6話
神保町の午後は、静かだった。
風は冷たく、銀杏の葉はほとんど散り、通りの色彩は落ち着いた茶と灰に変わっていた。
古書店「文月堂」の店先には、小さな七輪が置かれていた。
真壁が物置から引っ張り出し、炭を組み、火を起こしたのは昼過ぎのことだった。
炭が赤くなり始めると、空気が少しだけ動いた。
火箸で炭を整えながら、真壁は秋刀魚を網に並べた。
香りが立ち上がる。脂の焼ける匂いが、紙の匂いと混ざり合い、店先を秋の気配で満たした。
千遥が現れたのは、午後三時半。
コートの襟を立て、手には小さな包みを持っていた。
「舞茸、持ってきました。焼いてみたくて」
「いいですね。炭火は、香りを引き出すのが得意です」
七輪の火は、ちょうど良い具合だった。
舞茸が網に乗ると、ジュッという音がした。
煙が立ち上がる。銀杏の葉をくぐり、通りへと流れていく。
「煙って、記憶を運びますね」
「ええ。香りは、過去を呼び戻す力があります」
千遥は、火を見つめながら言った。
「ここに来ると、何かを思い出せる気がするんです。火に纏わる何か。でも、それが何なのか、まだわからなくて」
真壁は頷いた。
「火は、静かに語りますから。急がなくていい」
秋刀魚の皮が弾け、脂が炭に落ちる。煙が濃くなる。
通りを歩く人が、足を止めて香りに目を向ける。
それは、穏やかな午後の風景だった。
──だが、空気が変わったのは、その直後だった。
通りの向こうから、警察車両のサイレンが聞こえた。
遠くで、拡声器の声が響く。「この周辺で不審物の情報がありました。ご協力をお願いします」
真壁は、火箸を止めた。
千遥は、煙の向こうを見つめていた。目は動かない。
「何か、あったんですか?」
「わかりません。でも……」
千遥は、バッグを少し持ち上げた。中から、微かな金属音がした。
真壁は、音の正体を尋ねることはしなかった。だが、心の奥に小さな火種が灯った。
「火って、準備がすべてですよね。爆発は、準備の結果です」
真壁は、言葉を失った。
七輪の火が、静かに揺れていた。
秋刀魚の皮が焦げ、煙が濃くなる。
「火は、使い方次第で、記憶にも、破壊にもなる」
千遥の声は、静かだった。だが、その静けさが、逆に緊張を生んでいた。
真壁は、七輪の火を見つめた。
煙の向こうに、何かが立ち上がっている気がした。
それは、香りではなく、気配だった。
そして、千遥は言った。
「私、どこかに爆弾を仕掛けた気がする…」




