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1話

 そこは、いつも通りの教室。

 いつも通りの授業風景。

 机から机へと回されるノートの切れ端。

 響くチョークの音に隠れるようにして、こっそりとメールを打つ者。

 あるいは、真面目にノートを取る者。

 あるいは、堂々と居眠りをする者。


 ちなみに、先程から黒板を見つめている遠竹瑞貴はどうかというと……真面目に聞くつもりもなく、さぼる度胸もなく何となくノートをとっているような、そんな大半の者の中の1人だったりする。


 呪文のような教師の言葉は、すでに耳を通り抜けるだけになっている。

 そんな瑞貴が何をしているかといえば……真面目に聞いているフリをして、想像の世界に入り込んでいたりする。

 これもまた、いつも通りではあるのだが。


 想像する。

 例えば、今授業を受けているこの教室に、自分以外誰も居なくなったなら。

 例えば、世界に誰一人として居なくなったなら。


 シャーペンをくるくると回しながら、瑞貴はそんな事を考える。

 別に誰かが嫌いというわけではない。


「あえて言うなら、今いる場所が嫌いなんだよね」


 そう、その通りだと瑞貴は思う。

 流石に、中学生にもなれば現実も見える。

 非日常的な生活なんていうものは、簡単に転がってはいない。

 そういうものは転がるべき人のところへ転がるのであって、瑞貴のような「その他」に回ってくることなんてない。

 瑞貴達に出来る事なんて精々、想像するくらいだ。

 そう、例えば。


「例えば?」


 ドクン、と。瑞貴は自分の心臓が跳ねあがる音を聞いた。

 いつの間にか声に出ていたのだろうか、と焦る。

 自分の想像に、先程から合いの手を入れている誰かが居る。

 声のした方、隣の席へと振り向くと……ギイ、と椅子を揺らす少女がそこに居た。


 そのとき瑞貴は。

 生まれて初めて、一目惚れという感覚を味わった。


「ねえ、続きは?」


 真ん中で分けられた銀色のロングヘアと、吊り目気味の青い目。

 透き通るような、白い肌。

 だが。

 その印象を全て塗りつぶすような、赤を少女は身に纏っている。

 赤い服。それはドレスにも似た、とても鮮やかな赤い服だった。

 胸元のリボンも赤く……だが、羽織った赤いコート……いや、マントのようなものが、やけに目を引く。


 全身を赤色に覆われた少女から、瑞貴は目を離せない。

 机の上には、投げ出された携帯電話。

 悪趣味にキラキラ光るドクロのストラップを指で弄りながら、その少女はそこに居る。

 非現実を体現したかのような少女の姿と、現実的な携帯の組み合わせ。

 それは瑞貴の望んだ現実が目の前に現れたような、そんな感覚。

 だからこそ、少女から目が離せない。

 何故なら、それは。

 待ち望んで、しかし諦めていた……その瞬間にも思えたからだ。


 少女に目を奪われていた瑞貴は、教室の様子がいつの間にか変わっている事にようやく気付く。

 いつの間にか、辺りはしんと静まり返っている。

 いや、違う。誰も居なくなっている。

 瑞貴と。

 瑞貴の隣に座る少女以外には、誰も。

 あれだけ騒がしく響いていた車のクラクションも。

 校庭に響く笛の音も。何も、聞こえてこない。

 まるで、瑞貴の想像した通りになってしまったかのようだ。


 そんな、まさか。

 救いを求めるように瑞貴が隣の席を見ると、少女は顔を背けていた。

 言葉などいらないというかのように肩を震わせながら、少女は。

 耐えきれないというかのように……大爆笑、していた。


「いや……え? あれ?」


 瑞貴の目の前に広がっていた非現実が、急速に消えていく気がした。

 あれ、と瑞貴は現実的な妥協点を探り始める。

 ひょっとしてもう放課後で、誰もいなかったとかいうオチだったのだろうか?

