04.精霊のいない月
例の、薄汚れた人形を肩にかけた袋に入れたまま、彼女は大きく一回伸びをした。
「ねえ、さっきから黙ってるけど」袋の中から、くぐもった声。「考え事?」
「うん、そう。どうやったらこの不気味な人形を始末できるかなって」
「え?」
「冗談よ」
「怖い冗談言わないでよ」
袋の中から抗議の声が聞こえたような気がしたが、とりあえずは聞かないふりをする。
地図の確認は既に終了していたので、アルバはいらなくなった地図を丸めて袋の口から中に押し込んだ。
「痛い」人形が言う。
「人形に痛覚ってあるの?」
「……痛い、ような気がする」
「そもそも、精霊に痛覚ってあるの?」
「……肉体的な痛みはないけど、今は、なんとなく痛いような気がしたんだ」
「はっきりしないわね」
軽口のたたきあいはそれからしばらく続いた。
アルバ達は今、島の中心部である街から少し離れた山道に立っていた。
目的地であるイスの村は、この山道の途中にある。
最近雨が降ったのか、山道の土は湿っていた。
何気なく辺りを見まわすと、道のわきに小さな花が蕾のまましなだれているのが目に入った。
これから咲くにしてはどうにも蕾の色が悪い。根が傷ついてうまく水を吸えなかったのだろうか。
何気なくそう考えながらアルバは前方に視線を戻した。そしてふと思い出したように、また袋の中の人形に向かって声をかけた。
「そういえば、聞きたかったんだけど」
「何?」
「どうして仲間の精霊に助けを求めなかったの? いるかどうか分からない精霊医を探すより、そっちのほうが手っ取り早かったでしょ?」
「…………」
人形は急に押し黙った。
「何?」
何か聞いてはいけないような事だっただろうか。しばらくまっても返事が返ってこなかったので、アルバは袋の口紐を解いて中を覗き込んだ。
「…………助けは、求めたよ」
人形は、うつむかせていた顔をアルバのほうに向けて言った。
「仲間でも手におえなかったの?」
「……違うよ」
「え? どういうことよ」
「助けなら一番最初に求めた。でも……誰も、助けてくれなかったんだ………」
人形の黒い目がきらりと光ったような気がして、アルバは目をこすった。もちろん、錯覚だ。
「えぇ?」
「そんな厄介ごとに巻き込まれるのは、お前が未熟だからだって。自分の力で何とかしろって……」
「……精霊って意外と仲間にも冷たいのね」
少し彼が気の毒になった。
「だから精霊医を探しに来たんだ。本当に情けない話だけど、僕一人じゃどうにもできないから………」
アルバは袋の中から周りの景色へと視線をうつし、しょんぼりとする人形になんと声をかけるべきか悩んだ。
「……ま、何とかなるわよ。きっと。私も手伝ってるしね」
結局、気休め程度の言葉しか出てこなかった。
「………うん。そうだね。何とか、なるよね」
「何とかなるわよ。さぁ、もうすぐイスの村に着くわよ」
暗くなってきた気分を吹き飛ばすように、アルバは目の前の坂道を一気に駆け下りた。
*
その家は、村の一番奥にあった。
すぐ裏手は、森に繋がっている。
入り口の戸を叩くと、中から「開いてるよ」と小さな声が聞こえた。
扉を内側に開いて、アルバは家の中を見回す。目的の人物はすぐに発見できた。
今の時期は使われていないだろう暖炉の側に座って繕い物をしていたその人は、アルバを見て驚いたように立ち上がった。
「こんにちは。久しぶりねミラ叔母さん」
「おやおやおや。まあ、わたしゃとうとう目でも悪くなったかと思ったよ。随分久しぶりじゃないか。一体どうしたんだいアルバ。連絡もなしに」
「ちょっと、お祖母ちゃんのことで聞きたい事があって…」
「姉さんの? まあ、とにかく中にお入り。この間雨が降ったから、道がぬかるんで大変だっただろう?」
「そんなでもなかったよ」
招かれるままに、アルバは敷物の上に腰を下ろした。
ミラは繕い物を途中のまま止めて、籠に入れて片付けた。
「やれ、本当に久しぶりだねぇ」
「前にきたのは、もう二年も前だっけ」
「ああ。二年前の春さ。アイオスと一緒にこの辺りに生えてる薬草を採りに来てたね」
「突然訪ねてごめんね叔母さん」
「何。どうせ一人暮らしの身だしね。こんな突然ならいつでも大歓迎だよ。今日は泊まっていくだろう?」
ミラは結婚をして息子が一人いるが、もう何年も前に息子は街に移り住んでいた。
(そっか、叔父さんはもう亡くなったんだっけ……)
