01.始まりは四月の精霊
残っていた雪もすっかり融けて、大地が新緑に芽吹く季節。
色とりどりの花はその蕾を膨らませ、今か今かと開花する時を待っていた。
空はよく晴れていて、絶好の洗濯日和だったため、家々の窓辺には、大量の洗濯物がまぶしいばかりに風にはためき輝いている。
事件はそんな日に起こった。
アルバは、その日もいつもと同じように井戸に水を汲みに家の外へと出かけた。
時間帯は昼。あちこちの家の台所から煙が空へと昇る。
家のすぐ裏手に、共用の井戸がある。
女たちが洗濯をするのもそこだし、炊事用の水を汲むのもそこだった。
子供達が遊びの合間に飲む水も、酔っ払いの顔にぶっ掛ける水も、全てその場所から汲まれる。つまりは、街にとって必要不可欠な場所でもあった。
井戸の前まで来て、もっていた木の桶をなれた手つきで紐につるし、井戸の中へ放り込む。
しばらくして水音が聞こえたら、滑車にかかった紐を両手で引っ張る。
そこまでは、アルバのいつもの日常だった。
あとは水をこぼさぬように家に戻ればよいだけだった。
違っていたのは、そこから。
アルバが汲み上げた桶から紐をはずしていると、なにか、左足に誰かに叩かれたような衝撃が来た。
ほんの軽いもので、痛みは全く無い。
それでも気になったから、アルバは自分の足元を、変色した煉瓦の石畳の上を見た。
「あれ?」
左足にもたれかかるように、彼女の膝まである大きさの人形が、置かれていた。
「人形? おかしいな……ここに来たときは、何もなかったと思うんだけど……」
桶を石畳の上に一旦降ろして、アルバはその人形を抱き上げて見た。
赤い綿の糸の長い髪。少々大きい黒いボタンの目。麻布で作られたような、中に綿がつまったざらざらした肌。指は一応五本そろっていて、足には髪と同じ赤い色の靴をはいている。
元は綺麗な色だったろうに、今は薄汚れてにごっている空色のワンピース。
口は茶色い糸で笑うように縫ってある。
顔の大きさと、目のボタンのバランスが取れてないのか、どこかアンバランスさを感じる人形だった。
けれど、よくみれば、可愛いといえないことも、ない。
「……でもどうして人形が……」
普通に考えて、突然人形が自分の足にまとわりついていたら、それこそホラーである。
アルバは抱き上げていたその人形を井戸のすぐ下の石畳の上に、座らせるように置いた。
「きっと、ここら辺で遊んでる子の忘れ物よね」
それならば、自分が持って帰るのはいけない。誰かが取りにくるかもしれないから。
もとより持って帰る気などさらさらなかったのだが、何となく人形の黒い目が自分を恨めしそうに見上げているような感じがして、アルバは自分にそう言い聞かせた。
足にまとわりついていたのだって、最初からあった人形に気づかなかっただけで、何かのはずみに倒れ掛かってきたのだろうと、そういう事にして。
石畳の上の桶を持ち上げると、アルバは一目散にその場から逃げ出した。
厄介な物には係わり合いにならないに限る。それは人間だろうが人形だろうが同じである。
井戸の脇に置かれた人形は、そんな彼女の後姿を、いつまでもじっと見つめていた。