藤鶴姫の望み
「まったくもう、ポチが人と会話できるようになったことを教えてくれないなんて、氏業様も雛鶴様も意地悪ですわ」
プンスコと怒りながら氏業の部屋の襖を開ける藤鶴姫であったが、その目に飛び込んできたのは、刀でポチに斬りかかろうとする氏業と、それに割って入る雛鶴姫の姿だった。
「あれ・・・、皆さんどうなさいましたの?」
疑問を投げかける藤鶴姫に対し、氏業は「一人にしてくれ」とひとこと言い残すと、奥の部屋へと退いた。
その場で泣き崩れる雛鶴姫と、怒りを隠さないポチ。
「いったい、何がどうなっておりますの-?」
思わず藤鶴姫は叫ぶのだった。
これは尋常な状態ではない。
そう感じ取った藤鶴姫は、すぐさま背後に控える侍女たちに下がるよう命じた。
藤鶴姫は襖を閉じ、この場に居るのは藤鶴姫・雛鶴姫・ポチの3人(2人と1匹とおっさん)だけとなった。
「それで、雛鶴様。あの温厚な氏業様が刀でポチに斬りかかろうとするとか、どうなさったのですか?」
そう問いかける藤鶴姫に、雛鶴は『真・箕輪軍記』を渡して読むよう促した。
怪訝な面持ちで『真・箕輪軍記』を受け取る藤鶴姫であったが、読み進むうちに不快感や嫌悪感からか怒り心頭となった。
「なんですのこれは。5年後に箕輪城が武田軍によって攻め落とされ、雛鶴様と氏業様は自害!?わたしは、越後に逃げる最中に三ノ倉(高崎市倉渕町)で追いついた味方を敵と勘違いし、『これまでかぎりぞ』と言い残して自刃するですって!こんなものを見せれば、氏業様でも刀を振り回すのは当然のことでしてよ。それで、こんな縁起の悪いものを書いたのはポチ2号、貴方ですか」
おっさんに殺気を放つ藤鶴姫だったが、おっさんは返事もせずポチの中に引きこもっていた。
「どうしたの、ポチ2号。返事をなさい」
ポチに詰め寄る藤鶴姫に対し、ポチは「おっさんは『おそとこわい』って言って、ポチの中に引きこもっているわん」と返事をした。
「いったい、何を言っていますの?」
困惑する藤鶴姫に対し、雛鶴はようやく心が落ち着いたのか「かくかくしかじか」と今までの経緯を説明した。
「ふーむ」と考え込む藤鶴姫。
「確かに、上杉政虎公の本拠地である春日山は遠方にあり、なにより越山する必要があるので上州まで援軍に来るには時間がかかります。上州が武田と北条に同時侵攻されたら、まとまりのない上州勢では太刀打ちできないでしょうね。武田や北条に寝返る国人衆も多数出るでしょうね。だから、義父様の葬儀を利用して義兄たちと結束を強め、その上で数ヶ月後に発生する上杉と武田の大戦に参戦して、武田家の勢力を北信濃から駆逐すると。雛鶴様、そういうことですか?」
「そうなんですが、兄上様や家老たちは父上様の死をしばらく隠しておきたかったようですね。だけど、『おっさん』さんが兄上様や家老たちが決めたことと正反対のことをすれば未来は変わると言い出したんですよ。そうしたら『お前は、私や家老たちが無能だと言うのかー』と兄上様が怒り出して、今に至るという訳です」
さて、ここで氏業と雛鶴の義兄たちについて説明しよう。
①小幡憲重(業政長女正子の夫):武田二十四将の一人。現時点で武田家に寝返っている。
②小幡景純(業政次女於富の夫):国峰城主(群馬県甘楽町)で憲重の弟(従弟という説もある)。半年後、国峰城は武田軍に攻め落とされて妻と共に自害する。
③成田長泰:鶴岡八幡宮の関東管領就任式で、上杉政虎(謙信)に烏帽子を打ち落とされる人。政虎が越後に帰国すると、北条氏康に降伏する。忍城主(埼玉県行田市)。
④木部定朝:箕輪城落城後、武田家に降伏。妻は榛名湖に入水。現在は木部城主(群馬県高崎市)。
⑤大戸(浦野)中務少輔:一年後、武田家に寝返る。大戸城主(群馬県東吾妻町)。
⑥和田業繁:長野十六槍の一人なのに、一年後武田家に寝返っている。和田城主(高崎城の前身)。
