表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
舞茸と七輪  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/11

プロローグ

神保町の午後は、紙と土の匂いが混じり合っていた。

雨が降るか降らないか、そんな曖昧な空模様のせいか、通りを歩く人々の足取りもどこか緩やかだった。

古書店「文月堂」の店先には、先ほどまで店主が並べていた文芸誌の束が、風に揺れている。


店主の真壁は、湯呑みに残ったほうじ茶をすすりながら、帳簿に目を落としていた。

昭和の文庫が一冊売れた。買ったのは、大学生らしき青年で、レジの前で「これ、映画にもなってましたよね」と言った。

真壁は頷いたが、映画の話には乗らなかった。彼にとっては、紙の中の物語のほうがずっと長く残る。


扉が開いたのは、午後三時を少し回った頃だった。

鈍い音とともに、灰色のコートを着た女性が入ってきた。傘をたたみながら、店内の空気を吸い込むように深呼吸する。


「こんにちは。料理本って、ありますか?」


声は柔らかく、どこか遠慮がちだった。

真壁は眼鏡の奥から彼女を見つめた。年の頃は三十代半ば。髪は肩にかかるくらいで、雨に濡れて少し艶が出ていた。


「料理本ですか。うちは文学寄りですが……探してみましょうか」


「ありがとうございます。舞茸を焼こうと思って」


「舞茸ですか。いいですね。秋の味覚ですね」


「祖父が好きだったんです。舞茸の香りがすると、秋が来たって言ってました」


真壁は笑った。

「それは、いい季節の知らせですね」


女性は店内をゆっくり歩きながら、棚の背表紙を眺めていた。

文芸、詩、思想、民俗学。料理本は確かに少ない。だが、食にまつわる随筆ならいくつかある。


「舞茸って、いつが旬なんですか?」


「天然物なら、ちょうど今頃ですね。九月から十月にかけて。人工栽培は年中ありますけど、やっぱり秋が香りも強い」


「そうなんですね。スーパーで見かけて、つい買ってしまって。でも、どうやって焼いたらいいのか、わからなくて」


「焼くだけなら、塩を少し振って、アルミホイルに包んでグリルで。香りを閉じ込めるようにするといいですよ」


「塩は、いつ振るんですか?」


「焼く前ですね。舞茸は水分が多いので、後だと味がぼやけます」


女性は頷いた。

「祖父は、舞茸を焼くとき、いつも台所が森の匂いになるって言ってました」


「いい表現ですね。舞茸は菌糸で育ちますから、森の記憶を吸ってるのかもしれません」


「森の記憶……なんだか詩みたい」


真壁は棚から一冊の随筆集を取り出した。

『秋の食卓』——昭和の随筆家が、季節の味覚について綴った本だ。


「この中に、舞茸の話が出てきます。焼き舞茸と、祖母の思い出について」


女性はページをめくりながら、ふと笑った。

「こういう文章、好きです。食べ物の話なのに、風景が浮かぶ」


「食は、記憶を呼び起こしますからね。特に秋は、香りが強い。舞茸も、栗も、柿も」


「秋って、ちょっと寂しいけど、温かいですね」


「ええ。人を静かにさせる季節です」


店内には、ほうじ茶の香りと、紙の匂いが漂っていた。

外では雨が本格的に降り始めていた。

女性は棚の前で立ち止まり、文庫本を一冊手に取った。

『舞茸と私』——短編エッセイ集だった。


「これ、買ってもいいですか?」


「もちろん。よく見つけましたね。あまり目立たない本ですが、いい文章が多いですよ」


「今日は、舞茸を焼いてみます。祖父の味にはならないかもしれないけど」


「味は、記憶のなかで育ちますから。きっと、いい香りになりますよ」


女性は会計を済ませ、傘を開いた。

「ありがとうございました。なんだか、舞茸が楽しみになってきました」


「よい午後を。焼きすぎないように」


扉が閉まると、店内は再び静けさに包まれた。

真壁は湯呑みに残ったほうじ茶を飲み干し、帳簿に目を落とした。

外では、舞茸の香りを待つように、雨が静かに降り続いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