幸福と喚べるもの
2016年に開催されました場所をテーマにしたアンソロジー
『allium』
同人誌版は抽選の結果、落選しましたがWeb企画に『planetarium』で参加させて頂きました。
詳細はこちら→http://ariumweb.tumblr.com
加筆修正しましたのでよろしければご覧下さいませ。
体が丈夫でなければ、まともに生きることも儘ならない。
突然与えられた体の変異についていけず、遂に取り返しのつかない失敗を犯した。
「結城さん、今日はこの書類を仕上げておいてね。明日、リーダーが来るからチェックしてもらって下さい」
かつかつと、こちらに向かって歩いてくる──女性。キャリアウーマンの香りを漂わせながら書類作成を命じられた結城は淀む感情を抑えながら静かに頷いた。
手渡された書類から、女性に知られないよう目をそらした。
いわゆる、ヒヤリハット。ハインリヒの法則で、一の事故には三百のヒヤリハットがあると言われている。ヒヤリハットのうちに被害を食い止めようと考えられ、このシステムは導入された。
今や星の数ほどもあるヒヤリハット。そのひとつを結城が飾ってしまった。残業が確定し、何より精神的に崩れるこの作業ははっきり言って苛立ちを沸き立たせる以外の何物でもないが今後のためにも、ヒヤリハットのうちに書かねばならない。
これは、命に関わるものだから。
結城──結城心優は介護福祉士として、特別養護老人ホームに勤務している。普通の女子は今頃実家や一人暮らしで仕事上がりを満喫しているだろう。それからは遥か遠い位置にいる結城は女子としての何かを軒並み失っていた。
歩いてきた女性に概要を説明され、結城は何度か目の落胆を経験する。
さっきの女性は副主任だ。厳格で慎重。
副主任の仕事の中に現場をなだらかに運営しようという考えはないようで、ひとつひとつの業務に対する厳格さと慎重さと拘りには憎しみに近いものを抱いていた。あの副主任はいつも、ひとつのことをこだわり出したら止まらない。
思い立てば真っ直ぐとしか進めない副主任のせいで負担が増えるばかり。今日も問題があり、副主任が相談員のところに行って早一時間。今や見守り役だった主任と二人で全ての業務を回していた。無論主任は見守りから動けないので動くのは全部自分だった。小さな不満は重なり、今や憎しみとして大きくなり、叫びたい気持ちを抑制するのが精一杯だった。
何故、彼女を憎むのか。理由はとても簡単だ。自分はそこそこ平和に仕事をしたいから。もし、負担が増えるならその分だけきちんと対価を支払って欲しい。その場しのぎの名誉などいらない、ただ、平和にさせてくれないか。
もし、望めないなら底辺でいいから──と、願っていた。だからいつまでも前に進めないことは知りながら、願う。この仕事は向いていないのかもしれないと自信を無くし、ただただ落胆するばかり。
いつ命が無くなるか分からない。もしかしたら一分後かもしれない。そんな仕事内容に神経を磨り減らしながら、不規則な時間と残業の過酷さに毎日涙を漏らしていた。最近では帰ってきて寝るだけ。
それでも、この仕事が好きなのは、自分の手を握る温かさに触れたからだ。
セキュリティのために厳重に管理された扉のキーをパタパタと押すと扉が開かれる。急いで階段を駆け上がり、広間に行くと──女神がいた。
女神は自分が新人の時に出会った。彼女は出会った当初から優しかった。月日が流れ、女神とはすっかり顔馴染みになった。
「こんにちわ! ねえ、今日も元気?」
「……! ん、げんきじゃわぁ」
毎日毎日会いに行き、束の間の戯れを重ねて漸く奪い取った権利は女神の傍にいること。女神は嬉しそうに微笑んでくれた。
すぐそこにあるステーションを見れば現実が見えて暗く澱む。今だけは現実を忘れたかった。
体の事情で部署を異動し、今ではこうして階段を駆け上がらないと会えなくなるほど遠くなった。よい経験、といえば経験だが、澄んだ本音を言うと女神たる彼女の傍を離れたくなかった。
スッ。
結城の垂れ落ちた髪の裾を女神が拾い上げて耳にかける。多分女神には垂れ落ちる髪がだらしなく映るのだろう。或いは髪フェチなのかもしれない。