⑦金井景秀(秀景):現時点で武田家に寝返っている。長野家滅亡後、倉賀野城主(群馬県高崎市)となる。
⑧羽尾幸全:永禄6年、鎌原氏との戦いに敗れて没落する。羽根尾城主(群馬県長野原町)。
⑨藤井友忠:長野家の筆頭家老。業政死後は氏業の父親代わりとなる。永禄9年箕輪城の戦いで原加賀守国貞に討ち取られる。浜川城主(群馬県高崎市)。
⑩依田光慶:箕輪城落城と共に依田氏も没落する。後閑城主(群馬県安中市)。
⑪長野業固:鷹留城主(群馬県高崎市)で氏業の従兄弟。箕輪城落城後も信玄の命を狙って信濃に潜伏するが、遂にその志を得ず。
⑫安中忠政:業政の養女を娶ったとの説も有り。永禄8年松井田城の戦いで武田軍相手に奮戦するが、捕らえられて処刑される。松井田城主(群馬県安中市)。
藤鶴姫曰く「義兄12人のうち、5人が上杉家から離反するのですか?最も頼りにすべき人たちがこれでは、どうにもなりませんわ。というか、これが事実なら半年後には景純義兄様と於富義姉様が死んでしまいますの!?」
藤鶴姫は「はー」とクソデカため息をつくと、雛鶴に問いかけた。
「で、雛鶴様はこれからどうなさいますの?」
「えーと、兄上様は情緒不安定なので、わたくしが傍で支えて差し上げようかと・・・」
そのような雛鶴の発言に対し、藤鶴姫は苛立ちを隠すことなくこう言った。
「あのですね雛鶴様、河越合戦に敗北して扇谷上杉家が滅亡してからというもの、わたしの家族は関東各地を転々として、わたしには気が安まる時など無かったのです。今だって、わたしは越後上杉家や古河公方家、近衛家などから派遣された侍女たちに監視されておりますのよ。わたしが、落ちぶれ姫だのさすらい姫だのと陰口をたたかれている間、あなたは優しいご両親や兄弟、家臣たちに愛されて何不自由なく暮らしてきたのでしょう?」
「いえ、両親は多忙ゆえ、わたくしは物心ついた頃から毎日兄上様と一緒におりましたが・・・」
その雛鶴の言葉に、藤鶴姫は怒りを益々ヒートアップさせた。
「雛鶴様、あなたはわたしに自慢しているのですか?わたくしは、眉目秀麗でお優しい兄上様の一番の女なのよ、と」
「いえ、そんなつもりは・・・」
「いいこと、雛鶴様もポチもよく聞きなさい。わたしの望みは、自分の居場所を見つけることでしてよ。そして、ようやく見つけたここ箕輪の地も、あと5年で追い出されてわたしは死んでしまう?冗談ではありませんわ。この地を守るためならばわたしは何でもしますし、もちろん雛鶴様も長野家や上杉家の手駒として最大限活用させてもらいますわ。そうですわね、雛鶴様には新田金山城(群馬県太田市)の横瀬家にでも嫁いで貰おうかしら。越後上杉家の有力家臣とかも、良いかも知れませんね」
「ひえー、人間のメスは怖いんだわん」
藤鶴姫と雛鶴の言い争いにポチの横槍が入るが、藤鶴姫の発言は止まらなかった。
「ポチ、貴方いろいろと使えそうだから、わたしの飼い犬になりなさい。毎日、美味しいエサをあげますし、ポチが望むなら毎日添い寝をしてさしあげますわ。一緒に、お風呂に入ってあげてもよろしくてよ」
「人間のメスに興味ないわん」
ポチは、藤鶴姫の提案をバッサリと切り捨てた。
「ポチ2号はどうなの?自分で言うのも何ですが、容姿には自信がありましてよ」
実際、藤鶴姫の容姿については『芙蓉の花のように美しい』との記述が箕輪軍記にもあるぞ。
「だから、おっさんはポチの中に引きこもっているから、返事なんてしないわん」
面倒くさそうに答えるポチであったが、雛鶴はコショコショとポチに耳打ちした。
「義姉上様の言うことを聞いてあげて。あれでも家族になる方だから、仲良くしておきたいの」と。
「ご主人様がそこまで言うなら・・・」
ということで、ポチはおっさんと話をするため、自身の内面に意識を沈み込ませるのだった。




