愛は無料ではありません ~尽くしすぎた令嬢は、婚約者に五年分の愛情を請求する~
第一章 恋する女は、だいたい馬鹿になる
「ねえ、セドリック! 聞いて! ついに完成したの!」
王都の商業区にある小さな工房から、けたたましい歓声が上がった。
扉を蹴破る勢いで飛び出してきたのは、赤毛を高く結い上げた若い娘である。
名はリリアーナ・ベルモンド。
ベルモンド伯爵家の長女にして、王都でも指折りの変わり者。そして、金儲けと面白いことには目がない、二十一歳の令嬢だった。
「何が完成したんだ、リリアーナ」
「魔導式自動洗濯機よ!」
「……また妙なものを」
「妙とは何よ! 洗濯物を入れて魔石を押すだけで、洗って、すすいで、乾かしてくれるの! しかも一度に二十着! これがあれば王都中の洗濯女が腰を痛めずに済むし、貴族の奥様方はお茶会の時間が増える! そして私は大儲け!」
リリアーナは両手を天に突き上げた。
「人類の幸福と私のお財布が同時に膨らむ! 最高の発明だと思わない!?」
「君は本当に金の話ばかりだな」
「もちろん! お金は素敵よ! おいしいものが食べられるし、旅行に行けるし、困っている人を助けられる! お金があれば、やりたいことが百倍できるんだから!」
そう言って、リリアーナは婚約者の腕に抱きついた。
セドリック・オルブライト。
オルブライト侯爵家の嫡男で、金髪碧眼の美青年だ。
五年前、社交界に出たばかりのリリアーナに、彼は優しく微笑みかけた。
『君のように面白い女性は初めてだ』
その一言で、リリアーナは恋に落ちた。
生まれて初めての恋だった。
以来五年間、彼女は彼に夢中だった。
「ねえ、セドリック。今度の誕生日には、北方の温泉に行かない? 新しい魔導馬車を開発したから、試乗も兼ねて!」
「悪いが、忙しい」
「そっか! じゃあ来月!」
「来月も無理だ」
「再来月!」
「リリアーナ」
セドリックが眉をひそめた。
「君はもう少し、侯爵家の婚約者らしく振る舞えないのか?」
「……え?」
「発明だの商売だの、金の話ばかり。品がないと言っているんだ」
リリアーナは一瞬、きょとんとした。
しかし、すぐに笑った。
「あはは! そうね! ごめんなさい! 私ったら、また夢中になっちゃって!」
「分かればいい」
「じゃあ、今日の夕食は私が作るわ! あなたの好きな牛肉の赤葡萄酒煮込み!」
「今日は外で食べる」
「あら、そうなの?」
「友人との会食だ」
「分かった! 楽しんできてね!」
リリアーナは笑顔で手を振った。
セドリックが去ってから、工房の奥にいた老職人がため息をついた。
「お嬢さん。あの男、本当にいい男ですかね」
「もちろんよ!」
「五年間、あんたの誕生日を一度も祝ってないでしょう」
「忙しい人だから!」
「贈り物は?」
「私が贈る方が好きなの!」
「去年は侯爵家の借金まで肩代わりしたじゃないですか」
「困ってたんだもの!」
「……恋ってのは恐ろしいねえ」
「そうなのよ!」
リリアーナは胸を張った。
「私、セドリックのためなら何だってできちゃう気がするの!」
老職人は天井を仰いだ。
「神様。どうかこの娘に、もう少しだけまともな男を見る目をお与えください」
残念ながら、その祈りが届くまでには、あと三日ほど必要だった。
第二章 五年間の愛情は、ずいぶん高くついた
リリアーナは、商売の天才だった。
十五歳で魔導式冷蔵箱を発明。
十六歳で王都初の定額制馬車便を開始。
十七歳で魔導灯の大量生産に成功。
十八歳には、ベルモンド商会を王国有数の商会へと育て上げていた。
しかし、彼女には致命的な弱点があった。
好きな人には、とことん甘い。
特にセドリックに対しては、底なしだった。
「セドリックの領地で小麦が不作? じゃあ新しい灌漑装置を送るわ!」
「侯爵家の鉱山が赤字? 魔石採掘用の機械を開発しましょう!」
「セドリックが社交界で恥をかいた? 最高級の礼服を仕立てるわ!」
五年間、リリアーナはひたすら尽くした。
彼が困っていると聞けば、どこへでも駆けつけた。
彼が欲しいと言えば、どんなものでも探した。
彼の母が病に倒れたときは、北方から高価な治癒薬を取り寄せた。
侯爵家の使用人たちの給金が三か月滞ったときも、誰にも知られないよう立て替えた。
彼女にとっては、当然のことだった。
だって、愛していたから。
ところが。
ある日の午後。
「お嬢様。少々、お耳に入れたいことが」
ベルモンド商会の会計主任、マルタが帳簿を抱えてやってきた。
五十代の女性で、リリアーナが商売を始めた頃からの付き合いである。
「なあに? 新商品の売れ行き?」
「いえ。オルブライト侯爵家の件です」
「セドリック? 何か困ってるの?」
「困っているのは、こちらでございます」
マルタは帳簿を開いた。
「過去五年間、侯爵家に提供した資金、物品、役務の総額をまとめました」
「まあ! 懐かしいわね!」
「懐かしがる金額ではございません」
「いくら?」
「金貨八万四千三百枚です」
「…………」
リリアーナは瞬きした。
「八万?」
「四千三百枚です」
「……あはっ」
笑った。
「結構使ったわねえ!」
「結構どころではありません! 王都に屋敷が二十軒建ちます!」
「二十軒!」
リリアーナの目が輝いた。
「すごい! 屋敷二十軒分も愛してたのね、私!」
「そこを喜ばないでください!」
マルタが机を叩いた。
「しかも、これは商会を通したものだけです! お嬢様個人の贈り物や、無償で提供した発明品の開発費は含んでおりません!」
「いいのよ。好きな人のためだもの」
「では、こちらをご覧ください」
マルタは一通の書状を差し出した。
オルブライト侯爵家からの正式な通達だった。
『今後、ベルモンド商会が侯爵領で商業活動を行う場合、売上の三割を侯爵家に納めるものとする』
「……三割?」
「はい」
「売上の?」
「はい」
「利益じゃなくて?」
「売上でございます」
リリアーナは首を傾げた。
「……セドリック、算数が苦手なのかしら?」
「違います。お嬢様を馬鹿にしているのです」
さらにマルタは、もう一通の手紙を出した。
『ベルモンド商会の女主人は、商売にかまけて婚約者としての義務を怠っている。今後は侯爵家の指導に従い、商会の経営権をオルブライト家へ移すことを検討せよ』
「…………」
リリアーナの笑顔が、ほんの少し消えた。
「これ、誰が書いたの?」
「侯爵夫人です」
「あらあら」
リリアーナは手紙を折りたたんだ。
「お義母様ったら、欲張りねえ」
その口調は、まだ明るかった。
しかしマルタは知っていた。
リリアーナが本当に怒るときは、まず笑うのだ。
第三章 私の大切な人に、何をしたの?
