傲慢な貴方たちへ
傲慢だったと、思う。
ルグシーヌ王国の建国時より存るハルツェン侯爵家の父、リオマン帝国の公爵令嬢を母に持つ由緒正しい血筋。それに相応しくあるべく、自身を磨いてきたという自負もある。だから、彼の側に立てる女性は私しかいないと思っていた。
私が王太子ハロルト様の婚約者候補に選ばれたのは10歳の時だ。
さらさらの金髪に碧い瞳、同じ年齢とは思えないほど洗練された所作。初めての顔合わせで緊張している私を、ハロルト様は優しくエスコートして下さった。それは幼い頃、夢中になった物語に出てくる王子様そのもので——私は彼に恋をしたのだ。
婚約者候補は私を含めて四人。
みな高位貴族の優秀な令嬢だ。候補者たちは学院とは別に王子妃教育を受け、最も優秀な者が王太子妃となる。これは我が国の王家では古くからの習わしらしい。
王宮では貴族としての基礎教養やマナーは勿論のこと、自国のみならず周辺国の地理に歴史、言語に至るまで叩き込まれ、時には国政の問題について議論を交わすこともあった。
私は必死で努力した。学院での成績は常に首位だったし、婚約者候補の中でも抜きんでていたと思う。作法や容姿を磨くことにも手を抜かず、僅かな休暇には慈善活動に励んだ。
四人の令嬢はそれぞれが週に一度、ハロルト様とお茶会をする機会を与えられる。
彼の好むお茶を用意し、好きそうな話題について事前に調べておくことも忘れない。決してハロルト様のお言葉を遮らないよう、否定しないように、かつ会話が弾むように細心の注意を払って言葉を選んだ。
「アンネリーゼとのお茶会が一番居心地が良い。君といると、何というか……落ち着くんだ」
ハロルト様がそう仰った時は、今までの努力が報われたと誇らしい気持ちになったものだ。
彼はいつも優しかった。他の令嬢と比べ、私を特別に扱っているように見えた。
だから私は勘違いしたのだ。
私が彼を想うような強い恋情ではないのかもしれないけれど、少なくとも彼は私に好意を持っている。私こそがハロルト様の伴侶になるべきなのだ、と。
いつしか周囲も私を王太子の婚約者のように扱い、私もそのように振る舞った。
婚約者候補ですらないくせにハロルト様へ近づこうとする令嬢や、能力も無いのに擦り寄ろうとする令息たち。そんな輩を彼に知られる前に追い払ったことは何度もある。
夜会では婚約者であるかのように、当たり前の顔をしてハロルト様の傍に立っていた。今思えば滑稽極まりない話だ。
ヴィリス王国のクリスティーネ姫が学院へ編入してきた時もそうだった。ハロルト様の彼女へ向ける瞳が、熱を帯びていることにはすぐ気付いた。
折れそうなくらい華奢な身体に、透き通るような白い肌とアメジストの瞳。麗しいクリスティーネ様に魅了される者は男女問わず多い。だからハロルト様もただひととき、美しい彼女に憧れたのだと思っていた。
「ハロルト様、クリスティーネ様とは少々距離を置かれた方が良いかと」
お二人が余りにも仲睦まじいと、噂が立ち始めた時。私は彼を諫めた。言いにくい事ではあったが、婚約者候補筆頭である私の役目だと自分に言い聞かせて。
「彼女は我が国に不慣れだ。王族の留学生をサポートするのは、王族である俺の役目だろう」
「それは重々承知しておりますが、良からぬ噂を立てる者もいますから」
「たかが噂ではないか。そんなもの、言わせておけばいい」
今まで見たこともない程の険しい目に、言葉が詰まる。
そこまでクリスティーネ様に夢中なのか。いつも尊重してくれていた私の諫言にも、耳を貸さない程に……。胸が血を流しているかのように、じくじくと痛む。
だけど婚約者の第一候補が私であることに変わりはない。誰よりも彼の為に努力したことを、ハロルト様は分かってくれている。いずれは淡い憧れに区切りをつけ、私を妻として愛してくれるに違いない。そう信じていた。
どうして自分だけが、努力が報われると思っていたのだろう。何か目指す物があったとして、それに向かってどれだけ頑張ったところで叶わない事などこの世に幾らでもあるのに。
