クァールの女王
ニッチェとの交渉の末、グレイは【預言者】の情報と引き換えに、ソトースの滝で『あそび』の心を得ることになった。
幼い頃のレインとの記憶を呼び覚まし、自らの魂に変化を認めたのも束の間。ペティの里がクァールの襲撃に遭ったらしいことを察知し、ブルート、スノウ、スリート、ニッチェ、トカンと共に急行する。
グレイの脳裏には、未だ訊けず仕舞いの【預言者】と、自分の後に滝に打たれることとなったレインとクロムのことが離れなかった。
トカンの掛け声で一斉に跳び、着地した瞬間。目の前の景色は一変した。泣き叫ぶような喧騒、血に飢えた獣の咆哮、逃げ惑うペティ族、倒壊した家々。
混沌とした状況下で、グレイは素早く頭を回転させる。周囲を見渡すと、しかしクァールの姿は見えない。
ただ、ペティたちは北東の方角から追われるように走り回っているらしいことが分かった。
「みんなはペティたちを、滝のところへ避難させてくれ。トカン、出来る限り大勢のペティを片っ端からワープしてほしい」
「えうっ(わかりました)」
いつもとは違う、研ぎ澄ませたような調子でトカンは応じた。ペティ族もこんなに真剣な表情なできるのかと、グレイは見直した。
「あたしが里中のペティを連れてくるね!」
「わ、私は怪我してる人を治療します!」
「僕は避難してきたペティたちをまとめます」
ブルート、スノウ、スリートが各々の役割を明示していく。スリートは言い終わってから、『グレイさんは?』と訊ねてきた。
「俺はホワイトデストロイヤーを追い払う。ペティたちは、あっちから逃げてきてるみたいだ。きっと、あそこにいるんだと思う」
グレイはペティたちが雪崩れ込むように退散し、とりわけ家屋の被害が凄惨な方を指した。
すると、右脚から何かがよじ登ってくる感触を覚え、それは瞬く間に肩へ到達し、そのまま伸ばした右腕の上で立った。
グレイは、指差した方の腕をプルプル震わせながら、ニッチェを凝視した。いくらペティ族の小柄な体躯でも、その体重を腕一本で支えるのは、少しきついものがある。
「ふぉう〜ん(わたしもグレイさんと一緒に行きます)」
ニッチェは里へ戻る前と同じことを、頑なに言い張った。
「分かってる。さあ、行こう」
グレイが頷くや否や、ニッチェは今度は肩の方へ引き返し、顔の横を登り、頭のてっぺんで狛犬のように鎮座した。
グレイはいつもより慣性が働くのを感じながら、仲間たちを振り返る。ブルートは我が身を抱いてニヤけながら悶えていた。スリートは顔を伏し、スノウは口元を押さえて、それぞれ笑いを堪えているようだ。
彼らには、頭の上にペティを乗せた、今あるべき自分の姿が見えているのだろう。グレイは、想像したくない光景を、つい思い描いてしまった。
「――じゃあ、頼んだ」
言葉少なに言い残し、グレイは里の北東へ走り出した。獰猛な野性の唸りが、進むにつれどんどん大きくなり、確実に里の襲撃者へと近づいていくのが分かる。
グレイは2本のヤーグを両手に出現させた。直に夜になる。そうなれば、かなり視界の悪い中で戦わなければならない。
そんな懸念がチラつきながら、グレイは仄暗い闇の奥に光る双眸を認めた。細く鋭い瞳は、グレイの方を見ているように感じられた。
「ニッチェ、掴まってて」
グレイは立ち止まって、頭上でしがみつくペティに念を押した。本当なら安全な場所に置いて、観戦させるなり好きにさせられたら良いのだが、今は傍にいた方が守りやすいと思われた。
何より、『あそび』の心を身に着けたと認めさせ、【預言者】のことを訊き出すという魂胆もあったが――すると、眼前のクァールが静かに歩み出した。グレイはヤーグの刃を擦り合わせ、炎を灯した。
そのクァールは、体躯や頬から伸びる髭が洞窟で遭遇した群れの個体より一回り以上も大きく、全身を覆う純白の体毛が特徴的だ。