翌日、リリアーナは侯爵家を訪れた。
いつも通り、お土産を山ほど抱えて。
「こんにちはー! リリアーナでーす!」
玄関にいた執事が、露骨に顔をしかめた。
「……またお越しですか」
「また来ちゃった!」
「本日は旦那様も奥様もお忙しく」
「セドリックは?」
「お出かけです」
「そうなの? じゃあ、お義母様にお菓子だけ渡して帰るわ!」
執事はため息をついた。
「お嬢様。少しはご自分のお立場をお考えください」
「立場?」
「侯爵家に嫁ぐお方が、商人のように大荷物を抱えて歩き回るなど」
「あはは! 商人でもあるもの!」
「……下品な」
小さな呟きだった。
しかし、リリアーナには聞こえた。
それでも彼女は笑っていた。
いつものことだったからだ。
侯爵家の人々は、リリアーナを歓迎しなかった。
侯爵夫人は、彼女の商売を卑しいと言った。
侯爵は、彼女の発明を道楽だと笑った。
セドリックの妹、ミリアは、彼女の服装を田舎臭いと馬鹿にした。
それでもリリアーナは気にしなかった。
結婚したら家族になる人たちなのだから。
仲良くしたかった。
だが、その日。
裏庭を通りかかったリリアーナは、聞き慣れた泣き声を耳にした。
「お願いです! それだけは!」
リリアーナは足を止めた。
声の主は、アンナだった。
ベルモンド商会で働く十八歳の娘。
貧しい家庭の出身で、母親の薬代を稼ぐために働いていた。
リリアーナは彼女を気に入り、読み書きや帳簿の付け方を教えていた。
「何を騒いでいるの?」
リリアーナが庭に出ると、そこにはミリアと三人の侍女がいた。
アンナは地面に膝をついていた。
頬が赤く腫れている。
足元には、割れた薬瓶が転がっていた。
「あら、お義姉様」
ミリアが鼻で笑った。
「ちょうどよかった。この泥棒を連れて帰ってくださる?」
「泥棒?」
「私の宝石を盗んだのよ」
「アンナが?」
「ええ。だから罰を与えていたところ」
ミリアは笑いながら、アンナの手を踏みつけた。
「ひっ!」
「やめなさい」
リリアーナの声が低くなった。
「何ですの?」
「足をどけて」
「この娘は泥棒ですわ」
「足を、どけて」
ミリアは不満そうに足を離した。
リリアーナはアンナに駆け寄った。
「大丈夫!? 手を見せて!」
「お嬢様……申し訳ありません……」
「何があったの?」
「侯爵家から、帳簿を届けるよう言われて……それで、奥様の宝石がなくなったから、私が盗んだと……」
「盗んだの?」
「いいえ!」
「じゃあいいわ!」
リリアーナは即答した。
「あなたが盗んでないって言うなら、私は信じる!」
「お義姉様!」
ミリアが声を荒らげた。
「この娘の言葉を信じて、私を疑うの!?」
「疑ってるわけじゃないわ」
「では!」
「あなたの宝石、どこにあるの?」
「……え?」
「盗まれたんでしょう? どんな宝石?」
「母の翡翠の首飾りよ!」
「ああ、あれね!」
リリアーナはにっこり笑った。
「昨日、宝石商のラウルさんが修理に預かったって言ってたわよ!」
「…………」
「留め金が壊れたから直してるんですって。昨日の夕方、あなたが直接持っていったって」
ミリアの顔色が変わった。
「そ、それは……」
「ねえ、ミリア」
リリアーナは首を傾げた。
「どうして嘘をついたの?」
「……っ!」
「この子を殴るため?」
「違いますわ!」
「じゃあ、何のため?」
「生意気だったからよ!」
ミリアが叫んだ。
「平民のくせに! 私に意見するなんて!」
アンナが震えた。
「お嬢様の商会の帳簿は、お嬢様の許可がなければ渡せないと申し上げただけです……」
リリアーナは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「そう」
笑顔だった。
「そういうことね」
「お義姉様?」
「アンナ。帰りましょう」
「は、はい……」
「お待ちなさい!」
ミリアが叫んだ。
「その娘には、まだ罰が――」
ぱしんっ!
