ソトースの滝
グレイは、1度わざわざ川辺へ引き返し、スリートの唾液まみれになった掌を洗った。
「にしたって、お前あんま体できてないのな」
『大体トレーニング量同じなのに』と、手を払って水滴を落としながら戻ってきたグレイにとぼけたような調子で訊いたのは、クロムだった。その煽り文句は、グレイにはヘイルの時より効いた。
クロムとは、日々の鍛錬の質も量も、さして違いはないはずなのだが。寮の自室や浴室などで出くわす際は、その体格差に眉をひそめるのが毎度のことだった。
グレイは歩きながら、制服のズボンを脱ぐか脱ぐまいかを考えあぐねていた。シャツを脱ぎ払うのとは、これは訳が違う。
ニッチェの元に辿り着く手前で決心し、グレイは木陰に寄ってズボンを脱いだ。下半身を晒す羞恥より、ずぶ濡れのズボンを履いたままの帰路を憂いた。
なんで俺がこんな目に。俺はいつも救世主の使命を全うするために頑張ってきたのに。その末路が今、これか。俺が一体なにをしたっていうんだ――。
グレイは湿り気を帯びた目の前の樹木を睨みながら、独り考えた。脱いだズボンを畳んで、シャツと一緒に汚れなさそうなところに置き、仲間の方を断じて見るまいとニッチェを凝視しながら歩いていく。
浮かれて、妙に気合いの入ったようなパンツを選ばなくてよかった。グレイは今朝の自分に心から感謝した。
「うそ……グレイって脚細くない?」
ブルートが少し上ずった声色で誰かに言うのが聞こえた気がしたが、風に揺れる木の葉と川面を打つ滝の音が成した悪戯かもしれなかった。
パンツ1枚のみを纏った後ろ姿を晒しながら仲間の面前を進んでいると思うと、今すぐ服を着直したくなったが、グレイはなんとか堪えた。
「えっ!? グレイおにいちゃんあそこの滝に入るの? いいな〜っ! チルドも入りたい!」
「駄目〜下手すりゃ死ぬ〜」
無邪気なチルドと容赦なく現実を教えるグロウのやり取りが聞こえ、耳が痛かった。滝の放つ轟音で掻き消されてもおかしくない会話だが、人は神経質になると地獄耳になるのかもしれないと、グレイは思った。
すれ違いざま、ニッチェが『ふぉう〜ん(次は誰にしましょう)』と呟くのも聞き逃がせず、グレイは立ち止まった。
「え……みんなにもやらせるんですか?」
その口調には、僅かに憤りが滲んでいた。
「ふぉふぉふぉんふぉん(できればみなさんに『あそび』の心を思い出してほしいんです)」
ニッチェはねだるように上体を左右に揺さぶった。数時間前ならば、それも可愛らしく見えたのだろうが、今はその様からは苛立ちしか感じられない。はぐらかされているような……おちょくられているような気さえしてくる。
しかも。グレイが『あそび』の心を取り戻すのと引き換えに【知りたいこと】を教えるというニッチェの取り引きも、思えば成り立つかは怪しい。
グレイが知りたいことは【預言者】のことだ。だが、ニッチェは1度も【預言者】のことを教えるとは言っていない。ただ、グレイの【知りたいこと】と言うだけだ。それも、【預言者】という言葉を聞くと気絶してしまうニッチェの能力によって、グレイも疑いはすれど確認をとることが出来ないのだ。
「――俺が『あそび』の心を取り戻せば、少なくとも俺が【知りたいこと】は教えてくれる……そう思ってるんですけど、間違ってませんよね」
グレイは疑心に駆られ、釘を刺した。対するニッチェは、尚ものほほんとした佇まいを変えない。
「ふぉーん、ふぉふぉん(それはもちろん。わたしがさっきみたいに眠たくなってなければ)」
ニッチェの認識では、あれは気絶ではなく寝落ちらしい。
「ふぉんふぉんふぉふぉん(本当はみなさんに『あそび』の楽しさを思い出してほしいですけど、待ってたら風邪を引いちゃいますし、難しそうです)」
――ニッチェの言葉を信じるなら、どうやら約束は守られるようだ。グレイは沸騰し始めたような腹立たしさを抑え、今度こそ滝の麓へ向かわんと、その場で靴とソックスを脱いだ。
