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濡れ衣は、一手で晴らします

濡れ衣で名指しされ、粗い混ぜ物はしないと申しました。秋にお宅の紅板は光りません

作者: 久瀬 澪
掲載日:2026/08/12

「糠を混ぜたのはいさなだ」


 御主人の声が、講の座に並んだ膝をひと撫でしました。戻された紅板を受け取りながら、わたくしはその声量を紅花何匁ぶんかと見積もりました。たいして買えません。


 小間物屋三軒の主人と、紅を買い慣れた女衆が、いっせいにわたくしの指を見ました。指なら逃げません。十一年も紅花を絞り、椀へ刷き、板へ立てておりますと、主人よりよほど店に居つくものです。


「こちらを立てたのは、いさなで間違いありませんな」


「その一枚に触れたことはございます」


「触れた、ではなく、作ったのだろう」


 御主人は買い手へ向ける声をもう半匁ほど足しました。わたくしへ言い渡すときは、いつも銭一枚ぶんの短さで済ませる方なのに。本日は大盤振る舞いです。ちっとも嬉しくありません。


 板を灯へ傾けると、赤の奥に出るはずの青みが、途中で濁っておりました。玉虫は立ちかけて、ざらりと足を取られている。これはまた、犯人の腕前まで告げ口する、ずいぶんお喋りな一枚でございます。


「縁が粉っぽいねえ」


 講の女が指を出しかけ、引っ込めました。紅板は舐めて使うものですから、疑いをかけられた品へ唇を寄せたくないのは当然です。その引っ込んだ指一本で、うちの売り物が何枚死ぬか。数えると昼の握り飯まで冷えそうなので、やめました。


「いさな、おまえが嵩を増やした。違うか」


「御主人は、そうお考えでございますか」


「答えろ」


 答えなら板に出ております。御主人だけが、赤いところしかご覧にならない。


「紅は、赤ければ売れます」


 買い手へ言い切り、御主人は顎を上げました。


(紅なんぞ、赤ければ売れる——)


 そのお顔には、声へ足した半匁より高い値がついておりました。見栄はいつでも原料代が要らず、よく膨らみます。売れればの話ですが。


 絢馬さんが御主人の肩越しに、口の端を上げました。


「糠くらい、見れば分かるでしょう。ねえ、いさなさん?」


 語尾だけが、飴のように伸びました。舐めても甘くはなさそうですし、そもそも今は紅板一枚で腹がいっぱいでした。


    *    *    *


「ちょうどよい。今日から手間賃も改める」


 御主人は座の脇に控えていた夏帆さんへ合図し、店の柱から一枚の紙を外させました。紅花何匁、晒し何度、刷き何回。一昨日、絢馬さんの墨で書き直された数字が、堂々と並んでおります。数字だけはわたくしより十一年若く、しわ一つございません。


「これまでは年季を見て払っていたが、これからは枚数で払う。いさなも絢馬も、一枚は一枚だ」


「わたくしと、絢馬さんを、同じに?」


「同じ紅を作るのだから当然だろう。店の手順さえ守れば誰でも立てられる」


 出ました。半年で十一年を追い越す、御主人お得意の算術でございます。わたくしが習いたいくらいです。習ったところで、商いの外では使い道がなさそうですが。


 絢馬さんが柱の紙を爪で弾きました。


「匁も回数も書いてある。これで誰でもできるってことですよ。いさなさんも、楽になるでしょう?」


「まあ」


「嬉しくないんですか?」


「まだ計算の途中でございます」


 十一年ぶんの見立てを零銭とし、半年ぶんの愛想笑いへ同じ手間賃を載せる。差額で温かい汁が何杯いただけるでしょう。二十杯を越えたところで腹が立ち、三杯ということにしました。夕餉に三杯。たいへん現実的です。


「計算など要らん。枚数で払う」


 御主人の語尾が、わたくしにだけ短くなりました。講の衆へ向き直ると、またよく響く声をお出しになります。声というものは相手によって目方が変わるらしい。紅花なら買い叩かれる品です。


「店では、すべて手順を定めております。誰か一人の勘に頼るような作り方はしておりません」


 夏帆さんが柱の紙を見ました。紙から紅板へ、紅板からわたくしの指へ目を移し、何も言わずに紙を持ったまま座の端へ下がります。任せきりだった方の顔は、言い訳より先に白くなるものらしい。