乾いた音が庭に響いた。
ミリアが頬を押さえて固まった。
リリアーナが、平手打ちしたのだ。
「……な」
「一回」
リリアーナは指を一本立てた。
「アンナを叩いた分よ」
「この……!」
「あとね」
リリアーナは笑った。
「あなたが履いている靴、私が贈ったものよね」
「……は?」
「そのドレスも、耳飾りも、髪飾りも」
「それが何よ!」
「似合ってるわよ。とっても」
リリアーナはにっこり微笑んだ。
「でも、もう二度と贈らない」
そしてアンナの肩を抱いて歩き出した。
背後からミリアの金切り声が響いた。
「お兄様に言いつけてやる! 絶対に許さないんだから!」
「どうぞー!」
リリアーナは振り返らずに手を振った。
ただし、その手は。
少しだけ、震えていた。
第四章 恋人の正体
その夜、セドリックがベルモンド家に押しかけてきた。
「リリアーナ!」
「いらっしゃい! お茶飲む?」
「ふざけるな!」
セドリックは机を叩いた。
「ミリアを殴ったそうだな!」
「ええ!」
「なぜだ!」
「アンナを殴ったから!」
「たかが使用人だろう!」
その瞬間。
リリアーナの表情が消えた。
「……たかが?」
「平民の小娘一人のために、侯爵令嬢に手を上げるなど!」
「アンナは私の大切な従業員よ」
「だから何だ!」
「……だから、何?」
「使用人など代わりはいくらでもいる!」
リリアーナは、じっとセドリックを見た。
五年間、愛してきた顔だった。
優しいと思っていた。
誠実だと思っていた。
自分の夢を理解してくれる人だと思っていた。
「ねえ、セドリック」
「何だ」
「あなた、アンナが怪我したことは心配じゃないの?」
「くだらない」
「……そう」
リリアーナは目を伏せた。
「じゃあ、私が怪我したら?」
「何?」
「あなたの妹に殴られたら、心配してくれる?」
「君が悪いことをしたなら、仕方ないだろう」
リリアーナは黙った。
セドリックは、勝ち誇ったように続けた。
「そもそも、君は最近つけ上がっている。金があるからといって、侯爵家に逆らえると思うな」
「……私、逆らってる?」
「商会の経営権を渡せと言っただろう!」
「それは無理よ」
「なぜだ!」
「私だけのものじゃないもの。マルタも、職人さんも、従業員も、みんなで育てた商会よ」
「女が経営などするから、そういう勘違いをする!」
セドリックは吐き捨てた。
「結婚したら、君には商売をやめてもらう」
「……え?」
「経営権は私が引き継ぐ。君は子を産み、侯爵夫人として家を守れ」
「でも、私、商売が好きよ?」
「知るか!」
セドリックは鼻を鳴らした。
「君の発明も、商売も、すべて侯爵家のものになる。それが結婚というものだ」
リリアーナは、しばらく考え込んだ。
「……ねえ」
「何だ」
「私のこと、好き?」
「…………」
「五年間、ずっと聞きたかったの」
リリアーナは笑った。
少し、困ったような笑顔だった。
「私ね、あなたのことが大好きだったの」
「だった?」
「ううん。今も……好きだと思ってた」
「何を言っている」
「だから、聞かせて。私のこと、好き?」
セドリックは面倒そうに息を吐いた。
「君は侯爵家にふさわしい財産を持っている」
「…………」
「それで十分だろう」
リリアーナは、ぽかんと口を開けた。
それから。
「あはっ」
笑った。
「あはははは!」
「……何がおかしい!」
「そっかあ!」
リリアーナは額を押さえた。
「そういうことかあ!」
五年間。
彼が一度も誕生日を祝ってくれなかった理由。
彼が贈り物を返してくれなかった理由。
彼が自分の発明に興味を示さなかった理由。
彼が困ったときだけ優しかった理由。
全部、分かった。
「私、馬鹿だったのね!」
「ようやく理解したか」
「ええ! とんでもない大馬鹿!」
リリアーナは椅子から立ち上がった。
「でも、セドリック」
にっこり笑う。
「馬鹿でも、商売は得意なのよ」
「……何?」
「あなた、私に何て言ったっけ?」
「何の話だ」
「婚約したとき」
リリアーナは机の引き出しを開けた。
そこから、一枚の古い羊皮紙を取り出す。
「『君の才能で、私の家を立て直してほしい』って」
「……それがどうした」
「私、嬉しかったのよ」
リリアーナは羊皮紙を広げた。
「好きな人の役に立てるんだって」
そこには、五年前の契約書があった。
『ベルモンド商会は、オルブライト侯爵家の財政再建に必要な資金および技術を提供する。侯爵家は、提供された資金および技術の対価を、両家の婚姻成立をもって清算するものとする。ただし、侯爵家側の重大な背信行為により婚姻が不成立となった場合、未清算の対価は金銭債務として確定する』
セドリックの顔が引きつった。
「……何だ、それは」
「覚えてない?」
「知らん!」
「あなたのお父様と、うちのお父様が結んだ契約よ。王立公証院にも登録してあるわ」
「馬鹿な!」
「私もすっかり忘れてた!」
リリアーナは明るく笑った。
「だって、結婚するつもりだったもの!」
セドリックが契約書を奪おうとする。
リリアーナはひょいと避けた。
「でもね」
その声は、驚くほど静かだった。
「私、あなたとは結婚しない」
「……何?」
「婚約を解消します」
「ふざけるな!」
「ふざけてないわ」
リリアーナは微笑んだ。
「それと、セドリック」
机の上に、帳簿を置く。
「五年間の精算をしましょう」
第五章 愛情請求書、発行します!
