07.失った記憶
「アルバ」
警戒を促すように、人形が小声で叫んだ。
「……どうしたの?」
「気をつけて。ここら辺は、どうやら誰かのテリトリーらしい」
「え?」
「さっき通った木の下の辺りに、獣の足跡がいくつかあった。多分、間違いないと思う…」
狐狸の類ではない。
明らかに、獰猛な爪を持った獣のそれだと。
「……で、でも、今までそんな獣に出くわさなかったじゃない」
心なしか声が小さくなる。
時間はもうすぐ夕方から夜にかわる。
夜行性の獣が動き出す時間だ。
「うん。それが僕も不思議でならなかったんだ。ねえ、気づいていた? 僕たちは鳥すら見かけてないんだ」
その言葉に、そういえばとアルバは思い出す。
途中から、鳥の声も聞こえなかった。
自分たち以外の生き物を、ここにくるまで一度も見かけていない。
考えなくても、それは異常な事だ。
獣に襲われずにすんだと、単純に喜べない何かがある。
「この辺りは、なんだか胸騒ぎがする。アルバ、少し遠回りになるけど、引き返そう」
「……でも。もう、すぐ近くまできてるんでしょう?」
もう日も暮れる。
足元も暗くおぼつかなくなってきた。
背の高い木々が仇をなして、一足早く夜がきてしまったかのように辺りは暗い。
それでも、遠くのほうから赤い光がわずかに入ってきていたが、それもじきになくなってしまう。
引き返せば、余計な時間を食うことになる。
それでは今まで歩いた道のりが全て無駄になる。
「……僕達は確かに急いでるけど、アルバ、君の安全が第一だよ。引き返そう?」
ここまで獣道を歩かせておいて、今さら安全がどうのこうのと言われても困るのだが。
けれども、その言葉は何よりも的を得ていた。
「………うん。わかった。引きかえっ」
「アルバっ!!」
人形が、叫んだ。
*
人形が落ちてしまう。
アルバは真っ先に、それを受け止める事を考えた。
けれども傾いだ体を瞬時に立て直す事はできなかった。彼女は人形を抱いていた右腕を、宙に向かって伸ばしたまま地面に仰向けに倒れた。
下は土だ。
石畳の上に倒れるよりも衝撃は少なかったが、伸ばした腕のせいでとっさに受身が取れない。アルバは倒れる勢いのままに背中を強く打ちつけた。
一瞬だけ、息が詰まる。
すぐに激しく咳き込んで、かろうじて体を起こした。
くぐもったような唸り声がその場に響いた。
アルバのものでも、ましてや人形のものでも、ない。
思わずその場で固まったアルバを、立て続けに正体不明の衝撃が襲う。ド、と鈍い音がするそれは体当たりか。恐ろしい声は一瞬煩いほど近づき、すぐに遠ざかった。
途中まで立て直しかけた体制をまた崩され、アルバは再び地面に転がった。
その場所がわずかに傾斜だったせいなのか、彼女の体は二度三度と踊るように回り、途中の木にぶつかってようやく止まった。
もう一度、息ができなくなる。
回る視界の中で、とろけるような蜜色の目がギラギラと光っているのが見えた。
ああ。いつか使った蝋燭と同じ色だ。
場違いな事を考えたあと、引きつった背中の痛みに急に現実へと引き戻された。
「アルバっ!」
随分遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえた。
アルバは咳き込みながらもう一度体を起こした。転がる際に切ったのか、舐めた唇からは血の味がする。
髪にも服にも草や葉や土がまとわりついていた。
膝がひりひりとするのは、すりむいてしまったせいだろう。体を立て続けに打ちつけたせいであちこちが痛い。特に痛いのは、一度目に衝撃がきた腹と、二度目の肩だ。
意識はめまぐるしく回った。
この状況を理解するまでに、わずかな時間が必要だった。三度目の衝撃を警戒して木に体を押し付けながら、彼女は辺りを忙しなく見回した。
少し離れた場所で、そんなアルバをそれは見ていた。
蜜色の瞳。闇が凝ったような堅い毛皮。肉をたやすく引き裂く爪と牙。
その獣の名前を、アルバは知らない。
「………冗談でしょ」
ようやく絞り出した声は、咳き込みすぎたせいかかすれていた。
認識した現実に、血の気が引いた。まるですぐ耳元で打ち鳴らすような心臓の音が煩い。
「エプルっ!」
獣の後方に投げ出された人形にむかって叫んだ。ちょうど黒い獣の後ろ足の辺りにいる。見る限り、目立った外傷はない。
