7話
七輪の炭は、まだ赤く灯っていた。
秋刀魚の香りはすでに空気に溶け、舞茸の焦げた縁が、かすかに甘い匂いを残していた。
神保町の午後は、夕暮れに向かって静かに傾いていた。
真壁は、湯呑みに残ったほうじ茶をすすりながら、七輪の火を見つめていた。
千遥は、火の揺れをじっと見つめたまま、しばらく口を開かなかった。
「そういえば、舞茸って、昔は“幻のきのこ”って呼ばれてたんですよ」
真壁が、ふと思い出したように言った。
「え?」
「天然物は、見つけると舞い上がるほど嬉しいから“舞茸”。江戸時代は、見つけた場所を秘密にするのが常だったそうです」
「へえ……秘密の場所」
千遥は、火から目を離さずに呟いた。
「秘密って、守るのが難しいですよね。自分の中にあるものほど」
「そうですね。隠してるつもりでも、ふとした拍子に、香りのように漏れてしまう」
「香り……」
千遥は、七輪の上に手をかざした。
火の熱が、掌にじんわりと伝わる。
「私、昔、理科の実験でアルコールランプを倒したことがあるんです。机が焦げて、先生にすごく怒られて」
「火傷は?」
「しませんでした。でも、あのときの匂い、今でも覚えてるんです。焦げた木と、アルコールのにおい」
「それは、強い記憶ですね。嗅覚は、記憶と直結してますから」
「そうなんですね。じゃあ、私がここに来ると火のことを思い出すのも、香りのせいかも」
「あるいは、火があなたに語りかけているのかもしれません」
千遥は、少し笑った。
「火が語るなら、何を言うんでしょうね。“まだ終わってない”とか?」
「あるいは、“思い出して”かもしれません」
沈黙が落ちた。
七輪の炭が、パチリと音を立てた。
「真壁さん、火って、何度くらいで爆発物が反応するか知ってますか?」
唐突な問いだった。
真壁は、少しだけ間を置いて答えた。
「種類によりますが……感度の高いものなら、200度前後で反応するものもありますね」
「七輪の炭って、何度くらいですか?」
「600度から800度。場所によっては1000度を超えることもあります」
「じゃあ、十分ですね」
「……何に対して?」
千遥は、火を見つめたまま答えなかった。
代わりに、別の話を始めた。
「この前読んだ本に、“火は記憶を焼く”って書いてありました。
でも、私は逆だと思うんです。火は、記憶を炙り出す」
「それは、面白い考えですね。炙り出し文字のように」
「そう。見えなかったものが、熱で浮かび上がる。私の中にも、そういう記憶がある気がして」
真壁は、湯呑みを置いた。
「それは、どんな記憶ですか?」
千遥は、しばらく黙っていた。
そして、火の揺れを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「私……どこかに爆弾を仕掛けた気がする」
風が吹いた。
七輪の煙が、ふわりと揺れた。
その匂いは、もうただの秋の香りではなかった。