これが、密かな楽しみだった。垂れ落ちたら何度でも梳いてくれるのだ。彼女の掌はさらさらしているし、温かい。
二回りも三回りも離れた女神の人生はきっと温かなものなんだろうなと思っていた。彼女の部屋にある写真を見たことある。昔々、まだ白黒写真だった頃。慎ましながらも幸せそうに笑う女神と家族。慌ただしい日常からたまにしか見えない家族にも、品の良さと暖かさを感じた。きっと彼女は若い頃から女神だったのだろう。
星の数ほどもある命と、ヒヤリハット。それらの重さに喘ぎ苦しむ日々の中でこんな暖かさを感じるから止められない。自分の部署があるというのに、女神に会うのをやめられない。
彼女に髪を梳いて貰わなければ仕事をした気にならない時点で病気だなと苦笑した。
──これはきっと、病気だ。
磨り減るような日常の中で彼女がいたから、頑張れたのだ。
刻一刻と過ぎる時間の中で別れは容赦なく訪れ、女神の手を放す。女神、貴方は間違いなく私にとっての。
*
今日で最後の日。退職日がやってきた。
未だ嘗てない前代未聞の失態を犯すほど、憎しみと不信にすり減らしていたのかと愕然とした。
だが、仕事をやってきた中で気づいたことがある。
今まで満足のいく結果など出してこなかった。常に危うさの中で生きてきたではないか。
夢見た理想からは程遠く、足掻く気配すら見せず、ただ、体のいい道具に甘んじていた自分にやってきた結果。それがこれ。
これも自分の運命であると受け止めていた。自分に、力がなかった。ただ、それだけではないか。ヒヤリハットで終わってよかった。命を消したわけではない。全てが終わったわけではない。運命は寸でのところで自分を救ってくれた。
最後の一日が終わったこの時間、全ての部署に回り、失態を犯したことを謝った。怒られたり茶化されたり呆れられたりしたが、最後は皆が皆、にこやかに締めてくれた。
終盤は憎しみと悲しみだけで動いていたのに、ここはこんなにも温かな場所だったことを知る。もっと辛抱すれば、もし、変えようと足掻いていたなら、自分は変われたかもしれない。
「こんにちは」
がらりと戸を開けて訪問する。
いつも会っていた女神とも、今日でお別れだ。彼女は自分のことを待ってくれていた。いつも、こちらに来たら手を振ってくれる。だから、ちゃんと別れを言わねばならない。
いつもならホールで人々を見守る女神はベッドで横になっていた。先程の申し送りで体調不良の理由と共に名前が上がり、密かに心配していた。だが、ここに来てよかった。女神の顔を見て、安堵する。彼女が元気に柔らかく笑っていたから良しとしよう。我ながら現金だ。
そう、女神の頬はぷにぷにしている。柔らかい、触れたら病み付きになる。この、暖かさが好きだった。
だが──離れねばならない。
「今日で最後なんだ。事、無いの?」
この問いに彼女は嬉しそうに微笑んだ。相変わらず、優しい人だ。ああ、何で今頃。
ああ、何で今頃気付いたのか。
「今日でね、私、違うところに行くの。だから、お別れしにきたんだ」
その瞬間、彼女の顔は曇った。そういえば、こんな顔、初めて見た。いつも笑顔しか見ていなかったからだろうか。別れを惜しんでくれていたなら嬉しい。
「いつもありがとうね。私、貴方に会えて幸せだった。だから元気で長生きしてください。本当に、本当に、ありがとう」
──いつか、貴方はいなくなるだろう。そう、長くないかもしれない。もしかしたら、明日かもしれない。
きっと貴方は優しいから、生まれ変わったら星になるだろう。夜空に輝く星。
星はね、優しさの塊だから、貴方にぴったりだろう。月でもいいが、星の方がより近くにいてくれるから、星がいい。
「──……あり、が、とう」
いつも結城から伸ばしていた手が、今度は彼女から伸ばされた。嬉しくて、嬉しくて、手を取る。
ぎゅっと握りしめて……そして離した。
「元気でいてね」
そろそろ時間がくる。彼女が起きなければならない時間が。ここから離れたら、彼女にはもう会えない。立ち去ろうとした瞬間だった。
「ゆ、き、さん、いままで、ありがとなぁ……」
今、彼女は何と言っただろう?
