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モラトリアム

 気がつくと、視界が少し霞んでいた。更に、開いた両眼が沁みる。全身がびしょ濡れで、寒い。両手脚がだらんと脱力し、背中と、顔から爪先にかけての温度感に差があった。

 それらの感覚を認識したのは、半ば無意識かつ同時で、グレイは目覚めと共に自分が水面に浮かんでいるのだと分かった。

 息苦しい。ゴボォと残された酸素を吐き出しながら、グレイは立ち上がった。思い切り大気を吸うと、喉が少しくすぐったくなった。


「わっ! びっくりしたぁ……」


 ブルートの驚く声が聞こえた。振り返ると、よろめいた態勢を直しており、どうやら川岸で自分を見ていたようだとグレイは分かった。

 グレイは、意識を取り戻してからつき纏う刺すような寒気に、我が身を抱いた。肩と歯を震わせながら、ブルートのいる方へ、川を横断する。

 よく見ると、ブルートの隣には、ネルシスとスリートもいた。グレイはやや下流へ運ばれつつも、やっとの思いで陸地に這い上がった。


「あぁ…………俺、どれくらい流された?」


 グレイは疲労の溜め息をつきつつ訊ねた。川の上流に目をやっても、荘厳なるソトースの滝は見えなかった。


「だいぶ。流れも速くて、追いつくのがやっとだったよ……全く動かないから、死んじゃったかと思ったんだよ? よかったぁ〜……」


 ブルートは答えながら、その場にへなへなと座り込んだ。


「そっか…………俺、どうなったんだ?」


 グレイは半身を投げ打つように仰向けになった。


「滝に入って、いくらもしない内にさっきの態勢で流れてきた。ひょっとすると少しだけ不謹慎かもしれないが、2コマ漫画みたいで面白かったぞ」


 ひょっとしなくても、少しじゃ済まない程度には不謹慎だ。グレイはそう思った。胸の芯が、鼓動の脈打つ度に締めつけられるような感覚からして、本当に死にかけていてもおかしくない。


「他のみんなは?」


 グレイはネルシスに一瞥をくれてやると、別の話をした。


「グレイさんが流されている間、ニッチェさんが今度はクロムさんとレインさんに滝へ入らないかと持ちかけていました。最終的には2人とも承諾して、僕たちはグレイさんを追い、ヘイルさんたちは万が一に備えて滝の傍で待機しています」


 グレイはスリートの説明を聞いて、慌てて起き上がる。身体と精神の動揺で、思わず咳き込んだ。


「えぇ!? どうして――」

「ふぉふぉーん(強くなれるからです)」


 聞き覚えのある声を振り返ると、肩越しにペティ族の長老ニッチェの姿があった。2本のヤーグを交差させ、その上にフライパンを乗せている。フライパンはヤーグの発する熱で、弾けるような音をあげている。

