未来のための犠牲
ポルタが完全に閉じ切った後も、グレイはしばらく虚空を眺め続けていた。
やがてハッと我に返り、サンボダイの顔を覗き込む。まだ息はあるが、このままだと長くはない――。
グレイは仲間たちに通信を試みた。
「誰かっ、キュアドリンクを持ってないか!? サンボダイさんが危ないんだ! スノウ……誰か、応答してくれ…………!」
グレイの悲痛な呼びかけも虚しく、返ってくるのは呻き声ばかりだ。
『悪い……キュアドリンクはさっきの戦いで使い切った…………』
『私は持ってるけど、そっちへ行けそうにない……ごめんね…………』
『今、ネルシスさんを治療してます……もうすぐっ、もうちょっとで終わりますから……!』
クロム、レイン、スノウからは明確な応えがあった。しかし、いずれにしろ今この場で他に頼れる者は、いない。
その上みんな、さっきのメシアの攻撃でボロボロなのだ。きっとサンボダイと同等か、それ以上の重傷を負っている仲間もいるだろう。まだ誰の死亡も報告されていないが、今後どうなるか…………。
現状、サンボダイの回復手段はない。どうすれば――。
「ばばさま!!」
戸惑っていると、ラバルムがおぼつかない足取りでやって来た。彼女も動けてはいるが、身体は血や焦げ跡で損傷が激しい。
衣服も焼けていて、この雪山の寒さに晒されながら、ところどころ肌が露出している。胸や下半身など際どい部分も見えそうだが、グレイはそんなことを意識している場合もなく、助けを請うように彼女を見つめた。
ラバルムはグレイの隣で膝をつき、一緒にサンボダイの容態を窺った。
「――あたくしを、ころせ…………」
掠れた声が、弱々しく漏れ出た。
「時間がない……このままじゃ、あたくしの……【預言者】の力が、奪われる…………奴らに未来を視られたら、終わりだ」
サンボダイが、皮膚の剥がれた瞼を見開き、グレイに訴えかけた。その切実な瞳に、グレイは思わず視線を逸らした。
「ダメです……俺には、あなたを殺める手段がない……あなたを敵とは思えない…………」
グレイの武器・ヤーグは、自らの魂が具現化したものだ。敵と認識したもの以外に、危害を加えることは出来ない。
「その手があるだろう…………」
サンボダイは、よろよろと震えながら、グレイの手を力強く掴んだ。
「絞め殺せっ…………!」
グレイは、言葉が出なかった。
「いけません、ばばさまっ! 一体なにを仰るんです!? なにも死んじゃうことはないです! きっと……きっと助かりますから…………」
ラバルムが目に涙を溜めて、瀕死のサンボダイを励ます。
しかし、サンボダイは首をゆっくり横に振った。
「その『きっと』は……賭けるには、あまりにリスクが大きい…………」
サンボダイは、今度はラバルムの手を、しっかりと握る。
「これから……何があっても……止めちゃいけないよ…………」
ラバルムは、堪えきれなくなったように泣き出した――全てを悟ったようだ。サンボダイは、彼女の頭を撫でる。
しかし、まだグレイは覚悟を決められないでいた。死なせたくない。だが、手立ては思い浮かばない。このままみすみす死なせれば、サンボダイの言う通り、戦局は大きく不利に傾いてしまう。
ならば、やはりこの手で――揺らいでいると、サンボダイと目が合った。
その瞬間が、グレイには永遠のように感じられた。
「…………頼んだよ」
微かな声を聞いた瞬間、グレイは決心がついた――いや、まるで自らの内側から何かに命ぜられるように。衝動に近い切迫感に駆られ、グレイはサンボダイの喉元を両手で絞めた。
力を込めると、細くシワの深い首は容易く軌道を狭めた。
「ぐっ……か、はっ…………」
死を受け入れたはずのサンボダイだが、苦痛のあまり息が零れる。決意と裏腹に、身体は生理的に抵抗し、じたばたと四肢がもがく。
それでも、重度の火傷で瀕死の、高齢な老婆だ。グレイの行いを妨げることはなかった。
みるみる、グレイの両手が、サンボダイの命を縮めていく。
「やだ! グレイさまっ…………!」
ラバルムはグレイを止めようと腕を伸ばしたが、その手に触れる前に静止した。空中で、何を掴むでもなく、彼女の五指が震える。
何があっても――サンボダイの言葉を、噛み締めているようだった。
ラバルムは唇を噛み、頭を振ってサンボダイを見つめた。
「ばばさま……ばばさま!」
ラバルムはサンボダイに呼びかける。
最後の時を、僅かでも共に過ごすことを選んだのだ。
サンボダイは、絞殺されゆく苦痛を味わってなお、微笑んだ。
「この先っ……辛いことも、ある……けど……常にっ、自分が幸せになる未来を……選び続けるんだ…………」
最期の言葉を、紡いでいく。
「ラバルムや……ごめんねぇ……あんたの人生、歪めてしまった…………」
サンボダイの眼から、一筋の涙が伝う。
ラバルムは、激しく首を振った。
「そんなこと、ないですっ…………! 私、ばばさまと一緒に過ごせて、楽しかったよ! だから、ばばさま……泣かないで…………」
グレイは辛かった。この手でサンボダイの命を奪い、ラバルムから未来永劫、引き離そうとしている。
だが、やめなかった。自分よりも遥かに、想像を絶する苦痛を、2人は感じているはずだ。ここでやめれば、それは全て無駄になる。
それだけはあってはならない――グレイは掌でサンボダイの首が絞まる感触を覚えながら、力を入れ続けた。
「あたくしも、幸せだよ…………」
サンボダイとラバルムは、まっすぐ見つめ合っていた。2人にどんな思いが錯綜しているのだろう。グレイには、計り知れない。
「ありがとう――」
サンボダイの身体の痙攣が止まったのを、グレイは悟った。恐る恐る両手を放しても、2度とその老体が動くことはなかった。
一瞬、グレイは目眩に似た視界のぐらつきを覚えたが、思いの外その心情は平然としていた。
やるべきことを成し遂げた充足感と、自分の力不足を嘆く罪悪感とが、綯い交ぜになっている…………ただ、それだけに感じた。
「ばばさまあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ラバルムの悲痛な叫びが聞こえた。堰を切ったように、止めどなく涙が溢れ出ているのを見て、グレイは初めて自分がしたことを正面から受け入れた気がした。
同時に、背筋が凍るような後悔の念に襲われる。もっと何か出来たのではないか。これが本当に最善の道だったのか……。
恐かった。生き物は、これまで何度も殺めた。クラウズも、クラウドも、ついこの間は罪のない動物も。それでも今回ばかりは、心に重いものがのしかかる実感から、目を逸らすことは出来ない。
グレイは初めて、人間を殺してしまったのだ――。