 青ざめていた顔が、急速に上気していくのが分かる。


 終わった。


 瑞貴は自分の人生に、終了のお知らせが鳴り響くのが聞こえたような気がした。


「うぁー……なんか死にたい……」


 明日から自分の仇名は妄想男になるに違いない、と瑞貴は頭を抱える。

 そんな様子を見つめながら、少女はニヤニヤと瑞貴の顔を覗き込んでいて。

 少女は心の底から面白くて仕方が無い、といった様子で瑞貴の頬をつつく。


「ミズキってば面白いねー」

「面白い脳しててごめん。なんかもう、時間を巻き戻したい……」

「やー、それは困るよ。折角会えたのに」

「え?」


 そういえば、と瑞貴は思う。

 少女が着ているのは、瑞貴の学校の制服では無い。

 そもそも、少女の顔を瑞貴は知らない。

 こんなに綺麗な子なら、絶対に覚えているはずだという確信もあった。

 それに冷静に考えれば、おかしい。

 いくら放課後だったとしても、静かすぎる。


 その事実に気づいて瑞貴は教室を見回すが、自分と少女以外の気配は全くしない。

 例えるなら、真夜中の誰も居ない街の静けさ。

 そこから、風や遠く響く電車の音、鳥や犬の声をも取り除いたような、そんな不自然な無音。


「あの……」

「ん、何?」

「ここ……教室、だよね?」

「そうだよ? 一年二組の教室」


 何を今更、と言いたげな少女の口調に、瑞貴は溜息をつく。

 ああ、やっぱり自分の脳が花畑なのか、と考えて頭を抱える瑞貴の肩に、小さな少女の手がのせられる。


「いやあ、私は君のそんなとこ、好きだよ?」


 携帯のストラップをクルクルと回転させて、少女はニヤニヤとした笑いを浮かべる。

 クルクルと回されていたストラップのドクロが、目を回してうげえ、と言っている。

 そりゃあ、あんなに回されたら気分も悪くだろう、と瑞貴は軽く同情する。

 机に向かって吐いている姿は、いっそ哀れにすら見えた。


「って、ちょっと待った。何ソレ!?」

「え、ストラップだけど」

「違う、ストラップは吐かない!」

「えー、ストラップ差別だぁ」


 冷静になって、瑞貴は辺りを見回す。

 そこは、間違いなくいつもの教室だ。


「ほんとに?」


 そう言われると、瑞貴には自信はない。


「ミズキってさ。ほんとに面白いよね」


 椅子をギィ、と鳴らして少女は言う。


「望んでた場所に来れたくせに、探すのはいつもの場所なんだ?」


 その言葉に。

 瑞貴は、頭の中を思い切りかき回されたような感覚を味わった。


「望んでた……場所?」

「嫌いだったんでしょ? さっきまでいた場所が」


 瑞貴は、あの時聞こえてきた声を思い出す。

 自分の世界に入り込みすぎていたせいで分からなかったが。

 恐らく、あの時から。


「うん、正解。ミズキってば、気付くの遅いねぇ」


 だとすると、本当に世界から……人が消えたのだろうか。

 此処が瑞貴の想像の世界であるならば、そういうことになる。

 しかし、それならば少女に対しての説明がつかない。

 確かに、少女は瑞貴の理想の姿をしているといっていい。

 だが、瑞貴はそんな鮮明な想像をしたことはない。

 ならば、何処かで会ったのだろうか?


 瑞貴は、少女の事を思い出そうとする。

 けれど記憶の糸をいくら辿ってみても、少女の事が思い出せない。


「あの……僕は、此処は、その、あの」


 言葉が出てこない。自分の考えがまとまらず、それでも瑞貴は口を開く。

 口をパクパクとさせるばかりの瑞貴の額を、少女が溜息まじりにコツン、と突く。


「落ち着け、ミズキ。君は自意識過剰がすぎるよ?」


 僕の目を、少女の青色の瞳が覗きこむ。


「ここはそんな世界じゃないし、君はそんなに重要人物じゃない。あと……」


 あと……なんだろう、と瑞貴は思う。

 かかる吐息と、少女の青い瞳。

 香ってくるのは、レモンの香りだろうか?

