだった。

 あれ、どうしたんだろう。ヴィエラの中には疑問が生まれる。どうして自分は咎められているのか。


「調子に乗ってなんかいないよ」


 高くなっていた鼻を慌てて引っ込める。


「父さんも見てたでしょ。今日も悪者をやっつけたよ」

「お前もいい加減年頃なんだから、節度を覚えなさい。見境なしに殴ったりするのはいけないよ」

「見境なくない。私が殴るのは悪いやつだけだよ」

「それを見境なしと言うんだ」

「どうして?」


 自分のような娘を叱りつける時のお決まりの言葉はヴィエラにも分かっていた。

 もっと女性らしく。お淑やかに。そうでないと嫁入り先が見つからないぞ。世の親は子供の幸せを考えるがあまりに、振舞いを人並みに矯正しようとする。

 今もそういうことを遠回しに言おうとしているんだな。暴力はいけないとかそれらしい注意をして、最終的には結婚の話に流れていくんだろうな。

 話を聞く前から、ヴィエラはうんざりとした気分になっていた。


「いいかい。誰でも彼でも悪いと決めつけて殴る、なんていうのは…………」


 父親の声が途切れて続かない。見ると父親は顔中から汗が噴き出しており、その量は異常だった。


「父さん、だいじょう……ぶ……?」


 目の前で糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。


「父さん? どうしたの?」


 ヴィエラが駆け寄って抱き起すと、父親には息があったが、話ができる状態ではなかった。

 そして父親だけではない。周囲にいた村人たちも、子供たちも、次々と倒れていくのが目に入った。

 先ほどまで正常に生活をしていた人たちが、ふと魂を落としてしまったかのような不気味さ。

 村のほとんど全員が、今や地面に伏している。


「そんな。何が起こって……」


 ヴィエラは自分の状態を振り返ってみる。倒れるほどの異常はない。だが少し気怠い。

 何も分からない。何も理解しないまま、あまりに早く、ポワト村は正常でなくなってしまった。

 静まり返った中で呆然と立ち尽くす。その時、どこかから呻き声が聞こえた。

 すぐに声があった方へと走る。馬車の方向、御者台からその声は聞こえていた。


「アンタも。大丈夫なの?」


 ヴィエラはつい先ほどに別れた商人の男を揺する。


「大丈夫とは言えませんねぇ。これはひどい呪いだ」

「呪い? 何か知っているなら話して」

「へいへい……。これは、まさしく呪いです。風の噂で、聞いたことが、あるんですよ。こういう、体の力を根こそぎ抜かれるような、恐ろしい呪術があるって。術の中に入れば最後、体の中身が空っぽになるまで、吸われ続ける……」

「それならどうして私だけ平気なの?」

「それは、ほら、お嬢さんはまるでゴリラみたいに、たいそう体が丈夫に見えますから、呪いにかかっても、多少は堪えが効くのでしょう……へへ」


 直接的にヴィエラを人間以上の生物と罵っているのだが、ヴィエラは気にしない。

 単純な彼女は、褒め言葉とさえ受け取っている。


「呪いをかけたやつを知ってる?」

「いえ……」


 男は大きく呻いた。口を開く限界が近づいているようだった。


「あぁ、因果応報かなぁ。それとも、この村に来たのが、既に、運の尽きってこと、だったのか。笑えるねぇ……アハハ」


 渇いた笑いを最後に残して、男はぐったりとうなだれた。


「それを決められるのは、どうやら私らしいね。全く、不本意だけど……」


 男を横たえ、ヴィエラは村の外へと歩き出した。




 ポワト村から一番近いところにある森林地帯には魔物が多く棲みついている。

 人と魔物は相容れぬ関係。それはずっと昔からそのままで、戦争が終わって何十年が経った今では、互いの住処を明確にすることで接触を防止している。

 無用の争いを避けるため。両者ともに二度と戦争は望んでいないはず。

 少なくとも人間の方では、大勢がそう思っている。しかし、


「どうせ、今回も魔物の仕業だよ」


 魔物が棲む森。いわば、ヴィエラたちにとってのポワト村に挨拶もなしに踏み入る。

 ヴィエラはすぐさま襲われると警戒したが、いくら歩いていってもその気配がない。


 むむ、おかしい。


 ヴィエラが森を訪れるのはもう何度目かのこと。交渉もなしに踏み入ろうとすると、いつも見張り役に攻撃されるものだが、今回は奥まで進んでも攻撃がない。生活の息遣いも感じられない。

