3話
神保町の午後は、陽射しが傾き始めていた。
通りの銀杏はさらに色づき、風が吹くたびに葉が舞った。
古書店「文月堂」の店先には、落ち葉が一枚、表紙の上に乗っていた。
真壁は、店内の空気を整えるように、ほうじ茶を淹れていた。
紙の匂いと茶の香りが混ざるこの空間は、季節の移ろいを静かに受け止めていた。
扉が開いたのは、午後四時を少し回った頃だった。
千遥が、少しだけ息を切らした様子で入ってきた。
「こんにちは。すみません、前に買った本、どこに置いたか忘れちゃって」
「『きのこのある日』でしたね。読みましたか?」
「それが……読もうと思って、バッグに入れたはずなのに、どこにもなくて。家中探したんですけど」
真壁は笑った。
「本は、時々隠れますからね。読み手の気持ちを待ってるのかもしれません」
「そうかもしれません。最近、ちょっと物忘れが多くて。コンロの火も、つけたままにしちゃって」
「それは危ないですね。火は、気まぐれですから」
「でも、火って、見てると落ち着くんです。炎の揺れとか、音とか」
真壁は頷いたが、心の奥に小さな違和感が芽生えた。
千遥の言葉の選び方が、少しずつ変わってきている。
前回は「香り」や「味」だったのに、今回は「熱源」や「火の性格」に近い。
「火は、料理の相棒ですけど、油断すると敵にもなります」
「そうですね。でも、敵って、準備が丁寧なほど怖いですよね」
真壁は、棚から一冊の随筆集を取り出した。
『台所の記憶』——火と暮らしについて綴った一冊。
「この本には、火の話がたくさん出てきます。囲炉裏、マッチ、ガス。どれも、生活の中の火です」
千遥はページをめくりながら、ふと呟いた。
「菌糸爆弾って、聞いたことありますか?」
真壁は手を止めた。
「……爆弾?」
「いえ、変な話です。きのこの菌糸が、地中で広がって、ある瞬間に一斉に発芽する。それが、爆発みたいだなって」
「それは、自然の爆発ですね。香りの爆弾なら、歓迎です」
「でも、見えないところで広がるって、ちょっと怖くないですか?」
真壁は、湯呑みに手を伸ばしながら、千遥の表情を見た。
笑ってはいるが、目の奥に何かが沈んでいる。
それは、忘れ物の話とも、火の話とも、少し違う温度を持っていた。
「火も菌糸も、見えないところで準備するんですね」
「ええ。だからこそ、扱い方が大事なんです」
千遥は、文庫本を一冊手に取った。
『火の記憶』——短編エッセイ集だった。
「これ、読んでみます。火って、記憶に残るから」
「気をつけてくださいね。火は、記憶を焼くこともありますから」
千遥は会計を済ませながら、ふと口元に手を添えた。
「また、舞茸を焼いてみます。今度は、もっと慎重に」
「それが一番です。火は、信頼と注意の両方が必要です」
扉が開き、夕暮れの光が差し込んだ。
千遥は、文庫本をバッグに入れながら、振り返った。
「ありがとうございました。また来ます」
「いつでもどうぞ。次は、忘れ物が見つかるといいですね」
扉が閉まると、店内は再び静かになった。
真壁は、棚を見渡しながら、胸の奥に残った違和感をそっと抱えた。
それは、火のように、まだ形を持たない熱だった。




