水中毒
◇紅い花
すぐ左を見れば、私の決して高くはない身長に食らいつくような白波が岩礁に砕け散るところでした。
抉られた防波堤の、その一段上がったところを私は彼と並んで延々と歩いていたのです。
クラスメイト達からはとうに置いて行かれ、先生からも忘れ去られてしまったのか、
この時ばかりは私はもとより彼さえもこの世にいてもいなくても変わらない存在と化していました。
その時は地球温暖化だとか紫外線だとかあまり言われない時分だったので、
ともかく根性とか、精神論のまかり通っている時代でした。
子供は日差しの中で歩くことが当然とされ、
私もその餌食となって海から照り返す光と、つむじを焼く熱との板挟みに苦しみながら歩みを進めていたのです。
その時の私の心のよりどころといえば首から下げた水筒からかすかに聞こえてくる涼やかな水音ぐらいで、
けれどそれも次第に音が聞こえなくなってくるにつれ焦燥感を駆り立てるばかりのものになっていきました。
かといって休憩も日差しを遮るものもない強行軍では私の幼い忍耐力が持続することはなく、
わけもなく水筒の紐をつまんでみたり、時にはひっくりかえしたりして、
ひょいと気づくとふたを開けているのです。
しかしそれさえも喉を過ぎた瞬間あれと思う間もなく蒸発し、
体はますます持って汗を噴き出させるのでした。
それに加えて首のあたりをただよう温い風を押しながら歩いていくと、
今度は海から漂ってきた生臭い磯の匂いが追いかけてきて、
果てのない道を歩かせる気力を奪って行きます。
潮溜まりでクラスメイト達と水を掛け合ったときはあんなにも涼やかで、
匂いさえも単調な遊びを彩っていたというのに。
ここは私のためにあつらえた地獄のようでした。
その時に濡らしてしまった靴下はリュックに丸めて放り込んでしまったので、
靴に突っ込んだ素足は踏み出す砂地の感覚を直に伝えてきました。
避けるほどではない小石は土踏まずを圧迫して、
私はむっとした気分で立ち止まって石を蹴り上げます。
そうすると今度は貝殻交じりの細かい砂が舞い上がり靴に入り込んでくるので、
その不快な感覚は歩く気力さえも奪っていくのでした。
けれど私には悠長に不快感を取り除いている暇はありませんでした。
隣を歩く彼は常に一定の速さで歩くばかりで、私を振り返りもしなかったので、
たった一人の同行人に置いて行かれてはたまらないと慌てて、また砂が靴に入ってしまうのでした。
彼はと言えば私の痴態をすまし顔で見ようともせず、
この体から水分と言う水分が奪われていく暑さの中でも、
首から膝小僧まで伸びる灰色のパーカーを羽織っているせいで後ろから見ると年少の少女のようにも見えました。
開いた前のジッパーが風にひらりと揺らいで、それを気にもせずまとわせていくので、
それがなお一層彼の女性的な雰囲気を助長させる原因にもなっているのでしょう。
膝小僧から足首までのわずかな部位の、白く色の抜け出た肉付きのない生足だけが、
彼が少年であると知らせる唯一の場所となっているのでした。
私は靴から砂を吐き出すために立ち止まりました。
そしてほとんど反射的に水筒のキャップを開いていました。
吸い口に口をつけ、天を仰ぎます。
太陽の枠を青空にとろけさせるその熱線に目が焼かれ思わず瞳を閉じました。
その時私はただ喉の渇きをいやすためだけに刹那的に口をつけていたので、
手にした水筒からもうあと一口、二口程度しか残っていないことはよく理解していました。
それを見ないふりをして舌にたまる程度の水を喉の奥で転がしながら、
なんとか苦心して冷たさを長く味わおうとする姿は傍から見たら滑稽そのものでしょう。
そして常のごとく鎖骨のあたりですうと消えて行った水をさびしいとも思わずしばらくぼうと放心したのでした。
そして蓋を閉めた水筒を自らの方へ引いていたのは、ほとんど本能的なものだったのでしょう。
彼は引き結んだ唇を動かすこともなしに、何かを言いたげに私を見ていました。
彼の視線の先にあったのは私の水筒でした。
彼は明らかに水分を欲していました。
しかして私が覚えている限りながら、潮溜まりで水遊びをしていた時以来彼は一度も水筒に口をつけている様子はありませんでした。
そこから考えてもとうに飲みきっていることは明らかでした。
