1話
神保町の午後は、乾いた風が通りを撫でていた。
先週の雨が嘘のように、空は澄み、陽射しは柔らかかった。
古書店「文月堂」の店先には、秋の特集を組んだ文芸誌が並び、表紙の紅葉が通行人の目を引いていた。
真壁は、店内の棚を整えながら、湯呑みに残ったほうじ茶を口に運んだ。
紙の匂いと茶の香りが混ざるこの空間は、彼にとって一種の静寂だった。
扉が開いたのは、午後二時を少し回った頃だった。
「こんにちは」
灰色のコートを着た女性が、前回と同じように傘をたたみながら入ってきた。
だが今回は、表情が少しだけ柔らかかった。
千遥は、店内の空気を吸い込むように深呼吸し、棚の前に立った。
「舞茸、焼いてみました」
真壁は笑みを浮かべた。
「それはよかった。うまくいきましたか?」
「はい。香りがすごくて、台所が森みたいになりました。祖父の言葉、ちょっとわかる気がしました」
「それは何よりです。塩加減は?」
「少し控えめにしました。次は、もう少し強めでもいいかも」
千遥は、棚の前で足を止めた。
前回とは違う棚。詩集ではなく、随筆のコーナーだった。
彼女の視線は、背表紙をなぞるように動いていた。
「料理って、思ったより楽しいですね。舞茸だけじゃなくて、他のきのこも試してみたくなって」
「椎茸やしめじもいいですが、舞茸はやっぱり香りが格別です」
「そうですね。あと、食感も好きです。歯ごたえがあるのに、柔らかい」
真壁は、棚から一冊の本を取り出した。
『秋の台所』——昭和の随筆家が、季節の料理について綴った一冊。
「この本には、きのこご飯の話があります。炊き込みにすると、舞茸の香りが全体に広がりますよ」
「炊き込みご飯……いいですね。祖父がよく作ってました。栗と一緒に」
「栗と舞茸。秋の黄金コンビですね」
千遥は笑った。前回よりも、自然な笑顔だった。
肩の力が抜けていて、言葉の間も柔らかかった。
「最近、料理をすると気持ちが落ち着くんです。仕事が忙しくても、台所に立つと、なんだか整うというか」
「火を使うと、時間の流れが変わりますからね。包丁の音も、リズムになりますし」
「そうそう。あと、食材を触ると、手が覚えてくれる感じがして」
真壁は頷いた。
「料理は、手の記憶を呼び起こします。頭で考えるより、手が先に動く」
千遥は、棚から文庫本を一冊手に取った。
『きのこのある日』——短編エッセイ集だった。
「これ、読んでみたいです。タイトルがかわいくて」
「いい選択です。きのこを題材にした話って、意外と多いんですよ。森と人の距離が近いからでしょうか」
「森……行きたいな。最近、自然の中に行ってないので」
「高尾山あたりなら、今が紅葉の見頃ですよ。舞茸は採れませんが、空気は美味しいです」
千遥は会計を済ませながら、ふと口元に手を添えた。
「また、舞茸を焼いてみます。今度は、誰かに食べてもらえるように」
「それは素敵ですね。料理は、誰かのために作ると、味が変わります」
「そうなんですね。祖父も、そうだったのかも」
扉が開き、秋の光が差し込んだ。
千遥は、文庫本をバッグに入れながら、振り返った。
「ありがとうございました。また来ます」
「いつでもどうぞ。次は、きのこご飯の報告を楽しみにしています」
扉が閉まると、店内は再び静かになった。
真壁は、湯呑みにほうじ茶を注ぎながら、棚を見渡した。
秋の午後は、舞茸の香りとともに、少しずつ深まっていく。




