73話 獲物の名は明里
蒸気の白に包まれた浴室から、
わたしたちはただ走った。
息を吸うたび、肺が焼けるように痛い。
けれど足は止まらない。
(急がなきゃ……! 早く、あそこに……!)
煉が振り向き「明里、ポルックス急げ」
床下の角を曲がり、備品棚の影へと滑り込む。
煉が屈み込み排水溝の蓋を確認している。
だが――
すぐ背後から、地割れみたいな衝突音が響く。
「……始まった」
煉が呟いた。
蒸気の向こうで、黒甲冑と敵が正面からぶつかったのだ。
わたしたちは隙間から、恐る恐る覗き込んだ。
***
視界はまだ真っ白。
蒸気が渦を巻き、床のタイルが焼け焦げている。
その中央で、影が二つ、絡み合っていた。
ギリ……ッ。
金属が軋む低い音。
スケイルが黒甲冑の腰に巻き付き、蛇のように締め上げていく。
「知ってるか……?」
敵の声が濁った蒸気の中で響く。
「アナコンダはさ……牛だって、ゆっくり……潰すんだよ」
黒甲冑の身体から、バキッと何かが歪む音が鳴った。
(っ……!)
思わず声が漏れそうになる。
煉も息を飲んだ。
だが、黒甲冑は――
一歩も動いていなかった。
微動だにせず、ただ敵を見下ろしている。
その姿が、余計に恐ろしい。
「……明里は」
蒸気を震わせるような低音で、黒甲冑が言った。
「私の“獲物”だ」
スケイルの動きが止まる。
「倒すのは……私だけ。
……誰にも、触れさせない」
次の瞬間だった。
黒甲冑の身体が、ほんの一瞬だけ
“沈むように縮んだ”。
その反動で――
締めつけていたスケイルが、逆方向に弾け飛ぶ。
「なっ……!?」
敵が声を上げる間もなく、
――バキィッ!!!
鈍い破裂音が浴室に響き渡った。
視界の中で、敵の影が四方へ散った。
だが血はない。
飛び散ったのは、黒い残滓だけだ。
まるで影そのものが砕けたように、
ふわりと空中で霧散して消えていく。
わたしは、息が止まった。
(……黒甲冑、異質すぎる……)
蒸気がゆっくりと晴れていく。
黒甲冑はひとつも傷ついていなかった。
ただ、静かに立ち尽くし、こちらのほうを――
確かに見ていた。
目が合った気がして、身体が震える。
黒甲冑の兜の奥で、赤い光がひとつ揺れた。
「そこにいるな。明里」
黒甲冑がこちらを振り向いた。
心臓が大きく脈打った。




