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天翔けるグラツィア

2018年に開催された綿津見さんの「Web夏企画」に寄稿いたしました。

「それは、平成最後の夏のことだった」をテーマに夏を感じる作品を集めて公開しようというWeb企画です。

全部で38作品を鑑賞することができます。よろしければほかの作品も是非ご覧くださいませ。

http://clew09.web.fc2.com/summer/index.html#

 ──私の描いた旋律では誰の心にも響かない。

 帰路に着く中で常に残酷な文面を何度もリピートしてはリセットする作業を繰り返していた。

『平成最後の夏』という力強いキーワードは決して自分の世界を変えてくれるという童話のような神秘が起きる兆しは見えなかった。

 年が変われば何かが変わると毎回期待していたけれど体感する時間は思っていたよりも淡々としていて味気ない。やりたい事も、やるべき事も、見つからない。

 途切れ途切れに出てきた諦めの息を葬り去る作業をしながら気づけば自宅に着いた。

「ただいまー」

「あ、瑠花(るか)。おかえりなさい。ねえねえ聞いてくれない?」

 出迎えた母の声に疲労を感じ、心の中で眉間に皺を寄せる。それを表に出さないのは母が何だかんだ気を使っている事を知っているからという理由に他ならなかった。

「瑠夏、そう言えば流歌(るか)くん、知ってるでしょ」

 流歌──私はその名前を聞いた途端に顔から血の気が引いていくのを感じた。そんな私の心情など推し量るつもりもない無邪気な母は、まあこれまた子どもみたいに無邪気に「コンクール出るみたいよ」とはしゃぎ回った。

「……凄いね。でも、私、忙しいから。受験勉強しないといけないし」

 成績はそこそこを維持している私は受験勉強を理由に流歌の話を切り上げ「ご飯食べるね」と言ってリビングへ向かった。

「母さん、俺もう腹ペコだ。早く食べよう」

 仕事上がりの父の呼び掛けに賛成し椅子に座り、母が作る豪華で美味しい料理を食べる事にした。何と今日はハンバーグにポテトサラダ。母は料理が得意な上に大好きで難しく面倒なメニューもよく出してくれる。自慢の母である事には間違いない。ただ、デリカシーがないのが玉に瑕であり深刻だと私はため息をついたが母は良くも悪くもおおらかなのでまあ気にもしない。

「あのね、流歌くん。ずっと歌が上手かったしピアノ弾いても綺麗だったでしょ? 流歌くんも流歌くんのお母さんも将来が楽しみだねーなんて言っていたのよ。流歌くん、瑠花がピアノレッスンやめた時寂しそうだったけど……」

「……練習きつかったし、早く寝たかったから」

 母の話を切り上げたくて淡々と返して夕食を頬張る。ご飯は豪華なのに胃が重たかった。

 ──ピアノ、好きだった。

 一番好きだったのはピアノコンクールでよく出されるブルグミュラー練習曲。二十五曲のバージョンと十八曲のバージョンがあるけれど、私は十八曲の中の踊り子の哀愁を弾いた『ジプシー』が好きだった。踊り子であるが故にイメージを固定され、華やかな衣装の裏には血の滲むような練習があったから。それなのに、私の『好き』は突然なくなった。

 ──流れるような旋律を紡ぎ、人々を魅了しながら高みを目指す人々を戦慄する悪魔。それが、流歌だった。私に流歌のような旋律は紡げない。ピアノが好きで楽しく弾いていた私は流歌の旋律に震え上がり、逃げるようにして教室をやめたのだ。

 しかし、流歌はいつでも無邪気だった。それはもう残酷な程に。

『ねえ、これ、今日初めて弾けたんだ』

 大好きだった月光を奪い去った。ブルグミュラーは珍しく私に嵌ったピアノ曲でずっと練習して褒められていたのに。

 ──初めて開催されたコンクールでブルグミュラーの金賞は彼に、私は銀賞だった。

『瑠花ちゃんよりも先に行きたくて必死に練習したんだ! 瑠花ちゃん、本当にこれが上手くて』

 拙く話す流歌が憎らしかった。銀色のメダルを持ちながらブルグミュラーでさえも奪い去った流歌を悪魔だと思った。金色のメダルが憎らしかった。もう、私にピアノは笑ってくれない。みんな、みんな、流歌のせいだ。