 怪しいとは思いつつも足を動かす。そうして彼女の目の前に、ようやく魔物が現れた。

 ぐったりと横たわった、犬の姿をした魔物だった。


「ちょっと、アンタ」


 呼びかけるが、犬の方からは返事がない。


「ねえったら。聞こえてないの?」


 お昼寝中なのかな、とヴィエラは思った。

 それにしても、気配のない森に、倒れ伏した魔物の姿は、どこかポワト村の状況と似ているような。

 不安を覚えたヴィエラが歩み寄る。すると犬は薄く目を開いた。


「あ、起きた」


 ヴィエラの声に反応して、犬は気怠そうに視線を向ける。


「むにゃ……」

「ねえ、この森どうなってんの? どうして他の魔物が出てこないの?」


 てっきり森に棲む魔物がポワト村に呪いをかけたものと思っていたヴィエラだが、この森の様子はおかしい。

 予想は、もっと大規模なものに変わっていた。


「人間……」

「うん、そう。だけど今は急いでる。早いとこ知ってることを教えて。さもないと……」


 ヴィエラは唯一の武器である拳を振り上げて見せた。次の瞬間にはこれを頭に落とすぞ、という脅し。


「わわ、待った待った!」


 犬は跳ね起きて後ずさった。

 俊敏な動きに、ヴィエラは少しだけ感心する。


「何てことだ。美しい乙女がモーニングコールをしてくれたと思ったら、人畜無害な犬に拳を振り落とす虐待趣味をお持ちとは。さては魔物だな!?」

「人間だよ。魔物はあなた。ちゃんと鏡と現実を見て」

「む、そういえば両方ちゃんと見たことはなかったよ。いいアドバイスをありがとう。それで、人間が何の用?」

「あのね……」


 ヴィエラは呆れながらも、犬に自分の村で起こったこと、そしてこの森でも魔物の姿を見かけないことを話した。

 話を聞いた犬はしばし考えて口を開く。


「ふむ、確かにその村とこの森の住民は同じ呪いにかかっているようだね」

「やっぱりかぁ」

「ところでぼくは通りすがりだけれども、この辺でそういう呪術を使うやつに覚えがあるよ」

「マジ? 教えて」


 一も二もなく飛びつくヴィエラ。あまりに素直な反応に、犬の方が困惑する。


「……信じてくれるのは嬉しいんだけどね。なんでそんな都合よく知っているんだとか、そもそもなんで呪いの中で平気なんだとか、疑いを挟むのも大事だと思うな、ぼく」

「なるほど、言われてみれば確かに」


 ヴィエラは言われた通りに真剣な面持ちで考えて、考えても分からないので思考を放棄する。知的に見えるのは格好だけだ。


「分かんない。分かんないからとりあえず信じとく」

「あ、そう」

「大丈夫。嘘つくやつは悪いやつ。その時はぶっ飛ばすから」

「あったまいい~」


 犬の皮肉はさておき、ヴィエラは容姿だけならば貞淑(ていしゅく)な令嬢に見えなくもない。故に他人の目からは知的に映ることがままあるのだが、実際はその逆。

 人間は恐ろしい魔物を見ると逃げ出すが、彼女は思考を前に撤退するのだ。


「さて、この辺にいる呪術使いと言えば、それはこの地域の魔物を治めるボス。ドンタックだ。かの魔獣がこの事態を引き起こしているのに違いないよ」

「ドンタック……知り合いなの?」

「ちょっとした、ね。そうでなくとも、魔物の間じゃあ知らないやつはいないよ。何せ昔の戦争の生き残りだからね」


 人と魔物の戦争は約七十年前に起こった。人間の中でもかつての戦争を経験しながら現在も生きている者は多くいる。人間より寿命の長い魔物ならばなおさら。

 そして戦争において魔物の軍を率いていた者は、獣の姿をしていたという。

 魔物の中でも魔獣とは畏怖(いふ)の対象なのだ。


「そんなやつが同じ魔物まで呪いにかけているのはどうして?」

「魔物にも色々あるんだよ。派閥ってのがね。ドンタックとその周りの連中はもう一度戦争を起こしたい。人間を押しのけて魔物だけが支配する世界を作りたいんだ。一方で森に棲む連中は現状維持を望んでいた。人間と魔物が上手く住み分けできている今の世界に満足していた。ドンタックにとっては、そういう魔物も邪魔になるんだよ」

「え? え?」

「同族のために犠牲を払うなんて愚かなことだ。戦争を望む声なんて、そう多くはないはずなのに。……強大な力が、何でも為してしまえると錯覚させてしまうんだ。だから彼の元に魔物が集まる。間違ったことも正しくしてしまえる。力があれば、正義さえも奪い取れる。おかしいよね」