私は常ならば慈愛に満ちた人間であったと思います。
困っている者がいれば手を差し伸べ、悲劇には涙を流すことの出来る人間でした。
けれども彼に対して献身を発揮するには暑すぎました。
水筒を後先考えずに飲み干してしまったのは彼の自己責任であり、
それで人に無心するのは恥知らずの行為ではないか?と私は自分に言い聞かせました。
彼と私は平素仲が良かったという事もなく、
むしろクラスでも彼と会話をした人の方が稀でしょう。
それくらい彼は特異な雰囲気を持ち合わせている人でした。
かといって彼の視線を見なかったことにしてこれから先の長い道のりを並んで歩くという勇気も、
私は持ち合わせていなかったのでした。
盛大な葛藤の末、私は結局水筒を差し出してしまったのです。
たとえ水がなくとも彼と気まずくなるよりはよっぽどいいだろうと、政治的判断が働いた結果でした。
私は首にかかった紐を外し彼に最後の一口を捧げました。
しかしながら私の壮大な決意も彼にとっては特に琴線に触れることはなかったらしく、
お礼の言葉も笑み会釈さえもなく彼は吸い口に唇を吸いつけるとそのままぐいと顔を上げ最後の一口を呷ったのです。
彼のその小さな喉仏は上下しましたが、
私の時とは違い内部で蒸発し消えていく感じがしないのが不思議な気がしました。
むしろ私の麦茶が彼の鎖骨あたりから体の中心に潜り込み体を駆け巡って流れていったような気がしました。
愚にもつかない生ぬるい風が漂い、彼のパーカーの裾をわずかに揺らしました。
その時前の開いたパーカーの下の白いシャツがめくれ、
彼の浜辺よりも薄い色をした腹部が露呈しました。
そこにぱっぱと赤い花が咲いたように、
虫刺されが爛れたようないくつかの傷痕が覗きました。
その傷痕に一筋汗が伝い、
その時初めて彼も汗をかいていたのだとただぼんやりと思ったのです。
時間にすると数秒の刹那と言える動作でしたが、
私にはそれが何秒にも何十秒にも感じました。
私はそれを失心したように見つめていましたが、
我に返ると背中に暑さだけではない汗をかいていることに気付きました。
なぜか見てはいけなかったものを見てしまった気がして、寒気すら感じていたのです。
彼は最後に吸い口に舌を這わしてふたを閉じます。
それでお終い。
さっきまでの凍えるような一瞬は切り取られ、
何もなかったようにセミの声を打ち消す波の音が響いてくるのみだったのです。
彼は呆然自我とする私に空になった水筒を持たせ、
さっさと歩いていきました。
私も慌てて彼を追いかけました。
◇唇に毒
先頭集団にはまだ追いつく気配は感じませんでした。
特に歩き心地の悪い砂道を歩いていたのですから、
私より背の低い彼にとってはその辛さがいかようのものだかは想像できませんでした。
そして途端視界の端から彼のパーカーが陽炎に溶けるように消えた時、
とうとう来たかという心持で振り返りました。
しかし思っていたような大惨事は起こってはおらず、
どうやらただ単に砂道に足を取られ体勢を崩しただけらしいと気づいて、
私は密かに安堵しました。
このまま暑さと疲労で倒れてしまっても私の体格では彼を運ぶことはできない上、
どれだけ先にいるかも分からない先生を呼びに行くことも不可能に近いと私は考えていたのでした。
波が引いていく一瞬の静寂の事でした。
彼の首からかけた水筒の底が砂にこすれ、水がせせぎあうようなわずかな音がしたのです。
彼の水筒の中身はなくなってなどいなかったのだ。
ただ水を節約するためだけに私に無心したのだ。
そう思うと彼のわずかな不幸よりも私の惨めな恨めしさが勝りました。
砂と同化しそうなほど白い膝小僧を払いながら立ち上がり、
何食わぬ顔で歩き始めようとした彼の前に回り込み通せんぼするように立ちはだかりました。
首に巻きつけるようにかぶっていたパーカーから見えるのは、
彼の恐ろしいほどの静寂を湛えた目でした。
私は少したじろきはしたものの、訳を話してくれなければ頑として動かないという決意でもって立ちはだかっていました。
しかも生半可な言い訳は聞かない。
親の不幸ぐらいのインパクトが無ければ許さないぞ、と私は壮大な思いを胸の内に秘めていました。
しばしのにらみ合いの後、彼はその時になって初めて自らの水筒に手を掛けたのです。