 グレイはよろよろと立ち上がった。寒さや疲れにも慣れてきた。森や川を通って澄んだ空気が、頭を冴え渡らせる。

 見ると、フライパンの上の卵は、黄身が2つあった。


「…………どうしてレインとクロムまで滝に? あなたは俺たちに『あそび』の心を取り戻させて、どうしたいんです?」


 グレイは率直な疑問を、そのままニッチェに投げかけた。


「ふぉう〜ん(もっと楽しく生きてほしいです)」


 ニッチェは大きいことを言うが、その表情はやはりどこか緊張感に欠ける。どうやらペティ族は緩い顔しかできないらしい、とグレイは思った。


「ふぉ〜(半分成功で、半分失敗って感じですね)」


 ニッチェはグレイを見て、残念そうに肩を落とす。他意はないのだろうが、グレイは少しムカッとした。


「ふぉふぉふぉーふぉん(もうちょっと『あそび』を思い出してほしかったですけど、やっぱり一皮剥けるのは難しいみたいです)」


 ニッチェはフライパンの上に視線を落とした。卵はすっかり焼き上がって目玉焼きとなっている。双子の黄身に対して、白身がかなり多い。


「そんなことないですよ」


 多分、と。グレイは脳裏にさっきまで追体験していた過去の記憶を浮かべながら、そう言った。


「大切なことは思い出せた気がします。それがあなたの言う『あそび』の心かは分かりませんけど」


 ニッチェは『ふぉん……(そうですか)……』と俯きがちになって返した。


「ふぉうん……(お客さんには本当の自分らしさを思い出してほしかったです……)」


 眉が少し垂れ、なにやら悲しんでいるらしいことが、デフォルメめいた表情からも察せられた。

 どうやら、ニッチェのこれまでの行動は、全て善意からきていたようだ。グレイはふと思うと同時に、今までどこか態度が冷たくなっていた自分をかえりみた。


「――滝に打たれると、強くなれるんですか?」


 バツが悪くなったのもあって、グレイは話題を変えた。


「ふぉんふぉん(強くなりますよ)」


 『ふぉふぉふぉん(あなたはもう強くなってます)』、と。ニッチェは言い切った。

 グレイは知らずに――というか聞かされずに――滝へ入ったというのに、そんなことは気にしていないみたいだ。

 無邪気と言えば聞こえはいいが、グレイからすれば、やや無責任で理不尽というのが正直な感想だった。


「昔のことを思い出したら、強くなってるんですか?」


 グレイにはとてもじゃないが鵜呑みに出来ない話だった。

 滝に入ってからしたことといったら、夢見るように過去の記憶を垣間見て、川に流され窒息しかけたくらいだ。

 それだけで強くなるなら、今までの鍛錬は何になるのだ。


「ふぉふぉーん(この剣は、あなたの魂)」


 ニッチェは、ズイと2本のヤーグをグレイに向けた。相変わらず独りでに熱が放出され、刃の重なる上に置かれたフライパンの中で、卵が縮こまるような音を立てている。


「ふぉーんふぉふぉーんふぉふぉーんふぉふぉん(剣を鍛えるには、魂を鍛えます。魂を鍛えるには、生きることで得る学びや成長を通して、自分自身を知る必要があります)」

「魂を鍛える……自分を知る…………」


 グレイはニッチェの言葉を繰り返す。たしかに、約3ヶ月前の修行では、グラディエラ氏の指導によって精神を鍛えるものもあった。

 瞑想や座禅をはじめ、自分を見つめ直すことが主目的だと、全盲の老教官は語ったことがある。

 恐れに負けない強さ――それを手に入れるために、グレイは数週間、仲間と別行動をとったのだ。


「ふぉーんふぉふぉん(たしかに恐いのは嫌ですけど、恐いと感じる心が大事な時もあります)」


 ニッチェは言いながら、ヤーグを地面に置き、フライパンをひょいと持ち上げた。

 熱を帯びたで交差した2本の剣が、蜃気楼が生じさせている。

 揺らめく刃は、まるで持ち主(グレイ)と呼応しているように見えた。


「ふぉん、ふぉふぉん(あなたには、いつかそれを分かってほしいです)」


 ニッチェは、これまでになく真剣な眼差しをグレイに向けていた。つぶらな瞳を見つめ返すと、やはり見透かされているような、それでいて何も考えていないような印象が持たれた。

 自分を知ることで強くなる――それは、つまりまだ自分のことで知らないことがあるということなのか? 自分のことを全て知れたら、そこが強さの限界なのか? じゃあ、自分はどれほど自分のことを知らず、どれだけ強くなれるのだろう?

 グレイは、ニッチェからヤーグへと視線を落とし、考えていた。もし、昔のことを思い出すことで自分を知り、強くなれるとするなら、忘れている記憶を取り戻すことで、もっと力をつけられるのか。


 今まで、気にしたこともなかった――色々な考えが頭を巡る内に、グレイは自分のことが少し分からなくなってきた。

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