人影1つ、足跡2つ
翌日。グレイたちは早朝に山小屋を出発した。風雪は標高が上がるほど激しくなっていき、積もった雪や凍りついた斜面に足を取られそうになることも多くなっていた。
寒さを耐え忍び、ひたすら歩き続けていると、グレイは遠くの方で微かに人影が動くのを見た。その小ささが距離によるものなのか、その人物の体格のためなのかは判断がつかなかった。
「みんな、あそこに誰かいる」
風に靡く深紅のローブの襟で口元を覆いながら、仲間に告げる。レインたちは振り返り、グレイが指差す方を見つめた。
ポツンと、真っ白な雪景色の中に浮かぶ1つの影を見つけるのは容易だ。
「聖峰なんて呼ばれる由緒正しい山なら、登山客がいても不思議じゃないだろ」
「こういう神聖な山って、案内役が複数人のグループを連れ立って登るものじゃないかな?」
クロムは事もなげに、グレイは訝しげにそれぞれ言った。
「遭難者かもしれない。ちょっと見てくるから、先に行っててくれ」
「大丈夫ですか? もしグレイさんもはぐれたら……」
スノウが心配そうにグレイの腕を掴む。
「俺はブレイズでみんなに合流しやすいし、もし遭難者なら安全な場所へすぐ連れても行ける」
「ここは雪山ですよ。グレイさんが炎を使えば、雪崩を誘発する危険性があります。良くて松明代わりに火を灯すのがせいぜいでしょう」
スリートが釘を刺す。たしかに、ここではあまりヤーグの力を使わない方がよさそうだ。グレイは肝に銘じた。
「ともかく行ってくる。現在地はマントを介して本部に伝わるから、道に迷うことはないはず。なにかあったら通信を入れるよ」
「ねえ、一応ここで隊長に連絡してみない? もしペティの森の時みたいに通信魔法が使えなかったら、大変だよ」
「それもそうだな」
コルムバは【首都防衛戦】で支援部隊通信科の救世主が、命と引き換えに生み出した通信魔法だ。それまでの通信と比べ、精度や使い勝手が良く、今もずっと重宝されている。
それが数週間前の休暇で訪れたペティの森では不調が生じ、互いに連絡を取れなくなったグレイたちは、思いがけないトラブルに巻き込まれることになった。
――そのおかげで【預言者】の情報を入手できたと考えれば儲け物だが、もうあんな目に遭うのはこりごりだ。
「隊長、こちらグレイ。応答願います」
グレイはレインに言われた通り、指揮隊長ウィルに連絡を試みた。
『こちらウィル。どうした』
聞き慣れた声が帰ってきた。音声も鮮明で、通信状態は普段と変わらず好調のようだ。
「現在、アノクタラの標高1,000メートル付近にいます。俺たち以外の人影が見えたのですが、遭難者かもしれません」
『人影? 何人だ』
「1人です」
『1人……だとしたら山を世話する聖峰委員会の可能性が高い。聖峰への登山は、原則として委員会の関係者が付き添うことになっているからな。ただ、遭難した登山客だとしたら、見捨てるわけにはいかない。確認した方がよさそうだな』
「了解。俺が人影を追って、他の9人には先行してもらいます。安全が確認できたら合流します」
『了解だ』
グレイは通信を終えた。
「じゃあ、行ってくる」
「グレイ。少ししたら、私たちにも通信ちょうだい。念のため」
「わかった」
レインの忠告を聞くと、グレイは人影を見た方へ大股で歩き出した。猛吹雪で視界が制限されるのもあってか、人影は忽然と消えていた。
手を額にやって、顔を守りながら目を凝らす。前へ進みながら見失った人影を探していると、微かに黒い輪郭が浮かび上がってきた。
グレイは更に歩幅を大きくして、人影へ追いつこうと懸命に前進した。2つの足跡がまだ残っていて、そこに自分の足跡を上塗りするように、一歩一歩を踏みしめる。
「おーい」
雪を乗せて吹き荒ぶ山風の音に負けじと、グレイは徐々に近づきつつある人影へ向かって声を張り上げた。
すると、その人影が振り返ったように見えた。今、目が合っている気がする。足を止め、上体を捻ってこちらを向いているのが分かった。
しかし、しばらくすると人影は再び進路へ向き直り、歩き始めてしまった。
「ちょ……待って!」
グレイは人影に追いつこうと、地を蹴った足を浮かせ、跳ぶようにして進んだ。両足が地を離れ、体が宙に浮く一瞬は、雪山の表面を剥ぐような強風に負けぬよう、体幹を働かせて何とか姿勢を維持する。
あの人影の歩く速度は、さっきよりも落ちている。それも、着いてこれるようわざと遅く歩いているように見える。こちらが後を追っていることは、間違いなく気づいているはずだ。なのに、どうして立ち止まらない。
そうして少しずつ距離を縮めていくと、ついに人影が立ち止まった。その背中が近づいてくる。グレイは地を蹴った足を浮かせ、跳ぶようにして進んだ。
人影は、何かを背負っているようだった。背中全体に被さるようなそれは、てっきり荷物かと思っていたが、違った。
人をおぶっているのだ。
「大丈夫ですか? 困ってるなら助け――」
呼びかけると、人影は振り返って、背負っている人物を降ろそうとしているようだった。
次の瞬間、人影はその人物を、グレイめがけて思いきり投げた。
グレイは凄まじい勢いで投げられた人物を、仰向けに倒れながらなんとか抱き留めた。シャーベット状の雪が、背中や後頭部に痛みを伴って冷たさを与える。
「いきなり何するんだ!」
グレイは起き上がりながら叫んだ。抱き留めた人物の体は、震えているが、まだ温かい。厚い防寒着のフードを覗き込むと、凛々しくも僅かに幼気の残る少女の顔があった。血の気の薄い唇がゆっくり開閉し、それに合わせて口から白い吐息が零れ出る。生きてはいるようだ。
少女の無事を確認した直後、グレイは脳裏に閃光が走ったように感じた。あの人影との距離は、まだ100メートル以上ある。いくら少女とはいえ、そんな距離まで人間を投げつけるなど、常人のなせる業ではない。
グレイは少女を傍らに横たえ、右手のヤーグを抱えさせた。剣から生じる熱で、寒さを凌げるはずだ。左手に出現させたヤーグを固く握りながら、遠く離れた人影を見据える。
「アンタ、何者だ」
グレイは問うが、答えはない。人影は初めて顔を上げた。今度は、確かに目が合っていると確信できる。
凍てつく雪の世界で、赤い瞳がこちらを見つめていた。