2話
神保町の午後は、少しだけ風が冷たくなっていた。
通りの銀杏が色づき始め、店先に並べた文芸誌の表紙も、黄色や橙に染まっていた。
真壁は、棚の奥にあった料理随筆を手に取り、入口近くに移していた。
扉が開いたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
千遥が、前回よりも軽い足取りで入ってきた。
コートの色が変わっていた。濃い紺。季節が進んだことを感じさせた。
「こんにちは。また来ちゃいました」
「いらっしゃい。舞茸、焼きましたか?」
「はい。今度は炊き込みご飯にしてみました。栗と一緒に。祖父の味にはまだ遠いですけど」
「それは贅沢ですね。秋の香りが台所に広がったでしょう」
「ええ。でも、火加減が難しくて。炊飯器だと、香りが逃げる気がして」
「鍋で炊いたんですか?」
「はい。土鍋です。温度を自分で調整できるのがいいですね。火って、面白いです」
真壁は頷いた。
「火は、料理の要ですからね。強すぎると焦げるし、弱すぎると味がぼやける」
「でも、強火って潔くて好きです。一気に変化する感じが」
千遥はそう言って、バッグを少し持ち上げた。中から、微かな金属音がした。
真壁は気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、棚から一冊の随筆集を取り出した。
『火と台所』——昭和の随筆家が、家庭の火の記憶を綴った一冊。
「この本には、火の話がたくさん出てきます。囲炉裏、ガス、マッチ。火の種類で、料理の性格も変わる」
「面白そう。火って、性格があるんですね」
「ええ。炎の高さ、色、音。全部、料理人の会話相手です」
千遥はページをめくりながら、ふと口にした。
「火って、静かに準備するものですよね。爆発じゃなくて、仕込み」
真壁は少しだけ眉を動かした。
「爆発……ですか?」
「いえ、変な言い方でしたね。舞茸の香りも、じわじわ広がるからこそ美味しいんです」
「そうですね。菌糸が広がるように、香りもゆっくりと」
「菌糸……爆弾みたいですね。見えないところで広がって、ある瞬間に香る」
真壁は笑った。
「それは、詩的な爆弾ですね。香りの爆弾なら、歓迎です」
「でも、香りって、記憶を刺激しますよね。祖父の台所の匂い、今でも思い出せます」
「香りは、記憶の鍵です。舞茸は、特に強い鍵を持っている」
千遥は、棚から文庫本を一冊手に取った。
『きのこと火』——短編エッセイ集だった。
「これ、読んでみたいです。タイトルが気になって」
「いい選択です。きのこは火と相性がいいですから。香りも、食感も、熱で変わる」
「熱って、面白いですね。数字で見ても、感覚で見ても、違うものになる」
「料理は、感覚の科学ですからね」
千遥は会計を済ませながら、ふと口元に手を添えた。
「また、舞茸を焼いてみます。今度は、もっと火を意識して」
「火は、相手を見てくれますよ。焦らなければ、ちゃんと応えてくれる」
「そうですね。火は、信頼ですね」
扉が開き、秋の光が差し込んだ。
千遥は、文庫本をバッグに入れながら、振り返った。
「ありがとうございました。また来ます」
「いつでもどうぞ。次は、火との会話の報告を楽しみにしています」
扉が閉まると、店内は再び静かになった。
真壁は、湯呑みにほうじ茶を注ぎながら、棚を見渡した。
秋の午後は、舞茸の香りとともに、火の気配を少しずつ濃くしていた。




