アンビバレンス
深夜。グレイは寮を抜け出し、学舎の裏手でラバルムと落ち合った。
風で草木のさざめく音と、2人の影を浮き彫りにする月光。
それだけの場所で、グレイとラバルムは向き合った。
「……………………」
ラバルムは、しばらく沈黙していた。
グレイは当然、何の話か大体の予想はついていたが、だからこそ待った。
ここは、自分が先に口を開いていい場面ではない。
「――感謝してるんです」
どれほど経った頃か、やっとラバルムは切り出した。
「ばばさまが亡くなって、次の【預言者】は私です。預言をもたらすには、一刻も早く御力を覚醒させなければなりません。
途方に暮れていた私に、みなさんから学院へ来るお誘いを受けた時、本当に嬉しかったんです。それからも、輪の中に入れてくれて、とても楽しい時間を過ごせました」
その口調は内容に反して、重く苦しい。【預言者】としての覚醒を名目の1つに学院へやって来たラバルムは、グレイたち以外の救世主と接触する機会を持てていなかった。
せっかく人の多い環境へ来たのに、顔ぶれが変わらなければストレスもかかるだろう。
グレイは、ただ黙って聞いていた。
「でも、それ以上に……寂しいんです…………」
ラバルムは、うわずった声で打ち明ける。
「私はずっと、聖峰でばばさまと2人で暮らしてきました。親元を離れた私にとって、家族と同じくらい大切だったんですっ……。
ばばさまは、グレイさまの手で死ぬことを望みました。そのおかげで、【預言者】の御力が敵に渡ることはなかった。私には、それを受け入れて次の【預言者】になる義務がある。
分かってますけど……でもっ…………」
彼女の潤んだ瞳から、グレイは目を逸らさなかった。
「ばばさまの命を奪ったグレイさまを、私は許すことができないんです……!」
グレイには薄々、気づいていたことだった。
人を殺めておいて、たとえそれが世界を守るために必要なことだったとしても、許されていいとは思っていなかった。
涙を流し、項垂れ、拳を握り締めるラバルム。彼女の大切な人の命を、この手が奪ったのだ。
「――サンボダイさんが死んだのは、俺のせいだ。俺の力が足りなかったから、守れなかった。責任は取る……どんな罰も受けるよ。
けど、今は死ねない。クラウズを滅ぼして世界を救うまで、俺は生きて戦わなくちゃいけない。
だから今は、せめて死なないなりにラバルムが納得できる形で、けじめをつける」
死にたくない、とは言わなかった。不思議と、そう思うこともない。
ただ事実として、救世主としての責務を果たす前に死ぬことは出来ない。
しかし、もし戦いが終わった後に殺されたとしても、きっと快く受け入れるだろうという奇妙な確信があった。
「…………本当に、感謝してるんですっ…………!」
ラバルムは繰り返し言いながら、グレイの無防備な胸に飛び込んだ。一瞬グレイは抱きつかれたと思ったが、体重のかけ方から、それは体当たりに近い。
両手を胸板に当てられ、グレイは仰向けに押し倒されるような格好になった。
ラバルムは、馬乗りになってグレイを見下ろす。
「ごめんなさい…………」
ラバルムは泣きながら謝ると、グレイの首元へ手を伸べた。
首筋に指が触れる。細くて滑らかだ。親指だけは、グレイの喉――ちょうど気道のあたりを押さえている。
ゆっくり力が込められて、ラバルムはグレイの首を絞め始めた。
「っ…………!」
グレイの顔はみるみる赤くなっていった。
気道が塞がれ、酸素が脳へ届いていない。
苦痛と微睡みが、ごちゃ混ぜになる。
「私が今生きているのは、グレイさまが守ってくれたおかげですっ……ありがとうございます…………優しくしてくれて、嬉しかったんです……!」
ぎりぎりと、グレイの首を絞める力を強めながら、ラバルムは尋常でない語調で独白する。
グレイは、息のできない苦しみの中で、それを聞いていた。
「でも…………グレイさまは、ばばさまを死なせたっ……グレイさまのせいで…………!」
更に首が絞まる。いよいよ意識が遠ざかり、グレイは死を予感してきていた。
すると、咄嗟に手がピクリと動いた。ラバルムの手をどかすか、あるいは体を突き飛ばすかして、本能が死から逃れようとしたのだ。
グレイは脳裏にしがみついた理性で、それを抑えた。この手で、サンボダイを殺めた時の記憶が呼び起こされた。
「かはっ……ぁ…………!」
彼女は、一切の抵抗を見せなかった。
こんなにも苦しいのに、死を受け入れていた。
なのに、いざ自分が同じ目に遭って抗うのは、あまりに醜い気がしたのだ。
「ばばさまぁ、見てますかっ……私、ばばさまを殺した人に、同じ思いを味わわせてます……! 私の恩人にっ、ばばさまの仇にぃ…………!」
ラバルムの涙が絶え間なく顔に落ちる。
グレイは、それが自分の汗かどうか、すぐに分からなくなった。
閉塞の果てに待ち構える死を前に、身体中が熱を帯びる。
「何もできなかった……ばばさまが辛いのに、私っ…………ごめんなさい……許してください…………」
フッと、首にかかる力が弱まり、グレイは大きく呼吸した。
胸元でラバルムが額を押しつけて、しゃくり上げるように泣いている。
同時に、グレイの胸に立てられた爪が、服越しに深々と食い込んでいた。
「ゼェ…………ゼェ…………ッ」
「うっ……んくっ……はぁ…………はぁ…………」
2人の荒い息遣いが、風と草木の音と重なっていた。
しばらくすると、グレイの息は整い、ラバルムも泣き止んだ。
その頃には、ラバルムはグレイの胸に頬をぴったりつけて、落ち着きを取り戻していた。
「…………グレイさま」
ラバルムが掠れた声で呼ぶ。
「この事は……私たち2人だけの秘密にしておいてもらってもいいですか?」
グレイは視線を落とし、ラバルムを見た。
「私……とっても自分勝手で、すっごくずるいのは分かってます。でも…………」
キュ、と。握られた服にシワが寄るのを、グレイは感じた。
「せっかく友達ができたのに……みなさんに嫌われたくないんです…………」
力なく乞うラバルム。
グレイは、再び空を見上げた。
星と月が、悲しげに光を放っていた。
「ラバルムがそれを望むなら、もちろん」
グレイは、今の彼女に与えられるのは、その答えだけに思えた。
きっと、ラバルムは逃れたかった。
己の無力という罪から。
「グレイさま…………」
ラバルムは、再びグレイの首元に手をかける。
しかし、今度は絞められることはなく、ただ触れただけだった。
指先が筋を撫でて、少しくすぐったい。
「――好きです」
グレイは、その微かに発せられた言葉だけ聞かなかったことにした。
グレイはサンボダイに。
ラバルムは自分自身に。
いつか許される日は来るのか、月夜と星空に問いかけていた。