不幸を呼ぶ日本人形
それを見つけたのは、お義母さんの遺品整理をしていたときのことでした。昔の人ですから、物を大事にするというか、ものを捨てられないというか。とにかく何でもかんでも溜めてあったんですよ。お義母さんの元気な内は下手に捨てると怒られますから、ずっと手をつけられずにおりまして、葬式やなんやかやと終わってひと段落して、片付けに取りかかったんです。お義母さんの部屋はもちろんのこと、あそこに建っている車庫の二階もひどい有様で。昔の行李ですとか、中には虫染みのついた着物が詰まった木の重たい長持ちですとか、笠やら農機具なんてものもありましてねぇ。大変な重労働でした。そんな中に、ぽつりとあれがあったんですよ。車庫の二階の片隅にね。そうだ、ちょうどあれが置かれた棚が長持ちで隠されてましてね、いい具合に埃避けになっていて、きれいな状態で置かれていました。
一切合切捨てる予定だったんですけど、あまりにきれいだから捨てるのがもったいなくなりましてね、母屋に持って入ったんです。お父さん、ちょっと床の間にでも飾っておきましょうか、なんて。なんであのとき、他のものと一緒に捨ててしまわなかったんですかねぇ。
お父さんもね、こんな人形うちにあったんだなぁなんて呑気にしててね。その三日後です、お父さんが脳梗塞で倒れたのは。幸い、命は取り留めたんですけどね、後遺症が残りまして。お父さんはいつも明け方の四時ごろにトイレに行くんですよ。ほほ、若い人の前でお恥ずかしいですけど、歳をとるとそんなもんなんですよ。どうもそのときに倒れたみたいで、私が気がついたのはいつも通り六時に、朝の支度をするために起きたときでした。いつものことですから、布団を出たのは知っているんですけど、戻ってきたかどうかも確かめないで私も寝てしまって。もっとはやく気づけていたら、と今でも思ってしまうんですけど。
長男夫婦は隣町に家を建てて暮らしているんですけどね、そんなことがあってたびたび様子を見にきてくれるようになりまして。最初は私も嬉しかったんです。お父さんが家に帰ってくるために、家のリフォームの手配とかをしてくれてね。お父さんも全部が全部私がお世話しなくちゃいけないわけじゃないから、大丈夫だって言ったんだけど、やれデイサービスに行け、介護サービスを受けろってうるさく言ってくるようになって。息子なんてあんなもんなんですかね。大事に育てたはずなのに、今まで苦労してきてくれたお父さんを他人の手に任せろだなんて。しまいには、お母さんまで倒れたらどうするんだ? とか言うんです。そんな私だってまだ倒れる歳じゃありませんよ。バカにして。まぁ、息子なんて結婚したら変わってしまうんですよ。よく言うでしょ? 嫁次第って。あんな子じゃなかったはずなのに。
お父さんは体に少し麻痺が残ってしまいましたから、介護用の大きなベッドを家に入れたんです。今まで夫婦の寝室は二階にありましたから、そこじゃ不便だろうということで、床の間のある座敷にベッドを置いたんですよ。私も隣で寝起きするようにして。
そうなんです。あの人形のある部屋なんです。
思えば、お父さんが倒れたのもあの人形を家の中に持ってきてからでした。ガラクタまみれの中に、棚の中にポツンと置かれてる日本人形なんて、どう考えても変でしょう? どうして私、あの時家に持って入ろうなんて思ったのか。あんなところに置いておくくらいなら、お義母さんだって捨ててしまえばよかったのに、そうしないってことは何か捨てられない事情があったんじゃないか、とか……。
家に帰ってきてからのお父さんは体が動きづらいからとベッドで過ごすことが増えましてね、そうしたら、不思議なことを言うんですよ。声が聞こえる、って。女の子の声だ、って。私がいくら耳を澄ませたって、そんなもの聞こえないんです。なのに「おーい、おーい」って俺の名前を呼んでるって言うんです。どこから呼んでるの? って聞いたら、お父さんの指が床の間の人形を指差して……。息子夫婦は認知症なんじゃないかって言うんですよ。そんなわけないじゃないですか。お父さんはまだ六十三なんですよ? 女の子の声が聞こえるって言う以外は普通なんです。どうして実の父に向かってそんなひどいことが言えるんですかね。ただ、私たちには聞こえないだけじゃないですか。お父さんだけが聞こえてるだけ。
ね。
そう思うでしょう?
あの人形がお父さんに話しかけてるんです。お父さんを病気にしただけじゃ飽き足らず、息子夫婦とだってこんなことになるまで仲良くやってたのに、全部があの人形のせいなんですよ……!
