クラウゼヴィッツ
大変お待たせいたしました。
結晶に覆われた聖峰内部で、グレイはレーベと対峙した。
「ラバルム、その坂の上まで行って、身を隠しててくれ」
グレイは【預言者】の弟子を後ろ手で下がらせ、両手にヤーグを出現させた。
「え、でも……はい…………っ!」
ラバルムが躊躇いながらも、タタタッと坂を駆け上がるのが聞こえた。
「その女には興味ねえよ。クラウン様の理論が正しければ、【預言者】の力を持てるのは世界で1人だけ。つまり、メシアが【預言者】のババアを殺して力と魂を奪えば、その女は永遠にただの人間だ。取るに足らないただの小娘になるわけよ。
そしてメシアが【預言者】の力を手に入れれば、この戦いは終わる」
「なんだと?」
レーベの確信したような言葉にグレイは狼狽えたが、焦りはなかった。
――メシアの狙いを聞いた時、その事実に思い至らなかったわけではない。
「とっくに気づいていたって顔だな。さっきの戦いで見たろ。メシアがイーヴァスの魂を喰らって取り込んだ【救世主】の力は、ざっと見積もっても70%強から80%近く完成している。お前ら救世軍の代替品どもが4,5人、束になっても全く歯が立たないほどの莫大な力だ」
同じくペティの森で『あそび』の心を得て、より強くなったはずのレインとクロムがいてもなお倒せない。
それほどまでに、メシアの力は増して――完成に近づいている。
「そこへ【預言者】の持つ未来を視る力が加わったらどうなるか、お前だって分かってんだろうが。
これまで幾度となく訪れた災厄からたった1人で世界を救ってきた【救世主】の力と、未来を視ることで先に待ち受ける運命を識ることの出来る【預言者】の力――2つが1人に集約されたらどうなる」
邪悪な獣の笑みを浮かべるレーベ。
「この戦いは俺たちの勝ちだ」
グレイは顔をしかめた。レーベの言っていることは、紛れもない事実だ。
ただ、まだ起こっていない話というだけで。
「完璧に不可能だが、万が一にもメシアを止められる唯一の可能性があったとすれば…………グレイ。それはお前が以前の大規模戦争で、メシアを殺し切ることだった。
たった1つのチャンスを、お前は無駄にしたんだよぉ!!」
【首都防衛戦】――やはり、あの時あの場所で倒さなければならなかった。
グレイがこの数ヶ月間ずっと抱いていた、『メシアは生きている』という確信に似た懸念は、それに起因していた。
あそこで、殺さなきゃいけなかったんだ。
「さて、精神的に殺したところだし、そろそろ肉体的にも死んでもらうぜ。俺に食われて、メシアをズタボロにしたその力をもらうぜ」
レーベは白い巨体に見合わぬ俊敏な動きで、グレイとの間合いを一気に詰めた。
毛むくじゃらの丸太のような腕が、右から三日月のような爪を振り下ろす。
グレイは、それを左のヤーグ受け止めた。
「生憎まだ俺は折れてないし、これから死ぬ気もないんでね」
レーベがニッと鋭い歯を覗かせて笑った。その顔は動物のものだからか、威嚇している表情にも見える。
瞬間。レーベの鋭爪はヤーグの刃からずり落ち、グレイの左こめかみに迫った。
グレイは反射的に【アサルトサイド】を発動して回避したが、天井に思いきり背中をぶつけ落下した。
「その左手の剣と引き換えにオーラを纏って、身体能力を飛躍的に上げる技――【アサルトサイド】とか言ったか。たしかに強力だ。さすがの俺も、あの時たまたま吹っ飛ばされた近くにこの白熊がいなきゃ、肉体を入れ替えられずあと数秒で死んでたんだぜ」
レーベが喋っている間に、グレイは起き上がって態勢を立て直した。
「だが、この狭い閉所ではその技も上手く機能しねえだろ。おまけに、雪山というロケーションもあって、お前の十八番の炎も使えやしねえ。
分かるか? お前、どう見ても詰んでるぜ」
グレイは眉をひそめた。能力をことごとく阻害するこの地形は、たしかにグレイにとって非常に不利だ。
思案していると、またもレーベが動く。先ほどと同じ、凶悪な五指の爪での攻撃だ。姿を入れ替える奇術も、摩擦を操る魔術も既に見ている。
おそらくこれ以上の芸はないのだろう、とグレイは踏んだ。徒手空拳の一辺倒なら、能力を使えなくとも勝機はある。
グレイは再びヤーグでレーベの爪を受け止めた。今度はさっきよりも交点が深い。刃から取りこぼすことはないはずだ。
するともう片方の腕が、視界外の下から迫ってくるのが分かった。グレイも右のヤーグを、レーベの左腕を斬り落とさんと振るう。
だが、ヤーグはレーベの毛深い腕の表面をなぞり、空を斬るだけだった。同時にもう一方のヤーグで受け止めた腕が、またしても刃から滑るように逃れる。
「なっ……!?」
グレイは咄嗟に跳び退いたが、上下から胴体を抉られた。血が大量に溢れる。傷口は、避けたにも関わらず深い。
「グレイさま!」
ラバルムが結晶で形作られた坂の上から、悲壮な叫び声をあげた。今にも駆け寄りたいラバルムだったが、自分を遠ざけたグレイの意図を思い、踏み留まった。
グレイは息を荒げ、激痛に小さく呻いた。爪に接した皮や肉がズタボロになっている。幸い骨や神経は無事のようだが、一撃だけで出血があまりにも酷すぎる。
さっきと同じだ――グレイは剣先がレーベの体表に触れた感触を思い起こした。まるでゼリーにでも斬りかかったかのような柔らかさが、指先に残っている。
「言ったろ。俺の能力――【アモントン・トラクション】は摩擦係数に干渉する魔法。それを使えば防御を擦り抜けることも、攻撃の威力を上げることも可能なんだよ」
レーベは爪に付着したグレイの血を舐め取る。
「摩擦係数を下げれば腕と剣との摩擦が減少し、まるでプリンみてえに滑らかに互いは擦れ違う。逆に摩擦係数を上げれば、今お前を苦しめてるみてえに、一撃で肉体に与える損傷を増大させることだって出来る。
俺は物理現象を支配することで攻防を思いのままに操ることが出来るが、お前は自分の能力を封じざるを得ない。でなければお仲間やあの女、肝心の【預言者】が生き埋めになるかもしれないからなあ。
分かってるか、グレイ? お前、マジでここが潮時だぜ?」
レーベは口元を赤くして挑発するが、グレイは逆上することなく、ヤーグを支えによろよろと上体を持ち上げた。
「…………悪い。文系だから何言ってんのか分かんねえわ」
「――ブンケイが何かは知らねえが、とりあえずお前は殺す」