「滝の中に入ったら、どうすればいいんです?」
「ふぉうーん(前をずっと歩けばいいです)」
人に滝行を強いておいて、あまりにも適当で無責任な指示だ。グレイは、もはや何も感じていなかった。滝に打たれれば【預言者】のことが分かる――分かりやすくて助かるくらいだ。
ニッチェは言いながら、先ほどからトカンがずっと持っていたフライパンを見つめた。正確には、そのフライパンの中心で弾む卵を。
「ふぉふぉふぉーん(待ってる間に、これを食べたくなっちゃいました)」
川底を撫でるような緩流に裸足を投じようとしたグレイを、まるで引き止めるようにニッチェは声を張る。自然、グレイの細足は空中で停止する。
見やると、ニッチェがトカンの手ごとフライパンを掲げ、グレイに向けていた。
「ふぉう〜ん(ちょっと熱いのを貸してください)」
図々しい頼み事だ。グレイは若干の抵抗感はあったものの、右手のヤーグを出現させ、ニッチェの足元に差し出した。
「ふぉふぉー(もう1本も使った方が早く出来上がると思います)」
ニッチェはヤーグの傍で屈み、全てを見透かしているのか、あるいは何も考えていないのか分からない眼でグレイを見つめる。
グレイは背筋に薄ら寒いものを覚え、ペティ族が気味悪くすら思えた。が、ニッチェの大きく丸い瞳に、半ば圧倒される形でもう1本のヤーグを左手に出現させる。それを、右のヤーグの上に置こうと膝を折った。
「ふぉーふぉっふぉ(そっちを下にした方がいい気がします)」
すると、ニッチェが今度は左のヤーグを指して言った。注文の多さに苛立たないではなかったが、それよりもグレイが気にかかったのは、まるでニッチェがヤーグのことを知っているかのような物言いをすることだった。
――持ち主である自分より、理解しているかのような。
「一体、なんでそんな…………」
グレイは疑心や戸惑いを隠せなかった。ニッチェ――ひいてはペティ族の実態が、いよいよもって訝しまれた。
しかし、もはや疑るのも、そのために二の足を踏むのも億劫に思われて、グレイは波風を立てずに従った。左のヤーグの上に、右のヤーグを☓字に重ねる。少し力を込めて刃同士を衝突させ、その摩擦熱によって秘剣の炎が立ち昇った。
そもそも、なんで俺なんだ。加熱するなら、レインの魔法でも代用が利くのに、わざわざ素っ裸になって瀑流に打たれようとしている俺に――グレイは、跳ねるように喜ぶニッチェを一瞥しながら思った。
グレイは、ニッチェが揚々と2本のヤーグの上にフライパンを乗せるのを背中越しに感じながら、ついに透明な流水に何も纏わぬ脚を突き入れた。
「――っ…………」
瞬間。灼けるような冷たさに、思わず唸る。皮を剥ぎ、隙間なく針を突き刺されているかのようだ。
意を決して、トンと土を蹴り、水底へ降りる。腰ほどまで一気に清流が浸食し、下半身の肌が全て凍てついた。全身に鳥肌が立ち、上半身さえ筋肉が硬直して石像にでもなりそうだ。
グレイは身体の芯まで貫くような寒さに耐え、己を鼓舞してソトースの滝へと大股で進んだ。唯一我が身を覆う下着が貼りついて気持ち悪い。川の流れに逆らう足取りは重く鈍い。だが、それでも進み続ける。
全ては【預言者】のことを知るため――目的がグレイの意志を堅持させていた。
森を縫うように吹き抜ける風が、濡れた肌を凍えさせた。歯をガチガチ鳴らし、小刻みに震えながらも、グレイは雄々しく川を上っていく。
どれほどかかっただろうか。そうしてグレイは、ついにソトースの滝の目前まで辿り着いた。激しく飛び散る飛沫が顔や薄い胸板を叩く。木々のさざめきも風葉の音色も、全てが滝と川面との衝突音に掻き消されている。
間近に見て、殊更に痛感する――ここへ生身で踏み入れば、きっと無事ではいられない。
「いくぞ…………」
自らを奮い起たせる呟きも、グレイ自身には聞こえなかった。
ゴオオオォォォォという音が鼓膜を、白い壁にも見える水流が視界を支配していく。
グレイは、スゥーッと息を止め、その中へ潜り込んだ。