飯倉さんの場合
定年退職して三ヶ月。飯倉さんの朝は、いまだに午前六時のアラームで始まる。
長年、経理事務として一円の狂いも許されない数字の列と向き合ってきた。その習慣は、現役を退いた今も、抜けない棘のように体に刺さっている。
きっちり三等分に折り畳まれた新聞を読み終えると、飯倉さんは家を出る。
向かうのは、いつもの場所。カフェ・エスポワールだ。
「いらっしゃいませ、飯倉さん。おはようございます。」
店長の隼人が、いつもの穏やかな声で迎えてくれる。
「おはよう、隼人君。いつものを。」
「承知いたしました。ブレンドですね。」
飯倉さんは、カウンターの一番奥、入り口から最も離れた席に腰を下ろす。
ここが彼の「指定席」だ。
この隅の席に座ると、ようやく肩の力が抜ける気がした。
飯倉さんがこのカフェを初めて訪れたのは、会社を辞めたばかりの頃だった。
朝食後の散歩中にたまたま見つけたカフェの扉を開けてフラッと中に入った。
隼人に勧められて飲んだブレンドコーヒーがあまりに美味しくて……
いつの間にかここに来るのが飯倉の日課になった。
しばらく店に通う内に店長の隼人とは短い会話を交わすようになった。
ある日飯倉さんは、
「何かしようと思っているんだけどね。なかなか見つからなくて……。」
と隼人に話しかけたら、
「ゆっくりで良いんじゃないですか?」
と言ってもらった。
その言葉を聞いて飯倉さんは、毎日することが急になくなり、途方に暮れて、焦りすら感じていた自分を見つめ直すことができた。
「ゆっくりか……そうだよね。」
飯倉さんは、隼人に微笑んだ。
「飯倉さんなら、そのうち、きっと何か見つかりますよ。」
と隼人も笑って答えた。
飯倉さんは、数年前、妻と離婚して一人住まいになった。
所謂、熟年離婚だ。
「あなたは、本当に真面目によく働いてくれたけれど、私たち、最近では夫婦らしい会話もなくなってしまって……。
私はずっと寂しかった。
これからは、私は自分らしく生きていきたいの。
どうか別れてください。」
妻はそう言って頭を下げると離婚届けを置いて家を出ていってしまった。
口下手な飯倉さんは返す言葉もなく、そのまま離婚届けに判を押して妻に送った。
それからの日々は、家はしんと静まり返り、飯倉さんは始終テレビをつけないといられなくなった。
夫婦には一人娘、理彩がいた。
理彩は、すでに家を出て一人暮らしをしており、両親が離婚した後も、飯倉さんの家に時々顔を出していた。
飯倉さんにとって、気兼ねなく話せる相手は、娘の理彩だけだった。
今は、飯倉さんには小さな趣味ができた。
Instagramである。
今日も運ばれてきたブレンドコーヒーの湯気を眺めながら、飯倉さんは手元のスマートフォンを操作する。
教えたのは、一人娘の理彩だった。
「お父さん、会社辞めてからずっと家計簿ばっかりつけてるじゃない。たまには外の景色でも撮って、載せてみたら?