人形は、自分の足で必死にアルバの方に近寄ろうとしていたが、獣がそれを阻んでいた。
おかしい。
アルバは混乱しそうな意識の狭間でそう感じた。
獣は一度もアルバにその爪を使ってこない。
二度の衝撃は全て体当たりだった。獲物を弱らせるならば、牙と爪を使えばすむ。
しかし獣は、そうしなかった。
今もただ、一定の距離をおいてアルバを見ている。
傾斜を転げ落ちたせいか、アルバは見上げるように獣を見つめた。
蜜色の瞳は、恐ろしいほど綺麗だった。まるで金色の炎が燃えているようで、じっと見ていると引き込まれてしまいそうになる。
人形のほうへと近づこうと動けば、獣は状態を低くしてうめき声をあげた。
それは警告だろうか。
動けば、飛びかかってくる。
わかっているから、動けなかった。
膠着状態はそのまましばらく続いた。
まるで、自分の心臓の音しかその場に響いてないようだった。それほど鼓動が大きく聞こえた。ごくりとつばを飲み込む。視線はずっと、黒い獣からそらせない。
ややして獣が、動いた。
ゆっくりと、アルバに向かって一歩ずつ歩みを進める。
その動きに呼応するように、アルバは上体を起こした格好のまま、背中を預けていた木から体をずらし後退った
体が後ろの草むらに食い込むようにまぎれる。
獣はそれを見届けてからまた一歩近寄った。
当然アルバは後退る。
「アルバっ!」
何度目か分からない叫びを人形があげた。
答えは、返せなかった。その姿を見ることもできない。少しでも黒い獣から視線を逸らせば、喉笛を噛み千切られる。そんな恐怖があった。
冷や汗が頬をつたう。
今この場を支配しているのは絶対的な恐怖だ。
獣はさらに歩みを進め、アルバもさらに草むらに隠れるように後ろにさがった。
そしてもっと大きく下がろうと、後ろに手を伸ばし上体をそらし――。
次の瞬間、視界は一転した。伸ばした手の先に、地面などない。
ぐるりとすべてがひっくり返った。
胃の腑が浮き上がるような、喉元から悲鳴がこみ上げるような、そんな独特な感覚がアルバを襲った。
「ぃっ!」
最後に聞いたのは、自分が息を飲む音だけだった。
*
「アルバぁっ!」
エプルは短い腕を必死に伸ばした。
距離は長く、遠すぎた。
ただ、アルバの体が草むらの中に消えるのを、手をこまねいて見ているしかなかった。
助けることすらできずに、アルバの体は草むらに隠れて見えなかった崖の下へと落下した。
獣が、そう仕向けたのが分かった。
分かったところで、どうしようもなかった。
ちっぽけな人形の体に捕まったままの自分が、ひどく無力で情けない。
エプルは声の限り叫んだ。
人形の足でアルバが落ちた場所まで走った。
それをまた、黒い獣が邪魔をする。
「何だよっ!」
小さな体を怒りに震わせてエプルは獣を見た。
その怒りは、自分に対する怒りだった。
「何なんだよ! 邪魔するなよっ! 僕は、僕は………っ」
何を言いたいのか、分からない。
ただ、何度も僕は、と繰り返した。
獣は、そんな彼を一瞥しただけで、何もしてこなかった。
「…………ふむ。ちょっとやりすぎたんじゃないか?」
その場に彼以外の声が響いたのはその時だ。
驚いたエプルは勢いよく顔を上げた。
どうにも聞き覚えのある声だったからだ。
それまでアルバが落ちた場所で立ち止まっていた獣が、ゆらりと動く。辺りはすっかり真っ暗になっていた。
その暗闇の中で、いつのまにか空に上がっていた月明かりに照らされ、見覚えのある姿がその場に現れた。
闇にとけるような色の短い髪。それとは裏腹に明るい金の瞳。まるで黒い獣をそのまま人型にしたような姿の、男。
獣は男の姿をみとめ、地面にすりつけるように頭を下げた。まるで敬うようなその仕草は、先ほどまであった獰猛な部分を微塵にも感じさせない。
「やぁエプル。ずいぶん可愛い姿じゃないか」
「………ディボゥル」
それは一二番目の精霊だった。
*
「どういうことだよっ」
「困ったな。いつからそんなに物分りが悪くなったんだエプル?」
「はぐらかすなっ。どうしてアルバを襲わせたんだよ!」
「襲わせてなんかないじゃないか。ほら、彼は牙も爪も使ってない」
「二回も体当たりを食らわせれば十分だっ!」
アルバは普通の少女だ。それだけでもきっと怪我をしてしまっているだろう。
「その姿で凄んでも、全く怖くないね。まあ。さすがに少しやりすぎだとは思ったけれど。結果的に、彼は私の頼んだとおりに行動してくれた」