女性の後ろには、床の間に佇む日本人形がいた。切り揃えられた前髪に、背中に流れる黒い髪。赤い着物は金糸で刺繍がされている。ぱっちりとした黒い目はどこを見つめるでもなく前を向いていて、白いほっぺたのふっくらとした造形が愛らしい。
わかりやすい、日本人形だった。
それまで黙って話を聞いていた慧遠は、目の前の村松久子を見つめる。根本が白くなった薄茶色の髪の毛はうねって広がっていて、目の下の弛んだ皮膚とともに彼女を疲れているように見せた。
隣でむずむずと動いている、スカートに包まれた太ももを軽く叩く。手のひらに触れた柔らかな感触に西宮慧遠はどきりとするが、感情が皮膚から漏れ出さないように堪えた。仕方ない。女性から見えない位置はそこしかなかったのだ。叩かれた太ももはぴたりと動きが固まって、しばらくしてまたむずむずと動き出した。じっとしているのも限界らしい。
「大変でしたね」
「ええ、ええ! 先生、やっぱりこれは、人形のせいなんでしょう?」
長々と人形にまつわる不幸について語った村松が机越しに身を乗り出してくる。
「いや、先生はこちらなんです。僕は、助手みたいなもので」
慧遠は隣でむずむずと体を動かしている女性を、手でさし示した。
彼女は久世るり。趣味で怪異のフィールドワークをしているが、歴とした大学で考古学を教える准教授である。
「村松さんは人形から視線などを感じたことはありますか?」
水を向けられ、もう堪えきれないとばかりにるりが目をきらきらさせる。
「え……視線は、ない、ですね」
「捨てたら戻ってくるとか」
「怖くて、捨てることができないんです」
困惑しながらもるりの質問に答える女性に、慧遠は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それでも、何を思ったか立ちあがろうとした彼女のジャケットの端を掴んで、再度座らせることには成功した。
「なるほど、なるほど。髪が伸びた気がする、などは?」
「髪の長さも……変わらない気がします。学者の先生は、いろんなことをお聞きになるんですね」
「さまざまな角度から物事を検証し、再現性を求めるのが科学ですからね」
るりは満足げににっこりと笑った。
「人形に触らせてもらっても?」
「え、ええ、構いません」
家主に許可をもらい、解き放たれたるりはゆるく巻いた栗色の髪を揺らして、意気揚々と日本人形に近づいていった。おもむろに両手に人形を持ち、しげしげと眺め始める。その様子を横目で見ながら、慧遠は女性に向き直る。
「ご主人は今日はデイサービスでしたか」
「ええ……息子夫婦が無理に言うもので」
「外出もなかなか大変でしょうから、ご主人もリフレッシュになるでしょうね」
「そ、そうでしょうか」
思わしげに村松は、片手で膨らんだ髪を何度か撫でつけた。先ほどの話から察するに、夫を他人に預けることに罪悪感があるのだろう。
「お姉さんは責任感が強いんですね」
「おっ、おねっ、え、あっ、おほほ」
お姉さんと呼ばれて動転した村松は、裏返った声で笑った。白く枯れたような肌に、ほんのりと血色が戻る。その後ろで、るりは人形を逆さにしたり、着物の裾をめくったりしていた。村松の気を引いておいてよかったと、慧遠は胸を撫で下ろす。
るりにだって、三十四歳という落ち着きや社会性を発揮する場面が、ないことはない。その瞬間が非常に限られているだけで、時には年相応に振る舞うこともあるのである。けれど、こと趣味のフィールドワークに関しては、手綱のついていない犬のようだった。手綱役を自認している慧遠であっても、どこまで制御できるかは自信がない。
気を落ち着かせるように、村松は隣に置いてあるベッドの空のマットレスを撫でた。
「人形の呼ぶ声が聞こえる件は、他の病気だと悪いので一度お医者様に相談した方がいいかもしれませんね」
村松がゆっくりと慧遠を見る。その目は不安に揺れていたが、拒絶は感じられなかった。
「村松さん、このお人形はどうされますか?」
村松の後ろでるりが言う。
「あ、ええっと、できれば処分したいんです」
「では、そこに座っている慧遠くんが、ちょうど寺の息子なんです。彼にお焚き上げを頼んではどうでしょう?」
「あっ、そうなんですね。道理で若いのに落ち着いてらっしゃると……お願いします」
深々と頭を下げた村松越しに、慧遠は勝手に話を決めたるりを睨みつけた。
慧遠の寺はお守りなどを預かって、お焚き上げという名の裏庭での焚き火をすることはあるが、人形供養などは扱っていない。また、わざわざ人形供養を売りにする神社仏閣があるように、人の形をするものを捨てたり燃やしたりすることには、理屈では説明がつかない忌避感があった。住職である父にどう説明しようか。いや、大雑把な父ならいっしょに燃やしてしまえと言いそうでもある。
「慧遠ちゃん、頼めるよね」
形のいい大きな目が真ん丸に見開かれて、慧遠を写す。この目に、慧遠は抗うことができない。
「ええ、お任せください。僕が責任を持って供養いたします」
無責任な言葉がくちびるからぺらぺらと滑り落ちた。
「るりさん、うち、人形供養なんてやってないですよ」
日本人形を小脇に抱えて、踊るように愛車に戻るるりの小さな背中を追いかける。
「いーっていーって。なんなら帰りの車の中で慧遠ちゃんがお経でもあげてくれたら、燃やせばいいよ」
「燃やすって」
「この世の中に燃えないものはない!」
「あります。適当なこと言わないでください」
るりが車のドアハンドルを握ると、ピッと解錠の音がした。後部座席を開けて、慧遠は人形を座らせる。
「……ん?」
人形の黒目が、揃って右側を向いていた。ちょうど、るりが座る運転席を睨むように。
るりが触っていたときや、持ち運んだときに目玉が動いたのかもしれない。慧遠は目に嵌め込まれたガラスを指で触って、上下左右に動かしてみる。けれど指先はガラスの上をつるつる滑って、人形の眼球を動かすことはできなかった。
「慧遠ちゃん何してるのー? 行こー!」
「あっ、はい!」
車がゆっくりと発進する。
「慧遠ちゃんさー、あれ何、お姉さんって」
「母が、年上の女性のことは全員そう呼びなさいって言うんですよ」
「へー! じゃあ、私のこともお姉さんって呼んでよ」
「いやですよ、るりさんはるりさんです」
「なんでだよー」
るりが朗らかに笑う。
慧遠も人形に感じた違和感などは忘れてしまって、いっしょに笑った。