翌朝。
ベルモンド商会の会議室に、リリアーナの高笑いが響いた。
「あーっはっはっは! 面白くなってきたわ!」
「お嬢様。失恋した翌朝とは思えません」
マルタが呆れた。
「だって! 五年間も間違った投資をしてたのよ!?」
「人間関係を投資と呼ばないでください」
「しかも損切りが遅すぎた! 私としたことが!」
リリアーナは机に飛び乗った。
「でもね! 損失を回収できるなら、話は別よ!」
「お嬢様。机から降りてください」
「みんな、聞いて!」
リリアーナは商会の幹部たちを見渡した。
「オルブライト侯爵家への支援を、本日をもって全面停止します!」
会議室が静まり返った。
「灌漑装置の保守契約は?」
「更新しない!」
「鉱山の採掘機械は?」
「期限満了で引き揚げ!」
「侯爵家への融資は?」
「契約に従って返済請求!」
「侯爵領の魔導灯は?」
「住民の生活に必要な分は、領民組合との直接契約に切り替えて維持! 侯爵家の屋敷に貸してる分だけ回収!」
「素晴らしい!」
マルタが初めて笑った。
「ようやくまともな判断をなさいましたね!」
「失礼ね! 私はいつだってまともよ!」
「恋愛以外は」
「うっ!」
リリアーナは胸を押さえた。
「そこを突くのは反則よ!」
会議室に笑いが起こった。
しかし、リリアーナはすぐに真顔になった。
「それと、アンナの件」
空気が変わった。
「侯爵家に正式な謝罪と治療費、慰謝料を請求します。応じなければ裁判」
「承知しました」
「それから、侯爵家で働いている使用人たちの未払い賃金を調べて」
「……お嬢様?」
「セドリック、使用人の給金を三か月も滞らせていたことがあったでしょう? あれ、私が立て替えたのよね」
「はい」
「その後も同じことをしていないか気になるの」
リリアーナは指を鳴らした。
「もし未払いがあるなら、まとめて請求しましょう!」
そして、満面の笑みを浮かべた。
「さあ! 楽しい楽しい、債権回収の時間よ!」
こうして。
王都史上、最も騒がしい婚約解消劇が幕を開けた。
最初に侯爵家へ届いたのは、一通の請求書だった。
『五年間の愛情精算書』
大きな文字で、そう書かれていた。
内訳は次の通り。
灌漑設備導入費、金貨一万二千枚。
鉱山採掘設備費、金貨二万一千枚。
侯爵家借入金立替、金貨三万枚。
魔導灯設置費、金貨四千枚。
医薬品購入費、金貨二千三百枚。
使用人給与立替、金貨五千枚。
その他、契約に基づく設備・役務提供費、金貨一万枚。
合計、金貨八万四千三百枚。
ただし、契約上無償とされた個人的な贈り物や、任意の好意による支出は含まれていない。
末尾には、リリアーナの手書きの一文が添えられていた。
『追伸。私の恋心は五年間無料で提供しておりましたが、今後のご利用はお断りいたします。なお、設備と融資は無料ではありませんので、きっちりお支払いくださいませ!』
請求書を読んだセドリックは、怒りのあまり花瓶を叩き割った。
「ふざけるなあああっ!」
しかし、これはまだ序の口だった。
第六章 悪党は、だいたい自分で墓穴を掘る
「リリアーナのやつ、調子に乗りおって!」
オルブライト侯爵は激怒していた。
侯爵家の財政は、すでに崖っぷちだった。
リリアーナの資金援助がなければ、領地経営は成り立たない。
鉱山の採掘機械も、灌漑装置も、魔導灯も、すべてベルモンド商会の技術に頼っていた。
「父上! あの女を黙らせてください!」
「分かっておる!」
侯爵は拳を握った。
「そもそも、女のくせに商売で成り上がったのが気に食わん!」
「そうですわ!」
侯爵夫人が叫んだ。
「私たちがどれほど目をかけてやったと思っているの!」
「お母様、私の新しいドレスはどうなるの!?」
ミリアも泣き叫んだ。
「リリアーナが代金を払わないって、仕立屋が言うの!」
「当然払わせるわ!」
侯爵夫人は机を叩いた。
「セドリック! あの娘を連れ戻しなさい!」
「……しかし」
「五年間もお前に夢中だったのでしょう!? 少し甘い言葉をかければ、すぐ戻ってくるわ!」
セドリックは頷いた。
「そうですね」
彼は自信満々だった。
なぜなら、リリアーナは自分を愛している。
そう信じて疑わなかったからだ。
翌日。
セドリックは薔薇の花束を抱え、ベルモンド商会を訪れた。
「リリアーナ!」
「あら!」
リリアーナは嬉しそうに振り返った。
「セドリック!」
セドリックは勝利を確信した。
「君に会いたかった」
「私もよ!」
「そうか!」
「請求書のお返事を!」
「…………」
セドリックは固まった。
「……何?」
「お支払いは一括? 分割? 担保のご相談も承るわよ!」
「リリアーナ!」
セドリックは花束を差し出した。
「君を愛している!」
リリアーナは花束を見た。
それから、セドリックを見た。
「……へえ」
「今まで冷たくして悪かった! 結婚しよう!」
「そう」
リリアーナは花束を受け取った。
セドリックの顔が輝く。
しかし。
「マルタ! これ、花屋さんに返せるかしら?」
「購入先次第ですね」
「じゃあ、工房に飾りましょう!」
「リリアーナ!?」
リリアーナはにっこり笑った。
「ありがとう! でも、結婚はしないわ!」
「なぜだ!」
「あなたのこと、好きじゃなくなったから!」
あまりにもあっさりした答えだった。
セドリックの顔が歪む。
「……そんなはずがない」
「あるのよ!」
「君は私を愛していた!」
「ええ!」
「五年間も!」
「ええ!」
「ならば!」
「だから、もう十分なの!」
リリアーナは胸を張った。
「私、好きな人にはとことん尽くす主義なの。でもね、好きじゃない人には一銅貨だって払いたくないのよ!」
「……この、金の亡者が!」
「褒め言葉ね!」
セドリックは顔を真っ赤にした。
「後悔するぞ!」
「あなたが?」
「君がだ!」
「じゃあ、賭ける?」
「……何?」
リリアーナの目が輝いた。
「一年後、どっちが幸せになってるか! 金貨百枚!」
「ふざけるな!」
「えーっ! 面白いのに!」
セドリックは花瓶を蹴り倒し、商会を出ていった。
その背中を見送りながら、マルタが呟いた。
「……お嬢様。少しは落ち込んでいらっしゃるのですか?」
「落ち込んでるわよ!」
「まったくそう見えません」
「そりゃそうよ!」
リリアーナは笑った。
「落ち込んでる時間がもったいないもの!」
けれど、その夜。
誰もいない工房で。
リリアーナは一人、椅子に座っていた。
机には、五年前にセドリックからもらった小さな髪飾りがあった。
安物の銀細工。
彼が初めてくれた贈り物だった。
「……好きだったんだけどなあ」
ぽつりと呟く。
「本当に、好きだったのよ」
目から、一粒だけ涙が落ちた。
リリアーナは慌てて拭った。
「……あーあ!」
