67話 逃れられぬ影
雨は山を下っても弱まらず、
わたしたちは濡れた石畳を踏みしめながら港町へ向かっていた。
レックスとシルフィアの姿が後ろにないだけで、
背中がやけに軽くなった気がした――
その感覚が、遅れて罪悪感へと変わり、胸に刺さる。
「……ほんとに、大丈夫かな」
ポルックスがぽつりと言う。
「シルフィアなら治せるよ」
そう返した声は、自分でも驚くほど軽かった。
本当はわたしの方がずっと不安だったのに。
(あの夜……俺を殺した)
黒甲冑の声が、雨音の隙間から滲むように甦る。
その言葉は、心の底から浮かんでは沈み、
何度問い返しても答えはどこにも見つからなかった。
無意識に振り返る。
晴れかけた霧の中、黒い影が立っている気がした。
煉が肩を軽く叩く。
「……気を張りすぎるな。今、振り返っても誰もいない」
「うん……」
答えながらも、胸のざわめきは収まらなかった。
山道は次第に整備された道へ変わり、
やがて、海の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
港町――
どこか懐かしい喧騒と、人の声。
漁師の怒鳴り声、買い物客の足音、
そして海鳥の鳴き声。
雨はまだ降っているのに、
この街の空気には、ほんの少し“日常の明るさ”が残っていた。
そのわずかな温度に触れ、肩の力が少し抜ける。
「この街から船に乗れば、創生の術式の場所に近づけるんだよね?」
ポルックスに、煉がうなずく。
「船の出港はすぐだ。間に合うはずだ」
わたしたちは荷を抱え、桟橋へ駆けた。
だが――
途中、ふと背中に寒気が走る。
(……誰かが、見てる?)
強い視線。
振り返っても、人混みだけ。
煉も小さくつぶやいた。
「……妙だな。街の温度が、局所的に低い」
「温度?」
「いや……気のせいかもしれない」
それ以上は言わなかった。
桟橋が見える。
灰色の海に、目的地への定期船が浮かんでいる。
「間に合った……!」
ポルックスが息をつく。
濡れた板を踏むたび、軋む音。
その中で――また声がよみがえった。
『逃げられぬぞ……明里……』
反射的に振り返る。
……誰もいない。
だが足元の水たまりが、
ほんの一瞬だけ氷のように白く曇った。
(……気のせい……だよね?)
胸の奥がざわりと波打つ。
煉が低く言う。
「乗れ。ここまで来たら引き返せない」
「うん……」
わたしたちは船へ足を踏み入れた。
重い扉が軋んで閉じる。
外界との境界が断たれる瞬間――
胸の底に残っていた不安だけが、
波の音へ紛れながら、しぶとくそこに留まった。