「では、この粗さは?」


 小間物屋の一人が問うと、絢馬さんが鼻で笑いました。


「だから、いさなさんが糠を入れたんでしょう。年季が長いと、少しくらい嵩を増やしても分からないと思うんですよ」


 御主人と絢馬さんの目が合い、同じ幅だけ口元が緩みました。仲のよろしいことで。糠一掴みのために二人分の顔を使うとは、ずいぶん高くつく共犯でございます。


「いさな」


「はい」


「異存はないな」


 柱の紙には、花の冷え方も、朝露の残り具合も、指へ返る粘りも書かれておりません。書く欄がないのです。欄がないものは、御主人の店では存在しないことになります。便利。お腹も欄を作らなければ空かないことにしていただきたい。


「承知しました」


 御主人は勝った顔で頷き、絢馬さんは講の衆へ笑いかけました。笑い返す方はおりませんでした。


    *    *    *


 わたくしは紅板を持ったまま立ち、座の外側へ回りました。逃げると思ったのか、絢馬さんが膝を浮かせましたが、糠の疑い一つで逃げるには履物が古すぎます。新調してから疑っていただきたい。


 三軒の小間物屋は、それぞれ勘定書きを膝へ置いております。わたくしは一軒目の前で足を止めました。


「次の紅は、灯へ傾けても青が返らないかもしれません」


「次?」


「柱のとおりに立てた紅でございます」


 二軒目には、板の縁へ指を添えました。


「乾いたあとも赤いままでしたら、そのままお返しください」


「何が足りない」


「足りないものは、匁では量れません」


 三軒目の主人は、勘定書きを閉じました。商人が勘定書きを閉じる音は、下手な怒鳴り声より高うございます。あれ一つで何箱返るか。冷えた握り飯が三日続くくらいでしょうか。嫌な勘定だけは速い。


「いさなさん。あんたが立てても、そうなるのかい」


「わたくしが立てなければ、でございます」


 御主人が咳払いをしました。


「脅すつもりか」


「言伝でございます。三軒とも、玉虫の立ちを見て買ってくださいますので」


「赤なら同じだ」


 座へ戻り、わたくしは元の場所へ膝をつきました。灯は板の表を滑り、ざらついたところで途切れます。糠。よりにもよって糠。紅を損なう手なら、台所から盗んできたような粗いものを選ばずとも、いくらでもございます。


 御主人はわたくしの返事を待ち、絢馬さんはもう一度、口を開きました。


「糠くらい、見れば分かるでしょう」


 買い手に見られると、声が伸びませんでした。絢馬さんは御主人の後ろへ半歩回り、袖だけを前へ出しております。その袖一枚で、わたくしの古い履物なら二足は買えそうでした。


