03.謎多き人
よく考えてみれば、祖母は不思議な人だったかもしれない。
幼い頃の記憶を、思い返してみる。
いつも常に微笑んでいる人だったという印象があった。実際、祖母の怒った顔を、アルバは一度も見たことはなかった。
幼い頃、まだアルバが夜を怖がっていた時、夜は怖くないものだと教えてくれたのは祖母だった。
月の光の下でこそ、普段見えないものがよく見えてくるもの。
月のない夜には精霊達の集会が開かれ、この国の行く末を話し合うんだと、昔話を聞かせるように語ってくれた。
夜は、けして怖いものではない。
夜は静寂。
夜は安らぎ。
精霊の加護があるこの国の夜は、けっして恐ろしいものではないんだよと、何度もアルバは教えられた。
それ以来、夜に怯える事が少なくなった。
アルバはそんな祖母が好きだった。
他の大人は、空想的な話や、御伽噺をいつまでも読むのはやめなさいと言うのに、一言もそんな事を口にしない。
好きなようにしなさい。
好きな事を求めなさい。
それがきっと、お前を将来導くものになる。
何度も言われたその言葉は、今でも、目を閉じれば祖母の声そのままに聞こえてきそうだ。
祖母が亡くなったのは、病気でも事故でもはなく寿命で、最後は眠るように、目を閉じて息を引き取った。
『お前の成すべき事をなさい』
それが、祖母がアルバに送った、最後の言葉。
成すべき事。
(………今のこの状況も、成すべき事に入るの? お祖母ちゃん)
長い長い思考から抜け出して、ようやくアルバは今を見つめた。
*
アルバと(自称精霊を名乗る)動く人形が、彼女にとって不本意な遭遇を果たしてから、時間は二日ばかり経過していた。
あれから、アルバは明け方までこの人形に、脅され、泣き落とされ、結局彼が元に戻る方法を探すのを手伝う事になってしまった。
このまま見捨てたら一生呪ってやるとまで言われて、頼みを断れるはずがない。
精霊の呪いは、昔から恐ろしいものの一つとして伝承があるぐらいだ。
命が惜しければ、精霊をけっして怒らせてはならない。それは、この国の誰もが知っている話だった。
そもそも、あの運命の昼間に遭遇してしまった時点で、それは既に決定事項だったのかもしれない。
とりあえずその次の日は眠気に勝てず、実際に行動をおこしたのは、原因の発生日から二日目のことになった。
まずアルバは、母のエルマに、祖母の事を聞いてみた。
祖母の周りに何かおかしなことはなかったか?
「何もないわよ」
返答は簡潔だった。
「おかしな子ね。どうしてそんな事急に聞きたがるのかしら」
エルマは怪訝そうな顔をして娘にそう尋ねた。
「目の下にクマなんて作って。おおかた、また夜遅くまで本でも読んでたんでしょう。まったく、いい年をした娘が……」
そのまま始まったお説教に、アルバはうっかり二時間も捕まってしまった。
次にアルバは父のアイオスに尋ねた。
父は祖母の一番下の息子だった。性質が一番祖母に似ているらしく、伯父や伯母に比べて穏やかで優しい。
「さぁねぇ。何かあったといえば、あったんだろうけど。お祖母ちゃんは秘密が多い人だったからね」
「秘密?」
「ああそういえば、私がまだ幼かった頃に、何年かに一度、新月の夜にどこかに出かけていたのは覚えてるよ。帰ってくるのは、決まって次の日の夜だったね。何度もそれでお祖父ちゃんと喧嘩したらしいけど、結局やめることはなかったね」
「新月の夜に外へ?」
その言葉に、アルバは祖母に聞いた話をふと思い出す。新月の夜は、精霊達が集まって、この国の将来を話し合うという、御伽噺。
「まさか、精霊達の集会にでもいってたの?」
「おや、懐かしい事を言うねアルバ。精霊の集会か。私も昔よく聞かされたもんだ。……そうかもしれないな」
アイオスは、何度もその言葉を口の中で繰り返したあと、もっともらしく頷いた。
