プロローグ
神保町の午後は、紙と土の匂いが混じり合っていた。
雨が降るか降らないか、そんな曖昧な空模様のせいか、通りを歩く人々の足取りもどこか緩やかだった。
古書店「文月堂」の店先には、先ほどまで店主が並べていた文芸誌の束が、風に揺れている。
店主の真壁は、湯呑みに残ったほうじ茶をすすりながら、帳簿に目を落としていた。
昭和の文庫が一冊売れた。買ったのは、大学生らしき青年で、レジの前で「これ、映画にもなってましたよね」と言った。
真壁は頷いたが、映画の話には乗らなかった。彼にとっては、紙の中の物語のほうがずっと長く残る。
扉が開いたのは、午後三時を少し回った頃だった。
鈍い音とともに、灰色のコートを着た女性が入ってきた。傘をたたみながら、店内の空気を吸い込むように深呼吸する。
「こんにちは。料理本って、ありますか?」
声は柔らかく、どこか遠慮がちだった。
真壁は眼鏡の奥から彼女を見つめた。年の頃は三十代半ば。髪は肩にかかるくらいで、雨に濡れて少し艶が出ていた。
「料理本ですか。うちは文学寄りですが……探してみましょうか」
「ありがとうございます。舞茸を焼こうと思って」
「舞茸ですか。いいですね。秋の味覚ですね」
「祖父が好きだったんです。舞茸の香りがすると、秋が来たって言ってました」
真壁は笑った。
「それは、いい季節の知らせですね」
女性は店内をゆっくり歩きながら、棚の背表紙を眺めていた。
文芸、詩、思想、民俗学。料理本は確かに少ない。だが、食にまつわる随筆ならいくつかある。
「舞茸って、いつが旬なんですか?」
「天然物なら、ちょうど今頃ですね。九月から十月にかけて。人工栽培は年中ありますけど、やっぱり秋が香りも強い」
「そうなんですね。スーパーで見かけて、つい買ってしまって。でも、どうやって焼いたらいいのか、わからなくて」
「焼くだけなら、塩を少し振って、アルミホイルに包んでグリルで。香りを閉じ込めるようにするといいですよ」
「塩は、いつ振るんですか?」
「焼く前ですね。舞茸は水分が多いので、後だと味がぼやけます」
女性は頷いた。
「祖父は、舞茸を焼くとき、いつも台所が森の匂いになるって言ってました」
「いい表現ですね。舞茸は菌糸で育ちますから、森の記憶を吸ってるのかもしれません」
「森の記憶……なんだか詩みたい」
真壁は棚から一冊の随筆集を取り出した。
『秋の食卓』——昭和の随筆家が、季節の味覚について綴った本だ。
「この中に、舞茸の話が出てきます。焼き舞茸と、祖母の思い出について」
女性はページをめくりながら、ふと笑った。
「こういう文章、好きです。食べ物の話なのに、風景が浮かぶ」
「食は、記憶を呼び起こしますからね。特に秋は、香りが強い。舞茸も、栗も、柿も」
「秋って、ちょっと寂しいけど、温かいですね」
「ええ。人を静かにさせる季節です」
店内には、ほうじ茶の香りと、紙の匂いが漂っていた。
外では雨が本格的に降り始めていた。
女性は棚の前で立ち止まり、文庫本を一冊手に取った。
『舞茸と私』——短編エッセイ集だった。
「これ、買ってもいいですか?」
「もちろん。よく見つけましたね。あまり目立たない本ですが、いい文章が多いですよ」
「今日は、舞茸を焼いてみます。祖父の味にはならないかもしれないけど」
「味は、記憶のなかで育ちますから。きっと、いい香りになりますよ」
女性は会計を済ませ、傘を開いた。
「ありがとうございました。なんだか、舞茸が楽しみになってきました」
「よい午後を。焼きすぎないように」
扉が閉まると、店内は再び静けさに包まれた。
真壁は湯呑みに残ったほうじ茶を飲み干し、帳簿に目を落とした。
外では、舞茸の香りを待つように、雨が静かに降り続いていた。