それは彼の唇の色にも似た赤い水筒でした。
彼は水筒のふたを焦らすように優しい手つきで撫でました。
それは妊婦が胎児の宿る腹を撫でる動きにも似ていて、
私は体の奥底に指を突っ込まれかき混ぜられているようなこそばゆさを感じていたのです。
それは決して不愉快な感覚ではありませんでしたが、
今まで感じたことのない未知の感覚でした。
その気持ちと葛藤している私の内面には彼は最後までついぞ気付かず、
そして私もそれが一体何なのか正体を探る前に、
くびり殺された鳥の悲鳴を上げてパッキンは開かれたのです。
彼は注ぎ口の付いている内蓋までも開き、滑るような金属の内側を露呈させました。
金属面に太陽の光が反射して、底は知れない仄暗さを湛えていました。
海から運ばれてあたりに漂う生臭い磯の香りが、
遮るものが無いのを良いことに水筒の中から飛び出してきたようで、
私は一瞬顔をそむけました。
明らかそれは水やお茶の類ではありませんでした。
意を決し覗きこむと、影になっている底には半分ほどが何かの液体で満たされていました。
中に入っていたのは透明な唇でした。
それが蠱惑気に息を吸い、吐きながら上下していたのです。
私は思わず声を上げ体を硬直させたのでした。
思わぬことに私が困惑して彼を見ると、
彼の形の良い頭はうつむいて、水筒を覗き込んでじっとその唇を見つめていました。
私も恐る恐る覗くと、なんてことはない、それは小さなくらげでした。
毛玉ほどの小さいくらげが水筒の底を我が物顔で闊歩するように揺れていたのでした。
一体いつ、こんなものを手に入れたのだろうか。
私が物言いたげに彼を見ると、彼はちらりと後ろを振り返ります。
私もつられてその視線の先を辿ったのです。
私たちは海辺をなぞるように歩いてきたと言うのに、
さっきまでクラスメイトと戯れていた潮溜まりはもう遠いものとなっていました。
きっとその時に見つけたのだろうと私は勝手に解釈をして、
その小さなくらげに触れようと指を伸ばしました。
しかし私のそんなささやかな挑戦は、
彼が素早く蓋を閉じてしまったことであっけなく終わり、
私はさっさと歩いていく彼を追いかけるしかなかったのでした。
ですがこのことで私は彼に親近感を感じ、道中積極的に話しかけました。
彼が抱える小さな秘密の一端を知った気になって、訳もなく得意げになっていたのでした。
彼に対してはなんとなく普段友人たちに話すような低俗な漫画の事やカードゲームについて話すのは憚られ、
背伸びして精一杯大人びた話を探しました。
彼は特に何も言いませんでしたが、時折相槌を打ってくれました。
とはいえ私の大人びた会話なんてたかが知れていて、
おおよそつまらない意味のない話はすぐに尽きてしまい、ただ気まずさだけが残りました。
しかしそうすると今度は彼が決して饒舌とは言えないものの、
ぽつりぽつりと話をつなげてくれたのでした。
彼が多く語ったことはくらげについてです。
くらげはとても弱くて強くて神秘的な生き物だと彼は語ります。
年を取ったら赤ん坊まで若返るくらげ。
流水の中でしか生きられないくらげ。
くらげは九十九パーセントが水でできています。
そのくせ脳も目も口もないので、
本能と神経だけで生きている不思議な生き物であるとか。
何より彼は毒について多く語りました。
くらげは触手の先についた毒針を飛ばして獲物をしとめます。
体は小さくても一突きで心臓を麻痺させるもの、
最初は刺されたことにも気づかずに、しばらくして急に心臓の音を止めてしまうもの、
患部が赤くはれ上がりゆっくりと体中に回った毒でぐずぐずに腐っていくもの。
そんなことをなんでもないことのように語りました。
そうくると彼はだれか殺したい人がいるのではないだろうか。
そんなバカげた考えが頭に浮かんできました。
なぜそんな考えが浮かんでくるのか私にもわかりませんでしたが、
自分でもおかしな発想だと思い考えることを止めました。
彼は首にかかった小さなくらげについては何も言いませんでしたが、
私にはその透明で無害そうなくらげが、
まるでとたんに猛毒をもった恐ろしい生き物に思えてきて一つ身震いをしたのでした。
そんなものを首にかけたまま平然と私の横を歩く彼も、
何か得体のしれない生き物になってしまったかのような気がしてたまりませんでした。