「クリスティーネ姫と息子ハロルトの婚約が決まった。長きに渡って其方らを婚約者候補として拘束してしまったことを謝罪する。其方らの嫁ぎ先は、王家が責任を持って用意する」
陛下がお言葉を掛けて下さっているというのに、呆然としていた私は頭を下げることすら忘れていた。
クリスティーネ姫を溺愛するヴィリス王は、娘の「ハロルト様へ嫁ぎたい」という願いを叶えるために我が国へ様々な利権を持ちかけたそうだ。
それに釣られた陛下や重臣たちは、あっさりと二人の婚姻を決めた。最後まで反対なさったのは王妃様だけだったと聞く。
「アンネリーゼ。ハロルトは其方を側妃に迎えたいと申している」
「……側妃、ですか?」
オウム返しをするのが精いっぱいの私に、ハロルト様が朗らかに話しかける。
「クリスティーネも嫁いですぐには慣れない事もあるだろうから、君に補佐をして欲しいんだ。アンネリーゼの優秀さは皆も知るところだからね」
ハロルト様も陛下も、にこやかな表情だった。褒められて嬉しいだろうと言わんばかりだ。
貴方の隣に立ちたかった。貴方の唯一として愛されたかった。なのに、どうして貴方はこんな残酷な事を、笑いながら言うのだろう。
私の中で、何かがぷつりと切れた気がした。
「アンネリーゼ。お前はどうしたい?」
数日後、私は父の執務室へと呼び出された。陛下からの使者により、両親も既に事情を把握している。
「叶うならば、お断りしたく存じます。私はハロルト殿下に嫁ぎたくありません」
「そうか」と、お父様が安堵したように溜め息を吐く。
「お前はハロルト殿下を慕っていたから、側妃でも良いから嫁ぎたいと言い出すのではないかと思っていたが……安心した。正直に言って、王家には思うところもあるからな」
「そうですわよ。この子があれだけ努力を積み重ねたのは、全てハロルト殿下へ嫁ぐため。私たちだってアンネリーゼが未来の王妃になれると思えばこそ、様々なサポートをしてきました。アンネリーゼの能力が不足しているから選ばれなかったというのであれば、納得もします。ですが他国の姫君に惚れたからとこちらを切り捨てたくせに、能力だけ都合良く使おうなんて。身勝手にも程があるわ」
お母様の手に握られた扇が、ミシミシと音を立てた。
以前、ハロルト様とクリスティーネ様が親し過ぎる件についてお母様に相談したことがある。お母様は王妃様を通して陛下に奏上したが、「気にしすぎだ」と一笑に付されたらしい。
「全く……やはりこうなったじゃないの。今の王家でまともな方は王妃様くらいだわ。ねえ、アンネリーゼ。しばらくリオマンに行ってみない?」
私が王太子の婚約者候補ではなくなったことを知った母の兄、つまり私の伯父であるアーレント公爵から、リオマン帝国へ滞在しないかと誘いがあったそうだ。
「あちらに縁談の当てがあるという事でしょうか」
「ふふ、鋭いわね。第三皇子シュテファン殿下が婚約者を探しているらしいの」
シュテファン殿下は帝国の侯爵令嬢と婚約していた。しかし令嬢の兄君が病死し、急遽令嬢が婿を取って侯爵家を継ぐことになった。そのためシュテファン殿下は新たな婚約者を探しているとのこと。
殿下はいずれ臣下に降り公爵位を賜る予定であり、公私ともに殿下のサポートが出来る優秀な令嬢を求めているそうだ。
「貴方ならば身分も教養も文句なしですものね。ハロルト殿下のこともあるから、すぐに気持ちを切り替えるのは難しいかもしれないけれど。考えてみてもいいのじゃないかしら?」
私は帝国へ向かう事に決め、暫くは学業に勤しんだ。私がシュテファン殿下のお気に召すかどうかは分からないが、もし殿下との婚約が成れば私はそのまま帝国に留まる可能性が高い。だから学院の履修科目は全て片付けておきたかった。
「こうやって四人で集まっていると、王子妃教育を思い出しますわね」
「無駄な時間を過ごしたとは思いたくないですけれど……アレはないですわよね」
「私たちの貴重な時間を、なんだと思っていたのでしょうねぇ」
出発の数日前、ハロルト様の婚約者候補だった三人の令嬢が会いに来てくれた。
「ユリアーナ様とフローラ様は、婚約が決まられたのですよね?おめでとうございます」