「頼んだ? 何を?」
地にひれ伏した獣のたてがみをゆっくりとなで、ディボゥルはにこりと微笑んだ。
「彼女を、崖の下に下ろすこと」
「あれは突き落としたというんだっ!」
「少し頭を冷やせエプル。大丈夫。あの人間は無事だ。今ごろは下でメイルゥが受け止めてレトワスの泉にでも運んでるだろう」
メイルゥというのは五月の精霊の名前だった。
無事、という言葉を聞いて、エプルは力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「……わけがわからない」
「まぁ、話をまとめようじゃないか。その人形が一体何であるか、もうわかっているだろう?」
「……うん」
「なら分かるはずだ。私たちが、何故お前を助けなかったか」
ディボゥルの問いに対する答えは、意外なほど早くはじき出された。
この人形は、精霊をその身の内に閉じ込める役割をもっている。
エプルと同じ精霊である彼らがこの人形に関わる事を拒否するはずだ。もしかしたら彼らまで囚われてしまう可能性があったかもしれない。
仲間の精霊はそれを恐れたのだ。
だから、エプルに力をかさなかったのだ。
「お前は人形に囚われた時点で、いくつかの記憶を奪われたんだよエプル。精霊医という存在が、三年前に途絶えた事実さえ、覚えていなかった。まあ、でも悪運だけは強いらしいね。助けとなりえる人間を見つけ出したんだから」
「何を忘れたのかも思い出せないよ……」
「私達は直接的にお前を助ける事はできなかった。だから、間接的にお前達を手助けしてやったのさ」
「………もしかして、今まで危険な獣に出くわさなかったのは……」
「私が彼に頼んだ。彼はこの辺一帯をまとめる、泉の番人だからね」
「……じゃあ、やっぱり泉への僕の記憶はあってたんだね」
「……確かにあってはいたが、大きな見落としがある。それすらも忘れてしまったのかエプル」
「え?」
きょとんとしてエプルはディボゥルを見上げた。
「………その人形は、本当に恐ろしい」
ディボゥルは大げさに肩をすくめる。
「思い出せエプル。あの泉は、私たちの手助なしに普通の人間が入り込める場所ではない。泉が現れる場所は、急な崖の真下だ。その上あそこには結界がはってある。私達精霊にしか解けない結界だ。精霊としての力を封じられたお前が、どうやってあの人間を泉にたどり着かせる事ができる?」
「………あ」
崖を下りる道具もない、術もない。結界も解けない。
確かに、このまま進んでもエプル達は泉にたどり着けなかった。
「そこで、私が彼に頼んだんだ。彼女はお前を腕に抱いていたから、私には手が出せなかったからね。まずお前を彼女から引き離し、そして崖の下に待機していたメイルゥへ渡す」
だからといって、いくらなんでも二度の体当たりはやりすぎである。
その辺は大目に見てやってくれとディボゥルが言った。
「さて」
その言葉を合図に、エプルの体が宙に浮いた。正確には、彼が閉じ込められた人形の体が。
いつのまにかディボゥルの側から離れた獣は、彼をくわえて立ち上がっていた。
「なっ」
突然の事に驚いて動かした人形の手足が、不安定にゆらりと揺れる。
「もうすぐ泉が現れる時間だ。お前もそろそろレトワスの泉に行かせなければね」
「行かせるってっ」
獣は先ほどアルバが落ちた場所まで歩みを進める。
まさか。
「……ディボゥルっ!」
「安心しろ。人間と違って人形は軽い。中身は綿みたいだし、この距離を落ちても大して支障はない」
「と、途中で木に引っかかったらどうしてくれるんだよっ!」
「お前の悪運の強さを祈るよエプル」
「祈ってくれなくていいからまともに降ろしてよ!」
「無茶を言うな。私はお前に触れないのだから。結界は解いてあるから心配するな。もっとも、人形に結界が聞くのかどうかはしらないがね」
安心して落ちろと無責任な言葉を言って、ディボゥルはエプルに向かって人間臭く手をふった。
獣は崖の一歩手前で、大きくかぶりをふると、くわえた人形を勢いよく宙に放り投げた。
「はっ」
一瞬だけ体が浮き上がる感覚が彼を支配した。普段物質としての体に依存しない彼にとって、それは初めての体験だった。
つかの間の浮遊の間に、空に浮かんだ丸い月が見えた。
満月。
時は、満ちようとしていた。