もし私がくらげだったら、自由に海を漂いながらどこへでも好きなところへ行って、
いろいろなものを見たいと思います。
ですがくらげは考える心が無いので、
きっときれいだとかおなかがすいたとか怖いとかつらいとかそういうことは考えないで、
ただ流されるままに生きているのかもしれないと思うと、
それは生きていると言えるのか、それとも死んでいるのかよく分からなくなってしまいました。
しかし人間がみんなくらげだったら、争いとか憎しみとかも考えることはないだろうから、
この世から戦争がなくなるのかもしれないと思うと、
人間よりも次元が一つ上にいる生き物であるかのように思えたのでした。
彼はそんな私の考えを茶化すことなく聞いてくれましたが、
そのことに何か意見をしたり肯定をしてくれたりはしませんでした。
また彼はたった一人の家族だという父親について話しました。
彼は父親の事を話すときは言葉を途切れさせながら、
彼自身も考えるかのようにゆっくりと話すのでした。
そして父親を語るときはひっきりなしに腹部の傷跡を気にしているそぶりを見せ、
しかしそれは彼にとって無意識の行為だと気づき、
私は訳もないもやもやを感じていました。
私は隣に並んでいたので彼の顔を見ることはかないませんでしたが、
そのときばかりは無性に彼の顔を見てみたいと思ったのでした。
今まで一度だって教室でも話したことのなかった彼との会話は、
友人たちの話よりも新鮮で面白いものがありました。
いつも教室で彼の周りだけ分厚い壁があるように感じていた私はなんだか無性にうれしく、
夏の暑さだけではなく脳の溶けていくような、訳もなく笑い出したくなるような愉快さを感じるのでした。
そんな脳が解けきった私はしかし、隣り合った彼とたまに手の甲が触れ合うと、
彼の海水よりも冷たい手にそこから毒が侵入し私をしびれさせていくような恐ろしさに思わず手を引っ込めるのでした。
そうして現実に引き戻された私はどこまでも続く路を歩いていたのです。
◇おかされるもの
その夜、私はくらげの毒がゆっくりと自分の体を侵していく夢を見ました。
ゆっくりと毒は私の体に侵入していき、痺れてそのうち動けなくなりました。
ただ彼に触れた手の甲だけがじんじんと赤くはれ上がり、
しかし痛みよりも何よりも体中が昂ぶりを訴え私は死んでいくのでした。
はっと夜半目が覚めた時私はえらく焦燥していて、
濡れた夜着をこっそりと風呂場で洗い流したのでした。
それから私は厚かましくも彼の家に押しかけるようになりました。
わざわざ連絡網から住所を調べ、隣近所に聞いて回りながら彼の家を訪れたのです。
あの後学校は夏休みに入ってしまって、くらげがどうなったのか聞く機会がなくなってしまったからと言い訳を引っ提げて、彼の家を訪問しました。
彼はしかして突然に訪れた私に驚くこともなく、すんなりと家へと上げてくれました。
こればかりは仕方のない事なのかもしれませんが、
彼の家は大人が三人入れば窮屈に感じるような小さなアパートで、
しかし子どもである私にとっては彼しかいないこの家は何だかさびしいものに感じました。
しかし彼だけが雑然と物の放られた家の中では相応しくないとでも言いたげに彼自身の輝きを失うことはなく、
私は何だか招かれざる客だったのではないかと感傷に浸ってみたりしたのでした。
私は夏休みの自由研究に彼のくらげの観察日記をつけさせてもらうことにしました。
そうすれば彼の家に毎日通う理由もできるし、
なんとなくこの心のない生き物を見るのを楽しいと感じ始めていたからです。
くらげはマグカップほどの大きさの細長い花瓶に移し替えられ、窮屈そうに漂っていました。
漂うばかりで動こうともせずにいると、くらげと水との境界がぼんやりしてきて、
ガラスの中にはもともと何もなかったのではないか、
ほとんどは水でできているというから溶けて消えてしまったのではないかと焦りが生まれてきます。
そういうタイミングで花瓶の脇をコンコンと叩いてやると、
くらげはゆっくりと怠惰にかさを広げ、煎餅みたいに平らになるとすぐに口をすぼめて上へ登っていくのでした。
それでやっとくらげはここにいると私の心は理解するのでした。
私はくらげに直接触ることはありませんでした。