 混乱した瑞貴の頭の中が全部、少女のことで埋まっていきそうになって。

 そんな瑞貴に、少女はこう告げる。


「そろそろ授業終わる時間だし。また、後でね?」


 その言葉と同時。

 急速に、何かが変わっていくのが瑞貴には分かった。


「待って、君の名前……!」

「大丈夫、また会えるよ。ミズキが望むなら、すぐにでもね」


 強烈に引き戻されていくような感覚を、瑞貴は味わう。

 いや、実際に引き戻されているのだ。

 ダストワールドから、世界へ。

 だが、そんな事は瑞貴には分からない。

 掻き消えるように、瑞貴の意識はダストワールドから消え去って。

 だが、少女の前には薄く半透明な瑞貴の姿が残されている。

 それに触れようとした少女の指はしかし、半透明の瑞貴を通り抜けてしまう。


「……大丈夫。世界との繋がりは、これで出来た。次はもっと簡単にできるはずだもの」


 自分を納得させるように、抑え込むように少女は呟く。

 瑞貴の残した姿を、愛おしそうになぞりながら。


===


「おぉい、瑞貴、おーい、遠竹くーん。とぉーたぁーけぇ!」


 ドラム缶の中で響かせたような、野太い男の声が聞こえる。

 小島耕太。

 瑞貴の隣の席にして悪友、更には幼馴染だ。

 染めた茶髪のロングヘアと、黒い目。

 適度に日焼けした、浅黒い肌。

 記憶に残る少女のロングヘアと比べてみて、瑞貴は目の前に広がる光景に絶望する。

 現実は残酷だ。

 どうして自分の隣はこいつなんだろう、と瑞貴は落ち込んだ顔をする。

 そんな瑞貴の気も知らず耕太は、瑞貴の机に座って足をバタバタさせている。

尻を乗せるなら自分の机に乗せればいいのに、と心の底から瑞貴は思う。


「昼飯食いに行こうぜ!」


 いつの間にか、そんな時間になっていた。

 まるで、時間を吹き飛ばしたかのように瑞貴には授業を受けた記憶が無い。


「……夢、だったのかな」

「おーい。寝ぼけてんのか? 早くいかねーと、カツカレーなくなっちまうぜ?」

「いや、僕はうどん派だし。ゆっくり行こうよ」

「なんてやつだお前。親友の胃袋に対する優しさってやつを持とうぜ?」

「そんなもんはないなぁ……大体、胃袋に対する優しさってなんだよ。胃薬?」


 言いながらも瑞貴と耕太は、連れだって食堂へと歩いていく。

「常々思うんだけどよ」

「何を?」


 耕太は瑞貴の顔を見ると、盛大に溜息をつく。


「なんで俺には美人で優しい幼馴染がいねえの?」

「耕太、それ綾香に聞かれたら殴られるよ?」

「おーい、そこのバカセット。男2人で何やってんの?」


 瑞貴達が食堂に入ると、カツカレーを抱えた女子がこちらに歩いてくるのが見えた。

 どうやら瑞貴と耕太を置いて、さっさと人気メニューの確保に動いていたようだ。


「よぉ、綾香。何それ、俺への貢物?」


 耕太の手を叩くと、綾香は近くのテーブルにカツカレーを置く。

 霧峰綾香。

 短く切り揃えたショートカットが印象的な、瑞貴と耕太の共通の幼馴染だ。

 瑞貴、耕太、綾香の幼馴染トリオだが、残念ながら耕太の希望事項である「優しい」が当てはまらない。

 恐らく瑞貴がさっきの事を言ったら耕太はひどい目に合うだろう。

 瑞貴は耕太の悪友として、幼馴染として……なんと誤魔化すべきだろうか、と考える。

 話さない、という選択肢は瑞貴には無い。

 綾香も瑞貴の大切な幼馴染の1人。

 ならば隠し事なんかせずに、ありのまま伝えるべきだ、と結論付ける。

 それに、後でバレて怒られるのは嫌だった。


「耕太が綾香は優しい美人の幼馴染じゃないって言っててさ」


 笑顔で耕太の脛に蹴りを入れる綾香の姿を見て、瑞貴は心の中で耕太に謝罪する。


「瑞貴」

「何?」


 矛先が自分に向いた事を感じた瑞貴は慌てて、フォローする言葉を捜す。


「大丈夫。綾香は美人だと思うよ」


 とっさに口にした割にはいいんじゃないか、と瑞貴は心の中でガッツポーズをする。

 そう、嘘はついてない。

 実際、綾香は美人の部類に入ると思っていた。

 可愛いというよりは綺麗といった言葉がピッタリで、運動神経もあるし頭もいい。