「見れば分かります」


 わたくしは板を、もう少し灯へ近づけました。


「ですから、妙なのでございます」


「何がだ」


「わたくしが混ぜたにしては、あまりに粗うございます」


 講の女衆が一人、膝をわたくしへ向けました。座の向きは、銭より正直でございます。


    *    *    *


「そんな粗い混ぜ物はいたしません」


 御主人の眉が上がり、絢馬さんが吹き出しました。


「混ぜる腕の自慢ですか?」


「いいえ。損なう腕の話でございます」


 わたくしは紅板を膝の前へ置きました。


「わたくしが紅の値を落とすなら、摘み時を三日ずらします」


 一軒目の小間物屋が、灯のそばへ身を寄せました。


「三日で、どうなる」


「咲いて見える花を待ちます。嵩は取れますが、絞った赤が奥へ沈みません。板に立てれば、正面だけはよく赤うございます」


 主人は返された一枚を正面から見て、それから傾けました。御主人の顎が少し下がります。正面の赤だけを褒めた口が、急にお暇になったようでした。


「花の匁は変わらないのか」


「むしろ増えましょう。柱の数字は立派になります」


 紙を持つ夏帆さんの指が、一行目を隠しました。


「次に、寒晒しを一度抜きます」


 講の女が板の端を覗き込みました。


「寒晒しを?」


「はい。手間も薪も浮きます。けれど紅は急いで乾き、口へ引けば色が浮く。板では隠せても、客のお顔では隠せません」


 二軒目の主人が、柱の紙から御主人へ目を移しました。絢馬さんの笑いが止まりました。伸ばしていた口の端だけが行き場をなくし、御主人の肩の後ろへ引っ込みます。


「それも、匁では出ないな」


「出ません。抜いた回数だけなら、紙へ書けますが」


 夏帆さんが紙を二つに折りました。御主人が「何をする」と言いましたが、買い手へ向ける声量の半分もございません。ずいぶんお安くなりました。


 わたくしは三軒目の主人へ、板の角度を渡しました。


「最後に、刷きを二度で止めます」


「二度?」


「薄く、美しく、早く仕上がります。出来た日だけは、よい紅に見えましょう」


「そのあとは」


「冬の灯へ傾けても、玉虫が立ちません」


 三軒目の主人が板を受け取りました。正面では赤い。灯へ傾ければ、青みがざらつきに食われて消える。主人は一軒目へ回し、一軒目は二軒目へ渡しました。


 講の女衆も、一人ずつ覗き込みました。御主人を向いていた膝が、板の動きに合わせてわたくしへ向きます。最後まで腕を組んでいた女が、指先で板の縁を示しました。


「このざらつきは、その三つとは違うね」


「はい。糠を混ぜたざらつきでございます」


「いさながやるなら、見ても分からないように値を落とせる」


「できます」


「そんな者が、見れば分かる糠を入れるかねえ」


 わたくしは答えませんでした。答えたら自慢になりそうですし、自慢へ手間賃は出ません。十一年を半年前と同じ値にした店で、ただ働きまでして差し上げる必要はございません。


 絢馬さんが何か言いかけました。


「でも、それは——」


 二軒目の主人が振り返ると、残りは御主人の背中へ呑み込みました。買い手の前で伸びていた語尾が、まあ見事に縮みました。糠より細かくなれば、掃き出すのも一苦労です。


「……そりゃ、あんたにしかできん」


 一軒目の主人が、わたくしへ言いました。


 座の誰も、御主人へ答えを求めませんでした。紅板だけが一巡し、最後の一人の手から、御主人の前へ静かに返されます。置かれた音は軽いのに、御主人の座布団が半寸ほど沈んで見えました。


 おや。十一年ぶんの目方が、ようやくそちらへ載りましたか。


    *    *    *


 御主人の前へ戻った一枚を、もう一度だけ灯へ傾けました。ざらつきのない端には、かすかな玉虫が残っております。わたくしの指が最後に刷いたところでした。


「わたくしはこの一枚を、十一年、わたくしの紅だと思うて立てておりました」


 灯が青く返りました。


「本日限りで、手を引かせていただきます」


「待て。疑いはまだ——」


「御主人」


 夏帆さんが折った紙を膝へ置きました。平らな声でしたが、御主人は口を閉じました。


 翌朝、わたくしは一番の外出着で仕事場へ入りました。紅花は触りません。紅板も重ねません。十一年使った椀だけを洗い、布で拭いて、いつもの棚へ伏せました。持ち出せば椀泥棒、置いていけば誰にでもできる。御主人には後者をお楽しみいただきましょう。


「いさな」


 戸口に夏帆さんが立っておりました。手には、昨日折った紙がございます。


「任せきりにした。すまなかった」


 詫びは一度でした。一度で足りることと、足りないことを混ぜない声でした。


「返る箱も、支払いも、こちらで引き受ける。あなたへ店の始末は回さない」


「承知しました」


「椀は?」


「店の物でございます」


「紅は?」


「店の物でございます」


「では、何を持っていく」


 両手を袖から出して見せました。爪の際まで洗っても、薄い赤だけは落ちておりません。


「わたくしの手だけを」


 表へ出ると、朝霜の向こうに、まむろ姐さんが待っておりました。荷車には紅花の俵が二つ。あれで温かい汁が何杯、などと考えるより先に、姐さんがわたくしの指を見ました。


「椀を置いてきたか」


「はい」


「紅も?」


「はい」


「上等だ」


 まむろ姐さんは俵を叩きました。普段なら花の品と時期しか口にしない方が、その日は長うございました。


「姐さん。おれたちはあの店に売ってたんじゃない。あんたの指に売ってたんだ」


「ですが、店がございません」


「店なら、これから探す」


「銭も」


「講の連中が出す」


「椀も」


「買う」


「朝餉もまだでございます」


 まむろ姐さんは懐から、湯気の消えかけた握り飯を出しました。


「それは自分で買え」


 独立のお誘いとしては、ずいぶん塩気が利いております。けれど冷えた握り飯は、昨日までより少しだけ柔らかうございました。


    *    *    *


 秋、御主人の店では柱の紙どおりに紅が立てられました。紅花の匁は違わず、寒晒しの回数も違わず、刷きの回数も違わない。数字たちは全員勤勉で、誰一人として責められる隙がございませんでした。


 乾いた紅板は、赤いままでした。


 御主人は一枚を灯へ傾け、角度を変え、灯の芯を切り、もう一度傾けました。玉虫は立ちません。火のせいにするなら、町中の灯を買い替える必要がございます。たいへんな出費です。


