たくちゃんの場合
たくちゃんこと、大上拓人くんは、小学一年生。
入学当時は元気に学校に通っていた。
幼稚園からの仲良しだった雄大くんとは一緒のクラスになれなかったけれど、隣の席の友也くんとよく遊ぶようになった。
ある日、友也くんと休み時間に一輪車で遊ぶ約束をしていたけれど、友也くんはたくちゃんと遊ぶことを忘れてしまったのか、他の友だちとボールを持って校庭に出ていってしまった。
すぐに友也くんを追いかけたたくちゃん。
でも、楽しそうに数名の男子とボールを蹴って遊んでいる友也くんに何だか声がかけられない。
そんなたくちゃんに気がつかない様子の友也くん。
しばらく、皆を遠目に見ていたたくちゃんだったが……。
友也くんがやっと気がついて、たくちゃんに声をかけた。
「たくちゃ~ん、一緒にボールで遊ぼう!」
友也くんは、たくちゃんに手を振っている。
他のクラスの友だちもおいでよ~と手招きしていたが、たくちゃんはどうしても皆と遊ぶ気がしない。
僕はボールじゃなくて、一輪車で遊びたかったんだ。
友也くんと二人で……。
踵を返しすと、とぼとぼと教室に向かって歩いていく。
たくちゃんは、一人で教室に入ると黙って自分の席に座った。
皆がいない教室はとても静かだった。
しんと静まり返った教室でぽつんと座っていると何だか涙が出た。
袖口でぐいっと涙を拭くとたくちゃんは、真っ直ぐ黒板を見ていた。
休み時間が終わるチャイムが鳴る。
皆が校庭から教室に戻ってくる足音が聞こえた。
「たくちゃん、さっきはごめんね。一緒に一輪車に乗る約束していたのを俺、うっかり忘れちゃって……。」
友也くんがすまなそうにたくちゃんに詫びた。
「ううん。いいよ、別に。」
「そう?この次は絶対、一緒に一輪車に乗ろうよ。」
「わかった……。」
たくちゃんは頷くとまた、黙って前を見た。
そして、その友也くんとの次の約束は果たされないまま、席替えになった。
たくちゃんは、その後誰とも仲良くなれないまま、何となく皆から置いていかれるような気持ちになっていき……。
休み時間は一人で過ごすことが多くなった。
給食で席をくっつけて皆で食べる時も、楽しそうな皆の会話にはついていけない。
黙って食べる給食は味気なかった。
学校から帰る道も一人っきり。
途中で犬を飼っている家で繋がれている犬の頭を撫でるのが唯一の楽しみになった。
ある朝、学校に行こうとしたら、たくちゃんはどうしても行けなくなってしまった。
靴を履いてランドセルをしょって……でも、次の一歩が踏み出せない。
「たくちゃん、もう、出かけないと学校、遅刻するわよ。」
お母さんがたくちゃんに声をかける。
「お母さん、僕、お腹痛い。」
たくちゃんは、ランドセルを放り投げるとバタバタと走ってお手洗いに入ったまま、なかなか外に出られなくなった。
結局、その日はお母さんが学校に欠席の連絡を入れた。
そんな日が何日も続いた。
ランドセルは、玄関の脇に置かれたまま……。
毎日、前の晩には翌日の教科書を用意してランドセルに入れるのに、たくちゃんはそのランドセルを背負うことができないでいた。
担任の早田先生がたくちゃんの家までやってきたり、お友だちが学校のお便りやテストなんかを運んできたけれど、たくちゃんは誰にも会えなかった。
「無理しなくて大丈夫ですよ。
拓人くんのペースで来られるようだったら、来てください。
教室に入るのが無理だったら、保健室にいてもいいし。」
早田先生が玄関先でたくちゃんのお母さんに話しているのが、リビングにいるたくちゃんにも聞こえた。
早田先生がやって来てから数日後、スクールカウンセラーさんに会いにお母さんが学校に出かけていった。
本当はたくちゃんも行けたら良かったけれど行けなかった。
お母さんが学校から帰ってきて、たくちゃんに声をかけた。
「たくちゃん、明日、ママとお出かけする?」
「えっ、どこに?」
「う~んと、近所にある喫茶店。
カフェ・エスポワールっていうんだって。」
「へぇ。」
「何か美味しい飲み物、飲もうよ。」
「うん、わかった!」
たくちゃんは、ずっと家にいるのもつまらなかったけれど、何だか外に出るのも怖い気がする。
でも、ママと一緒だし、学校じゃないし……行けるかもしれないと思った。
翌日、たくちゃんは自分から靴を履くとお母さんとカフェ・エスポワールを訪ねた。
お母さんが先にカフェの扉を開けてくれた。
恐る恐るたくちゃんもお母さんの後ろからカフェに入っていった。
「いらっしゃいませ。」
優しい声がした。
声の方を見るとスラッとしたお兄さんがニコニコして立っていた。
「こちらにどうぞ。」
お兄さんが窓際の席に案内してくれた。
席に着くとオレンジジュースを注文したたくちゃん。
お母さんは、ミルクティーだ。
「たくちゃん、素敵なお店ね。」
お母さんが店内を見回すと微笑んで言った。
オレンジジュースが運ばれてきて、たくちゃんがストローを咥えて飲んでいると……。
お母さんとお兄さんが何か話をしている。
スクールカウンセラーさんから、ここを紹介されたとか何とか……。
僕の話かな?