 瑞貴にとって、綾香は自慢の幼馴染であった。

 ただし、少々暴力的な面があるのも事実なのだが。

 そんな少しばかり失礼な事を瑞貴が考えているとは露知らず、綾香はきょとんとした顔を浮かべる。


「あー……ふぅん。そう」


 機嫌を直してくれたのか、綾香はそう言うと席に座ってカツカレーを食べ始める。

 ガツガツ、といった表現がよく合う食べ方だ、と瑞貴は思う。

 どちらかというと男らしく、耕太の食べ方と似ているところがある。

 そのあたりは、流石に幼馴染というところなのだろう。


「ん」


 豪快な食べっぷりを見せていた綾香は、気がついたように瑞貴達をスプーンで指す。


「いいの? 並ばなくて」

「げっ」


 言われてみると、確かに食券を買っていない。

 こうして話している間にも、人気メニューの食券は売り切れに近づいていくのが食堂というものだ。

 それに気付き、瑞貴と耕太は慌てて長い列に並ぶ。

 うどんはともかく、カツカレーはもう絶望的だろうと瑞貴は考える。

 同じ事を考えて頭を抱える耕太の後ろに並んだ瑞貴は、財布の中の小銭を確認しようとして……ふと鼻をくすぐったレモンの香りに、思わず振り向く。

 すると振り向いた先にいた女子が、ビックリした顔をしているのが見える。

 その姿は、記憶の中の少女とは全く似てはいないが……瑞貴にとって、見知った顔だった。


「な、何? 遠竹君」

「え、あ、いや。ごめん、古沢さん」


 そこにいたのは、同じクラスの古沢夕だった。

 当然ながら、あの少女ではない。


「あ? どした、瑞貴。ナンパか?」

「違うってば。人違いだよ」


 振り返る耕太に、瑞貴はそう誤魔化す。

 実際人違いだから嘘はついてない。


「ほんとかぁ? なあ、古沢」

「あ、あはは。違うよ小島君。それに、遠竹君はそんな人じゃないよ?」

「マジかよ……何その高評価。瑞貴てめぇ、俺を差し置いてモテようたって許さねえぜ?」


 瑞貴は絡んでくる耕太を、とりあえず無視する。


 レモンの香り。

 瑞貴は、夢で出会った少女を思い出す。

 名前すら分からない。

 けれど、記憶に焼き付いて離れない少女。

 あの少女に……もう1度会いたいと思っていた。


 想像する。

 例えば、そのテーブルに少女が座っていて。


「やぁ、また会ったね」


 気がつくと……瑞貴はまた、静かな世界にいた。

 手に持った月見うどんは、そのままに。

 綾香の座っていた場所に少女が座っていて。

 机の上には、クリームパン……のようなもの。

 それと、あの悪趣味なドクロのストラップの携帯電話。


 周りの音は、また消えている。

 あれ程騒がしかった食堂は無音で、食堂のおばちゃんの姿もここにはない。


「どしたの? 座りなよ」

「あ……うん」


 瑞貴が促されるままに正面の席に座ると、少女は満足そうに頷いてクリームパンをかじり始める。


「食べないの? のびるよ」


 言われて、瑞貴は慌ててうどんを口にかきこむ。


「あのひゃ」

「食べながら喋らない」


 ごくん、と飲みこんで。


「僕は」

「遠竹瑞貴。知ってるよ」


 少女はそう言うと、携帯を片手でクルクルと回し始める。


「私は、ミズキを知ってるよ」


 また、あのニヤニヤとした笑顔を少女は浮かべる。

 人を小馬鹿にしたような、全てを見透かしたような。

 けれど、瑞貴はそれを不快とは思わなかった。

 それよりも、言わなければならない事がある。


「僕は、君を知らない」

「そうだね」

「だから」


 名前を教えて、と。

 そう言いかけた瑞貴の口を、少女が指で制する。


「君は、此処のことも知らないね」


 確かに。

 瑞貴は、今居る此処が何なのかも知らない。

 だが、それよりも。


「ダメだよ」


 また、瑞貴の心を見透かしたような言葉が少女から返ってくる。


「誰でも、今居る場所が何処か知ってるから立ってられるんだよ」


 今居る場所、それは。


「自分の存在する場所を理解できないってことは、自分の存在の定義すらできないってこと。例えばここは食堂だけど、君の知ってる食堂じゃない」