『……うっとうしなあ、二度と私に話しかけないでくれる? 目障りなんだけど』

 流歌に一瞥もせず吐き捨てて早歩きで立ち去った。流歌の声が聞こえなかった気がする。

 こんなこと、言ってはいけなかった。口に出して悪いとは思った。でもね、流歌。私は何もかもいやだった。

 ピアノ教室をやめたいと言うと母が反対するのかと思いきや「仕方ないね……」と納得されたのが私の心にまた響く。流歌の才能は天翔ける白馬のような煌めきだった。だって、みんな流歌しか見ていなかったんだもの。私だって、流れるような戦慄を奏でてみたいと思っていたんだから。

 今やスマホを持つようになった私はチラチラと待受を眺める。流歌とはあれ以降からも少し話をする程度の交流は続いた。ただ、流歌の母と私の母が仲がいいのでギリギリ繋がっているだけの淡い関係だった。

 でも、ひどい言葉をぶつけた罪悪感と絶対にかなわないという距離感が私を動けなくさせる。

「流歌の話なんて、だから聞きたくなかったのよ」

 スマホを手放して天井を見上げれば、夜。窓があるから夜なのはわかる。手元のスタンドライトの明かりだけが唯一の光。

「るかー、流歌くん来たわよー」

 階段の下から母の声がした。そう言えば、流歌って言っていたような……?

 パタパタと階段を上がる音がしたらガチャっとドアを開かれ、母が呆れたように言う。

「るかー! なにしてるの! 流歌くん来たわよ。瑠花に会いたいって」

「……いいよ」

「何言ってるの。ちゃんと流歌くんと話をして来なさい」

 明かりをつけられ、軽く叱られた。その様子から何となく私が流歌を一方的に避けていることを知っているよう。大人にはかなわない。

「早く帰ってくるわ」

「ちゃんと話をするまで家には入れないわよ」

 母に急かされると、黒髪の円な瞳の男の子がいた。私を悩ませる悪魔の男の子。

「久しぶり……元気?」

「まあね、瑠花ちゃんも元気してたかな。ちょっと話がしたくて」

「あ、まあ、別にいいよ」

 ぶっきらぼうに返すと流歌が「いつもすみません、ありがとうございます」とお辞儀をし、私を連れ出した。

「行ってきまーす」


 流歌の家まではすぐ近くだった。だから普通に歩けばスキップしていれば辿り着く。それなのに流歌は私の隣を離れずゆっくり歩くものだからとてもゆっくりだ。

「今日は晴れていたからよく星が綺麗だよね。瑠花ちゃんも星が綺麗だと思わない?」

 相変わらず、幼い頃と変わらない無邪気な声と笑顔で聞いてくる。良くも悪くも変わらない流歌に私は「そうね、星も綺麗だし月も綺麗よ」と答えた。だって、本当に月が綺麗なんだもの。

 平成最後の夏はカラッと爽やかに晴れているばかりだから昼に外に出たら汗だくで服も気合い入れた化粧も乱れてしまうけど意外にも夜は涼しかった。ふと、隣を見れば流歌が今度は穏やかな声で歌い出す。

「瑠花ちゃん……そうね、僕も、月、綺麗だと思うよ」

「どうしたの? 急に大人しくなるなんて流歌らしくないわよ」

 いざ隣に並べばただピアノが好きな頃のように流歌と話せる。

 なんだ、話せるじゃないか。なんだ……普通に話せるじゃないか。それならどうしてブルグミュラーを流歌に越された時、話せなくなったんだろうね。ぼんやりと考えていると流歌の家にはすぐ着いた。

「ただいま、母さん」

「あら、流歌じゃない。それから瑠花ちゃんも。さっき瑠花ちゃんのお母さんと話していて流歌が瑠花ちゃん連れて来たいって。ごめんね」

「いえ、お久しぶりです……夜遅くにごめんなさい」

「いいのよ! 流歌ったら瑠花ちゃんの事しか話さないのよ。よかったら付き合ってあげてね」

「私でよければ」

 そう言って唯一の救いの人はリビングに戻る。流歌は何気ない動作で靴を脱ぐので私も靴を脱ぐ。

「お邪魔します」

 一言言うと先に玄関に上がった流歌が手を差し伸べる。

「どうぞ、お嬢様」

「あらやだ、やめてよ」

 照れ臭くて跳ねる動作にもかまわずに流歌は私の手を握る。いつの間にか流歌は私の背を追い越していた。あの時は同じ目線でいつも流歌の方が小さくて泣きそうだったことを私は今でも忘れられない。