 はばつ。戦争をおこしたいやつと、そうでないやつ。まものにもいろいろ。戦争のはなし、むずかしくてきらい。


 この時点でヴィエラは頭が回らなくなり、代わりに目を回していた。

 混乱するヴィエラに犬は首を振る。


「……つまり、ドンタックをどうにかすればみんなを助けられるよ」

「オッケー理解。じゃあ行こう」


 単純明快な目的を得たヴィエラは立ち直り、そのまま引き返そうとする。


「待った! きみはドンタックの居場所を知らないでしょ?」

「うん。でも勘だけはいいから」

「不安だなぁ。……もしよければ、ぼくが案内しようか」

「え、いいの?」


 犬は尻尾を振って「もちろん」と返す。

 思わぬ道連れにヴィエラは少しだけ顔をほころばせる。犬とはいえ、仲間ができるのは心強いものなのだ。


「それじゃあよろしく。私ヴィエラ」

「ぼくはセト。呪いを解きに行こう!」


 ヴィエラはセトに向かって手を伸ばす。

 セトはどうしようかと迷って右往左往した挙句、彼女の手に前足を乗せた。

 親愛の証のつもりが、主人と飼い犬のような構図になっていることを、まるきり彼女は気にしなかった。




 森を離れてポワト村とは反対方向の道を行く。しばらく歩いた後に道を外れ、山間部に秘されるようにしてできた洞穴へ辿り着いた。

 一日かけて歩き通し、時間は夕刻。


「魔物が寝静まる深夜まで待とう。見張りさえ何とかしてしまえば楽に進めるはずだよ」


 そのままドンタックの元へ突っ切ってしまいたかったヴィエラだが、ここはセトの助言に従った。

 呪いが命を奪い尽くすのは明朝(みょうちょう)らしい。それまでに術者たるドンタックをどうにかすればいいとのこと。村人のためにも万全を期すことに異論はなかった。

 それに戦略などを考えるのは苦手なので、自分より頭の良さそうな人物の言葉には従うヴィエラだ。

 もっともセトは犬なのだが。


「随分と辺鄙なところに住んでるんだね、ドンタックってやつは」


 洞穴から離れた山中に紛れ、木に生っている赤い果実をかじるヴィエラ。


「あんまり人目には付きたくないんだよ。彼が生きていることは魔物には知らされているけど、人間の多くは知らないからね。そうして隠れて、反撃のチャンスを待っているのさ」