「だけど、僕は此処にいるよ」

「そうだね。でも、ミズキの定義する食堂は、此処じゃない。だからこそ、ミズキは向こうに簡単に揺り戻されちゃうんだ」


 それはつまり、軸足をどっちに置いているかみたいな話なんだろうかと瑞貴は考える。


「似てるね。でも、ちょっと違う。ミズキにとって此処は、何があるか分からない暗闇みたいなものだよ。怖くて、恐る恐る足を出してはみても、踏み込むことすらできてない」


 少し、苛立たしげに少女はクリームパンにかじりつく。


「そうだね、苛立たしいよ。手に届く場所にいるのに、今のミズキは蜃気楼と同じだ。さっきは嬉しかったけど、届かなかった時より余程じれったいよ」


 怒っている。

 何故かは分からないけれど、瑞貴のせいで。

 その事が、瑞貴に理由の分からない罪悪感を抱かせる。


「あの」

「ミズキ。時間がないから、ひとつだけ教えるね」


 謝ろうとした瑞貴を遮って、少女はこう告げる。


「君はワープしてるわけじゃない。此処にいる君と、向こうにいる君。例えれば、壁を挟んで右と左で違う風景が見える状態。それが今のミズキだよ」


 また、急速に何かが変わっていくのが分かる。

 視界が歪むような、滲むような。

 やがて視界が元に戻ると、別の何かが目の前にあるのが分かる。

 指が1本。綾香の指が瑞貴の目の前に突き出されている。


「え、何?」

「何? じゃないでしょーが。ずっとボーっとしててさ」


 気がつくと、目の前のうどんの器は空になっている。


「あれ、いつの間に食べ終わったんだっけ」


 それを聞くと、隣でニヤニヤしてた耕太がハシで突いてくる。


「オイオイ、お前ずーっと綾香の顔見ながら食ってたぞ? 俺は何事かと思ったぜ」

「え、マジ?」

「おう」


 ワープしてるわけじゃない、という少女の言葉が、瑞貴の中に蘇る。

 瑞貴はここで月見うどんを食べていた。だが、瑞貴は少女と一緒にいたはずだ。綾香と同じ席に座っていた、少女と。自分の記憶と友人達の語る自分の姿の差に、瑞貴は得体の知れない不安感を抱く。


「さて、と。そろそろ行こうぜ。昼休み終わっちまうよ」

「あ、そうだね」


 瑞貴もそう言って、うどんの器を戻すべく立ち上がる。

 つまりあれは自分の精神世界とか、そういうものなのだろうか、と考えて。


「違うよ」


 瑞貴の目の前に、少女が立っていた。たった今まで居た幼馴染達の代わりに、少女が其処にいる。


 急に視界を占領した赤い姿に、瑞貴は思わずのけぞってしまう。


「いい傾向だね、ミズキ。世界を混ぜる間隔が短くなってる。この世界と私……どっちに興味を持ってるのかは気になるところだけど、とりあえず疑問に答えようか」


 少女は瑞貴の胸元に手をのせると、ニヤニヤとした笑みを浮かべる。そのまま瑞貴の姿をなぞるように手を横へ、上へ……あるいは下へと動かす少女に、瑞貴はドキドキして声すら出ない。


「此処も現実。ダストワールドなんて呼ぶ奴もいるけどね。そっちの世界と重なり合うように存在してる世界なんだってさ」


 ダストワールド。

 塵とかゴミの意味なんだろうか、と瑞貴は考える。


「よく分からないけど……あ、そうだ。名前! 君の名前、まだ聞いてない」

「知りたいの?」

「うん」

「なんで?」


 聞き返されて、瑞貴は返答に詰まる。

 なんで、と聞かれても明確な理由など出ては来ない。

 ただ、知りたいからだとしか答えようが無い。


「私に興味がある、と」

「うん」

「私の事が知りたくてたまらない、と」

「あ……うん」


 微妙に意味が違ってきているのを感じつつも、大筋では間違っていないので瑞貴は否定をしない。


「ふふん」


 嬉しそうに鼻を鳴らすと、少女は例のニヤニヤ笑いを浮かべる。


「でもなあ、あんまり教えたくないんだよ」

「なんで?」


 ひょっとして、変な名前だったりしてトラウマがあるんだろうか……と瑞貴は考える。例えば、豪剣寺道明とかいうイカツイ名前であるとかだったら、名乗りたくないかもしれない。

