74話 深淵の歩行者
煉が叫んだ。
「明里、蓋が……開かねぇ!!」
排水溝の鉄蓋は、びくともしなかった。
錆びついた縁が床に食い込み、逃げ道を拒むように沈黙している。
「クソッ……燃やしてでも開けるしか――!」
煉の手から炎が走り、蓋の縁を舐めるように包んだ。
鉄が赤く染まり、熱が伝わる。
キィ……ッ。
嫌な音がした。
金属が膨張し、歪みが噛み合っていく音だ。
明里は息を呑んだ。
(ダメ……!
熱すると……逆に、締まる……!)
「煉、やめて!」
声が裏返る。
「熱すると余計に外れなくなる!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
一瞬だけ、頭が冴えた。
「……逆!」
明里は叫んだ。
「ポルックス! 今すぐ冷やして!
熱してから一気に冷やせば、金属が縮む!
隙間ができる!」
「わ、わかったっ!」
ポルックスが構え、凍気を叩きつける。
ジュワァァァァッ!!
赤熱した鉄に、白い霜が一気に走った。
――ガコンッ!!!
乾いた衝撃音とともに、
鉄蓋が跳ね上がるように外れた。
煉が目を見開く。
「……やった……!」
「今よ!」
明里が叫ぶ。
「急いで! 黒甲冑が来る!!」
背後、蒸気の奥から、低い声が落ちてきた。
「……そこにいるな。明里」
心臓が跳ね上がる。
三人は、迷わず排水溝の暗闇へと身を投げた。
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排水溝の闇を転がるように抜け、
わたしたちは海の中にと飛び出した。
夜の海は、底のない黒。
波の音すら遠く、
月は雲に覆われ、世界は色を失っている。
ポルックスが震える声で言う。
「……どこ?
黒甲冑は……?」
明里は、首を振った。
「わからない……。
でも、追ってくる。絶対に」
その瞬間だった。
――ゴォォォ……。
(……何……?)
まるで、
巨大な“何か”が暗闇の中で目を覚まし、
ゆっくりと差し迫るような気配。
煉が顔を上げ、呟く。
「……来る」
波の影が、歪んだ。
ザバァ……。
黒い甲冑の影が、
海面すれすれに、立ち上がっていた。
濡れていない。
沈んでもいない。
ただ――
そこに、存在している。
明里の背筋が凍る。
そして。
「……明里」
海と夜を切り裂くように、
地の底から響く声。
「逃がさんぞ」
黒甲冑の赤い眼が、暗闇の中で明里を射抜いたまま――
ゆっくりと、一歩。
――海面を踏みしめた。
ザバァッ!!
水柱が跳ね上がり、船尾のデッキが大きく揺れる。
その瞬間、
黒い海が唸りを上げた。
大きな渦が生まれ、波がねじれ、
まるで海そのものが黒甲冑に呼応するかのように――。
明里は、確信する。
(……逃げ場が、消える)
次の瞬間、
わたしたちは漆黒の海の渦にのまれた。
三部完