「地道に頑張ってるんだね」

「彼が聞いたら喜ぶよ。昔から研究熱心だったけど、あまり他の魔物に認められることがなかったからね。ぼくも呪いはちょっと悪趣味かなって思うよ」


 どちらにせよぶっ飛ばしちゃうんだけど。


 ヴィエラが赤い果実をもぎ取り、セトへ放り渡す。

 果実を咥えたセトは、ヴィエラがおいしそうに頬張る姿を見て判断したのだろう、がつがつと喰らうが、


「青臭っ!」


 すぐに吐き出してヴィエラを睨んだ。

 よくこんなものが食えるな、という視線には構わず、果実を頬張りながらヴィエラが言う。


「セトは私に協力して大丈夫なの? 人と魔物が一緒に居るのって、良くないんでしょ?」

「そんなの気にするもんか。ぼくは人と魔物が手を取り合えたらいいって思うよ。平等に、力なんて持たず。それが何よりいいに決まってる」


 ヴィエラの視線の先にセトが立ち、真っすぐに目を合わせてきた。開いたまなざしは、ヴィエラに訴えかけるかのよう。


「きみは魔物であるぼくに声をかけて、話をしようとしてくれたね」

「そうだったかな」

「ヴィエラ、お願いだ。きみは強い力を持っているけど、それは一番最後まで取っておいて、なるべくなら使わないでくれないか」


 力を使うな。すなわち拳を用いずしてドンタックを説得しろということ。

 今まで拳で悪い人間や魔物を黙らせてきたヴィエラには理解できない解決方法だった。


「どうして? 一発ぶっ飛ばして謝らせれば簡単じゃん」

「それはいけないことなんだよ。簡単に見えるけど、そこから難しい問題が広がることもある。だから、どうしてもって時以外には使っちゃいけないんだ」

「ドンタックがいきなり殴りかかってきたら?」

「それがどうしてもって時だ。力で迫られた時は、力で返すしかないからね。逆に、きみが力を使えば、相手も力を使うしかなくなるんだ」


 頭の良くないヴィエラだ。果たしてセトの言葉の意図が理解できたかどうか。

 話を聞いた後もなお、うーんと首を捻るヴィエラだった。


「くれぐれも頼むよ」


 とにかくドンタックを殴ってはいけないらしい。どうして殴っちゃいけないかは分からないけれど。

 何とか理解の終着点に行き着いて顔を上げた時、セトの姿は消えていた。




 日は落ちきって、明かりのない山道には不気味さだけが募っている。

 山には野生の動物と魔物が入り混じって生息しており、そこを通り抜けようとするにも危険が伴う。まして棲みつこうなどと。

 例の洞窟の入り口には槍を持った豚鼻の魔物が二体立っており、暗くなってからは火を起こして燭台(しょくだい)を灯していた。見張りなのだろうが、いかにも警戒が緩んでいるような抜けた顔で、飽き飽きとして見えた。