天井を仰ぐ。
「恋って、儲からないわねえ!」
「そうとも限らないと思いますが」
「うひゃあっ!?」
背後から声がして、リリアーナは椅子ごとひっくり返った。
第七章 金より大切なものを知っている男
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄ってきたのは、黒髪の青年だった。
長身で、銀縁の眼鏡をかけている。
整った顔立ちだが、どこか生真面目そうな雰囲気があった。
「だ、誰!? 泥棒!?」
「違います。王立商務監査局のアーネスト・レインです」
「監査局!?」
リリアーナは飛び起きた。
「脱税してないわよ!?」
「まだ何も言っていません」
「帳簿も全部つけてるし!」
「存じています」
「賄賂も渡してない!」
「落ち着いてください」
青年は苦笑した。
「あなたに協力をお願いしたくて来ました」
「協力?」
「オルブライト侯爵家の不正についてです」
リリアーナの目が細くなった。
「……詳しく聞かせて」
アーネストは書類を広げた。
「侯爵家は、三年前から王国の災害復興補助金を不正受給しています」
「……え?」
「灌漑設備の設置費として国庫から補助金を受け取りながら、実際の費用はベルモンド商会に負担させていた」
「…………」
「さらに、鉱山の産出量を偽り、税を逃れていた疑いもあります」
リリアーナは黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「……つまり」
「はい」
「私がセドリックのために作った設備で」
「はい」
「侯爵家は国からもお金をもらってた?」
「その可能性が高いです」
リリアーナはしばらく考えた。
そして。
「……うわあ」
顔を覆った。
「私、すごい詐欺師に恋してたのね!」
「……率直ですね」
「だってそうでしょう!?」
リリアーナは立ち上がった。
「私のお金を使って、国のお金まで盗んでたってこと!?」
「証拠が揃えば、そうなります」
「最低!」
机を叩く。
「私からだけならまだしも、国のお金まで! あれ、みんなが納めた税金でしょう!?」
アーネストは少し驚いた顔をした。
「……あなたは、ご自分の損失より国庫の損失を怒るのですね」
「当たり前よ!」
リリアーナは胸を張った。
「私のお金は私が稼ぎ直せばいい! でも税金は、みんなが働いて納めたものよ!」
アーネストは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……噂とは、ずいぶん違う方ですね」
「噂?」
「金に目がない、強欲な令嬢だと」
「合ってるわよ!」
「ですが、使い道を間違えない」
「……あら」
リリアーナは瞬きした。
「あなた、褒めるの上手ね!」
「事実を述べただけです」
「いいわ! 気に入った!」
リリアーナはアーネストの手を握った。
「協力する! 何でも言って!」
「ありがとうございます」
「その代わり!」
「……代わり?」
「終わったら、ご飯おごって!」
アーネストは目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
「喜んで」
その笑顔を見た瞬間。
リリアーナの胸が、妙に跳ねた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「……何でもない!」
リリアーナは慌てて手を離した。
五年間、セドリックだけを見ていた彼女は、まだ知らなかった。
恋とは、相手のために何かを差し出し続けることだけではない。
何も差し出さなくても、隣にいてくれる人がいること。
それもまた、恋なのだと。
第八章 王都を揺るがす大逆転
それから二週間。
リリアーナは、文字通り寝る間も惜しんで働いた。
まず、侯爵家との取引記録をすべて整理。
次に、灌漑設備と鉱山機械の所有権を確認。
さらに、侯爵家が国庫へ提出した補助金申請書と、ベルモンド商会の納品記録を照合した。
アーネストが監査局の権限で集めた書類には、驚くべき事実が記されていた。
侯爵家は、ベルモンド商会が無償で設置した設備について、架空の施工会社へ代金を支払ったように偽装していた。
しかも、その施工会社の代表は、侯爵の弟だった。
「……うわあ」
リリアーナは帳簿をめくった。
「これ、隠す気あるの?」
「一応、あったのでしょう」
アーネストが苦笑した。
「帳簿を二重につけています」
「二重帳簿なんて古いわねえ!」
「普通は感心するところではありません」
「だって、もっと上手にやればいいのに!」
「……犯罪の助言は控えてください」
「あはは! 冗談よ!」
リリアーナは書類を机に並べた。
「でも、これだけじゃ足りないわ」
「何がです?」
「侯爵家を潰す証拠は十分。でも、私が一番許せないのは、アンナを殴ったことと、使用人を馬鹿にしたことなの」
リリアーナは真顔になった。
「だから、ちゃんと全員に償ってもらう」
アーネストは頷いた。
「そのための準備も進めています」
「本当!?」
「侯爵家の元使用人から、未払い賃金と不当な暴行について証言を得ました」
「……!」
「さらに、ミリア嬢が複数の侍女に暴力を振るっていた記録も」
リリアーナは目を見開いた。
「すごい!」
「あなたほどではありません」
「そんなことないわ!」
リリアーナは勢いよく彼の両手を握った。
「アーネスト、あなた最高よ!」
「……っ」
アーネストの耳が赤くなった。
「……あまり、そういうことを軽々しく言わないでください」
「どうして?」
「……勘違いします」
「何を?」
「…………」
アーネストは眼鏡を押し上げた。
「……仕事に戻りましょう」
「変なの!」
リリアーナは笑った。
そして、いよいよ。
反撃の日が訪れた。
王宮の大広間。
国王主催の貴族会議。
そこへ、リリアーナは真っ赤なドレスで現れた。
「皆様、ごきげんよう!」
会場がざわめいた。
オルブライト侯爵家の面々もいた。
セドリックが顔をしかめる。
「リリアーナ! 何をしに来た!」
「お金を取りに!」
「……は?」
リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
「五年間の愛情代、回収に参りました!」
そして、アーネストが前に進み出た。
「陛下。王立商務監査局より、オルブライト侯爵家の不正について報告いたします」
国王が頷いた。
「許す」
アーネストは書類を広げた。
「オルブライト侯爵家は、過去三年間にわたり、災害復興補助金を不正に受給しておりました」
会場が騒然となった。
「なっ……!」
侯爵が立ち上がる。
「でたらめだ!」
「証拠はこちらです」
アーネストは淡々と説明した。