 悪い事を聞いてしまったな、と瑞貴は一人で納得する。


「ごめんね……なんか、変な事聞いちゃって」

「いや、逆に豪剣寺とかカッコよくないかな。すごい必殺剣とかもってそう」


 また心の中を見透かされるけれど、慣れてしまったのか驚きはしない。


「あのさ、ミズキ」

「何?」

「前から言おうと思ってたんだけど。時々声に出てるからね、君」


 瑞貴が衝撃の事実に頭を抱えていると、少女は瑞貴の頭をぺしぺしと叩く。


「あんまりいい名前じゃないからねー。教えたくないんだよ。私の固有名ってわけでもないしね」


 しばらく悩んだような様子を見せると、少女は瑞貴の耳元に唇を寄せる。


「赤マント。それが私の名前だよ、ミズキ」


 赤マント。怪人赤マントのことだろうか。

 確かに、少女は赤いマントをつけてはいるが……けれど、それよりも名前を教えてもらって余計困ったことになった。

 これから少女を何と呼べばいいのだろうか、と瑞貴は悩む。

 赤マント? 赤マントさん? いやいや、赤さん……なんかまだ変だな、と一人で瑞貴は呟き始める。


「赤ちゃんとか呼んだら怒るから」


 それはないなあ、と瑞貴は思う。

 思いついても言うのは耕太くらいしか思いつかない。


「呑気だね、ミズキ」

「何が? ここにいることなら、もう慣れたけど」


 瑞貴の返答のどこがおかしかったのか、赤マント……少女は、瑞貴の鼻を軽くつまむ。


「普通赤マントっていったら、恐怖の対象でしょ。ブッ殺されるとか思わない?」

 おかしな事を聞くなあ、と瑞貴は思う。

 もしそうなら、瑞貴はとっくに殺されているはずだ。


「思わないし、恐くないよ」

「なんで?」


 なんでだろう、と瑞貴自身も思う。

 そう聞かれると、とても返答に困る。

 もう何度も会ってるから、というのは何だか違う気がして、瑞貴は言葉を探す。

 だから瑞貴は考えて、理由を探してみるが……上手い言葉が出てこない。


「ごめん、分からない」

「そっか」


 てっきり怒るか呆れるかされると思っていた瑞貴だったが、意外にも赤マントの少女はそう言って、あのニヤニヤ笑いを浮かべる。


「まあ、正解かな。私の方はミズキのこと、気に入ってるからね」

「え?」


 まるで、別の少女が居るような言い方だ、と瑞貴は思って。

 赤マントの少女は、そんな瑞貴の顔を見て苦笑する。


「だからさ、赤マントは固有名じゃないんだってば。私の知ってる限りだと、あと一人いるかな」


 瑞貴の胸元を指で突くと、赤マントの少女は遠くを見るような目で溜息をつく。


「まあ、ミズキの気にする事じゃないよ。万が一近寄ってきたら私が何とかするから。ね?」


 ね、と言われても何と答えるべきか分からない。そのもう一人の赤マントとは友達じゃない……ってことなのかな、と瑞貴は納得する。


「そ、そっか。ところでさ」

「うん。何? ミズキ」

「これから、なんて呼べばいいのかな」


 その言葉に、赤マントの少女は意外そうな顔をする。


「教えたじゃない、名前」

「うん。でも、固有名じゃないって」


 例えるなら、それは耕太や綾香の事を人間さん、と呼ぶようなものに思えたから。

 間違ってはいない。

 でも、正しくはないと思うから……瑞貴は、赤マントの少女をそんな風に呼びたくはなかった。

 だから、瑞貴は正直な気持ちを告げる。


「僕は、君を君の名前で呼んでみたい」

「そっか」


 赤マントの少女はそう言うと、窓の外を眺める。

 その様子は、どことなく嬉しそうで。

 誰も居ない、無音の風景。

 少女はそこから視線を戻すと、あの携帯電話を手にとって。


「ミズキ、君の携帯。出して」

「あ、うん」


 言われて、瑞貴はポケットから携帯電話を取り出す。

 アドレスを交換すると、僕の携帯には赤マント、という名前が表示される。


「名前、決めよう」


 赤マントの少女はそこを空欄にすると、そう囁いた。


「私の、私だけの名前。これから、決めよう」

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