ユリアーナ・バルヒェット伯爵令嬢は王家から提示されたブラウアー辺境伯との婚約を受けたそうだ。辺境伯はユリアーナ様より10歳年上だが、元々年上が好みだったと頬を赤らめて話す彼女はとても愛らしい。
フランツィスカ・デルリーン侯爵令嬢は王家の提案を断った。元々、婚約者に選ばれなかった場合は侯爵家の次期当主となる予定だったそうだ。係累から婿を迎えることにして、今は女侯爵となるべく足場を固めている最中だという。
フローラ・メルテンス伯爵令嬢は、幼い頃から思い合っている令息と婚約した。親の意向により王太子の婚約者候補にされてしまったが、幼馴染の彼はずっと待ってくれていたそうだ。
「元から私は数合わせのようなもので、ハロルト殿下の婚約者に選ばれることはないだろうと思っていたんです。皆様に比べたら家格も下ですし」と笑う彼女は、本当に幸せそうだった。
「正直に言って、アンネリーゼ様が側妃のお話をお断りになるとは思いませんでしたわ」
フランツィスカ様の言葉に、他の二人が頷く。
「アンネリーゼ様は本当にハロルト殿下をお慕いされてましたものね」
「私たちの誰よりも、王妃に相応しい方だと思っておりました。ええ、あのクリスティーネ姫様よりもよほど」
「アンネリーゼ様が御心変わりなさるなんて、ハロルト殿下のなさりように余程怒ってらっしゃるのだろうと思っておりましたの」
三人の視線が私に集まる。私は少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「もし側妃になったらどうなるかと考えましたの。きっと私は愛し合うお二人を傍目に、クリスティーネ王女の影として公務を押し付けられるでしょう。どんな地獄か、という話ですわ。……それにね、側妃の話を笑いながら話すハロルト様を見て思いましたの。もういいかなって」
◇ ◇ ◇
傲慢だったのだろう。
彼女はずっと自分の側にいてくれると信じていた。何があろうと離れていくことはないと思っていた。
俺の婚約者候補は四人いたが、最初からほぼアンネリーゼ・ハルツェン侯爵令嬢に決まっているようなものだった。両親からも彼女を大切にするように言われていたから、特に優しく接した。
自分の容姿が優れている自覚はある。だから理想の王子様を演じてやれば、アンネリーゼはすぐに俺を慕うようになった。単純なものだ。
彼女は王子妃教育に誰よりも熱心に取り組み、淑女へと成長していった。全ては俺を愛するが故だろう。それが重くもあった。
学院では、次期国王である俺と繋がりを持とうとする者が近寄ってくることも多い。そんな輩を、アンネリーゼは必死で牽制していた。俺はその様を、滑稽だと内心で見下していた。
結局のところ、彼女とて同じだろう。アンネリーゼの瞳の中に在る欲は、彼らと何ら変わりはない。未来の王妃という権威と、俺の容姿を欲しているだけだ。
だからクリスティーネに惹かれたのだと思う。
彼女は王女であり俺と対等だ。ゆえに何のしがらみもなく、ただ自由に無邪気に俺へ接してくれる。
ずっと『有能な王太子』『理想の王子』を演じてきた俺にとって、それはとても新鮮なものだった。クリスティーネと話したくて、共に過ごしたくて。それが恋に変わるまで時間は掛からなかった。そしてクリスティーネもまた、想いを返してくれるようになった。
「ハロルト様、クリスティーネ様とは少々距離を置かれた方が良いかと」
アンネリーゼにそう言われた時は、鬱陶しいと思った。
俺の外側しか見ていないくせに。親の七光りが無ければ、俺の傍に立つことすら出来ないくせに。
俺たちの仲に嫉妬しただけだろうに、『噂が』という建前を持ち出す卑小さにも腹が立つ。だから少々きつい言い方をしてしまったことは否めない。
「本当にクリスティーネ王女と婚約するのですか?」
「はい、母上。クリスティーネもそう望んでいます。ヴィリス国王も認めて下さると」
父はクリスティーネとの婚約に乗り気だったが、何故か母だけが渋っていた。
「婚約者候補たちは、アンネリーゼはどうするのです?あの娘はあれほど貴方を慕っていたというのに」
「アンネリーゼは側妃に迎えます」
「……正気なの?」