 茂みに身を潜めて見ていたヴィエラはどうしようかと思案したが、やはり策を練るのはヴィエラに向かない。豚鼻の顔を見つめるうちに眠たくなる始末だった。


 考えるのは苦手――もういい。


 頭を悩ませるのは早々に打ちきり、立ち上がって豚鼻に近づいていく。

 燭台の明かりに照らされたヴィエラは、当然の結果として見張りに気づかれるのだった。


「お前、怪しいヤツ! そこで止まれ!」


 魔物の声など聞こえないとばかりに距離を詰めるヴィエラ。

 仲間を呼ばれる前に殴り倒しちゃえば問題ないじゃん。そんなことを考えて――。

 突然、豚鼻の手から槍がするりと落ちた。


「む?」


 疑問を表したのはヴィエラ。手も触れていないのに彼女の目の前で膝をつき倒れ伏し、そのまま眠りこける二体の豚鼻を、黙って見つめる。


「どういうことだろ?」


 周囲には他の誰の姿もない。自分だけが平気で立っている。

 何が起こったかはてんで分からないが、ヴィエラにとって都合がいいことは確か。


「ま、ラッキー」


 その一言で済ませ洞穴の奥へと入っていく。

 洞穴は大きな一本道に細い脇道がいくつも分かれていく形で続いていた。魔物は就寝中のようで、その姿を見かけない。


 この分だとドンタックも寝てるかも。それなら話も早いんだけど。


 ヴィエラは期待しつつ、大きな道を歩いていく。脇道には目も振らない。

 そのうちにひらけた空間に行きあたる。

 奥の壁には赤色の円形模様が描かれ、禍々しい文字がその隙間でわずかに光っている。

 大きな壺がそこらに置かれ、その一つ一つが妙な臭気を放つ。中からは崩れかけの骨やら腐肉やらが見えて、不気味以上に怖気(おぞけ)を喚起する。

 いくつか壁と同じ模様が描かれた壺もある。壁から飛び出た管が後ろに繋がっているようだ。

 「勘だけはいい」とは事実だったのか、そこは間違いなく諸悪の根源となる部屋。

 壁面の前には羊の頭をした大柄の魔物が佇んでいた。


「くさっ。だけどビンゴ」


 隠れようともせずに部屋の中央まで進み出る。敵地の奥で、もはや身を(さら)さずにいようとは毛ほども思っていなかった。元凶を前にしてはなおさら。


「アンタがドンタック?」


 壁に向かいぶつぶつと呪詛を紡いでいた魔物は、ヴィエラに振り返る。紫紺(しこん)のローブが翻り、人間と同じ四肢が露わになった。


「如何にも私がドンタックだがね。その名は人間に忘れ去られて久しい。物知りな人間の娘、貴女の名は?」


 老獪(ろうかい)な羊ドンタックは、羊のメエと鳴くような声を重々しく響かせる。

 重圧に負けじとヴィエラは声を張り上げた。


「ヴィエラよ」

「して何用かね、ヴィエラ」

「何用かね、じゃない、この根暗呪い野郎。みんなを眠らせたやつがこんなヒツジ頭だったとは。そりゃあよく眠るわけだね」

「随分と威勢のいい娘よ……ふむ、ここら一帯の土地ごと呪ってやったのだが。まさか生身で抜けてきたのか?」

「あったりまえ」


 自慢するように腕を持ち上げてみせるヴィエラに、ドンタックは笑い出した。

 メエメエメエ。


「なに」

「いや、これは失敬マドモアゼル。実は貴女の気配は感じ取っていてね。ここまで来るほどの人間だ。どんな加護を身に付けた勇者かと想像していたら、これはまた……」


 顔こそ美しいが、姿は田舎の村娘。そんなヴィエラをしげしげと見つめるドンタック。


「非常識。規格外。力の塊だ。これほどならば……」


 ヴィエラは穴が開くほど見つめられて、徐々に苛立ちが溜まっていた。

 このまま殴ってしまおうかとも思った。しかしセトの言いつけは忘れていない。


「友達に免じて、アンタは殴らないでおいてあげる。でも話を聞いてくれないのなら、どうなるか分からない」


 ぶつぶつ言っていたドンタックは顔を上げた。


「それは恐ろしい。では聞こう」

「呪いを解いて。今すぐ」

「出来かねる」


 あっさりとドンタックは撥ね付ける。ヴィエラにもこの答えは予想できていた。

 そもそもこっちの願いを聞いてくれるやつなら、呪いなんて使わないだろうし。こんな時、拳で一発ぶっ飛ばしちゃえばすぐに解決できるのに。


「タダという訳にはね。こちらも前々から準備していた大掛かりな仕掛けだ。どうしても、と言うなら、それにつり合う条件を提示させてもらう」

「条件?」

「ああ。私の欲しいものを頂けるのならば、引き換えに呪いを解こう」


 意外にもドンタックは交渉のテーブルを自ら用意した。


「言ってみなよ。私に用意できるものなら、頑張ってみるから」


 ドンタックの手が壁の赤い模様をなぞる。


「私には力が必要なのだ。今や失墜し、お隠れになった王に捧げるための力が。莫大な量だ。ここら一帯の生命の持つものを呪いで吸い上げてもなお足りん。しかし……」


 その目の怪しい輝きは、ヴィエラに止まっている。


「貴女の力を提供してもらえるのならば、私の目的は一挙に達成される。その身を差し出すがいい。されば呪いを解こう。いかがか――」

「いいよ」


 二つ返事で答えるヴィエラ。その迷いのなさは、果たしてドンタックの言葉を理解しているのかどうか。

 ドンタックすらも口を開けて固まっている。


「私がここに残れば、村のみんなは助かるんでしょ? ここは臭いし、みんなと会えなくなるのは寂しいけど、それで助けられるのなら安いもの」

「そ、そうか。ならばその身をこちらへ。事が済み次第、呪いは解除しよう」


 ヴィエラはドンタックの元へ行こうと踏み出す。

 すなわちヴィエラの有り余る力を取り出して、ヴィエラ自身は抜け殻同然になるということだが、それを彼女は想像していない。

 しかし、別の部分に彼女の想像力は回った。


「ん? 私が力ってやつを差し出したら、私が悪者の手助けをしたみたいじゃん」

「……何を言っている?」


 戸惑いを隠せないドンタックをよそに、ヴィエラは頬に手のひらを当てて考え込む。

 たっぷり一分間はそのままの姿勢だったろうか。やっと解を得たようで、待ちくたびれていたドンタックに顔を向ける。


「うん、そうだ。やっぱり駄目だよ。この取引は無効。ノーカンね」

「答えを翻すのか?」

「そんな感じ。要するに、魔物の王様にあげる力を集めてるんだよね? でもそんなことしたら、魔王様が復活しちゃうじゃん」

「そうだな」


 今さら気づいたのかという呆れ顔のドンタック。

 ヴィエラの頭の巡りの悪さには、周囲の者をして絶句させる威力がある。


「それってつまり、また戦争が起こるってことでしょ?」


 人間と魔物が対立して起こった、大昔の戦争。

 歴史は常に繰り返す可能性をはらんでいる。ならば、魔王の復活は戦争の再現への大きな一歩となり得る。


「戦争は起こるだろう。しかしそれは世の理というもの。王の帰還、戦争の勃発、それらは別々の事柄だ。力を巡って、あらゆる種族は争うものなのだから」


 人の営みに争いは欠かせない。平和な世が訪れたとしても、それはつかの間のこと。

 土地を、権力を、資源を、自由を。足らねば求める。求めれば争う。強大な力を中心にして、争いは世を呑み込む。


 力とやらを差し出せば村のみんなは助かるらしい。でもその代わりに魔王が復活してしまう。そうなれば間違いなく戦争は起こる。じゃあどうしろって?