「それで、どうして急にお祖母ちゃんの話になったんだいアルバ?」
その問いかけに、一瞬だけアルバは本当のことを言おうかどうか迷った。
アイオスは祖母に近い人だ。
本当のことを話せば、もしかしたら力になってくれるかもしれない。
けれどすぐに考えを改める。
(余計な事に巻き込まれるのは、私一人で十分だわ)
「お祖母ちゃんの夢を見て、それで、聞きたくなったの」
結局、アルバはあたりさわりのない言葉でごまかした。
「夢を? そうか。じゃあ何かあるのかもしれないな。お祖母ちゃんの事をもっと知りたかったら、イスの村にいるミラ叔母さんを訪ねたらどうだ?」
「ミラ叔母さんを?」
イスの村とはこの街から北東の方角の、山の中腹にある小さな村だ。
ミラとは、アルバの祖母の末の妹で、アイオスの叔母にあたる人物だ。
祖母とは随分年が離れていたせいか、未だに存命でイスの村で暮らしている。
「そっか。ミラ叔母さんなら、何か知ってるかもしれないわね」
「イスの村に行くのかアルバ」
「……うん。行ってみようかと思う。イスの村なら、そんなに遠くはないし」
女子供の足で歩いても、イスの村には半日でつける。
とにかく行動をおこすなら早いほうが良いとアルバは考えた。
あの人形との関係を早めに切ってしまいたかったからだ。この先一生付きまとわれでもしたら大変だ。
「明日」
アルバは父親にむかってそう話した。
「明日イスの村に行って来るわ」
それからアルバは部屋に戻ると、ベットの上で、暇をつぶすかのように彼女の本を読んでいた人形を摘み上げた。
「うわっ!……なんだぁ、アルバか」
「なんだ、じゃないわよ。母さんたちが入ってくるかもしれないんだから、そんな人形らしくない行動は謹んでよ」
「だって、暇だったから」
人形の表情は動かないが、もし動いていたら、見事な膨れ面が見られただろう。そんな言い方だ。
「仮にも精霊が、だって、なんて言葉使わないで」
「偏見だよ。僕達は存在意義以外、人間とあんまり変わらないのに……」
「…………精霊は何よりも神聖で尊いものだって教えられたのよ」
「誰に?」
さも迷惑だといわんばかりに人形が言った。
「幼年学校で」
この国の子供たちは皆、四歳から十歳まで幼年学校に通う。
学校はこの街にしかないから、街から遠く離れた村では、大人たちが学校の代わりを果たしていた。街に親類縁者がいる家は、子供をしばらくその家に預けたりもする。
学ぶのは基本的な文字の読み書きと、この国の歴史だ。精霊は尊く、敬うべき対象として教えられる。
アルバも、学校に通ってそう教えられた子供の一人だ。
しかしどうにも、この精霊は敬う気になれない。
もっとも、そう習ったからといって、必ずしも誰もがその存在を信じるというわけではなかったのだが。
モースの館に誰もが入れた昔は違ったそうだが、今では精霊の存在は半ばおとぎ話だ。
「教科書を見直したほうがいいよ、それ」
「私もいまはそう思うわ」
「確かに堅い精霊もいるけど。少なくとも、僕の知ってる中では九月の精霊が一番堅いね」
「他の精霊は……いえ、やっぱり何も話さないで。……あ」
そこでアルバは、この部屋に戻ってきた当初の目的を思い出した。
「お祖母ちゃんの話、やっぱりそんなに聞けなかったわ」
「……そう、かぁ」
「でも」
しょんぼりと肩を下げて、顔をうつむかせていた人形は、その言葉を合図にぱっと顔を上げた。
「イスの村に、お祖母ちゃんの末の妹が住んでるのよ。ミラ叔母さんって私たちは呼んでるけど」
「その人が、何か知ってるの?」
「知ってるかどうかは分からないけど、訪ねてみるだけの意味はあるかもしれない。お祖母ちゃんの姉妹だし」
だからと、アルバは話を続けた。
「明日、イスの村に行きましょう」
「うん。………ありがとうアルバ」
人形は言葉の最後に小さくそう呟いた。