どうやら彼がそうして欲しくなさそうだと感じ取ったこともありますが、
なによりもこの小さな生き物の放つ毒への恐怖が勝ったのでした。
しかし彼は時々瓶の中へ手を入れてつんつんと水袋のようなかさをつつき、くらげを驚かす遊びをしていました。
そうしているときの彼は表情こそ変えないものの、
それが心底楽しそうに思えて、私はその度にうらやましさを覚えるのでした。
彼はいつも一人でした。
父親がいると彼は言っていましたが、私がその人に会ったのは一度きりしかなく、
彼とほとんど似ていない容姿の上、あまり良い印象は抱きませんでした。
しかし私がいつまでもお客さんで部屋になじめないと言うのに、
彼の父親はこの部屋にすっぽりと嵌ったような、ある種の親和性を持っていることにまたいい気分はしないのでした。
それにしても彼はこの部屋の主人でした。
そして私はいつまでたってもお客さんだったのです。
花瓶の中ですいと泳いでいたくらげも、しばらくしたらガラスを叩いても動きが鈍くなり、
夏休みが終わるころにはほとんど水との境界が不明慮になってくるようになりました。
初めて見た時より気付くと半分ほどの大きさにまでしぼんでいて、
それがまた哀れさを誘うのです。
くらげは水でできているはずなのにどうして小さくなっていくのだろうかと、私は不思議で堪りませんでした。
その水分は一体どこへ行ってしまったのだろうかと一生懸命ガラス瓶を眺めていましたが、
その溶けたくらげの一片にいたるまでも発見することはできず、
私はただ傍目から見ると水ばかりで空っぽな瓶を眺めているだけの酔狂な人間となってしまったのでした。
しかし焦燥にかられる私と違い、彼はくらげが小さくなっていくことはあまり気にしてはいないらしく、
常の無表情でくらげを見ていたのでした。
くらげはとうとう砂浜の小石ぐらいの大きさにまでしぼんでしまいました。
動かなくなり、明日明後日ぐらいには消えてしまうだろうと思われるくらいには小さきものとなっていました。
その日私は初めて学校をズル休みし、彼の家へ向かいました。
きっと今日でくらげは死んでしまうだろうという気がしていたのです。
もともと休みがちな彼も家にいて、私を見てもちらとも表情を動かさずくらげのところまで案内をしてくれました。
向かい合うように花瓶を覗き込むと、その時小石ほどの大きさのくらげは揺れ、
水面にも浮かび上がらないほどわずかな波紋を産みだし、そしてすうと水に溶けていきました。
まるでもともと何もなかったかのように消えていったのでした。
そして残ったのは花瓶を半分ほど満たすただの水でした。
きっとこの中でくらげを飼っていたといっても誰も信じてくれないような、ただの水でした。
くらげは死んでしまったのです。
私は哀しくはありませんでした。
くらげの死というものがあまりにもあっけなかったからです。
今まで普通にあったことがなくなることへのうすぼんやりした寂しさはあれど、
きっとすぐにいないことに慣れるだろうという諦念にも似たものを感じていました。
しかして私はそうすると彼の家に通う理由がなくなってしまうな、とぼんやりと考えていました。
一向にお客様である私は、彼の家に上がるのにも一々理由をつけなければ上がることができないなまくらの根性しか持ち合わせていなかったのです。
それよりもなによりも、私よりくらげを愛し気にかけていた彼はよほど悲しがっていることだろう、
私が誠心誠意慰めなくてはならない、彼の喜怒哀楽の少ないが繊細で傷つきやすい心を優しく羽で撫でるように介抱しなければならないと思っていました。
私の手でかわいそうな彼を救ってあげたいと思いました。
ですがそんな私の思いとは裏腹に彼はいつものごとく表情を変えず、
おもむろに花瓶をとると口をつけたのです。
くらげの溶けたその水を一滴残らず飲み干すと、
彼は呆然自我としている私の事なんかちっとも目をむけずに、
ふらふらと部屋を出て行ってしまいました。
私は彼のそんな奇行を見て不覚にも自らの喉を掻きむしりたくなるような衝動を感じました。
不思議な感覚でした。
前にも一度感じたことがあるな、と思いました。
私には彼の薄い皮膚の下を這ってくらげが彼の体に落ちていく様子がありありと想像できてしまったのです。