「うぅん、むずかしい。むずかしいけど、アンタがろくでもないことを言ってるのは分かる。とにかく、さっきの話はナシ」

「話はナシ、と。それはつまり、話し合いをやめる、という意味かな」


 ドンタックの目が輝きを失い、ヴィエラを警戒するように睨む。

 呪いが無事に解け、魔王が復活せず、さらにはヴィエラ自身も村へと帰ることができる方法。

 ヴィエラにはやはり、一つしか思い浮かばない。


「そうだね。私にはやっぱり難しいことは分かんないし、アンタが悪いことのために力を集めようとしているのなら、止めないといけない……いちばん分かりやすい方法でね」


 ヴィエラが拳の関節を鳴らしながらドンタックに歩み寄る。一寸の狂いなく、近づいた瞬間に拳をたたき込めるように。


 悪いやつはぶったたく。


 ヴィエラが両の拳を構えて駆けた。長い丈のスカートを気にもせず、間合いを詰めていく。

 ドンタックの目が敵意を示す赤色に光った。


「憐れなりしヴィエラよ。ここが呪殺のドンタックの工房と知っての無礼か……! ならば(とろ)けるように死に晒せ!」


 部屋中の壺が割れたかと思えば、そこから一際異臭を放つ赤い煙があふれ出て部屋を覆った。

 一歩も引く用意のなかったヴィエラはたちまち煙に包まれる。

 ヴィエラはくらりと視界のずれを感じた。


怨嗟(えんさ)の呪毒……百年分の呪いは、人には重いかね」


 耳に届くドンタックの声は、どこか遠い。

 全身の感覚がなくなり、痺れて動けなくなる。腐りきった臭いは、吸い続けると脳を蕩かす麻薬。心身ともに昏迷して、霧に紛れるような、眠りと間違う死にざま。

 ヴィエラはそれを我慢した。


「ミソネギピリカラヤサイノホンカクチャ~シュ~……」

「……あり得ぬ」


 まったく衰えのない足取りでヴィエラは駆け抜け、ドンタックの眼前へ姿をさらす。


「メンッ!」




 ヴィエラは帰りを急ぎ山を降りた。

 一刻も早く村人の元気な顔を見たいと思った。

 洞窟から出る時も、異変を嗅ぎつけた魔物が邪魔をしたが、殴り飛ばしながら進んでいった。


 どうせみんな悪いやつだから。


 山道の終わりに差し掛かったところで、ヴィエラの前に一匹の魔物が現れた。


「やあ」


 言葉を操る犬は、山の中で姿を消したセトだ。ヴィエラを阻むように立っている。


「しばらくぶりだね。元気そうだ」

「セト。また会えてうれしいけど、今はそれどころじゃない」

「呪いなら解けたみたいだよ」


 ヴィエラは驚き、そして胸をなでおろして一安心。もしも呪いが解けていなかったらと考えて、気が気ではなかった。

 ドンタックは滅びた。全力の拳を身に受けた彼は、昔の戦争から現在まで生き延びてきた執念ごと打ち砕かれた。

 元凶が消えたことで、呪いも効力を失ったのだ。


「そっか」

「でもきみは、ぼくの頼みを聞いてくれなかったね」


 ヴィエラはぎくりとした。今の今までセトとのやり取りが頭から抜けていて、急に思い出したのだ。


 力を使わないでくれないか?


 そうあってくれと願うかのようなセトの顔を。


「それは、あっちが先に手を出してきたから、私も仕方なく――」

「違うよ。先に暴力に訴えかけようとしたのはきみの方だ。きみが話し合いのテーブルをひっくり返して暴力を行使する気配を見せて、ドンタックはそれに応えた。どっちもどっち、困ったことだよ」


 話し合いやめるか、と聞いたドンタックに、ヴィエラはこともなげに肯定を返した。

 話をするか、戦いをするか、その分かれ道が、そこにはあったというのに。


「アンタ、全部見てたの?」

「……言ったじゃないか。どうしてもって時以外は使っちゃいけないって。あの場面は、まだ力が必要な局面じゃなかったっていうのに。簡単に力を持ち込んで、相手を従わせようとしたんだね」


 セトが口を開くたび、ヴィエラに鋭利な刃物を向けるかのようだ。

 決して悪意を以って拳を振り上げたわけではない。あの時も、今までも。ただ自分の正義を押し通そうとしただけ。しかしそれは暴力にものを言わせただけの、この上なく傲慢な行いだったのではないか。

 セトは厳しく指摘してくる。


「力を使うこと自体は悪い事ではないんだよ。きちんと考え抜いたうえで使うのなら。でもきみは、ようく考えたかい? 相手の事情を思ってみたかい? それ以外の道を、探そうとしたかい?」