架空の施工会社。
偽造された領収書。
二重帳簿。
不正に受け取った補助金。
さらに、鉱山の産出量を偽った脱税。
すべてが、白日の下にさらされた。
「ば、馬鹿な……!」
侯爵の顔が真っ青になった。
「そして、もう一件」
アーネストが続けた。
「侯爵家は、ベルモンド商会との契約に基づく債務、金貨八万四千三百枚を履行しておりません」
「それは贈与だ!」
セドリックが叫んだ。
「リリアーナが勝手に尽くしただけだ!」
「いいえ!」
リリアーナが元気よく手を上げた。
「贈り物は贈り物! 契約は契約! そこはちゃんと分けてあるわ!」
彼女は契約書を掲げた。
「こちら、五年前に両家が結んだ正式な契約です!」
「……っ!」
「私があなたに贈った服も、お菓子も、旅行代も、ぜーんぶ請求してないわよ!」
リリアーナは笑った。
「でもね、セドリック」
その目が、鋭く光った。
「私の商会のみんなが働いて作ったものは、無料じゃないの」
会場が静まり返った。
「職人さんが徹夜して作った機械も、マルタが苦労して集めた資金も、アンナが何度も足を運んで届けた帳簿も」
リリアーナは一歩踏み出した。
「全部、誰かの時間と努力でできてるのよ」
セドリックは何も言えなかった。
「私の恋心は、あなたにあげたわ」
リリアーナは微笑んだ。
「でも、みんなの努力まで、あなたにあげた覚えはない」
国王が静かに口を開いた。
「……オルブライト侯爵」
「は、はい……!」
「申し開きはあるか」
「そ、それは……」
侯爵は言葉を失った。
そして、ついに。
「すべて、息子が!」
「父上!?」
「セドリックが勝手にやったことです!」
「何を言っているんですか!」
親子が醜く罵り合い始めた。
侯爵夫人も叫んだ。
「私は何も知りませんわ!」
ミリアも泣き出した。
「私は関係ないもの!」
リリアーナは、しばらくその光景を眺めていた。
それから、ぽつりと呟いた。
「……本当に、似た者家族ねえ」
第九章 破滅は一括払いでお願いします
判決は、容赦のないものだった。
オルブライト侯爵は、爵位を剥奪。
不正受給と脱税の罪で、王国北部の鉱山刑務所へ送られることになった。
セドリックも、不正への関与が認められ、爵位継承権を失った。
さらに、ベルモンド商会への債務返済義務を負った。
侯爵家の屋敷、別荘、宝石、美術品、馬車。
すべてが差し押さえられた。
侯爵夫人は、豪華な屋敷を追い出された。
ミリアも、当然ながら社交界から追放された。
だが、リリアーナの復讐は、それだけでは終わらなかった。
「さあ! 最後のお楽しみよ!」
ベルモンド商会の会議室。
リリアーナは、満面の笑みで新しい帳簿を開いた。
「侯爵家の資産売却額は?」
「金貨五万一千枚です」
「残りは?」
「三万三千三百枚」
「じゃあ、鉱山の採掘権は?」
「国庫への追徴金の担保になっています」
「なるほど!」
リリアーナは頷いた。
「じゃあ、私たちの債権は、残った資産と今後の収入から回収するしかないわね!」
「はい」
「ところで、セドリックは?」
「王都の労務局に登録されました」
「まあ!」
リリアーナの目が輝いた。
「働くのね!」
「そうなります」
「素晴らしい!」
リリアーナは手を叩いた。
「五年間、私のお金で遊んで暮らしてた人が、ついに働くのよ!」
そして、にっこり笑った。
「ぜひ、頑張っていただきたいわ!」
セドリックに紹介された仕事は、倉庫の荷運びだった。
朝から晩まで荷物を運び、汗だくになって働く。
しかし、彼は三日で音を上げた。
「こんな仕事、できるか!」
職場の監督官は冷たく言った。
「なら辞めればいい」
「私は侯爵家の嫡男だぞ!」
「元、だろう」
「……っ!」
セドリックは唇を噛んだ。
次に紹介された仕事は、鉱山の事務補助。
しかし、帳簿を読めずに解雇された。
次は、商店の店員。
客に横柄な態度を取って、また解雇。
次は、馬車の清掃。
汚れるのが嫌だと騒いで、半日で辞めた。
ついに、まともに雇ってくれる場所がなくなった。
しかも、借金は残っている。
豪華な服も、宝石も、馬車もない。
かつて見下していた平民たちより、ずっと貧しい暮らしになった。
一方、侯爵夫人は、親戚の家を転々としていた。
だが、どこへ行っても歓迎されない。
「あなた、昔は私たちを田舎貴族と馬鹿にしていましたよね」
「……そ、それは」
「今さら頼られても困ります」
次々と門前払いされた。
ミリアはさらに悲惨だった。
かつて彼女が虐げていた侍女たちが、正式に訴えを起こしたのだ。
暴行。
賃金の不払い。
私物の破壊。
虚偽の窃盗告発。
証拠は十分だった。
ミリアは損害賠償を命じられ、支払い能力がなかったため、王都の公的労務施設で働きながら返済することになった。
そこで彼女は、生まれて初めて床を磨いた。
「いやあああっ! こんなの私の仕事じゃない!」
監督官が冷たく言った。
「では、誰の仕事ですか?」
「使用人のよ!」
「ここにあなたの使用人はいません」
「……っ!」
「自分で汚した床は、自分で磨いてください」
ミリアは泣き叫んだ。
しかし、誰も助けなかった。
そして、ある日。
セドリックがベルモンド商会を訪れた。
かつての美青年は、見る影もなかった。
頬はこけ、髪は乱れ、服は擦り切れている。
「……リリアーナ」
「あら、セドリック!」
リリアーナは明るく笑った。
「久しぶりね!」
「……頼む」
「何を?」
「助けてくれ」
セドリックは膝をついた。
「もう、働きたくない……」
「…………」
「借金も返せない……」
「…………」
「君なら、助けてくれるだろう?」
リリアーナは黙っていた。
セドリックは必死に続けた。
「五年間も愛してくれたじゃないか!」
「ええ」
「なら、もう一度!」
「セドリック」
リリアーナは静かに言った。
「あなた、私に何て言ったか覚えてる?」
「……何?」
「使用人なんて、代わりはいくらでもいるって」
「……っ」
「私の商売は下品だって」
「…………」
「私の才能も、努力も、全部あなたのものになるって」
リリアーナは微笑んだ。
「私ね、あのとき、本当に悲しかったの」
「……すまなかった」
「ううん。もういいの」
リリアーナは首を振った。
「あなたのおかげで、大切なことが分かったから」
「……大切なこと?」
「愛してるからって、何をされても許さなくていいのよね」
セドリックは顔を上げた。
「……リリアーナ」
「だから」
リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
「借金は、きっちり返してね!」
「……っ!」
「大丈夫! 働けば少しずつ返せるわ!」
「そんな……!」
「それと!」