流動するただの水のはずのそれは、彼が口に含むたび形を変えていきました。
一口、それは今だただの水でした。
二口、それは溶けたはずのくらげに形を変えました。
三口、また水となり、そしてくらげにもなりました。
彼の内頬を今にも折れそうな触手は撫ぜていき、
細い糸となって喉の奥をゆっくりと這いずりながらおちていくのです。
幾重にもうごめく触手が彼の舌をからめ捕り、
すぐに水を含んだ丸いかさに変わり咽頭を圧迫していきます。
かさを大きく動かし喉の奥を突くと、
彼の三番目の喉の骨を通るころには一本の線となって落ちていきます。
気付くとそれは彼の血液中を回って彼の体を作り変えていったのです。
思考をする脳も世界を見渡す目も私が彼を呼ぶ声も聞こえない、
限りなく水に近い動物へと彼を変えてしまったのです。
体表を覆う神経だけを残し、本能に従って生きるくらげへと。
彼がどこぞへと去って行った後も、
想像でしかないその様子が私の脳内で何度も何度も繰り返されるのでした。
そうして私は思いました。
彼はもしかしたらくらげになりたかったかもしれない、と。
そんなバカげた考えがさも天啓であるかのようにひらめいたのです。
そこでやっと私は彼の一端を理解することが出来た気がしたのです。
しかし同時にあることも思い出していました。
それは意図せずして私が彼の秘密の一端を見てしまった、
少し前の忌むべき出来事のことでした。
◇孕む
相も変わらず私が心ない生き物を観察していると、
珍しいことに彼の父親が帰ってきたことがありました。
私は彼の父の目の奥に漂う何を考えているか分からない深淵に、
鳥肌の立つような不快感を感じ、挨拶もそこそこに家をでました。
しかし家を出たふりをしてとって引き返し、
閉じられたドアを少しだけ開いて見てしまったのです。
彼は普段私と接する以外でどのような表情を見せるのかと、
悪いことをしている自覚よりもそればかりが頭を占めていたのでした。
はたして、そこでの彼は捕食される獲物でした。
握りこぶし一つ分もない透明で艶やかなくらげだったのです。
捕食者の手に細い触手をからませ、
ゼリーのようなしなやかな体は何度も水面を目指して揺れました。
しだいに目や耳、鼻さえも消えていき、
つるりとした一個の丸いフォルムと化していくのです。
そしてただただ体液の一滴に至るまですすられていきました。
何度も、何度も。
捕食者は彼の腹に毒針を突き刺し動けないようにすると、
彼はとたんに水面を目指すのをあきらめて、
水の流れに身を任せるように下に落ちていきます。
それが捕食者の乱杭な歯によってごりごりと砕かれ咀嚼され、
微塵の大きさにまで破壊されてしまいました。
そして何事もなかったようにまた美しい彼の姿に形を取り戻すのです。
しかし彼の形が戻ったときにはもう、さっきまでの彼はどこにもいません。
消えてしまった。
作り替えられてしまったのでした。
そこには決して開かない固く閉じられた緑のつぼみを、
ピンセットで一枚一枚丹念にはがしていくような、
不思議な快感が存在していたのです。
そこでは彼は無力なくらげであり、
私は無知な傍観者でした。
彼と目が合いました。
いけないことをしていることは理解していた私は、
いたずらをして親に叱られた時よりも何よりも心臓を跳ねさせました。
それと同時に完成間近の砂の城を直前ですべて台無しにしてしまったような、
不快さと愉快さが入り混じった底抜けの快感が私を襲いました。
彼はくらげには無いはずのその目を瞬かせ、
その時だけは彼は人間へと戻ってきたのです。
水が震えるような鳴き声を上げながら、
そしてまたゆっくりと彼は体の境界をなくしていき、
やがて彼は水に溶けるように消えて行きました。
彼は花瓶の中にいて、
私はいつも脇から刺激を与えるばかりで一向に内部に手を突っ込めないそれと同じでした。
そんな彼を見てしまった私はしかし、
彼も何も言わなかったことをいいことにそれ以降も厚顔甚だしく彼の家に通っていました。
忘れることなどはできませんでした。
しかし忘れたふりはできました。
その情景が、それは今しがた彼がくらげを飲み干した時と同じで、
私はその時初めて全身に震えが走るのを感じました。
それを思い出した勢いで私は彼が置いて行った花瓶を手に取りました。
