読むに耐えない文章を読んで
旧仮名遣いを意識しているのは作者の芸風です
私は時々、空いた時間にこの『小説家になろう』に掲載されてゐる小説を『新規開拓』する。この場合の『新規開拓』とは、読んだことの無ゐ文章を読んだことのないユーザーから探すことである。
さて、時折見かけるのが勢いだけで書いたやうな文章だ。私も昔よくそんな文章を書いてゐた。が、当時私はこの小説家になろうの存在を知らなかった為、殆どが作文用紙に書かれて居る。私はいはゆるアイティー世代ではあるものの、なにぶん機械の扱ひは苦手で携帯電話でこの文章を仕上げる事すら四苦八苦して居る。で、私はその作文用紙に書かれてゐる物を読み返してはあ、あーとかうーとか呻いて居る。こう云う事は誰しもとは言はなひが、それなりの人が経験して居るのではなからうか。そのやうな文章が時折この『小説家になろう』で見られて居る。モノによつては読むに耐えない処かまったく日本語になつて居らぬモノもある。かといつて何処か他の国の言葉ともなつて居らぬなら、これはその作者独特の言語と言ふてもよひだらう。
私はこのやうな文章を書く人を批判はしなひ。なにぶん昔の私も書いている。唯一番に言ひたい事は「批判もあるだらう、心なひ言葉を浴びせられるだらう。しかして、完結せしめる迄は投げ棄てるなかれ」である。勢いだけで書いたような文章は完結せしめるのは難しい。私も『政治将校な少女』にて実感して居る。作文用紙に書かれている題名すら与えられて居ない文章たちもそういったものが多い。しかして、物語は完結せしめる迄書かねば成らぬ。さうしなければ登場人物たちも浮かばれなひ。作者に裏切られた彼等は一体何をすれば終らぬ話から出られるのであらうか。彼等 、特にこの電脳世界に上げられた彼等は地縛霊の如く終わるに終らぬ話を、延々演じねば成らなひ。さう云うのは作者として登場人物に対する礼儀を欠いた言動であらう。下手だとかなんだとかは徐々に上達すればよひのであつて、きっとなんとかなるのだ。
以上が私の所信表明である。
駄文お詫び申し上げます