リリアーナは指を立てた。
「アンナに謝ってないでしょう?」
「……何?」
「あなたの妹が殴ったこと。あなたが、たかが使用人って言ったこと」
「……っ」
「謝罪は、お金がなくてもできるわよ?」
セドリックは唇を噛んだ。
そして、震える声で言った。
「……すまなかった」
「私にじゃないわ」
リリアーナは首を振った。
「アンナに」
その日。
かつての侯爵家嫡男は、平民の少女の前で頭を下げた。
アンナは、静かにその謝罪を受け取った。
ただし、許すとは言わなかった。
許すかどうかは、彼女が決めることだからだ。
第十章 愛は無料ではありません
それから一年後。
ベルモンド商会は、王国最大の魔導具商会へと成長していた。
リリアーナが開発した魔導式自動洗濯機は大ヒット。
王都の洗濯屋から貴族の屋敷まで、あらゆる場所に導入された。
さらに、魔導式調理器、魔導式冷蔵庫、魔導式掃除機。
次々と新商品を発売。
売上は、前年比三倍。
リリアーナは、ますます忙しくなっていた。
「やったーっ! 大儲け!」
商会の屋上で、リリアーナは両手を天に突き上げた。
「お嬢様。また新しい事業を?」
マルタが呆れた。
「もちろん! 今度は空を飛ぶ馬車よ!」
「……また危険なものを」
「大丈夫! 試作品は三回しか爆発してない!」
「三回も爆発したんですか!?」
「あはは!」
リリアーナは笑った。
そのとき。
「リリアーナ」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、アーネストが立っていた。
黒髪に銀縁の眼鏡。
相変わらず生真面目そうな顔。
けれど、リリアーナを見る目は、いつも優しかった。
「アーネスト!」
リリアーナは駆け寄った。
「聞いて! 新しい魔導馬車が完成したの!」
「今度は爆発しませんか?」
「たぶん!」
「……たぶん、ですか」
「一緒に乗りましょう!」
「命が惜しいので、改良後にお願いします」
「えーっ!」
リリアーナは頬を膨らませた。
アーネストは笑った。
「それより、今日は約束の日ですよ」
「約束?」
「夕食です」
「あっ!」
リリアーナは手を叩いた。
「そうだった!」
一年前。
不正調査への協力を約束したとき。
アーネストは、リリアーナに夕食をおごると約束していた。
だが、その後も仕事が忙しく、何度も延期になっていた。
「今日は、ちゃんと予約してあります」
「本当!?」
「ええ」
「何を食べるの!?」
「あなたの好きな、牛肉の赤葡萄酒煮込みです」
「……え?」
リリアーナは瞬きした。
「どうして、私の好きなものを知ってるの?」
「以前、話していたでしょう」
「……覚えてたの?」
「もちろん」
アーネストは不思議そうに首を傾げた。
「好きな人の話ですから」
「…………」
リリアーナは固まった。
「……す、好き?」
「はい」
「……誰が?」
「私が」
「……誰を?」
「あなたを」
「…………」
リリアーナの顔が、みるみる赤くなった。
「ええええええっ!?」
屋上に絶叫が響いた。
「ちょ、ちょっと待って! いつから!?」
「初めて会った頃から、少しずつ」
「そんなの聞いてない!」
「今、言いました」
「そ、そうだけど!」
リリアーナは頭を抱えた。
「えっ!? でも私、金儲けばっかり考えてるし!」
「知っています」
「危ない発明もするし!」
「知っています」
「遊ぶの大好きだし!」
「知っています」
「欲張りだし!」
「知っています」
「じゃあ、どうして!?」
アーネストは微笑んだ。
「そういうあなたが、好きだからです」
「…………」
リリアーナは、完全に沈黙した。
そして。
「……ずるい」
ぽつりと呟いた。
「何がです?」
「そんなこと言われたら……」
リリアーナは顔を真っ赤にした。
「……好きになっちゃうじゃない」
アーネストは、少しだけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「それは光栄です」
「……でも!」
リリアーナは突然、顔を上げた。
「私、恋人ができたら、まためちゃくちゃ尽くしちゃうかも!」
「構いません」
「お金も使うし!」
「それは少し相談しましょう」
「発明品も贈るし!」
「爆発しないものなら」
「旅行にも連れていくし!」
「一緒に計画しましょう」
「……でも、あなたは?」
リリアーナは小さな声で聞いた。
「あなたは、私に何をしてくれるの?」
アーネストは、少し考えた。
それから、彼女の手を取った。
「あなたが疲れたら、休ませます」
「……うん」
「あなたが泣いたら、隣にいます」
「……うん」
「あなたが無茶をしたら、止めます」
「……それは困るわね」
「そして」
アーネストは、彼女の手の甲に口づけた。
「あなたが幸せになるために、私にできることをします」
「…………」
リリアーナの目から、涙がこぼれた。
「……あれ?」
慌てて拭う。
「おかしいな。嬉しいのに、涙が出る」
「泣いてもいいですよ」
「……だって」
リリアーナは笑った。
「私、今まで、好きな人に何かしてあげることばっかり考えてたの」
「はい」
「でも、何かしてもらうのって……」
涙を拭いながら、笑う。
「……こんなに嬉しいのね」
アーネストは、そっと彼女を抱きしめた。
「これから、たくさん知ってください」
「……うん!」
リリアーナは、彼の胸に顔を埋めた。
そして、しばらくしてから。
「……ねえ、アーネスト」
「何です?」
「結婚したら、財産はどうする?」
「…………」
アーネストは瞬きした。
「……気が早くありませんか?」
「だって! 大事なことよ!」
「そうですね」
「私は商会を続けたいし!」
「もちろんです」
「発明もしたいし!」
「もちろん」
「あと、子供ができたら、家族で世界一周旅行もしたい!」
「素敵ですね」
「それから!」
リリアーナは目を輝かせた。
「二人で新しい事業を始めるのはどう!?」
「……何の事業ですか?」
「結婚相談所!」
「…………」
「恋愛で失敗した人を助けるの!」
アーネストは笑い出した。
「それは、あなたにしかできない事業ですね」
「でしょう!?」
リリアーナは胸を張った。
「だって私、五年間も大失敗したんだもの!」
「……そうですね」
「でもね!」
リリアーナは、アーネストの手をぎゅっと握った。
「今度は、絶対に失敗しないわ!」
「なぜです?」
「だって!」
彼女は、太陽のように笑った。
「今度は、私だけが頑張る恋じゃないもの!」
アーネストは、その手を握り返した。
「ええ。二人で幸せになりましょう」
そして。
二人は、夕焼けに染まる王都を見下ろしながら、そっと唇を重ねた。
終章 五年分の愛情、そのお値段は?