彼が持っていた時は輝かんばかりに特別な光を放っていた気がしたのに、
何も入っていない空虚な入れ物はただの安っぽい花瓶でしかありませんでした。
彼はあまりにもおいしそうに飲んでいたので、
私も仄暗いそこに指を滑らせ残滓を舐めとりました。
舌をしびれさせるつんとした尿のようなにおいが鼻を刺し、
塩辛い海水の苦みとえぐみが走りました。
一滴でも喉と舌をしびれさすそれを、
私はもう夢中で瓶に舌を突っ込むようにして舐めました。
そうすれば彼の事が少しは分かるかと思ったからです。
なんとなく彼の味はそんなものだろうと思ったからです。
私はしばらくして吐き気を催し、部屋を後にしました。
私は彼の部屋に通わなくなりました。
くらげがいなくなった今、通う理由がなくなってしまったからでした。
一日、一週間、一か月と経つうちにますます行き辛く、
そして行かないことこそが日常であると錯覚していったのです。
それはくらげが死んだときと似ていました。
彼は何も言いませんでした。
そしてあの時のように彼と私の距離が近くなることももうなかったのです。
そのことに私は無性に気に障って、
クラスメイトに対してむやみやたらとおしゃべりになったり、
また時には何もしゃべらず貝のように静かになったりを繰り返しました。
ともすれば誰か一人を捕まえて目茶苦茶な話をしたりと、
その時の私は頭に残る彼の幻想を追い払おうと必死でした。
そんな私に友人や大人たちは何くれとなく尽くし話を聞きだそうとしてくれましたが、
今日こそはと思うときに限って空が曇っていたり、また晴れていたりして、
すぐに言葉は断片となって消えて行ったのでした。
それからしばらくして不思議なことが起こり始めました。
彼はもともと食事をほとんど取らず水ばかり飲んでいるところがありましたので、
痩せぎすなきらいはありましたが、
それでも生命力の枯渇を感じさせることは一度としてありませんでした。
それが彼を見るたびに日に日に目につく異常。
アンバランスな細さ。
彼のシミ一つない磨き立てられたような白い肌は水分が失われ、
青白いと言うより透明に近い色に変わっていきました。
手も足も水分が抜きとられたかのようにしぼんでいき、
頬がこけていくにも関わらず、
その腹部が、肥大していく腹部だけがつやつやと水分を吸ったように大きくなっていったのです。
彼はそれを補うかのように食も忘れて水を飲んでいましたが、
それでもすべてが吸い取られていくように細っていきました。
しかし腹部だけが、丈に余りあるぶかぶかの白いシャツを押し上げせりあがっていくのです。
まるで腹の中にいる何かが彼の水分をすべてすすって成長していくように思えました。
彼はそう、何かを腹に孕んでいるかのようだったのです。
そして時たま思い出したように彼は黄色く色づいた液を吐き出すのでした。
そうしてますますもって水ばかり飲み、
彼の異様なアンバランスさは一層際立っていったのです。
その頃にはもう誰の目にも異常は明らかでした。
しかしだれの言葉にも耳を貸さず、
静かに水を飲んでいる様は異常としか言いようがありませんでした。
周りはさんざ彼のことを噂しました。
何か未知の病気だ、
いやいや家族がいなくなったことのストレスだとか、
周りにさんざ心を弄繰り回されたからだとか、好き勝手に言っていました。
私は頑として彼に声を掛けるようなことはしませんでした。
それは意地と言っていいものか、
それとも意気地がないだけなのかは私自身のことながらわかりませんでした。
しかしながら彼は重たそうな腹部を抱えながらも、
なぜか軽いという言葉がぴったりと合うような人でした。
軽く、儚く、そして最後にはいつか見たくらげのように消えて行ってしまうのではないかと思うと、
もう私は平常ではいられないのでした。
むやみやたらと彼にしゃぶりつきたいような衝動にかられ、
それの衝動を抑えるのに苦心するはめになりました。
彼はしばらくして学校へ来なくなりました。
だれもがそのことを当然として受け入れ、
いつもの平穏な日常がやってきました。
彼がどうしたのか。
大人たちも彼の名誉を守るためと口をつぐんで教えてはくれませんでした。
ただ時として大人たちは憐れむような、