「手順さえ守れば誰でも立てられる」


 御主人は同じ説明を繰り返しました。絢馬さんも同じ匁を量り、同じ回数を数えました。三度目の板も、ただ赤うございました。


 一軒目の小間物屋が来て、灯へ傾け、首を振りました。持ってきた箱を開けることなく、店の真ん中へ戻します。


「言伝どおりだ」


 二軒目は箱を二つ返しました。


「赤なら、ほかにもある」


 三軒目は勘定書きを開きませんでした。


「次の月は要らん」


 その次の月も、勘定書きは開きませんでした。箱は積まれ、注文書の束は痩せました。御主人の声だけは太ろうとしましたが、買い手がいなければ聞く者もございません。


 まむろ姐さんが紅花を運ばなくなると、御主人は三十年の付き合いを持ち出しました。


「店へ売っていた三十年じゃない」


 姐さんはそれだけ答え、荷車をわたくしの借りた仕事場へ向けました。付き合いは年数で量れても、行き先までは縛れません。そこを間違えると、三十年ぶんの荷車はたいそう重く見えるものです。


 夏帆さんは返った箱を一つ、二つと数え、五つ目で手を止めました。その日のうちに絢馬さんの道具箱から糠の包みを出し、本人の口から嵩を増やしたと聞いたそうです。わたくしへは、事実だけが届きました。


「絢馬を紅の仕事から外した。泰右も店の間から退いてもらう」


 夏帆さんは店の中央にあった御主人の座布団を持ち上げ、壁際へ置きました。空いた場所へ返った箱を据えます。赤い板ばかりが詰まった箱は、声より正しい場所を取っておりました。


「いさなへ手伝いは頼まない」


「お願いいたします」


 頼まれたら断る手間が増えます。手間賃をいただいても嫌です。温かい汁三杯でも足りません。


    *    *    *


 冬の灯へ傾けると、新しい紅板の赤の奥から、青がすっと起きました。さらに傾ければ緑が差し、戻せばまた赤へ沈む。玉虫が、わたくしの指のあとを追って板の上を歩きます。


 入口には、わたくしの名だけを掲げました。大きな屋号も、十一年を隠す店の名もございません。「いさな」の三文字。看板代を紅花へ直すと少々ひるみましたが、毎朝見れば元は取れます。たぶん。取れない日も、わたくしの名なので許します。


 講の女衆が、新しい板を順に灯へ傾けました。一軒目の小間物屋は黙って十枚を取り、二軒目は次の摘み時を尋ね、三軒目は勘定書きを開きました。勘定書きが開く音は、やはりよい。下手な鐘より腹へ響きます。


 まむろ姐さんは俵の口を締めながら、板を一瞥しました。


「三日早い花で、そこまで出たか」


「姐さんの花でございますから」


「指の代まで値切る気か」


「まさか。花代だけは、きっちり値切ります」


「出ていけ」


「わたくしの店でございます」


 たいへんよい気分です。これで甘い物まであれば完璧なのですが、世の中は紅板ほど都合よく玉虫には光りません。


 戸が開きました。御主人——泰右が、一人で立っておりました。以前より肩が細く見えます。声へ載せていた紅花半匁が、とうとう売り切れたのでしょう。


「いさな。話がある」


「紅のお求めでございますか」


「戻ってくれ」


 講の女衆が手を止めました。泰右はその目を避け、わたくしの前へ両手をつきました。裁く側の座布団は、ここにはございません。


「同じ匁で、同じ回数で作っても、光らない。客へも言う。この人でなければ紅を立てられない、と。手間賃は上げる。だから店へ——」


「御主人」


「もう御主人ではない」


「では、泰右さん」


 呼び替え一つに銭は要りません。惜しまず差し上げました。


「紅は、赤ければ売れます」


 泰右の口が開き、何も出ませんでした。わたくしは戸を閉めました。旧い店の注文も、座布団も、光らない板も、戸の向こうで夏帆さんが始末するものです。わたくしの手を一匁たりとも戻す気はございません。


 奥から、講の女衆が鍋を運んできました。


「甘酒だよ。新しい板の祝い」


「まあ!」


 椀から白い湯気が立ち、酒粕と米の甘い匂いが店いっぱいに広がりました。女衆と車座になり、わたくしは一椀を両手で包みます。


 甘酒一椀を銭に直しかけて、やめました。湯気まで値切るほど、わたくしは野暮ではございません。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

またどこかでお目にかかれましたら。


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