「どうして、私の力は使っちゃいけないの?」

「きみの力は強くて、どんな悪いやつでもぶっ飛ばしてしまえるよね。今回みたいに村の危機だって救えてしまえる。きっと、もっと大きなものだって救えるだろうね」

「いいことだと思う」

「ぼくには危ないように見えるよ。ぼくたち魔物は、そういう存在が一番怖い。こちらが通そうとした正義を、きみの正義は簡単にへし曲げてしまえるから」


 ことは人と魔物の話だ。セトは魔物を代表するかのように主張する。怖い、と。

 人と魔物は相容れない。互いが相手を常に恐れ、(うと)んでいるのだから。

 両者が歴史の中で争いを繰り広げたのは一度や二度ではない。


「きみが力を使って正義を押し通せば、何が起こると思う?」

「……分かんない」

「感謝はされるだろう。きみが守ったものは誰かの幸福だ。でも恨まれもするだろう。きみが蹂躙(じゅうりん)したのも誰かの幸福だ。きみの活躍を聞いた人は? きみを良く言うやつもいるだろう。きみを悪く言うやつもいるだろう。きみを利用しようとするやつもいるだろう。きみを打ち倒そうとするやつもいるだろう」


 どんな正義でさえ、別の悪意を生み出しかねない。光あるところに闇は生まれる。光が巨大であれば、闇もまた大きく、容易に周囲を巻き込む。

 ヴィエラの考えはそうしたことにまで及ばない。誰よりも強い腕っぷしを、彼女は気ままに使ってきたのだ。元より後先を考えて行動する性格でもない。


「きみの力に理想を見るやつもいるかもしれない。きみの力は絶対的な正義だ。自分達に都合の悪いものを黙らせることだって可能だろうから。それは例えば……魔物とか」

「買いかぶりすぎ。セト、私はそんな大げさなことに手を貸すつもりはないよ」

「きみがそのつもりでいても、どうにもならない流れっていうのはあるんだよ。きみの力はやがてきみだけのものじゃなくなる。大きなものにみんなは夢を見て、きみの力はそのために使われる……そういう流れが、かつてあった」