「はい。優秀なアンネリーゼを手放すのは王家としても損失ですから。彼女ならば、側妃としてクリスティーネを十二分に補佐してくれるでしょう」
「それは名案だな。早速ハルツェン侯爵家へ使者を送らねば。残りの令嬢にはこちらで新しい縁談を用意すれば、文句も出ないだろう」
アンネリーゼを側妃とするのは、今まで俺のために努力してきた彼女へ報いるつもりでもあった。他の男に嫁ぐよりも慕っている俺に娶られる方が、アンネリーゼとて喜ぶだろう。
麗しく他者を惹きつけるクリスティーネと有能なアンネリーゼ。二人の支えがあれば、俺の治世は安泰となるに違いない。
「アンネリーゼがリオマン帝国の第三皇子と婚約……!?」
それは青天の霹靂だった。
アンネリーゼはリオマンへ留学中だ。
留学前にハルツェン侯爵家から『側妃については謹んで辞退する』という返答があったことは知っている。
だが彼女が俺から離れようとするわけがない。今は拗ねているだけで、落ち着けば俺の元へ戻ってくると思っていた。
「国内にアンネリーゼほど優秀な令嬢は他にはおらん。彼女ならば、クリスティーネ姫の足りない部分を補えると期待しておったのだが」
父は眉に皺を寄せて溜め息を吐いた。
アンネリーゼが幼い頃から俺を慕っていたのは周知の事実。彼女が他国へ嫁ぐなど、父上や重臣たちも想定していなかったらしい。
そこにはアンネリーゼの嫁ぎ先が見つからなければ、結局は側妃を受け入れるしかないだろうという打算もあった。彼女の血筋からして、嫁ぎ先は侯爵以上でなければ有り得ない。しかし国内の侯爵家以上の適齢期の令息は、既に婚約者がいる者ばかり。
だから高を括っていたのだ。既に成人近くなった彼女の嫁ぎ先など、俺以外には無いだろうと。
「王命で撤回させることは出来ないのですか?」
「国内の貴族ならともかくリオマン帝国、しかも皇族と婚約したのだ。口出しはできない」
「そんな……それにしたって、早過ぎませんか。まだ婚約者候補から降りて三カ月しか経っていないのですよ?」
「ハルツェン侯爵の意図かもしれん。あの狸親父ならば我が国と帝国を天秤に掛けて、より有利な方に擦り寄るくらいはしそうだからな」
「アンネリーゼの本意でないということでしょうか?でしたら彼女を説得すれば」
「……本当に、殿方というものは愚かですこと」と、母上が吐き捨てるように呟いた。
「女は一度相手に失望すれば、見切りを付けるのも早いのです。自分を裏切った男であれば、尚更」
扇の陰から向けられた冷たい視線に、父上が居心地悪そうに身じろぎをする。
「あの娘がこの6年どれだけ努力してきたか、貴方たちだって知っているでしょうに。それをあっさり切り捨てたのだもの、こちらが切り捨てられるのも当然ではなくて?」
『切り捨てられた』という言葉に苛ついた。それではまるで、俺の方が捨てられたみたいじゃないか。
「王族を切り捨てるなど不敬ではありませんか!それに俺はアンネリーゼを裏切ってなどいません。側妃に迎えるのは、彼女に対して責任を取るつもりで」
「お黙りなさい。アンネリーゼからすれば同じことよ。どちらにしろ、もう決まったこと。諦めなさい」
学院に戻ってからも何となく落ち着かなかった。常に傍にいたアンネリーゼがいないからだ。
短期留学と聞いていたから、彼女が戻ってきたところで説得しようと考えていたが、学期が変わってもアンネリーゼは戻って来なかった。
リオマン帝国のことを学ぶため、短期留学を長期へと切り替えたらしい。アンネリーゼは留学前に学院の単位を全て取得しており、卒業式のみ参加するとのことだった。
6年も共にいたのに、あっさり他の男と婚約する移り身の早さに憤りを感じる。あまりにも薄情ではないか。ざらざらとした不快感が背中を這い、苛つきが収まらない。
「ハロルト殿下。我が家からの贈り物は届きましたでしょうか」
「あー……ビュットナー子爵令息だったか?済まないが、そういう事は側近に任せてある」
最近は無遠慮に近づいてくる者が増えた。学院の中では爵位を問わず平等に接することになっているため、下位貴族であっても平気で話しかけてくる。面倒だ。
「何をしていたんだ。余計な者を俺に近づけないのも、お前たち側近の役目だろう!」