たくちゃんは耳をすませた。
「拓人くん、こんにちは。」
お兄さんがたくちゃんの方を見て笑顔で挨拶してくれた。
「あのさ、拓人くんは絵が得意なんだってね。」
「う、うん……。」
「ちょっと描いてみる?」
「えっ、本当に?」
「うん。待ってて。紙と描くものを持ってくるから。」
お兄さんが一度カウンターに戻ると画用紙とクレヨンやサインペンを持ってテーブルに来てくれた。
「どうぞ。自由に描いてみて。」
お兄さんは、そう言うとその場を去っていった。
たくちゃんは早速、真っ白な紙の前で何を描こうか考え始めた。
「そうだ、この間の日曜日に行った動物園の絵を描こう。
パパも一緒だったんだっけ。」
たくちゃんは、クレヨンを手に持つと描くことに夢中になった。
お母さんはそんなたくちゃんを嬉しそうに黙って見つめている。
40分ほど経つと、たくちゃんの絵が完成した。
キリンやゾウがいる前にたくちゃんとお父さん、お母さんが笑いながら立っている。
「拓人くん、できた?」
お兄さんが見に来てくれた。
「わぁ、楽しそうな絵だね。これは、動物園?」
「うん!この間の日曜日に皆で行ったんだよ。」
「そうなんだ。お父さんもお母さんも笑っているね。
勿論、拓人くんも。」
「そうなの。すっごく楽しかったんだ!」
「この絵、ここに飾っても良い?」
お兄さんがそう言ってくれた。
「えっ、ここに?」
「うん、ここに飾って皆に見てもらおうよ。
それで、今度はお父さんと一緒においで。
お父さんにも見てもらおう。」
お兄さんが優しく笑っている。
お母さんも……。
たくちゃんも何だかくすぐったいような嬉しいような……そんな気持ちになった。
「それじゃあね。」
お兄さんは、お店の外までたくちゃんとお母さんを見送ってくれた。
「バイバイッ。」
たくちゃんはお兄さんに手を振った。
お兄さんもたくちゃんとお母さんが角を左に曲がるまでずっと手を振り続けてくれた。
「優しいお兄さんだったわね。」
お母さんがたくちゃんに言う。
「うん!僕、あのお兄さんのこと気に入った。」
たくちゃんも満足そうな顔でお母さんを見た。
それから、一週間位経った頃、たくちゃんはお父さんをカフェ・エスポワールに連れていった。
「あのね、パパ、このお店に僕の絵が飾ってあるんだよ。」
たくちゃんが得意気にカフェの扉を開けながら、お父さんに言った。
「どれどれ。」
お父さんがお店の中に入る。
「いらっしゃいませ。」
あのお兄さんの穏やかな声がする。
「お兄さん、来たよ。パパを連れてきた!
僕の絵はどこ?」
元気よくお兄さんに訪ねるたくちゃん。
「あそこだよ。」
お兄さんが指で差し示したお店の奥の壁に……
額に入れたたくちゃんの絵が飾ってあった。
お父さんが静かにその絵の前に立った。
「これが拓人の絵か……とても良い絵だね。」
そう言うと、お父さんはじっとたくちゃんの絵を見つめたまま動かなくなった。
そして、鼻をすすったかと思うと堪えきれず、一筋の涙を流した。
「パパ……どうしたの?
泣いたりして。」
たくちゃんは、驚いたようにお父さんを見上げた。
気がついたら、お母さんも目を潤ませている。
「パパもママもおかしいよ、泣いたりして。」
たくちゃんは、びっくりして二人の顔を見比べている。
「ごめんな、ちょっとパパ、嬉しくてさ。
拓人がこんなに素敵な絵を描いてくれて。
また、行こうな、動物園……。」
そういうとパパは指で涙を拭っている。
「たくちゃんの絵が額に入って飾られているなんて、ママ、凄く嬉しいわ。」
お母さんも背後から、たくちゃんの肩に手を乗せて、笑っている。
「素敵な絵ですよね。お店でも、お客さんに評判なんですよ、この絵。
色使いが綺麗だし、人物の表情も生き生きとしていて……。」
「えっ、僕の絵、評判なの?」
たくちゃんが嬉しそうにお兄さんを見上げる。
「うん、そうだよ。また、ここに来て描いてよ。
何でも好きな絵でいいから。
そうしたら、また、飾るよ。」
「やった~っ。僕、描くよ、また。」
たくちゃんはお兄さんの両手を取ってぶんぶん振りながら、喜んでいた。
お兄さんも
「じゃあ、お願いするよ。で、今日は何を飲む?」と聞いてきた。
「う~ん。じゃあ、今日はアップルジュースにする!」
お兄さんは、「かしこまりました。」と言うとお父さんやお母さんからもオーダーを取ってカウンターに戻っていった。
それからもたくちゃんは、度々カフェ・エスポワールを訪ねては色々な絵を描いた。
額の中の絵が時々入れ替わり、お客さんたちも次の絵はどんなだろう?と心待ちにするようになった。
たくちゃんは、そのうちにお兄さんの名前が隼人さんだと知った。
今ではお店に来る度に
「隼人お兄ちゃん。」と親しみを込めて彼を呼んでいる。
たくちゃんは、密かに将来の夢を持った。
「僕、画家になりたいな。」
そんな夢を持ったたくちゃんの背中をそっと押すカフェ・エスポワール。
気の向くまま、いつでもどうぞ。
そう隼人店長は思っている。
たくちゃんの絵に午後の日差しが当たり、明るく輝いていた。