五年前の冬に、ミラの夫セウロは病死していた。もともと体の丈夫な人ではなかったようで、風邪をこじらせて亡くなった、とアルバはアイオスから聞いた覚えがあった。
「叔母さんが迷惑じゃなければ」
「迷惑なんかであるもんか。久しぶりの客さ。あんたの好きなだけいればいい」
ミラは機嫌よく答えた。
「去年採っておいた野イチゴの砂糖漬けもまだあるよ。アルバ、あんたの好きなのさ」
「え、本当?」
アルバはぱっと顔を輝かせた。野イチゴの砂糖漬けは、彼女の大好物の一つだ。
今年はまだ一口も食べていない。家に貯蓄してあった分は、去年のうちに食べてしまって一つ残らず無くなっていた。
それが食べられるだけでも、ここまで来た甲斐があった。
「ああそれで。今日は泊まっていくとして、忘れないうちに用件をお話し。姉さんの事について、何が聞きたいんだい?」
既に当初の目的を忘れ始めていたアルバは、はっとして自分の頭を叩いた。
(いけない、いけない)
「あ、うんそう。あのね叔母さん、お祖母ちゃんって何か、不思議なところがなかった?」
「不思議なところ?」
「うん。たとえば………精霊と、何か関係があったりとか」
アルバがそう続けると、ミラは微かに目を見開いた。
「まぁアルバ。あんたまさか姉さんの跡を継ぐつもりかい?」
今度はアルバが目を見開く番だった。
「跡を継ぐ?」
「……そんなはずないよねぇ。だって姉さんは、自分の代で終わりにするって話してたし……」
「叔母さん、話が見えないんだけど…」
「…その様子だと、姉さんに何か話を聞いたって訳じゃないみたいだね。一体どうしてそんな事を知りたいの?」
「それは…」
隣に無造作に置いておいた袋に、アルバはそっと視線を巡らせた。
話してよいものだろうか。
けれど、話さなければ話が進まないような気がして、アルバは初めて他の人間に事の始まりを話し始めた。
つい三日前の出来事は、口にしてみればそれほど長い話ではなかった。
この国の人間は、精霊を深く信仰する人間と、そうでない人間に分かれる。昔は皆が信じていたというのに、モースの館への出入りが制限されるようになった時代から、全ての人が精霊を目にするという事もなくなってしまった。
精霊の話など信じない人間に話しても意味はないが、ミラは精霊を深く信仰する側の人間だったため、アルバの話に真剣に聞き入った。
「……なんとまぁ」
ミラは話を聞き終えると、深い溜め息を一つついてそう言った。それから、アルバの隣にある袋を見た。
「そこに、いらっしゃるの?」
「うん。いるよ」
頷いて、アルバは傍らにおいておいた袋を持ち上げ、中から薄汚れた人形を取り出した。
「ぷはーっ!」
袋の外に出された人形は、アルバの手の上で、布でできた両腕をぎこちなく上に伸ばした。
「やっぱり外はいいね。袋の中は薄暗くて好きになれないよ」
今まで黙っていた反動なのか、彼は誰が聞くともなしに勝手に喋り始めた。
威厳があるとはお世辞にもいえない登場の仕方だったが、ミラは感慨深げに人形を見つめた。
「生きているうちに月治めの精霊様に逢えるなんて思ってもみなかったわ…」
「こんにちは。僕は四月の精霊エプル」
「わたしはミラと申します。エプル様」
エプル様。
確かに本来ならミラの態度がこの場で一番正しいものなのだろうが、アルバにはどうしても異質に見えて、肩をそっとすくめた。
「そうすると、今は精霊のいない月なんだね」
ミラは何か納得したように一人頷いた。
「叔母さん、さっきから話が見えないわ。お祖母ちゃんの跡を継ぐって何? 精霊のいない月ってどういうこと?」
「少し話が長くなるよ」
「願ってもないわ」
そもそも、この精霊を元に戻すための手がかりを探しにここまで来たのだ。アルバはミラにあらためて向き直ると、人形を自分の膝の上に座らせた。
「まず姉さんの事から、いや、うちの家系の事から話そうか」
そう言ってミラは切り出した。
「わたし達の家系はね、どうやら昔から精霊と深い関わりがあったらしいんだ。詳しい経緯はわたしもよく知らされてないけど、ずっと、一つの仕事を受け継いで生きてきたんだよ」
「……一つの仕事?」
「あんたもエプル様に聞いただろう? わたしたちは癒し手と呼んでいたけど」
精霊を癒す事。
それが受け継がれてきた内容なのだろうか。
「もっとも、皆が皆、その事実を知ってるわけじゃない。姉さんの息子であるアイオスも知らなかっただろう? ほんの一握りの人間だけが、教えられる事さ」
「どうして叔母さんは知ってたの?」