「申し訳ございません。以前ならばハルツェン侯爵令嬢がさりげなく追い払って下さっていたので……」
腹が立って側近を叱り飛ばした。側近のくせに王太子である俺を守ることも出来ないとは。無能極まりない。
「先日はアダルベルト侯爵家のお茶会に呼ばれましたの。侯爵家の庭園はとても素敵でしたわ。後宮の庭も、あのような美しい設えに出来ないかしら」
婚約者の義務として、クリスティーネとは週に一度お茶会をする。俺はお茶を口に含み、彼女の話に時折相槌を打つ。
「母上に相談してみようか。君の望みならば、母上も否とは言わないだろう」
「まあ、嬉しいわ」と朗らかに微笑むクリスティーネは、相変わらず麗しい。
王女が開くお茶会だけあって、用意された茶葉や菓子は最高級だ。クリスティーネは勿論、侍女たちの所作も洗練されており、質の高い茶席だと感じる。
だが……何かが足りないと思ってしまう。
アンネリーゼのお茶会ではこんなことは感じなかった。ただ長い時間を共にしてきた故の気安さだろうと思っていたが、比べてみれば良く分かる。さりげない会話運びや茶葉の選定、限られた刻限の中での時間配分……あの心地よさは、アンネリーゼの気遣いの成せるものだったのだ。
「ハロルト殿下、ご機嫌麗しゅう」
「デルリーン侯爵令嬢、王宮で顔を合わせるのは久しぶりだな。今は領地にいるのだったか」
「はい、父の下で領地の内政を学んでおりますわ」
「側妃の打診を断ったと聞いたが」
フランツィスカ・デルリーン侯爵令嬢は俺の婚約者候補の一人で、アンネリーゼと首位争いをするほど優秀な令嬢だった。
クリスティーネも優秀だが、講師陣によれば成人までにこの国の王子妃教育全てを終えるのは難しいらしい。もっと早い段階から教育を施していれば問題無かっただろうが、何せ婚約してから成人まで1年しかない。そこで父上はアンネリーゼの代わりにフランツィスカを俺の側妃に迎えたい旨を打診したが、断られたそうだ。
フランツィスカは気が強い。その歯に衣着せぬ物言いが苦手で、彼女が側妃にならなかったことにはむしろ安堵している。
だがその反面、憤りも感じていた。俺が断るならいざ知らず、王族からの申し出を無碍にするなど失礼ではないか?
「私は既にデルリーン侯爵家の次期当主として、陛下から承認を得た身ですから。それに殿下の側妃になったら、私の献身を良いように使われてしまうでしょう?アンネリーゼ様のように。ならば私は、自分の力を我が家と領民のために使う方を選びますわ」
「……は?」
アンネリーゼがルグシーヌを去る前に語っていたそうだ。
『私が寝る間も惜しんで努力してきたのは、ハロルト様をお慕いしていたからよ。両親はそこまで頑張らなくても良いと言ってくれたし、身体が怠くて辛い時もあったけれど、ハロルト様が喜んで下さると思えばちっとも苦にならなかったわ。ハロルト様も陛下もそれを十分ご存知のはずなのに……いえ、だからこそこれからも私を有効活用できるとお考えなのでしょう。側妃として、ね。つまり私の好意に付け込んでいるのよ。何ならたまに情を与えてやればいい、くらいに思っているのかもしれない。余りにも傲慢で無神経だわ』
王族らしいと言えばそうなんでしょうけど、と彼女は付け加えた。
思い返せば、俺の身勝手さや無神経さに引っかかる事はあったそうだ。
今までは気にしていなかったそれが、急に憤りと共に彼女の中に溢れ出た。
きっと、心の奥底にずっと在ったのだろう。
恋に恋していたから、王太子妃に相応しいのは自分だと思い込んでいたから、その澱みに目を背けていた。
それに気づいた時、ふっと心が軽くなったそうだ。
『恋って、こんな風に突然終わりを迎えるものなのね』とアンネリーゼは笑っていたという。
終わりという言葉に、ひどく衝撃を受けている自分がいた。
気付きたくない、目を逸らしていた何かが、腹の内側から這い出てくる。ひどく不快で、口がカラカラに乾いていた。
「俺、は……好意に付け込んだつもりなど」