「ふぉうん……(クァールの群れの女王です。気をつけてください)」
ニッチェの忠告を聞きつつ、グレイは右手のヤーグを肩に乗せ、左手のヤーグを手掌でくるくると弄んだ。
静止するグレイと、なおも歩み寄るクァール。それぞれのとった臨戦態勢が、いつ戦いの火蓋が切られてもおかしくない緊張感を物語っている。
白い破壊者――その名が表す体は、しかし油断すると開口するほど美しい。雲のような毛並み、波のようにしなやかに駆動する四肢、三日月に似た剥き出しの牙。
瞬間。ホワイトデストロイヤーがバッと動き出し、グレイも駆け出した。グレイが2歩進む間に、ホワイトデストロイヤーは4歩跳び、飛びかかって土汚れのついた爪を振り下ろした。
グレイはそれを左のヤーグで受け止め、右のヤーグから猛炎を放った。ホワイトデストロイヤーは剣身を蹴って跳び退き、距離を取った。
しかし、ホワイトデストロイヤーは着地と同時に、再びグレイめがけて接近してきた。あまりのスピードに、グレイは一瞬反応が遅れてしまう。
「なっ!?」
咄嗟に構えた左のヤーグは、ホワイトデストロイヤーの強靭な膂力に弾かれ、グレイは数メートル吹っ飛ばされてしまった。
ニッチェは懸命に頭にしがみついて落ちなかったが、グレイはその体重分いくらか大きく吹っ飛んだ気がしたし、髪の毛を毟られるかと思った。
受け身を取って態勢を立て直すと、既にホワイトデストロイヤーは目前に迫っていた。
グレイは機転を利かせ、ヤーグの刃に溜まった熱のリソースを、自らの身体能力の上昇に充てた。強化された瞬発力と跳躍力で白い鉤爪をかわし、ズザァと地を滑る。
しかし、間髪入れずにホワイトデストロイヤーも跳び上がる。運動能力も他のクァールの比ではない。グレイは首の後ろに、ひやりと冷たいものを感じた。
その時。上空から翼をはためかせる鳥ようなシルエットが横切り、ホワイトデストロイヤーを蹴飛ばした。クァールの女王は地面を転がり、攻撃者は空中を旋回し、グレイの傍に降り立つ。
「グレイ、大丈夫!?」
ブルートの声だった。変身魔法で褐色の大鷲の姿になっていた。
「ありがとう……」
グレイは礼を言いながら、強烈な既視感を覚えた。
「――なんか前にも似たようなことあったな?」
「え!? あったっけ?」
ブルートのくちばしが、パクパクと開閉して聞き慣れた声を発する。
「それより、ペティたちの避難はほぼ終わったんだけど、この里を取り囲むみたいにクァールが集まってきてる! ネルシスたちに応援を頼まないと、里が壊されちゃう!」
グレイは周囲を見回した。たしかに、この場からでも数体のクァールが、家々を噛み砕くのが見える。ペティを探しているのか。もし、避難が遅れていたら――。
嫌な想像を振り払い、グレイは遠慮がちな眼差しを送るブルートを見つめ返す。ニッチェが頭の上で『ふぉう〜(わたしはここに残ります)』と、つむじの辺りをポンポン叩いた。
「分かった。ホワイトデストロイヤーは俺が。みんなはペティの安全確保と、クァールの群れを頼む」
「うん! 危なくなったら呼んで! すぐ飛んでいくから!」
ブルートは奮い立つような軌道を描き、来た方角へ引き返した。――飛んでいく、というのは、比喩ではないのだろうなと思った。
グレイは、ホワイトデストロイヤーと再び相対した。白い女王クァールは、飛び去るブルートを一瞥し、警戒しながらグレイの方へにじり寄る。
「――それまでに終わらせる」
グレイは両手のヤーグの柄を握り直した。出し惜しみをしたら負ける。命を奪いたくないがために手加減をしていると、死ぬ。
俺には、まだやらなきゃいけないことがある――野生動物に犠牲を出すのは憚れたが、背に腹は代えられなかった。
グレイは今こそ、ソトースの滝で得た『あそび』の心を、ニッチェに見せる時だと意を決した。