「簡単な話だよ。わたしと姉さんが、その仕事を継ぐ事ができる人間だったからさ」
誰でも継げる訳ではないとミラは続けた。
第一に感応力が人並み以上である事。月治めの精霊のような大きい力をもった精霊だけではなく、力の小さい精霊の存在も感じ取れなければならない。
第二に女性である事。これがどういった理由でそうなったのかは分かっていない。
第三に人並み以上の高い魔力をもっている事。人は誰でも潜在的に必ず魔力をもっている。ただ、その事に気がついていないだけで。
「そして第四に、生き残る事」
「え?」
一瞬聞き間違えかと思った。
「……生き残る事。それが最後の条件だよ」
「……どういう事?」
アルバは首をひねって問い返した。
突然どうしてそんな物騒な話になるのか。
「精霊を癒すには、精霊が失った分の力を補わなければないだろう? 彼らにとって、魔力は存在そのものであり、命だ。それは、わたし達も一緒ってことさ」
アルバはまだ首をかしげた。いまいちまだぴんとこなかった。
「魔力は、命、生命力とも言いかえられるね」
「生命力? それって、つまり……」
「わたし達が生きる力、そのものさ。大量に失えば体調を壊す。もっとも、普通の人間には他に分け与えるだけの魔力なんてないけどね」
精霊医というものを、ただの医者のように思っていたアルバはその言葉に息を呑んだ。
それは、人形も一緒のようだった。
「生き残るって言うのはね、他に分け与える魔力を、上手くコントロールするっていうことなんだよ。それができなきゃ文字どおり命を落とす事になる。精霊を癒す事は、癒し手にとっちゃあ死と背中をあわせてるようなもんなんだ」
ミラはとても穏やかな声でそう話したが、内容はとても穏やかとは言えないものだった。
「そんなっ」
アルバと人形の声が重なった。
それ以上の言葉は続かなかった。
「……勘違いしないでおくれ。癒し手は確かに死と隣り合わせだけれど、だからこそ確実に生き残れるほどの力を持った娘が選ばれるんだ」
けして、精霊のために犠牲になる存在ではないとミラは言った。
だから、最後の条件は生き残る事なのだ。
「わたしは姉さんと違って力のコントロールが苦手でね。最後の条件を満たす事はできなかったんだよ。癒し手になったのは姉さんだけだった。それから、姉さんは五年に一度新月の夜に精霊を癒しに外に出かけ始めた」
『何年かに一度、新月の夜に……』アルバは父親の言葉を思い出した。ああ、あれはこういうことだったのか。
「……姉さんはね、自分の代で癒し手を途絶えさせる気だったんだよ。五年に一度とはいえ、癒す行為は力の消耗が激しいからね。自分の娘や孫たちに、癒し手を継がせる気はないと、生前よく言ってたもんさ」
そこで一旦言葉を切って、ミラは「もっともね」と話を続けた。
「自分が癒し手である事をやめようとはしてなかったね。姉さんは精霊を誰よりも尊んでいたし、癒し手という仕事に誇りをもっていたよ。それが五年に一度、自分の体調をどん底にまで突き落とす行為だとしても。ただ、自分以外の誰かが、同じような境遇になる事を良しとしなかったんだ」
「……お祖母ちゃんは、優しい人だったから」
ミラの言葉に続けるようにアルバは言った。
誰よりも優しい人だった。
「そうだね。姉さんは、とても優しい人だったよ」
ミラはゆっくりと頷いた。
「……ああ、そういえば新月の集会に、人間が一人だけ混じっていた事もあったっけ……どうしてその事忘れてたんだろう……?」
人形が、ふと思い出したようにそう言って、二人の間に割り込んだ。
ぐらぐらと頭のみならず体も揺らして、どうして、どうしてと何度もつぶやく。
「集会って、本当にあるの?」
「あるよ。新月の夜に、この島で一番力に満ちるレトワスの泉に集まるんだ。……どうしてかなぁ、なんだかこの人形の中に閉じ込められてから、知っていた事をどんどん忘れていくみたいだ………」
ぐらり、ぐらりと人形の体が揺れる。
「レトワスの泉って、どこにあるの?」
「……どこ、だったかな………?」
あれ?とつぶやいて、人形の体は、こてりと膝の上に倒れた。
どうしたのだろう。様子がおかしい。
「エプル?」
その時初めてアルバはその名前を呼んだ。
「……うん?」
人形は答えた。
答えただけだで、起き上がりはしなかった。
「あれ?」
もう一度人形がつぶやく。相変わらず、体はこてりと、アルバの膝の上。
「エプル?」
もう一度呼んでみた。
「…………」
もう返事は聞こえなかった。