嘲笑うかのような不可思議な憐憫さを瞳の奥にたたえ私を見下ろすのでした。
◇くらげ
私も心を決めて彼の家に何度か通いはしましたが、
そこはもう引き払った後で中に入ることすらままなりませんでした。
鍵は掛けられ黄色いテープは張られ、
この家自体が私の立ち入りを拒否しているかのようでした。
扉に耳を押し付けてみても物音ひとつ立ちはしませんでした。
隣近所へ彼と父親の行方を聞いても、
関わりたくない汚らわしいと言うばかりで私の目の前で扉はピシャンと閉められるのでした。
私は途方に暮れて学校もそこそこにいろいろなところを探し回りました。
そして私はいつかの道を、置いて行かれた私と彼が二人して歩いた道を、
今度は一人で逆にたどって歩きました。
夏の暑さはとうに消え去り、夜の冷たさばかりが肌を刺します。
乾いた砂道では相変わらず靴に入る砂を数歩ごとに立ち止まり捨てなければなりませんでしたが、
あんなに気になっていた不快感も、もうどうでもいい事のように思えました。
その頃には私の気も落ち着いていて、
彼とたとえ会えたとしてもおおらかな気分で話すことが出来るだろうと考えていました。
一種荘厳な心持で彼へと歩いて行きました。
砂の道には私の他に誰一人としていませんでしたが、
あの時のように特別な感情を抱くことはありませんでした。
ただの砂、砂道だ。
無我の境地に至った私はそんな気持ちで、
クラスメイト達と戯れた潮溜まりを目指していたのです。
夜の海は私の体に襲い掛かろうと波を立てますが、
それさえも今の私を見ると畏れをなして引いていくようでした。
潮溜まりの側の一層大きな岩礁は月に反射した海面の所為でぼんやりと光ってはいましたが、
ほとんど闇と同化していて、彼なのか、それとも岩礁の一部なのか目を凝らしてみても分からないほどでした。
しかし想像していた通り彼はそこにいました。
彼は私が最後に見た時よりも手足を棒のように干からびさせ、
だらりと岩礁に身を預けながらも肥大した腹部を撫でていました。
その頃になるとシャツの方が耐えきれず白っぽい腹部をあらわに露出させ、
それがけぶった月に照らされて一層青白く私の目には映りました。
彼は笑っていました。
それは私がついぞ引き出すことのできなかった愛おしげな笑みでした。
彼は確かに何かを孕んでいました。
彼が腹部を撫でるたびに水がたゆたうような音がして、
それが海からくる波の音なのか、
それとも彼の腹から聞こえてくる胎動の音なのか分からなくなるくらいでした。
それが一層私に生まれてくるものの存在を連想させてくるのです。
彼は私をちらとも見ないでただ腹部を撫で続けていました。
私の存在に気付いているかすら怪しいくらいでした。
彼はそれを愛おしそうに撫でながら彼の唯一の肉親を呼ぶのです。
私は彼に話しかける権利を持ちませんでした。
その時初めて私は悟りました。
私はなんて愚かだったのだろうと。
彼はくらげになりたいのではない。
くらげを産みたかったのだ、と。
私がずっと触りたいと思っていたくらげは、
結局は触る権利すら持ち合わせてはいませんでした。
私はただ馬鹿みたいに永遠とガラスの外側から気付かれもしない刺激を与え続けることしかできなかったのです。
私はその様子を突っ立って見ているしかありませんでした。
その時の彼はくらげではありましたが、
私はもう無知ではなかったのです。
彼らのことを誰彼かまわず吹聴して回った私にとっては、
彼に何かをする権利すらありませんでした。
彼の表情は次第に苦悶に彩られていきました。
そのくせ私にはついぞ向けてくれなかった喜びの篭った笑顔も奥に秘めているのです。
しだいに彼の口から吐く息すらも水で満たされ、
空中でしばらく漂うと溶けて消えていくのでした。
彼は何度も水が震えるような鳴き声を上げました。
何度目かの悲鳴の後、はたして、彼の腹から這い出してきたのは水でした。
彼のすべての水分を凝縮させたようなそれは九十九パーセントの水でできたくらげだったのです。
しかし私は最初に彼が水筒を撫でた手つきを思い出し、
もはやこうなることは必然だったのかもしれないと思っていました。
くらげは岩礁を流れるように伝っていき、
最後は海の中に落ちて消えて行きました。
いつかのくらげのように、水に溶けていったのです。




