5話
神保町の午後は、陽射しが斜めに差し込んでいた。
通りの銀杏はほとんど散り、歩道には黄色い絨毯が広がっていた。
古書店「文月堂」の店先にも、風に運ばれた葉が一枚、そっと舞い降りた。
真壁は、帳簿を閉じながら、湯呑みに残ったほうじ茶を飲み干した。
扉が開く音は、もう驚きではなかった。
千遥は、ほぼ毎日のように現れるようになっていた。
「こんにちは。今日は、何か焼いてますか?」
「焼いてはいませんが、焼く話ならできますよ」
千遥は笑った。
その笑顔は、初めて来た頃よりもずっと自然で、どこか安心しているようだった。
「最近、ここに来ると落ち着くんです。なんでだろうって考えてて……」
真壁は、棚の整理をしながら、彼女の言葉を待った。
「たぶん、ここに来ると、忘れていた何かを思い出せる気がするんです。
それがなんなのかは、まだ自分でもわからないんですけど……たぶん、火に纏わる何か」
真壁は手を止めた。
火に纏わる何か——その言葉は、どこか引っかかる響きを持っていた。
「火ですか。料理の火?それとも、もっと別の?」
「わかりません。ただ、炎を見ると、何かが近づいてくる気がして」
真壁は、しばらく黙っていた。
そして、ふと店先に目を向けた。
「七輪、ありますよ。昔、店の前で秋刀魚を焼いたことがあって。煙がすごくて怒られましたけど」
千遥は目を輝かせた。
「七輪、いいですね。舞茸も焼けますか?」
「もちろん。炭火は、香りを引き出すのが得意です」
「秋刀魚も?」
「秋刀魚も。脂が落ちて、煙が立って、それがまた秋の匂いになる」
千遥は、店の奥に目を向けた。
「ここで、焼いてみませんか?火を見ながら、何か思い出せるかもしれない」
真壁は頷いた。
「煙が迷惑にならない時間を選びましょう。夕方なら、通りも静かです」
「じゃあ、明日。舞茸、持ってきます」
「秋刀魚は、僕が用意します」
千遥は、文庫本を一冊手に取った。
『炭火の午後』——火と記憶について綴った随筆集だった。
「これ、読んでみます。火って、やっぱり不思議ですね」
「ええ。火は、過去と現在をつなぐものですから」
扉が閉まると、店内は再び静かになった。
真壁は、七輪の置き場所を思い出しながら、胸の奥に灯った小さな火種を感じていた。
それは、記憶の煙のように、静かに立ち上がり始めていた。