さらに半年後。
王都に、一冊の本が発売された。
題名は。
『愛は無料ではありません! ~五年間、駄目男に尽くした私が、幸せな結婚を手に入れるまで~』
著者、リリアーナ・ベルモンド。
発売初日で、初版五千部が完売。
一か月で、三万部を突破。
王都中の令嬢たちが買い求めた。
「お嬢様! 増刷です!」
「やったーっ!」
リリアーナは大喜びした。
「失恋まで商売になるなんて! 人生って素晴らしい!」
マルタは呆れた。
「……本当に、転んでもただでは起きませんね」
「もちろんよ!」
リリアーナは笑った。
「だって、あの五年間は無駄じゃなかったもの!」
「……そうですか?」
「ええ!」
リリアーナは窓の外を見た。
そこには、迎えに来たアーネストが立っていた。
彼は、彼女に気づくと優しく手を振った。
リリアーナも、大きく手を振り返す。
「私ね、ようやく分かったの」
「何をです?」
「愛って、無料じゃないのよ」
リリアーナは微笑んだ。
「時間も、気持ちも、努力も、全部大切なものだから」
「……はい」
「だからこそ、ちゃんと大事にしてくれる人にあげたいの」
マルタは、静かに頷いた。
「……お嬢様も、大人になられましたね」
「そうでしょう!」
リリアーナは胸を張った。
「でも、お金儲けはやめないわよ!」
「存じております」
「だって!」
リリアーナは満面の笑みを浮かべた。
「幸せになるには、愛もお金も、両方あった方がいいもの!」
そして、元気いっぱいに駆け出した。
「アーネストーっ! 待っててーっ!」
階段を駆け下りる途中、盛大につまずいた。
「ぎゃあああっ!」
転がり落ちそうになったところを、アーネストが抱きとめる。
「……危ないですよ」
「えへへ!」
「まったく……」
「ねえ、アーネスト!」
「何です?」
「今日の夕食、私がおごるわ!」
「いえ、今日は私が」
「じゃあ、半分ずつ!」
「そうしましょう」
「その代わり!」
「……何です?」
リリアーナは、いたずらっぽく笑った。
「帰りに、宝石屋さんに寄りましょう!」
「……宝石屋?」
「婚約指輪!」
「…………」
アーネストの顔が赤くなった。
「……リリアーナ」
「だって、あなた、まだ正式に求婚してくれないんだもの!」
「……それは」
「待ちきれないから、私からしちゃう!」
リリアーナは彼の両手を握った。
「アーネスト・レイン!」
「……はい」
「私と結婚してください!」
アーネストは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、優しく微笑んだ。
「喜んで」
「やったああああっ!」
リリアーナは飛び上がった。
「じゃあ、結婚式は盛大に! 新婚旅行は世界一周! 新居には最新式の魔導具を全部設置して!」
「……予算は?」
「金貨五千枚!」
「高すぎます」
「えーっ!」
「二人で相談して決めましょう」
「……うん!」
リリアーナは笑った。
それは、五年間の恋で一度も見せたことのない、心から幸せそうな笑顔だった。
ちなみに。
オルブライト侯爵家の元嫡男セドリックは、その頃。
王都の小さな倉庫で、重い木箱を運んでいた。
「くそっ……!」
汗だくになりながら、歯を食いしばる。
借金は、まだ山ほど残っている。
元侯爵家の財産はすべて失い、かつての友人たちは誰一人として助けてくれなかった。
そんな彼の目に、一冊の本が飛び込んできた。
『愛は無料ではありません!』
著者、リリアーナ・ベルモンド。
帯には、こう書かれていた。
『元婚約者から金貨八万四千三百枚を取り立てた令嬢が語る、幸せになるための恋愛術!』
「…………」
セドリックは、その場に崩れ落ちた。
「リリアーナあああああっ!」
悲鳴が、倉庫に響き渡る。
しかし、誰も助けなかった。
なぜなら。
彼が運ぶはずだった木箱が、まだ山ほど残っていたからだ。
そして、その木箱の中身は。
リリアーナの本の、追加発注分だった。
本の帯には、作者の言葉が書いてあった。
――愛は無料ではありません。
でも、幸せは。
誰かと分け合えば、何倍にも膨らむものなのです。
〈完〉