「でも、アンネリーゼ様の想いを認識してはいたのでしょう?意図していないつもりだったとしても、彼女の恋心を利用しようとしたことに変わりありませんわ。だって、アンネリーゼの献身に本当に報いたいと思われていたのなら、彼女の新しい幸せを願って良い嫁ぎ先をお探しになる道もあったはずですもの」
結局、側妃の件は立ち消えとなった。父上は他の婚約者候補だった者たちにも打診したが、全て断られたそうだ。
「クリスティーネ姫の補佐は私がやります。姫がこの国に慣れるまで、その分の公務は貴方が補いなさい」
結局、母上の手を煩わせることになってしまった。
まだ学生の俺も公務を任されてはいる。そして成人が近づくにつれて、その量は増えつつあった。
これが更に倍増するかと思うと頭が痛い。アンネリーゼがいれば、こんなことはなかっただろうに。
「ハロルト殿下、お久しぶりでございます」
「アンネリーゼ……いや、ハルツェン侯爵令嬢も息災で何よりだ」
アンネリーゼと再会したのは卒業パーティの時だった。
俺が同伴しているのは婚約者のクリスティーネだ。薄桃のドレスを着た彼女は妖精のように美しく、俺の目を楽しませる。
しかし挨拶に訪れたアンネリーゼを見た途端、俺の目は彼女へ釘付けになってしまった。
アンネリーゼはシュテファン皇子にエスコートされていた。皇子殿下の瞳の色である碧のドレスを着たアンネリーゼは、息を呑むほどに美しい。
「……ハロルト様?」
「ああ、済まない。少し呆けていたようだ」
クリスティーネが不安そうな表情でこちらを見ていた。彼女を安心させるべく微笑みかけたが、無理矢理作った笑顔のせいで口の端が引き攣る。
学園長と卒業生代表である俺の挨拶が終わると、会場に音楽が流れ始めた。
生徒たちがめいめいに踊る中で、俺もクリスティーネと踊った。踊りながらも目の端にちらちらとアンネリーゼの姿が映る。
婚約者に身体を密着させて踊る姿は、会場の中の誰よりも優雅だった。
当たり前だ。彼女はこの国で一番教養の高い、完璧な令嬢であるのだから。それは俺が誰よりも知っている。
踊り終わったシュテファン皇子がアンネリーゼに話しかけ、彼女はふわりと笑って何かを答えた。
その日の夜は一睡も出来なかった。
シュテファン皇子と語り合うアンネリーゼの姿が、目に焼きついて離れない。
アンネリーゼの正装姿など、何度も見てきたはずだ。なのに何かが違う。
……笑顔だ。彼女は本当に幸せそうに笑っていた。シュテファン皇子だけに向けて。その事実に心の臓を抉られ、胸を掻き毟りたくなる。
「アンネリーゼ・ハルツェンと申します。ハロルト殿下にお目通りが叶い、光栄でございます」
初めて顔を合わせた時のアンネリーゼを思い浮かべる。
そんなに緊張しなくてもいいと優しく話しかけると、彼女はほっとしたように笑った。その笑顔を、とても愛らしいと思った。
そうだ。あの頃の俺は確かに、アンネリーゼを大切に思っていたのだ。
だが反抗期と呼ばれる時期に差し掛かり、伴侶すら自由に決められないという事に鬱屈を感じた。しかし品行方正な王子を演じる俺は、周囲にそれを明かすことは出来なかった。その負の感情が、アンネリーゼへ向かってしまったのだ。
反抗期が終わっても俺は捻くれた感情を持ち続けた。自分がなんとも思っていない女から愛されているという事が、心地良くもあった。つまらない反抗心とちっぽけなプライドだ。
アンネリーゼが自分以外の男を愛するなど、想像した事も無かった。
俺にとって、彼女が傍にいるのは当たり前のことだった。アンネリーゼという土台があってこそ、俺はクリスティーネとの恋を楽しめたのだ。
クリスティーネの補佐をして欲しいなど、建前だ。俺はアンネリーゼを手放したくなかったのだ。
そう伝えていれば。
愛していると、ずっと傍に居て欲しいのだと叫んでいれば、彼女は今もここにいてくれただろうか。
その愛も、身体も、自分のものになるはずだったのに。後悔と未練が引いては寄せる波のように押し寄せ、心を軋ませる。
いつかこの想いを忘れられる日が来るのだろうか。そうすれば、この苦しみから解放されるのだろうか。
◇ ◇ ◇
「愛しているよ、エレオノーラ」
あれから、夫ヴァルターが度々私のもとを訪れるようになった。心の底から鬱陶しいと思う。口にはしないが。
