9話
七輪の火は、まだ赤く灯っていた。
舞茸の香りは薄れ、秋刀魚の皮は焦げ目を深めていた。
夕暮れの神保町は、通りのざわめきが少しずつ遠ざかり、店先には静けさが戻っていた。
「新宿西口の地下広場……それが、思い出した場所なんですね?」
真壁の声は、低く、揺れないように整えられていた。
千遥は、火を見つめたまま、頷いた。
「でも、確かじゃないんです。夢かもしれない。記憶って、混ざるから」
「それでも、警察に相談したほうがいい。もし本当に何かが仕掛けられていたら、誰かが傷つくかもしれない」
千遥は、湯呑みに手を伸ばしたが、飲まずに戻した。
「でも、私が間違っていたら?ただの妄想だったら?通報して、騒ぎになって、何もなかったら……」
「それでも、火は預けるべきです。自分の手の中にあるうちは、燃え続ける」
千遥は、黙った。
七輪の炭が、パチリと音を立てた。
真壁は、棚の奥から一冊の文庫を取り出した。
『火垂るの墓』——野坂昭如の短編小説。戦火の中で、兄妹が火を見つめる場面が描かれている。
「この本に、こんな一節があります。“火は、誰かのために灯すものだ。自分だけの火は、やがて風に消える”」
「……読んだことあります。中学のとき。泣きました」
「あなたの火も、誰かのために灯されたのかもしれない。でも、今は、それを預ける時です。風に消える前に」
千遥は、バッグの中の白いタイマーを見つめた。
「でも、私が仕掛けた理由が、まだ思い出せないんです。誰かを止めたかった気はする。でも、それが誰なのか、何なのか……」
「それは、警察と一緒に探せばいい。あなたの記憶だけで背負うには、火が強すぎる」
沈黙が落ちた。
外では、警察車両のサイレンが遠くで鳴っていた。
それは、偶然ではないように思えた。
千遥は、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかりました。相談してみます。私の中の火を、預けてみます」
真壁は頷いた。
「それが、あなたの記憶を守る第一歩です」
七輪の火が、静かに揺れた。
煙が、夕暮れの空に溶けていく。
それは、ただの秋の香りではなかった。
誰かのために灯された火だった。