Instagramっていうんだけれど……。」
数週間前、飯倉さんの元に訪ねてきた理彩が、半ば強引に設定してくれたものだ。
最初は「誰が私の日常など見るものか。」と一蹴したが、理彩は笑って言った。
「誰かに見せるためじゃなくて、お父さんが今日、何に心を動かしたか記録するだけでいいのよ。
散歩中に見た桜の花とか近所の猫とか……。
写真に撮ってInstagramに載せてみて。
まずは、私が見ていいね!するから。」
理彩はそう言って家の庭に咲いていたシャクナゲの写真を撮ると、飯倉さんのInstagramに載せてくれた。
理彩は一つの目のいいね!を押してくれたが、少し経つと二つ目、三つ目のいいね!がついた。
「おい、人数が増えてるぞ!」
飯倉さんが驚きの声をあげる。
「でしょう?お花が好きな人、多いからね。
お父さんも何か写真に撮ったら、こうやってハッシュタグをつけてね……。」
理彩の指導の元、飯倉さんは必死でInstagramのやり方を覚えた。
それからの飯倉さんは、散歩に出る度に草花や空、街角に立つポスト、陸橋等も写真に撮って短い文と共にInstagramに載せるようになった。
今日の飯倉さんは、カウンターに置かれた白いカップを写真に収めた。
かつては、領収書の内容を精査し、不備があれば突き返すのが仕事だった。今は、目の前のコーヒーが少しずつ冷めていく、その豊かな時間を肯定しようとしている。
「飯倉さん、今日はお顔が明るいですね。」
隼人が、カップを拭きながら声をかけてきた。
「そうかな。……実は昨日、水彩画の道具を一式揃えてね。来週から近くの教室に通ってみようと思っているんだ」
「それは素敵ですね。飯倉さんの描く絵、いつか僕にも見せてください。」
「あぁ。少し上手くなったらね。学生時代に美術部で水彩画を描いたことがあるんだけれど……また描けるかな?」
「描けますよ、飯倉さんなら。」
隼人がそう励ましてくれた。
その時、入り口の扉が勢いよく開き、元気な足音と共に、小さな常連客が飛び込んできた。
「隼人お兄ちゃん、こんにちは!」
たくちゃんだ。
飯倉さんは、自分の隣の席が少し賑やかになる予感に、コーヒーを一口啜って目を細めた。
白黒の数字だけの世界から、彩り豊かなキャンバスへ。
飯倉さんの「二周目の人生」という水彩画に、新しい色が混ざろうとしていた。
「あっ、飯倉さんもこんにちは!」
たくちゃんは、すぐに飯倉さんを見つけた。
「たくちゃん、来たな。」
飯倉さんは嬉しそうにたくちゃんに声をかけた。
たくちゃんのお母さんは、飯倉さんに軽く会釈して席に着いた。
隼人店長がお母さんの席に行ってオーダーを取っている。
たくちゃんは、飯倉さんの隣に座り、今日も自分が描いた絵を見せている。
カウンター席は、少し高くてたくちゃんには座りにくいけれど、段々コツを覚えたのか、素早く座れるようになってきた。
「ねっ、これ僕ん家で飼ってる猫。」
「へぇ。真っ黒だね。」
「うん。ミーちゃんって言うんだ。」
「なるほど。可愛い猫だね。」
「でしょう?
ミーちゃんは足だけ靴下を履いているみたいに白いんだ。」
二人は顔をくっつけるようにして画用紙を見ている。
たくちゃんのお母さんは、そんな二人を嬉しそうに眺めていた。
「たくちゃん、いいお仲間ができましたね。」
隼人店長がそう笑顔で言うと
「はい、本当に。
拓人、家でも隼人さんや飯倉さんの話をよくするんですよ。
ずいぶん、明るくなりました。
担任の先生が拓人の絵をクラスにも掲示して下さって、お友だちが見てくれているみたいです。」
真っ直ぐに隼人店長を見て、たくちゃんのお母さんも晴れやかに笑った。
「それはたくちゃん、喜びますね。
お母さん、少しずつですね。」
「はい。少しずつ……拓人の世界が広がっているように感じます。」
それから、1ヶ月後……
カフェ・エスポワールのテーブルでたくちゃんと飯倉さんが二人で絵を描いていた。
たくちゃんは、クレヨンと色鉛筆で。
飯倉さんは、水彩絵の具で。
二人は、お客さんがまだ少ない午前中にエスポワールに申し合わせたようにやってきて、並んで絵を描く。
たくちゃんは、猫や電車の絵が多い。
飯倉さんは、街の景色や草花の絵。
「あっ、この花、知ってる~。
タンホポでしょ。」
たくちゃんが飯倉さんの絵を覗いて知っている花の名前を言うと
飯倉さんも「当たり~っ。」と答えて笑う。
飯倉さんのInstagramには、絵の教室で描いた水彩画やカフェでたくちゃんと描いた水彩画が並ぶようになった。
たくちゃんもお母さんに頼んで自分の絵をInstagramに載せ始めた。
いいね!をお互いに押し合う。
いつの間にか、飯倉さんのフォロワーもじわじわと増えていき、娘の理彩も喜んでいた。
隼人は、そんな二人をいつも微笑ましく思いながら見守っている。
カフェ・エスポワールには、自然と人々が集まり、仲良くなることがあった。
勿論、黙って一人で過ごす人もいる。
そこには、心からの自由があった。