「お前は儂を見限ってはいないよな?」
どうやら息子に話した件で不安になっているようだ。身に覚えがあるから、だろう。
「そう思いたいのならば、そう思っておられればいいのでは?」
「冷たい言い方をするな。私たちは夫婦ではないか」
「その夫婦の信頼を失わせたのは、どなただったかしら」
「愛妾の件なら、謝っただろう」
「それだけではないですけれどね」と私は盛大に溜息を吐いた。
令嬢であった頃、私はヴァルターの婚約者候補の一人だった。しかし当時王太子であったヴァルターは私を愛し、私もまた彼を愛した。よって早い段階で正式な婚約者と定められたのだ。
しかし彼は学院で恋人を作った。相手は男爵家の庶子だ。
当然私は抗議したが、ヴァルターは「彼女は卒業後、商家へ嫁ぐことが決まっている。学生時代だけのお遊びだよ。卒業したら君だけを愛するからさ」と笑いながら言った。私が怒る様を「嫉妬してくれている」と喜んでいる節すらあった。
「期間限定の遊びだ。大目に見てやってくれ」
ヴァルターの父、即ち当時の国王にもそう言われた。
ただでさえ学業と並行しての王子妃教育で、私には休む暇すらなかった。さらに早々に王太子の婚約者になったことで、令嬢たちの嫉妬に晒されてもいた。勿論やり返しはしたけれど、精神は擦り減っていく。それでも耐え抜いたのは、全てヴァルターを愛するが故だ。
何のために努力するのか分からなくなった私は、ヴァルターを愛することを止めた。私の心も献身も、この国と民へ捧げると決めた。
おかげでヴァルターの浮気も気にならなくなり、私たちは成人後に恙なく結婚した。
しかし夫はまたやらかした。私の妊娠中に、侍女の一人へ手を出したのだ。
「君が寝込んでいて寂しかったから」
などと言い訳をしていたが、私に断りなく侍女を愛妾へ迎えたことは許せない。
側妃や愛妾を迎えるには正妃の許可がいる。しかし夫は国王権限で手続きをすっ飛ばしたのだ。事前に相談されれば、私は快く許可しただろうに。
元々愛情などなかったが、この件で夫は私の信頼すら失ったのだ。
どうやら彼は全く気付いておらず、私が未だ彼を愛していると思っているらしい。全く滑稽な事だ。
「そんな昔のことをいつまでも根に持つな」
「言ったでしょう?女は自分を裏切った男に見切りをつけるのが早いのです。すっぱり切り捨てた後は、次へ向かうだけですわ」
「まさか……他の男を愛してるというのではないだろうな!?」
「いいえ。私は王妃として、恥ずべき行為は一切しておりません」
王が女を作ったところで、愛妾にすれば許される。一方で妃は決して許されない。全く理不尽な話だ。
「そうか。君ならそうであろうな。疑って悪かった」
夫が私の手を握ろうとしたが、手を引っ込めてそれを防ぐ。
「私は王妃として、また国母として全ての愛を我が国の民へ捧げることに決めましたの。ですから貴方のことは愛しておりません。情愛が欲しくば、愛妾様の元へ行かれませ」
ハロルトとクリスティーネ姫との結婚は、国民から歓迎をもって受け入れられた。表向きは仲睦まじい夫婦だ。
しかし時折、ハロルトは寂しそうな表情を見せる。
息子はようやく気づいたのだろう。自分が本当は、誰を愛していたかということに。
クリスティーネと結婚したいと言う息子に、私は何度も問うた。「本当にいいのか」「アンネリーゼを失うかもしれない」と。
しかしハロルトは「大丈夫ですよ」と笑い飛ばした。その結果がこれだ。
どうして男というものは、傷つけた女がいつまでも自分を愛してくれると思い込むのだろう。
ハロルトの本当の気持ちを留学前のアンネリーゼへ教えていれば、彼女を引き留めることが出来たかもしれない。だけど私はそうしなかった。
ハロルトには自分の愚かさと向き合う機会が必要だ。そして今度こそ、目の前の女性を大切にして欲しい。夫の二の舞とならぬように。
アンネリーゼにはハロルトの事など忘れて幸せになって欲しい。それが愚かな息子に振り回された彼女への、せめてもの贖罪だ。
いいえ。もしかしたら、これは私の復讐なのかもしれない。愚かで傲慢な、彼らへの。