 もう、変わったんだ。変わらないまま居られるわけはないとわかっていてもさみしかった。これからも流歌は流れる旋律を届けに行くだろう。私はずっと進まないままだ。

 流歌の家は二階になっていて、部屋にはピアノが置いてある。埃ひとつなく綺麗なピアノ。私の家にはまだピアノがあるけどたまにしか弾かないから随分音が狂っていた。その部屋に入ると流歌はピアノの前まで行って、背を向けたまま話す。

「瑠花ちゃん、僕ね、どうしても謝りたかった」

「……流歌?」

「瑠花ちゃん、ブルグミュラー好きだったじゃん……僕、瑠花ちゃんが楽しそうにピアノ弾いてるの、羨ましくて」

 スタンドの電気はつけるも部屋は暗いまま。これじゃまるで夜だ。流歌の旋律は夜には似合わない。切なくも晴れやかな旋律だから夜は似合わない。ああ、私、流歌のピアノ、忘れてなんていなかった。

「そっか、私を目指してくれたんだね」

「うん。そして瑠花ちゃんを形だけでも越えた。でもね、瑠花ちゃんがいなくなったから結局虚しかっただけだけど」

 数々のコンクールの表彰は飾られているのに、どこを見てもブルグミュラーの称号が刻まれた金メダルはなかった。私の疑問を流歌はわかっているのか答えた。

「あれは引き出しだよ。見たくないから」

 私は、流歌を、傷つけた。途切れ途切れに出る事実を改めて知って私は何も言えなかった。

 そうだ、ただ流歌と一緒に楽しめばそれでよかったのに。私は好きだけじゃ楽しめなくなってしまった。だから私の旋律は消えたのか。真っ直ぐじゃないから。ただの諸刃になったから。

「流歌、ごめんね」

 私は心から謝った。それでも流歌の傷を癒せないけど謝った。でも流歌は首を横に振った。そうだ、許されない。しかし、流歌はもう一度首を振って口に出す。

「瑠花ちゃん、僕は君に聴いて欲しいんだ。あの時君が好きだったブルグミュラーを」

 有無を言わさず流歌はピアノを開き、楽譜を開き、鍵盤に手を置いた。


 ──踊り子は旅芸人。街から街を渡り歩いては明日の短い人々の為に踊る。森を越え、山を越え、踊り子は軽やかに大地を舞う。踊り子は羽が欲しいと願う。羽があればもっと軽やかに大地を渡ることができるから。踊り子はいつでも自分の美しさを保つのを忘れない。軽やかに舞うには美しくなければ飛べないから。

 踊り子は新天地を目指す。歩く道に花を添え、出会う人に花弁を振らせ、歩く全ての人々に花の旅路を渡らせる。

 踊り子の人生は花のように華やかで木のように穏やかで美しく強かだ。踊り子はいつだって生きている。全力で。いつか大地を照らす向日葵になるために。


「瑠花ちゃん、まだまだ僕は君を越えられないね」

「……そんな、ことないよ」

 自嘲する流歌に私は首を振る。そう、私は流歌の紡ぐ音が好きだ。流歌が隣にいてくれたら嬉しい。悲しい音が流歌の手に掛かると希望を描き出す光に変わってくれるから。

「流歌、私ね」

「瑠花ちゃん、僕ね」

 同時に紡ぎ出した音はきっと同じだけど違う。私は流歌が見た星の綺麗さをまだ知らない。流歌は私が見た月の綺麗さをまだ知らない。

「いつか綺麗な海で月と星を見ようね、瑠花」

「──そうだね」

 そして流歌はまたピアノを弾いて私はメロディを口ずさむ。二人だけの夜の世界。優雅なひとときを過ごしていた。

 いつか、ふたりで、空にいちばん近い場所で月と星を眺められるように。

流歌るか:瑠花の幼なじみ。瑠花が好きでピアノで瑠花を喜ばせるのが夢。瑠花を越えて告白するつもりだった。


瑠花るか:流歌の幼なじみ。面識はなかったがピアノ教室が縁で交流が始まる。自覚なく流歌が好き。


グラツィア:イタリア語で「優雅な、優美な」

ブルグミュラー:ピアノ曲「18番の練習曲」「25番の練習曲」を作曲。なお「ジプシー」は18番の練習曲の4番目。

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