 自らの言うことを、セト自身が見てきたかのような口ぶり。

 知ったような彼の態度は、少しばかりヴィエラを苛立たせていた。


「あんまり難しい話は嫌い。悪いドンタックを倒して、ポワト村も無事で、めでたしめでたし。それでいいじゃん」


 ヴィエラには理解できない。いや、理解しようとすらせず、この話が続いた先から目を逸らしているようにも見える。

 彼の言葉を半ば分かっていながらも、結論付けることを恐れている。

 正義と悪が絶対的な、単純な世界を望んでいる。

 悪を叩き、正義を守れば、みんなが幸せになれると思いたいのだ。

 ヴィエラは頭が良くはない。


「それはダメだと言っているのに……どうしてもきみは、暴力に逃げたいらしいね。力を振りかざすことに味を占めちゃったのかな」


 セトが言ってうつむく。失望し、深く長く沈み込む、沈黙の間。

 冷たい夜風に木々が揺れ、無数の葉が騒ぎ始めた。

 悪い予感に何もかもが叫びをあげている。その中心でセトは、闇夜のような色をした瞳をヴィエラに向けて言った。


「ぼくは今からきみの村を滅ぼすよ」


 彼の姿がかき消えた。




 息を切らせてヴィエラは走る。

 洞穴を出てから現在まで、ろくに休みもなく走り通し。ヴィエラの体力も無尽蔵ではない。

 さらにドンタックに受けた呪いの影響も遅まきながら現れていた。全身の痺れ、思考能力の低下、命にかかわることではないが、体は睡眠を欲しがっている。

 今すぐ横になってしまいたい気持ちを堪えて進む。

 そしてようやくポワト村を眺められる丘を越えた。

 セトはすぐそこに立っていた。


「セートぉー!」


 全身全霊の力を振り絞ってヴィエラは駆け寄る。彼をぶったたくことに躊躇もない。


 セトの考えは分からないけど、今度は彼が村の脅威であるらしい。理由は何であれ、村を襲うやつは悪いやつだ。


「力を持つ者には責任がある。その力で何を為していくのか、みんなは見ている」


 セトはヴィエラを見据えている。


「それなのに、きみは言っても分からないから、しょうがないんだ」


 体に残った呪いの跡がヴィエラを蝕んで、彼までが遠い。


「憶えてる? 力で迫られた時は、力で返すしかないって言ったこと」


 しかしヴィエラの足取りは未だ確としている。

 強靭な意思がそうさせているのか。あと少しで手が届く。彼女は拳を振り上げた。


「聞いちゃいないか」


 振りぬいた拳は空を切った。セトの姿がそこにはない。

 セトはさらに遠くに立ってヴィエラを眺めていた。


「かつての戦友を倒されたんだ。どんな復讐をされても、文句を言っちゃあダメだよ」


 ヴィエラはまた走り出そうとした。

 瞬間、セトの体から黒々とした(もや)が放たれ、ヴィエラは体の自由を奪われた。

 靄が両者を包み込み、閉ざされた空間が出来上がる。ヴィエラとセト。人間と魔獣。

 ちっぽけな犬の姿はどこにもなかった。

 ヴィエラが目にしたのは黒い空間に立つ自分よりも遥かに巨大な(いぬ)。この世でいちばん恐ろしい、決して触れてはならないものの姿。

 災厄の具現だった。


「セト、なの?」


 ヴィエラの問いかけに魔獣は反応しない。ただ口先を持ち上げて天を仰いだ。その姿の恐ろしくも気高く、美しいこと。ヴィエラは心底見とれた。

 戦って勝てるとは微塵も思えなかった。

 魔獣が遠く天に向かって吠える。大気を震わし、どこまでも突き抜けていく()き声。怒りと嘆きがないまぜになったそれが、空間ごとヴィエラの体にも響いた。


「う……ぐぁ……ああぁ!」


 魔獣の意思が流れ込んでくる。それはあまりに暴力的で、体の中で暴れ狂うおぞましいものに気が触れそうになった。

 元々呪いを耐え抜いていた体。ついに意識が遠のき、視界は闇に閉ざされた。


「力は無闇に振りかざすものじゃない。ようく憶えておいて。人間だって魔物だって、殴られると痛いんだ」


 セトの声が聞こえた。


「私……は、村を……守り、たかっ……だけ…………」


 そんなことを最後に口走って、ヴィエラの意識はなくなった。

 彼女を見やる魔獣もやがて消えた。




 触らぬ神に祟りなし、と言うが、大陸北のマルデュー地方ではもっぱら、触らぬ魔獣に災いなし、という言葉が使われる。


「ホントホント! 私見たんだって」


 ポワト村では今日も一人の娘が大声を上げて、村人たちにある話を吹聴して回っている。

 彼女が言うには、かの戦争で魔物たちを統べた王が生き残っていたらしいのだ。

 戦争から七十年が経ち、魔王は滅びたということで話は通っている。なので彼女の話を信じる者は誰もいない。


「ちぇっ。みんな案外頭かたいんだね」


 そのヴィエラという娘は肩を落とした。

 先日、ポワト村を含む周辺地域は大規模な呪いにかかり、人や魔物は生命の危機にあった。

 しかしそれはいつの間にか、何者かによって食い止められた。

 ヴィエラは自分の手柄だと主張したが、村人たちが目覚めた時に一緒に村で眠っていた彼女を褒める人はいない。彼女は生暖かく見つめられ、やんわりと主張を取り下げられた。

 結局、名も知らぬ誰かが危機を救ってくれた、ということになったのだ。

 それでもヴィエラは自身が見たものを忘れていないし、疑ってもいない。


 ただの犬だと思っていたセトが、実は強大な力を持った魔獣だった。あれだけ強いのだから、彼が王様に違いない。

 触らぬ魔獣に災いなし。その魔獣って、彼のことだけを指していたんだ。


 黒い靄の中に凛然として立つ恐ろしい魔獣の姿。ヴィエラは思い出すたびに寒気を覚える。その恐ろしさとは別に思うこともあった。


 セトは魔王だったけど、魔王には向いていなかったのかも。魔物のてっぺんに立つことすら望んでいなかったと思う。

 だって戦いが好きなようには見えなかったから。

 力を巡って、逆らうことのできない流れができてしまったんだ。


「力、かぁ……」


 ヴィエラは拳を作ってそれを眺める。


 セトに負けた時、とても痛かった。大きな力を振るわれて、自分じゃどうしようもなくて、怖くて、なんだか悲しくなった。


 力比べにおいては、生まれてからほとんど負けというものを知らなかったヴィエラだ。それが圧倒的なまでの敗北をセトに与えられた。

 その時に味わったもの。探り探り、拙いながらも感情を言葉にしていく。

 力を振るわれた時に何を思うか。自分が相手に与えてきた感情はどういうものだったのか。力の在るべき形は。


 私はこの拳の使い方を知るべきなのかもしれない。

 ものすごく久しぶりだし、とても苦手だけど、考えてみようと思った。


 結んだ指を開いて空に透かしてみると、指の隙間から奥の青色がよく見えた。




 村を襲った事件の後、触らぬヴィエラにげんこつなし、という言葉はめっきり聞かなくなったという。

 なんでもヴィエラという娘は人が変わったように大人しくなったのだとか。気に入らないものに噛みついてばかりいた娘が節度を覚えたと、村の人間は喜んだそうだ。

 魔獣も安心して眠れることだろう。

脳筋美女と気弱な魔獣というテーマで書きました。

気弱要素はどこかに吹き飛びました。


セトの最後の言葉だけを言いたかった気がします。

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