彼女は確かに結城と言ったのだ。結城の名前を呼んだのだ。記憶を忘れる病気に掛かる彼女が、自分の名前をどこで覚えたのだろう。
やはり、女神は優しかった。女神と離れたくない。ずっと一緒にいたかった。どうして足掻けなかった。どうして忘れていた。彼女の寂しい声を聞きたくなかった。彼女に喜んでほしかった。
彼女は寂しそうに手を振り、伸ばしていた。そんなこと、させたくなかったんだ。
結城は泣いた。しずしずと泣いていた。
だが、もうここには戻れない。己の力の無さを悔やみ、泣き続けた。
それから何分かして、全部清算した。書類も今までのものも全て処分した。
最後にパソコンに座り、写真データのフォルダをひらいた。女神やその他の方の懐かしい写真。これを目に焼き付けよう。だけど、ここで過ごした日々は置いていこう。持っていくと、離れられないから。
──ねえ?
いつか、私は貴方のことを忘れてしまうかもしれない。貴方は私を忘れるかもしれない。だけど、貴方と過ごした日々だけは忘れない。例え貴方が忘れても、私は。
そして、最後に挨拶をして職場を去り、駐車場へ歩いた。定時からはすっかり過ぎ、夜と夕方の合間に見える日暮れとともに車を走らせる。
──ああ、もうすぐ星が見えるだろう。
****
それから結城は介護から足を洗うことにした。理由は簡単だった。
──もう、命を無くすところを見たくない。消えかけの炎が消えてしまうのも見たくない。抗うことをしたくない。
別れはもう嫌だった。だから、介護はしない。
パソコンが得意なのを履歴書に書いたが結果は惨敗。全て落ちた。
二ヶ月が経ち、友達と話すだけの日々。給料はなくなるばかりだ。あまりのことに失望し、話すだけの日々。
──不意に涙が出た。
「こんにちは、初めまして」
──彼女に出会った時、認められたいと思っただろうか。
「ほら、ちゃんと食べなきゃダメ」
──彼女といただけで楽しかった。
どうして、どうしてどうして、忘れていた。
彼女と離れたくない。女神に会いたい。女神が恋しい。
認められたいと思ったことなんてない。女神がいてくれるならそれでよかったのに。
欲深い自分は女神の優しさを忘れていた。どうして忘れていた。女神、女神、会いたいよ。
結城は泣いた。初めて、声をあげて泣いたのだった。
****
それから月日が流れた。結城は何度か目のスーツに袖を通す。
色々考えて、決めたことがある。
「ねえ、女神。私、やっぱり介護やめられなかったんだ」
恵まれない職業。過酷な業務。でも、女神の手の暖かさが忘れられない。あの暖かさが好きだった。だから、もう逃げない。
「見ててね、立派な介護福祉士になるから」
そして、いつかまた、貴方に会いに行こう。皆に会いに行こう。立派な介護福祉士に、いや、それ以上になったら、皆が喜んでくれるだろう。
自分ならまだやれる。やりきれる。だから、負けない。
晴れ渡る空の下、結城心優の新たな人生が始まった。