71話 鏡面の黒角
スケイルは床に手をつき、ゆっくりと匂いを嗅ぐように顔を近づけた。
ゴミ箱の裏を覗く。
ベッドの下へ腕を伸ばし、低く唸る。
机の脚の裏についた埃を指でなぞり、温度の粒を確かめる。
明里たちにとって、その指は――
巨木が床を叩くより恐ろしく感じた。
(ダメ……。どんどん狭まってる……!)
スケイルは部屋の中心に立ち上がり、乾いた唇をゆっくりと開いた。
「……残ってる温度は、あとひとつ」
喉の奥で笑う。
「もう、あとは“アソコ”だけだな」
その声は、まるで耳元で囁かれたかのように大きく響き――
シャワー室の薄い扉までも震わせた。
***
シャワー室の中。
明里は煉とポルックスと身を寄せ合いながら、必死にハンドルを両手でつかんでいた。
「……回らない……っ!」
「もっと力入れて! シャワー出せば温度で誤魔化せるかも!」
煉も必死に押すが、巨大な金属のハンドルはびくともしない。
(わたしたちが小さくなるほど……
回す力も、意味も、全部奪われていく……)
スケイルの足音が、シャワー室のドアのすぐ前で止まった。
扉の向こうの影が、床の隙間から漏れる光を完全に遮る。
(来た……!)
ドアノブが――
ギィ……とわずかに軋んだ。
「そこだろ?」
優しく、しかし逃げ場なく。
「ネズミは、濡れた場所が好きだ」
ゆっくりと、巨大な手がドアノブに添えられる。
金属がきしむ。
明里は鏡面ガラスの方角を指さして煉に囁く。
(煉、アソコ見て黒い空間からアイツが出てくる)
黒い残滓が拡がり黒甲冑のあたまが出て来た。
鏡面に映る黒い残滓が、じわり……とにじむ。
空気が裂け、
まず“角だけ”が沈むように出てきた。
続いて、歪んだ兜がゆっくり覗いた。
そこに現れた角は、輪郭が欠けたまま一瞬止まり、
次の瞬間、誰かが数字をひとつ埋めたように形を整えた
(なんでこんな時にやつが来るの)
もう数秒後には、確実に開く。
煉が小声で明里の手を握った。
煉の声は低かった。
けれど、わずかに震えていた。
「……明里、伏せろ。何があっても……動くな」
(……どうするの? どうすれば生き残れるの?)
明里の胸が激しく脈打つ。
その言葉が落ちた瞬間、
シャワー室の空気が――死んだように静かになった。
息をする音すら、敵に聞かれそうで怖い。
扉の向こうで、金属がゆっくり回る。
ギ……ギギ……。
明里の喉が勝手に鳴りそうになり、奥歯を噛み締めて押し殺した。




