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真弓さんの場合

たくちゃんのお母さん、真弓さんは、ツアープランナーをしていた。

お客様の希望を聞き、詳しい旅の計画を立てる仕事は遣り甲斐があった。


ある朝、たくちゃんが学校に行けなくなった。

数日は何とかなったが、たくちゃんの不登校が数週間に及ぶと真弓さんは会社を休み続けるわけにはいかなくなり……

会社には事情を話して休職した。

まだ小さなたくちゃんを一人で家に置いておくわけにはいかなかった。


担任の先生が家まで訪ねてきて下さったが、たくちゃんは先生に会うことは出来ない。

同級生が数人で学校のプリントやお便りを持って来てくれても、たくちゃんはお友だちに顔を見せることはなかった。


真弓さんは、一人で皆にお礼を言ったり、頭を下げた。


「たくちゃん、皆に会わないの?」

お友だちが帰ってから、真弓さんはたくちゃんに聞いた。


たくちゃんは、「どんな顔をして家に来てくれた先生やお友だちに会ったら良いかわからない。」と部屋の壁を見つめながら答えた。

目には涙がたまっていた。


そんなたくちゃんの姿を見て、真弓さんは胸が苦しくなった。


真弓さんは、学校にいるスクールカウンセラーさんにも会いに行った。


「拓人君には拓人君のペースがあります。お母さん、拓人君を待ってあげてくださいね。

担任の先生と連絡は取りながら、拓人君の様子を見守りましょう。」


「……わかりました。」


真弓さんは、焦る気持ちを抑えながら頷いた。


拓人は、これからどうなるのかな?


ずっと一人で家にいるの?


不安でいっぱいになった時にカウンセラーの先生から真弓さんにメールが届いた。


メールを開くと次のような文面が綴られていた。

『近所に「カフェ・エスポワール」というお店があります。

その店の店長、竹村隼人さんを訪ねてみてください。

彼は公認心理師の資格を持っていて、地域の方々の色々な相談に乗っています。

お子さんの話を聞くのにも慣れていますので、拓人君の助けになるかもしれません。

お母様と拓人君で是非お店に行かれてみてください。』


カフェの住所や電話番号も記載されていた。


「カフェ・エスポワール……。」

真弓さんはメールを何度か読むと明日、行ってみようかなと思った。

藁にもすがるような気持ちだった。


翌日、真弓さんはたくちゃんに聞いてみた。

「ママと近所の喫茶店に行ってみない?」


「えっ、喫茶店?」


「うん、美味しい飲み物、飲んで来ようよ。」


「どうしようかな……でも、ママと一緒なら行く。」


たくちゃんがそう言ってくれたので、真弓さんはたくちゃんを連れてカフェに行ってみた。


素敵な雰囲気のカフェだった。

優しそうな隼人店長が出てきて、真弓さんの話を丁寧に聞いてくれた。


たくちゃんには、画用紙とクレヨンやサインペンを持ってきてくれて、絵を描くことを勧めてくれた。


たくちゃんは、熱心に絵を描き、出来上がった絵は額に入れられてカフェの壁に飾られた。


その絵を見た時の拓人君の凄く嬉しそうな顔。

そんな顔を真弓さんは久し振りに見た。


夫の誠さんも、拓人君の絵を見て、涙を流して感動してくれた。

誠さんは、息子が学校に通えなくなっていたのを心配しながら、どうすることもできないでいた。


拓人君は、カフェ・エスポワールに通って絵を描くようになってから、少しずつ元気を取り戻していき、家でも買ってきたドリルで勉強するようになった。


今では誠さんが休みの日にたくちゃんの勉強をみてくれるようになった。

「パパは教え方が上手いね。」とたくちゃんに言われて、満更でもないような笑顔で「ありがとう。」と言う誠さん。


そんな父親と息子の姿を見て、真弓さんは微笑ましく思っていた。


ある日曜日に誠さんと拓人君は、二人で博物館で開催されている『恐竜展』に行くことになった。


「僕たちは出かけてくるから、ママものんびりしてて。」

たくちゃんがそんなことを言った。


「わかったわ。じゃあ、ママもどこかに出かけようかな。

たくちゃんは、パパと『恐竜展』楽しんで来てね。」


「は~い!」

たくちゃんは元気よく真弓さんに手を振って誠さんと出かけて行った。


「さて、私はどこに行こうかな……。」

真弓さんは、何となく外に出たが、いつの間にかカフェ・エスポワールの前まで来ていた。


一人でカフェを訪ねるのは、初めてだ。

扉を開けると「いらっしゃいませ。」という穏やかな隼人店長の声がした。


席に案内してくれたのは、隼人店長の双子の妹さんの咲耶さん。


「今日はお一人ですか?」


「……はい。」


「ご注文は?」


「それじゃあ、チーズケーキとブレンドコーヒーをお願いします。」


「かしこまりました。

あっ、たくちゃんの絵、私もいつも楽しみにしているんですよ。

今度はどんな絵かなって。」

咲耶さんが微笑みながらそう言った。


「えっ、本当ですか?

ありがとうございます。」

びっくりしたように真弓さんは咲耶さんを見上げた。


咲耶さんがカウンターにいる隼人店長に真弓さんのオーダーを伝えた。

ドリップする珈琲の豊かな香りが店内に流れた。


「良い香り……。」

真弓さんがゆっくりと目をつぶった。


いつもは息子と来るこのカフェに今日は一人で座っている。

何だか不思議な気がする。


「お待たせしました。ブレンドコーヒーとチーズケーキです。」


程なくしてテーブルにオーダーした物が並べられる。


咲耶さんが「ごゆっくり。」と言った時に真弓さんは何だか咲耶さんに話しかけたくなった。


「あの……。今日はこちらに私一人で来たんですけれど、こんなの初めてで。

何だかわくわくしています。」


「そうなんですか?」


「はい。私、以前、ツアープランナーをしていたんですが、こんな風に自由にどこかに立ち寄る時間も大切ですね。」


「あ~、そうかもしれませんね。

全部予定通りじゃなくて、ちょっと寄り道するのもいいものですよね。」

咲耶が真弓さんの瞳を見て、優しく答えた。


真弓さんは、咲耶さんの答えがそのまま、たくちゃんのことのようにも思えた。


全部予定通りじゃなくて、寄り道中……

拓人もそんな時間を今、過ごしているのかもしれない。


ブレンドコーヒーを一口飲んだ後、チーズケーキを食べた真弓さん。


「美味しい……このチーズケーキ。」


少し苦みばしった珈琲と上品な甘味のチーズケーキ。

ベストな組み合わせだ。


一口、一口、チーズケーキを口に運びながら、真弓さんは一人時間を満喫していた。


ふと、スマホを見ると夫と拓人が写った写真がラインで送られてきた。


「二人とも良い笑顔。」

真弓さんも、嬉しそうに笑った。


それは、恐竜の標本の前で誠さんとたくちゃんが笑顔で写っている写真だった。



「真弓さん、今日は何だか嬉しそうね。」

咲耶が隼人に話しかける。


「うん。真弓さんだけの時間を楽しんでいるんだろうね。」


カフェ・エスポワールでは、どんなお客さんでもゆっくりと寛ぐことが出来る。


静かに流れる時間が誰にとっても愛おしくなる。

カフェ・エスポワールは、そんな場所だった。





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