79話 てんとう虫の重心
「……ひとりになりたい」
そう言った自分の声が、思ったより掠れていた。
わたしは、ふたりの顔を見ないまま駆け出していた。
ポルックスが微かに「明里」と呼んだのが聞こえたけれど、
振り切るように、ただ走り続けた。
どこへ向かっているのかも分からない。
ただ、ひとりになりたくて、走っていた。
陰鬱な森を抜けると、急に視界がひらけた。
風に揺れる野原の向こうに――
なにもない海が、静かに広がっていた。
明るい日差しを受けて、
海面がきらきらと砕けるように反射している。
その光の中で、わたしは――張りつめていたものが切れて、膝から崩れ落ちた。
世界が、滲んで見えた。
そのまま――動けなくなっていた。
(まだ……考えれば、なにかあるはずなのに)
そう思ったところで、
意識は、すうっと遠のいていった。
――眠ってしまった。
どれくらい、時間が経ったのだろう。
まぶたの裏が、ほんのり赤くて――
わたしは、ゆっくりと目を開けた。
体が冷えている。
砂と草の感触が、じわりと現実に戻してくる。
そのとき――
目の前の草の上で、小さな赤い点が動いた。
てんとう虫だった。
丸い背中に、黒い点。
ゆっくり、葉の縁を歩いている。
逃げもせず、迷いもせず、
ただ、自分の行きたい方向へ。
……いいな。
わたしは息を吸って、そっと吹きかけた。
ふうっ――
虫の体が少し揺れる。
でも、落ちない。
もう一度、少し強く。
ふうっ――!
葉が揺れても、てんとう虫は転ばない。
……なんで?
深く息を吸って、思いきり吹く。
ふーーーっ!!
草がざわっと鳴って、葉が大きく揺れた。
それでも、てんとう虫は――
向きを変えただけで、姿勢を保っていた。
丸い。
角がない。
力が、どこか一点に集まらない。
それに――低い。
地面に近いところに、重さが集まっている。
……あ。
胸の奥で、なにかがカチッと鳴った。
舟も――同じだ。
一本だから、不安定だった。
だから、すぐ傾いて、ひっくり返る。
でも、もし。
胴体が「二本」あったら?
左右に並べて、
その上に人が乗る場所を渡したら。
……双胴。
てんとう虫みたいに、
力を“面”で受けて、低い位置で支える構造。
「……そうか」
声が、震えた。
「二本なら……いける」
心臓が、どくんと跳ねた。
わたしは立ち上がった。
もう、泣いてる暇はない。
走らなきゃ。
今度は――
ひとりになるためじゃなくて、
みんなのところへ戻るために。




